湿気を含んだ風に鈴が揺れる
ヒョウタン公園の屋根のついたベンチの下で缶ビールを口に付け、トウキは再び雨脚の強くなった空を見上げた。だいぶ春めいてきたといえども日が落ちれば気温は下がり、缶ビールを持つ手がかじかむ。霧隠よりも遥かに温暖であると高をくくり薄着で来たことが早くも悔やまれていた。
「蛇の巣をつつくこと、メイさんには、言ってあるの?」
隣に座るイクルの問いかけにトウキは首を横に振る。薄着で冷たい缶ビールを煽る自分を横目に、しっかり着込んでいる彼が少し憎たらしかった。
人通りのない公園で二人は今後の段取りを打ち合わせていたわけだが、それが終われば話題は自然と近況報告に移っていた。下忍に承認される前から、悪だくみの相談は決まってこの公園でしていた。だがペイン襲撃の折に一度破壊されて再建されているので二人が座るベンチも狭い敷地内に配置された遊具も真新しく、当時のものはもう何も残っていない。
「ま、言えないか」
じんわりと夜の闇が広がる公園の外灯がぱっと灯る。時間で自動的に点灯するようになっているそれは、雨の中に暖色の世界を二人ぼっちの公園に切り取った。
「そりゃあ、惚れた女と言えど水影だからな」
トウキは煙草を取り出し、火を付けようとマッチを擦ったが飽和した湿度のせいかなかなか付かず、五度目でようやくくぐもった音とともに着火する。
「……君らのとこはどうなってるの? 律儀にあの約束を守ってるのかい」
イクルがぼんやりと赤いトウキの煙草の先端を見つめながら尋ねた。
「ああ、変わらねえよ。俺はメイに一緒になりたいと言った。メイは守るもんがあるから、すぐには一緒にはなれねえって言った。だから俺の好きにすればいいと――」
トウキは深く煙を吸い、吐いた。大気に水蒸気が満ちているからか、やけに境界のはっきりと見える煙だった。
「次世代の見通しが付いたら考えるってことらしいから、その時にまだ気持ちがあったら言ってくれとさ」
確かに、そこまでは既に聞き及んでいることだ。ここでイクルは、わずかにトウキの声が弾んでいることに気が付く。長年一緒に過ごしてきたからこそ、気が付けた変化だった。
「……見通しが、付いたの?」
「あー、ま、そこまで確実なもんじゃねえが」
イクルの問いかけにトウキは勿体ぶってまた煙を長く吐く。
「長十郎が修行の旅から、霧隠に帰ってきた。あいつは次の水影候補のうちの一人だ」
イクルは数度瞬きする。雨のせいか、心なしか睫毛も重く感じられた。
実際のところ、メイが長十郎に水影の座を継ぐのはまだまだ先の話だろう。しかし、修行の旅から戻り、ひとまずの命の危機がないとなれば、現水影の心持としてはだいぶ安心できているに違いない。
「……ま、気持ちやけじめの問題はクリアできたとしても、在任中に一緒になることの障害は消えたわけじゃない、か」
「そういうこと。ま、そっちは何とでもなるだろ」
軽く答えるトウキにイクルは苦笑する。本当に、気持ちさえあれば、他里の若造があの閉鎖的だった霧隠の里長と一緒になることの困難など、大した問題ではないと思っているみたいだった。
「しかし木の葉は早かったよなあ、火影の交代」
トウキは思い出したように呟くと二本目の煙草に火を付ける。
「大戦の割とすぐ直後だったろ? カカシが六代目に就任したの」
確かに先代である綱手は、大戦後の必要最低限の後処理と各国との調整だけして早々にカカシを六代目に任命したのだ。
「正しい判断だったって、僕は思うよ」
イクルの言葉に意外そうにトウキは「へえ?」と説明を促す。
「カカシさん自身に、最も面倒で神経の使う戦後の処理を行う能力があるから、早すぎることなんてないよ。むしろそれに関しては綱手様より適任だ。それに……“火影”という責務がなければ、とっくにモモカを探しに出て戻らなかったと思うよ」
イクルの見解にトウキは渋い顔で唸った。
「まあ……、な。しかし火影の職はカカシを里に縛り付けとくための枷ってか」
皮肉めいた口調でトウキは言う。
「そこまでは言わないけど、火影の責務があるからこそカカシさん自身が救われているのも確かだ。あの激務じゃ余計な考えを起こす暇もない。やるべきことがあれば、日々を生き抜いていける」
「ああ、分かってるよ。それが先代のバアサンの優しさだってことくらい。おかげで好き勝手してきた俺たちが、今まで通り好き勝手にできて、自由にモモカを探し回れてるんだからな」
