長い冬の訪れだ


 先日メンチと歩いた屋台通りを、ウタは足早に歩く。
 その服はここ最近着用していた上品なスカートやワンピースなどではなく、この世界に来てしまった一番最初に、ヒソカから借りたダボダボの服だった。腰と、脚の裾を目一杯絞り、上から顔がすっぽりと隠れるフードの付いた外套を羽織っている。背中に背負った鞄の中には現金と、ノートパソコンと、昨日買ったライオンフルーツが入っており、歩くたびにカチャカチャと音を鳴らした。
 平日のお昼時を過ぎた繁華街は幾分か客足も落ち着き、それでも多くの人が行き交っている。ウタだけが一人、この賑やかさから追放されたみたいだ。

 ゴンは、きっとキルアを迎えに行く。
 ウタは先程の最終試験会場での騒動を思い出していた。
 丸一日寝ていたゴンはハンターライセンスの説明の最中目を覚まし、怒りに満ちた顔でイルミを問い詰めた。キルアが家に帰ったことと、家の所在地を確認したゴンがイルミの腕を離したところで、ウタは人目を盗んで会場を抜け出してきたのだ。
 ゴンの真っ直ぐなひたむきさは眩しく、やはりどうしてもごん太を連想させた。
 そしてウタはヒソカのことを思った。
 去り際に、ウタの携帯電話の番号を渡してきたのだ。
「まだまだお尋ねしたいことがあるので、もしよろしければ連絡ください」
 そう言うだけ言って紙切れを渡すとヒソカは頷きもニコリともせず、しかし素直に受け取っていた。
 果たしてヒソカは連絡をくれるだろうか。今後、この広い世界でヒソカを探し再び会うのはなかなか困難だろう。しかしいつまでもあの場に残っていては特務課の男達に連行されてしまう。
 どうか気まぐれでも、ヒソカが連絡をくれますように、とウタは祈るしかなかった。
 先日ライオンフルーツを購入した屋台の前を通るも、店主の女性はウタに一瞥もくれない。服装が違い過ぎるし、何より顔が隠れているし、大勢の人たちが行き交うこの街でウタは一風景に過ぎなかった。
 屋台通りを抜けて一本北側の道に出ると今度は飲食店が立ち並ぶ通りに出た。お昼時を終えた店の者たちが夕方の開店に備えて軒先で休んだり、ごみの片付けに出ていた。パスタ屋の前を通ると薄暗い店内で若い男が賄いを食べているのが見える。その次の店は夜営業のみの居酒屋らしく、店主が仕込みをしていた。その店も通り過ぎると十字路に出る――。
「――おい、いたぞ!」
 不意に聞こえた声に、ウタは振り向きもせずに十字路を曲がり、曲がったと同時に走り出した。
 特務課の、男達だ。
 今日彼らと特務課本部へ行く予定であったウタの逃亡がばれるのは時間の問題だとは思っていたが、こうも早く見つかるとは。
 早鐘のように鳴る心臓とは対照的に、頭では彼らから逃れる術をめまぐるしく考えていた。すぐに男達との距離は離れたが、一人あの新人らしい男だけはしつこく追ってきていた。
 ウタはその外見から鈍臭そうに見られがちだが体育の成績も悪くはなく、どちらかと言えばすばしっこい方である。しかしそれでも、二十代の成人男性の脚力には敵わない。
 確実に詰められる距離に必死で逃げるウタの目の前に、最初にウタを監視に来た七三分けの男が現れた。新人の男と連絡を取り合い、回り込んできていたのだ。
「きゃ!」と思わず驚きの声をあげたウタだが、間一髪七三分けの男の腕をするりと逃れた。はずみで被っていたフードが外れる。
 男はすぐそこに迫っていた。後ろからはまだまだ体力有り余っていそうな新人の男も距離を詰める。反対の小路からはリーダーと思われる四十代の男も走って来ていた。
「助けて!人攫い!」
 出来る限りか弱く悲痛な、しかし通る声をウタは出した。
 通りの人々は何事かと一斉にこちらを向く。衆人の目が可憐で幼気な少女と、それを追うスーツの男達の姿を認めると、彼らの頭の中には少女を捕まえようとする悪い男達という図式がたちまち出来上がる。
 ウタを追う新人の男の前に前掛けを付けた男が立ちはだかる。
「止まれ!何をしようってんだ!」
「違うんだ!我々は正式な命令で!あの子は――!」
 もみくちゃになって言い争う声を後ろに聴きながらウタは逃げ去る。いくつもの小路を抜け、肩で息を切らし、しかし尚も誰かが追いかけてくる気配はずっと感じていたため足を緩めることはなかった。
 人気の少ない工場の裏通りに出たところで、スピードを緩め、やがて足を止めた。
膝に手を付き、しばらく呼吸を落ち着かせる。
 なぜこんなにも早く居場所がばれたのか。見つからずにハンター協会のビルを抜け出してきたつもりでいたのだが、尾行されていた?
 それならば抜け出したところですぐに捕まえるのではないか。あるいはしばらく泳がせて行動を見ていた?ならば何故あのタイミングなのか。泳がせるならばどこに向かおうとしていたか行先くらいは確かめてからにするものではないか。
 そう考えると尾行されていた線は薄い。そしてウタは一つの可能性に行きつく。
 鞄、洋服、靴。これらは逃げる直前までメンチの部屋に置かせてもらっていた。
 ウタは厚手の外套を脱ぐ。走っていたため汗をかいており、ひんやりとした冬の空気が丁度良い。しかし心地よさを感じる余裕もなく、焦る気持ちで外套をまさぐる。
 この外套は宛がわれた部屋置きのもので、宿泊客に貸し出しているものだ。この季節、外出するならばまず羽織っていくと考えるだろう。
 やがて外套の裾の方の裏地部分に硬い感触を確かめる。明らかに違う種類の布が張り付けられている。持っていた万能ナイフでその部分を切り裂くと、中から親指の爪ぐらいの大きさの黒い機械が出てきた。
 やられた。GPSだ。
 昨日あたり、ウタの部屋に忍び込んで取り付けたに違いない。急いでいたとはいえ、もう少し慎重に確認しておけばよかったとウタは唇を噛みしめる。
 悔いても、今この時もウタの居場所が男達には伝わっているに違いない。
 一刻も早く壊してしまいたかったが、ウタはそれを隣の敷地の中へ投げ入れた。鋼材が置かれているそこは小さな工場のようである。柵を通り越し、積まれた鋼材のすきまに入ったのを見届けて、再びウタは走り出した。
 これで男たちはあの工場の中にウタが隠れたと思うはずだ。
 しかしタイミング悪く、隣の通りに出たところで男達に出くわしてしまう。
「いたぞ!」
 ちょうど通りの反対側に黒いスーツの男達が、三人連れだってこちらを指差していた。ウタはキリキリ痛む脇腹を押さえて逃げ出した。
 果たして体力はもつだろうか。けれど逃げないと。
 安全のために。元いた場所へ帰還のために。自由のために。夢のために。
 この男達に捕まっては、その全てが絶たれるとウタは本能で感じていた。しかし現実とは残酷なもので、疲弊しきった体に鞭打ち辿り着いたのは袋小路であった。
 通り抜けが出来ない。戻るしかない。
 けれど、男達がすぐそこまで迫ってきている気配がする。戻ったならば鉢合わせしてしまう。
 しかしこの先に行く道はないのだから戻るしかない。ああ、どちらにしろ戻るならば早い方がいい。男達はもうすぐそこまで来ている―――。

