世界はこんなにも、美しい


 最悪の気分だった。

 夕方に出港したミナ港行の船は、帆船である。
決して大きな船ではないが、大きく帆を張った堂々たるその姿に胸をときめかせたのも一時のこと。帆船とは揺れるものだ。
 平穏な海面状態でも常に傾いて走るこの船は、小学校の遠足で湖のように穏やかな内海を走るフェリーに十分少々乗った経験しかないウタにはハードルが高かった。ましてや今日のような大時化の天候では猶のことだ。
 ハーヨマ港を出港してすぐ、湾内を出たところで船はにわかに揺れ出した。これはやばそうだ、と思っていたがみるみるうちに揺れは大きくなり、右に左にと周期的な揺れを作っていた。
「大丈夫?……ではなさそうだね」
 夕食時、食堂で会ったヒソカがウタの顔を覗き込む。彼はカモフラージュのためにウタが買った三人分のチケットのうちの、一つの客室に泊まっていた。
「気持ち悪いし頭も重くて痛い……。ヒソカはよく平気ね」
 奇術師だからね、とヒソカはよく意味の分からない返答をしたが、それについて深く考える余裕はウタにはなかった。
 皿に取ったものの二口三口しか食べていない食事を悪戯にフォークでつつき、いよいよ気分が悪くなってきたので早々と部屋へ戻ることとした。

 そこからはさらに酷かった。部屋に帰って10分も経たないうちに、今食べたものを戻してしまった。客室にトイレは付いていないが、幸いウタの部屋のはす向かいが女子トイレであったため間に合わずに部屋で吐いてしまうことはなかった。先ほど食べた鶏肉のソテーが割とそのままの塩味で出てきたので当分この料理は絶対に食べられないとウタは確信する。
 吐いてしばらくは胃がスッキリして回復したが、またしばらくするとムカムカしてきた。水を飲んでごまかすも、とうとう我慢できなくなってまた吐いた。便器に突っ伏して、ガンガン痛む頭で、こんなことならリスクを冒してでも空路を取ればよかったと弱気に考える。
 もう一度吐いてスッキリした後も、また来る吐き気に思考が奪われていく。一刻も早くこの揺れが収まってほしい。陸に着いてほしい。何も考えられない。とにかくこの揺れがなくなるのなら何だっていい。
 とうとう吐くものもなくなって、胃液しか出なくなったウタはベッドに横たわりじっと耐えた。横になっていても襲い掛かる動揺と波が船体を激しく叩く振動に抗おうと、目を閉じて懸命に他のことを考えた。これからの生活のこと。念能力のこと。今までいた世界のこと。合澤氏夫妻のこと。まだ見ぬ両親のこと。ごん太のこと。あの時ごん太が話そうとしていたこと。異国の地で出会ったヒソカという奇妙な男のこと―――。
 ゴトリ、何かが床に落ちる音を聞いてウタは薄っすらと目を開ける。激しい揺れに荷物は散乱し、先程から右に左に滑っているがもちろんウタにそれを戻すだけの気力などない。新たに鞄から転げ落ちたのは、出発前に買ったライオンフルーツであった。
 ふと、ライオンフルーツが船酔いによく効くのだということを思い出した。とは言っても何も口にする気のおきないウタは、他の荷物同様部屋を右に左に転げまわるライオンフルーツをしばらくの間ぼうっと眺めていた。
そうこうしているうちにライオンフルーツがベットの脚の近くまで転がってきた。ウタはわずかに体を起こし、ライオンフルーツを手に取る。ずしりと重いそれをのろのろとした動作で鼻先に近付けると、途端に瑞々しい香りとともに清涼感が胸いっぱいに広がった。
おや、これなら食べれそうだと、手に力を込めて二つに割る。硬い表皮とは裏腹に案外脆く、いとも簡単に大小の二つの塊に分かれた。中は100円硬貨ほどの薄ピンクの実がぎっしりと詰まっており、粒の大きなザクロみたいだ。
ぼろぼろと落ちた粒のいくつかを口に入れると、濃厚な甘味に舌がとろけるようだった。かといって吐き気を誘発するようなものではなく、後に残るミントのような清涼感が心地いい。吐き疲れた食道にライオンフルーツの栄養が沁みわたっていくかのようだった。
小さい方の塊を無心になって食べたあとは再び横たわり、残った大きな塊を手に、その匂いをひたすら嗅ぎ続けた。ライオンフルーツが船酔いに効くというのは本当のようだ。興味本位で、何ならチケット購入のついでにカモフラージュで買っただけのフルーツだったが、買って大正解だった。まだまだ気持ち悪さや頭痛は残っていたが、先程までの絶えず胃からこみ上げてくる不快感は和らいだ。



 いつの間にか眠りについていたウタが目を覚ましたのは、明け方のことだった。
 船内はとても静かである。低気圧を抜けたのか、揺れも収まりさっきまでの気持ち悪さは嘘のようになくなっている。それでも体を起こすと繰り返した嘔吐に鳩尾の辺りが筋肉痛を起こしていた。
 ウタは着替えると部屋を出る。すっかり船酔いもなくなり、船内を見て回りたい好奇心が出てきたのだ。
 通路は必要最低限の照明のみで暗く、やはり静かだ。誰もかれも寝静まっているらしい。客室は全部で16部屋。50人の旅客を乗せることが出来る。埋まっている客室はそのうち6割程度といったところか。部屋にバス、トイレはなく共用。公共スペースは食堂の他小さな談話室があるのみだ。
 途中二人の乗組員とすれ違う。彼らは当直交代に行くところらしく一人歩き回るウタを怪訝な顔で見ていた。控えめに挨拶をしたウタが「眠れなくて、少し夜風に当たりたいんです」と弱々しく微笑むと、可憐な少女に彼らは頬を緩めた。落ちないように気を付けてな、と船外へ出る道を教えてくれた。