イクルは頷く。トウキとイクルと、里の古い重鎮たちとの関係はあまり良くはなかった。新たな火影が直属の部下にすることで、一応のお互いの面子や立場を守ることが出来ているのだ。それに何より、カカシは二人のことを買っているし、意図もよく汲み取ってくれた上で、色々な物事を上手く進めていた。交流派遣という形でトウキが霧隠に籍を置いている現状も、先代の綱手だと猛反対されていたかもしれない。
「ま、綱手様にしたら面倒ごとを押し付けたいって気持ちも本音ではあっただろうけどね」
「そりゃそうだろ」
トウキとイクルの笑いは、粒の大きくなってきた雨音に混ざって溶けた。
煙を真上に向かって吐き出し、トウキは何でも器用にこなすが、モモカにだけは不器用な男の寂しい背中を思い浮かべた。火影という職務に就くことで彼が無謀な行動に出ないのは確かに事実だが、どれだけ日々に忙殺されたとしても決してモモカを諦めることなど出来やしないだろう。
「……まったく、あのバカはどこでのんびり道草食ってんだか」
朗らかなモモカの笑い声は今でもありありと思い出せるのに、この里の、いや、この世界のどこにもモモカの気配をいまだ見つけられないでいた。
……
湿った空気にひやりと冷たい金属。幾千粒の水滴を震わせる凛とした音は、みずみずしい歓びを伴って鳴る。触ったそばから濡れていく鈍色の小さな塊。まるで真っ直ぐなあの子そのもののような、行くべき道を示す清らかな音。
どこかでか細く鈴の音が響いた気がして、カカシは顔を上げる。
周囲を見回してみても、雨に佇む里の景色があるだけだ。鈴の音はとても遠くで鳴った気もするし、自分の頭の中で鳴り響いた気もする。しかしそれは本当にそんな気がしただけで、その音の輪郭はどんどん崩れ落ちていく。思い出そうとしてもどんどん遠くなっていく夢のようにカカシを置き去りにしていく。
(疲れてるってのも、あながち否定できないな)
若く優秀な相談役の小言がありありと想像できてカカシは息を吐いた。すっかり日の暮れた雨の里を、為すべき用事もなく、あてどなくうろつくのにも限度がある。仕方なく家路につくべくカカシは歩き出した。
“……いつから?”
初めてモモカに想いを告げた時の、彼女の疑問を反芻する。いつからだっただろうか、彼女をただ一人の女性として好きになったのは。
初めてキスをした時は、確かに出来心だった。いけないことをしてしまったと、彼女と距離を置いたが、彼女と距離を置けば置くほどに、気にかかって仕方ない自分がいた。そして気になれば気になるほど、近づいてはいけないと自分に言い聞かせ遠ざけた。結局、最終的には自分の気持ちを認めてしまうのだから、あの時師を亡くした彼女にもっと寄り添ってあげれば良かったのだ。
無駄に遠回りをして、結局自室に戻ってきたのは夜も更けてからだった。シカマルにはゆっくり休むよう言われたが、雨に濡れ歩き続け、かえっていつも通りの仕事をするより疲れてしまったかもしれない。
熱いシャワーは雨の延長のようで、けれど確実にカカシから気怠い憂鬱を取り払った。少し熱いくらいの湯粒に打たれていると、何だか妙な方向に決心が付いてしまいそうになる。
下を向くカカシの首の付け根を、ざばざばと熱い水滴が打ち付けた。
“ふざけないで!! 私の気持ちを……そんな打算的なものに使わないで!! 私は、私の心を、誰にも利用されたりなんかしない!!”
降り注ぐ熱い湯は、カカシの顔を伝い、落下し、渦になって排水溝に吸い込まれていく。せめぎ合う濁流を眺めながら、カカシは思わず失笑してしまった。
モモカは、怒る時だって真っ直ぐだった。
火影の寝室は広かったが、必要最低限の私物しか持ち合わせていないカカシが部屋の主となってからは酷く殺風景な部屋となっていた。寝に帰るしかないのだから、あまり自分のテリトリーであるという意識もない。いや、そもそも、物心付いた時には既に自分の“家”とか“居場所”とかいう感覚は、どうにも持ち合わせていなかった。明日には死んでいるかもしれぬ命で、帰る場所を作っても意味がないと、無意識に考えていたのかもしれない。
ベッドに腰かけ、そのまま体を横に倒した。暦の上ではすっかり春を迎えたとは言え、まだまだこの季節の夜は冷える。特に今夜は雨のおかげで殊更に気温は低かったが、熱いシャワーのおかげでしばらくは寒さを感じないだろう。
“無駄ではないよ――人知れず踏み出した勇気ある一歩の、その積み重ねが未来を変えていくんだ”
“……明日、会えるかな”
“あの……私たちって、その、……付き合って、るのかな?”