「大丈夫かい?」
 その声は、頭上から降って湧いた。
 見上げれば、すっかり低くなった太陽を背に体格の良い奇術師が屋根から見下ろしている。
 逆光になっていてその表情は見えないが、ヒソカだ。
 彼は腰に手を当て悠々とこちらを眺めていた。トランプ柄の服は腰でぎゅっと絞られた奇抜なデザインだ。派手な色の髪を逆立て、逆光で確認できないがその頬には涙と星のペイントがなされているのだろう。そして口元にはあのジョーカーの笑みを湛えているのだ。
 人によっては不吉の象徴とも見て取れるその光景だが、ウタは助かったと心底から思った。
 ああこれで、私は助かる。彼は私を救いに来たのだ。
 根拠のない直感を、ウタは今まで全く当てにしてきたことがなかった。しかし今は自分の直感が信じられた。
 後になって思えば、この時からウタは直感というものを判断の一つとして選択するようになったのかもしれない。
 ヒソカという生き物との出会いが、ウタの価値観を、目指すところを、大きく言ってしまえば人生を変えてしまったのだ。
 ウタが何にも言わないでただただヒソカを見上げていると、彼は静かにウタの隣に下り立った。けっこうな高さがあるはずなのに、屋根から飛び降りた彼は着地の際に煩く地面を鳴らすことはなかった。
「逃げるのかい?」
 何に対してヒソカがそう言ったのかは分からないが、ウタはゆっくりと首を振る。
「進むのよ」
 次の瞬間、ウタの体は浮いていた。
 否、ヒソカに抱きかかえられて屋根の上へと移動していたのだ。
 少しばかり気持ちの悪い浮遊感の後、ヒソカはウタごと屋根の上へと下り立つ。その直後、ウタの今まで立っていた袋小路に男達が現れる。
「いないぞ」
「そんなはずはない、確かにここへ」
「民家にでも逃げ込んだのか知れないからよく探すんだ」
 焦った様子の男達は足早に去って行った。彼らから逃れられた安堵感と、ヒソカに抱きかかえられている驚きがごちゃまぜになりながらウタはヒソカを見上げる。ヒソカからは微かにバニラのような甘い香りがした。
「どうして?」
 本当はありがとうと言うべきなのに、最初に出てきたのは疑問であった。
 ウタの疑問は広いものだった。どうして助けてくれたの?そもそもどうしてここへ?そして一体どうして、自分はこの男に救われる確信を持てたのだろうか。
 漠然としたウタの問いに、ヒソカは小首を傾げる。
「助けてって、聞こえたから」
 ウタは目を丸くした。確かに助けてと言った。しかしそれは逃げる途中周りにいたその他大勢に向けてであった。ヒソカの口ぶりはまるで、ウタに助けを求められるのが当たり前で、それを助けることもまた至極当然であるというかのようである。
 甘い香りと、筋肉質なヒソカの腕の体温が、非現実感を少しだけ現実に近付けた。
「それで、どこへ?」
「ダンカナ国……の、天空闘技場です」
「OK、なら空港だね」
 よいしょ、とウタを荷物のように担ぎなおし再びヒソカが浮く。あ、とウタが思った頃には既に隣の屋根へ飛び移り、そしてまた次の屋根へと、ヒソカは跳ねるように移動していた。
「ちょ、ちょっと待って」
 移動の足を緩めることはなく、ヒソカは「ん?」と聞き返す。ウタはヒソカの肩に担がれ、落ちないように必死で捕まりながらもその後頭部に訴えた。
「飛行船は使いません。海路を取ります」
 ウタの言葉に、ヒソカはきょとんとして振り返る。すぐ近くに顔が来て、ウタはドキドキした。
「ダンカナなら最寄りの空港から直行便が出てるし、船よりも断然早いよ」
「ええ、でも船で行きます。昨日カモフラージュのためにアイジエン大陸行の飛行船を予約しました。飛行船は、ちょっとした操作をすれば誰がどこへ行くのか調べられます。でも船なら足が付きません」
 ウタの説明に、ようやくヒソカは足を止めた。
「そうなの?」
「はい。きっと男達も、空港で張っているはずです」
 ヒソカは目を数回瞬かせる。
「へえ、この世界初めての割に、色々知ってるんだね。出港はどこから?」
「ハーヨマ港から、16時に出港です」
 ヒソカは口角を上げる。
「それじゃあ少し急がないとね」
 そしてそのままウタを抱えたまま、再び走り出した。屋根から屋根へ、まるで忍者のように駆け抜ける。しっかりとヒソカが抱きかかえてくれたおかげで、地に足が付いていないことに対する恐怖はなかった。しかし日の落ちるのが早いこの季節は、まだ午後三時を過ぎたばかりだというのにすでに寒く、速い速度で移動しているため余計に体感温度は低く感じる。汗が冷えてぶるりと震えたウタはヒソカに担がれたままで器用に外套に包まった。
「ねえ、誰がいつどこ行きの飛行船に乗るかって、君も調べられるのかい?」
 走ったままでヒソカが尋ねる。
「セキュリティレベルの高い要人でなければ出来ると思います」
 ウタの返答にヒソカは満足気に微笑んだ。
 