 彼らの言う道を行くと中央ロビーに出る。この船にしては大きな階段が左右から立ち上がり、踊り場には大きな世界地図が飾られていた。最初の飛行船のヒソカの部屋で見たものと同じだ。その後も読んだ本の中で何度も目にして最早お馴染みのものになっている。
 大きな世界地図を横目に階段を登り切り、木製の古い扉、そしてもう一枚鉄製の重い扉を開けると、もう外であった。
 開けた瞬間冷気が流れ込んできたがウタは構わずに外に出る。旅客の外を歩ける範囲は狭いが、その範囲の中でも左舷側の一番船首側まで歩き、手すりを掴んだ。

 目の前は暗い、どこまでも暗い海であった。
 揺れは収まっているとは言いつつもゆっくりと右に左に、波に合わせて船は傾く。時折聞こえる船体が軋む木の音の他には、波の音だけが広がっている。周りに光源はなく、陸からも遠いことが窺えた。
 孤独だった。
 暗くてどこまでも広い海の中で、ただポツンと浮かぶこの船はまるで孤独だった。
 ただ暗い海を、独りで進んでいく。その先に大陸があることが分かっていても、目の前には何も見えずに闇が包むのみである。
 どこへでも行けるという自由は、同時に孤独でもあるのだとウタは知った。
 波の音の中、ウタはことさら強くごん太のことを思い出した。どこまでも広がる深い暗闇に少しホームシックになっていたのかもしれない。波の音に包まれてずっと海面を眺めていると、その中に引き込まれてしまうような気さえしてくる。
 冷気に晒されて頬が少し痛くなってきた頃、ウタが見ているのは西側だということに気が付く。今は確か北上しているはずで、ウタは左舷側にいるのだから西を向いているのだ。
 ならば反対側は、と気になり右舷側に移動した。ハウスで隔てられているので一旦船尾側に歩き、ハウスの前を横切り右舷側に出る。
 東の空は、既に明るくなっていた。
 東と西とでこうも違うのか。
 水平線の上は明るく、空と海の境界がはっきり見える。冬の雲は薄く広がり、今まさに顔を出そうかと太陽が海の中に潜んでいた。
 先ほどまでの暗鬱とした気分は一瞬で消え、寒ささえ忘れるほどであった。
 しばらく眺めているとみるみるうちに日が昇っていく。ピンと張り詰めるような冷たい空気の中で、薄紅と薄水色が交じり合った空の色はとても幻想的だ。こんな綺麗な朝焼けの空を、ウタは生まれて初めて見た。日本で平凡に毎日を過ごしているだけでは、見ることのできなかった景色だ。そしてこの景色を見ることができるのは、自由である者の特権なのだ。
 世界はこんなにも、美しい。
 今やウタの胸は希望に満ち溢れていた。広く、未知のものがたくさんあり、時には暗く孤独なこの世界だが、しかし美しくウタの胸を震わせるものがたくさんある。それを知りたい。
 未知の世界に飛び込まんとするウタは、一生この景色を忘れないだろうと思った。

「体調は、もういいのかい」
 背後からかけられた声はヒソカのものだった。
 ウタが振り向くといつも通り髪を立てて奇抜なメイクを施した彼が近付いてきた。
「もう平気……すっかり良くなったわ」
 ヒソカはそう、と頷きウタの横に並んだ。朝陽に照らされその頬は薄桃色に染まっている。琥珀色の瞳は一層輝きを増し、それを縁取る睫毛は元々の色素の薄さも手伝い金色に反射していた。
「綺麗ね」
 ヒソカの顔を眺めながらウタは呟いた。
「そうだね」
 ヒソカもまた、朝陽に輝くウタの大きな瞳と長い睫毛をじっと見つめながら微笑む。
 何となく、心が通じ合ったような気がした。

 その後二人は食堂に下り、朝食を食べた。
 すっかり冷え切った体と疲れた胃に、クラムチャウダーが嬉しかった。温かい塩味が身体に沁みわたっていく。
 食べ終える頃、食堂が俄かに騒がしくなってきた。何やら乗客と司厨員とで小競り合いのようなものが起きているらしいが、やがて一人の乗組員が声を張り上げる。何事かと皆そちらに注目した。
「お食事のところ悪いが聞いてくれ!この男の所持していた現金がなくなったそうだ。何か心当たりのある者は申し出てくれ」
 食事を取っていた乗客達がざわつく。乗組員の横に立つ男は眼鏡をかけた中年の男で、この船に乗り込む客としては比較的身なりの良い恰好をしていた。
「絶対盗まれたに決まっている!しっかり捜査してくれ!」
 そう訴える男の顔は怒りに震えていた。限られた船内において盗難は重罪だ。

 さてどうしたものか、と隣のヒソカを見上げるとトラブルの気配にどこか嬉しそうな顔をしていた。




back



- ナノ -