 やがてハーヨマ港へ辿り着く頃にはもう日が傾いていた。出港1時間前である。ヒソカのおかげでだいぶ早く着くことができた。
 ヒソカの肩から降りて久しぶりに地面を踏むと、先程までの浮遊感が残っていて少しふらつく。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
 深々とお辞儀をしたウタが顔を上げると、ヒソカが真面目な顔で見つめていた。琥珀色の瞳は、少年のような輝きを放っている。
「僕も一緒に行くよ」
 唐突な申し出に、ウタは一瞬耳を疑った。
「えっ?」
 まじまじとヒソカを見つめ返す。傾きかけた穏やかな日差しがヒソカの頬を照らし、睫毛は黄金色に輝いていた。
「この手の船は、若い女の子の一人旅には危ないよ」
 ヒソカが顎で指し示した方を見ると、肉体労働者といった風の男達が船に続々と乗り込んでいた。皆肌は日に焼けて浅黒く、お世辞にも綺麗とは言えない格好をしている。確かに、あの中に一人で乗り込んでいくのは少し怖い。
「ヒソカさんは」
「それに調べてもらいたいこともあるしね」
 ウタの言葉を遮りヒソカは続ける。調べてもらいたいこと、とは誰かの飛行記録だろうか。何となく想像がつく気もするが。
 考え込んでいるとヒソカの唇が緩やかな弧を描く。
「ヒソカでいいよ」
 ヒソカ。
 ウタは小さく反芻した。口にしてしまえば、それは妙にしっくりと馴染んだ。
 ヒソカの同行申し出には驚いたが、正直嬉しい気持ちの方が勝っていた。ウタの異世界旅行の鍵を握っていそうなこの男ともう少し一緒にいられるのだ。何か情報を引き出せるかもしれない。そして同じくらいに、ヒソカ自身のことも知りたいと、ウタはそう思っている自分がいることに気が付いた。未知のものに対するウタの探求心が、ムクムクと頭を擡げていた。
 もう日はオレンジに滲み、岸壁の向こうには夜の闇が迫っている。長い冬の夜の訪れである。
「よろしく……ヒソカ」
 穏やかに、それでもどこか悪戯っぽくウタは微笑む
 寒空の下、定刻通り二人を乗せた船は出航する。その先には低気圧を伴う大きな嵐が待ち構えていた。




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