“……そっか、そうだね。えへへ”
“確かにびっくりはしたんだけど、決して怖いわけではなくて、外に出たのは気持ちを落ち着かせるためで、逃げ出したわけじゃないの”
“死なないでよ。絶対絶対、絶対だからね”
雨音は、全てを包み込む。安らぎを与えるとともに、大切な思い出を一つずつ開けて掘り起こしていく作用ももたらしていた。モモカのことを思い出さなかった日など一日もなかったが、今日はやけに、ころころと変わる愛らしいあの表情が次から次へと思い出される。雨と共にモモカへの想いが降り注ぎ、溢れていくみたいだ。
カカシは一つ決心をした。
明日、朝早くに里を発とう。せっかくの休みなのだから、モモカの辿ってきた全てを巡ろう。今までにモモカに所縁のある場所も、最後に居た場所も、ルツツ達の村も、もう既に彼女を探し訪れた。けれど、もう一度、一から辿るように巡ろう。一日半の休みでは到底巡り切れないことなど分かり切っているが――もし――もし自分が戻らなかったらこの里はどうなるだろうか――けれど自分に行く先などない――モモカの居る場所ならどこにだって行くが――それがどこだか、途方に暮れるほど分からないのだ――会いたい――モモカに会いたい――……。
こんなにも、君に会いたい。
夢を見た。
夜明けを待つ、夢だった。
何故夜明けを待っていたかというと、モモカを待っていたからだ。けれど夢の中でもまた、疲れ果てたカカシは寝てしまった。夜明けになればモモカが帰ってくる。寝ても寝なくても、その事実は変わらない。自身のとても深いところで理解はしていたけれど、やはりモモカを見ないと不安でならなかった。
雨音が心地よく、窓の外で奏でられている。雨が心地よいと感じるのはそれに濡れることのない室内にいるからだ。守られた安心感と約束された充足感に満たされて取る睡眠の、なんと幸せなことか。もしかしたら、無限月読の世界はこんな幸せに満ちた世界なのかもしれない。
カーテンの向こうに日が差して、カカシは朝になったことを知る。露出した腕にさらりとしたシーツの感触が心地よい。洗い立てのシーツの匂いと、ミルクみたいな懐かしい甘い匂いがした。
眩しい朝日に薄っすら目を開けると目の前にモモカが寝ていた。触れなくても分かる爽やかな柔らかさの頬が、血色よく朝日に映える。さらさらと、無垢な髪が寝息とともに零れた。これは夢だと分かっていたが、どうにも堪え切れない想いが溢れ出す。
モモカの瞼が震えて彼女はゆっくりと目を覚ます。澄んだ瞳がカカシを捉えると、彼女は少しきょとんとした後に柔らかく微笑んだ。カカシの胸に幸せが満ちた。
“おかえり”
カカシも精いっぱいの愛おしさで微笑む。朝の光に包まれて、目覚めたばかりの彼女はくすぐったそうにくすくす笑った。
“ただいま”
気持ちよさそうに枕に顔を埋める彼女の白い肩も、そこにかかる柔らかそうな髪も、本能を震わせる匂いも、全てが尊く愛おしかった。
再びカカシの方へ顔を向けた彼女の髪を優しく撫でつける。心地よさそうに目を細めるモモカは、カカシの生きる意味そのものに思えた。
“随分探したんだよ”
“うん……待たせてごめんなさい”
ゆっくりと瞬きする彼女の睫毛の一本一本も、そこに差す朝日の作る陰影までも、その全てをカカシは手放したくなかった。
“モモカがいないなら、夢から覚めたくないなあ”
怒られるかな、と思いつつもカカシは子供のような我儘を言った。そんなカカシの頬をモモカは両の手で包む。カカシのものに比べると小さく華奢な女の手だが、多くのものを守ってきた偉大な手だ。
“大丈夫、きっと会えるよ”
辛抱強く子供に言い聞かせる母親のような強く優しい声に、カカシは目を見開く。
“……本当? それは、すぐなの? 本当にモモカなの?”
“本当だよ”
カカシの目を真っ直ぐに見つめてモモカはまた微笑む。二人は柔らかなシーツに包まれ、横になり向かいあったままでお互いの魂を確かめ合っていた。
“すぐかは分からないけれど――……必ず会えるよ、あなたを大切に想う人に。それはいろんな世界の、気が遠くなるような人々の中から見つけ出すような途方のない旅に思えるけれど――けれど、必ず会えるの。そして、どんな世界であっても、あなたを見つけ出すのはきっと――あなたを――カカシさんのことを大好きな私に違いないから”
モモカの言っていることはよく分からなかった。分からなかったけれど、永遠に続くかと思われた孤独も寂しさも、永遠ではないのだと信じることが出来て泣きたくなった。共に歩んでくれる愛しい存在がいるだけで、カカシの魂はこんなにも救われている。
横になっていたモモカが肘をついて、上半身を少しだけ起こした。彼女の鎖骨の窪みも、シルクのように流れる髪も、柔らかな肌も、全て奇跡が作り上げた賜物だ。
モモカはカカシを上から覗き込み、労わるような手つきで額にかかる銀髪をかき上げた。狂おしいほどの愛しさが溢れて、カカシはすがるようにモモカを見上げる。
“鈴の音が導いてくれるからね”
鈴の音? と聞き返そうとしてそれは叶わなかった。モモカの顔が近づいて、露わになったカカシの額にその柔らかな唇が触れたからだ。うっとりするような偉大な愛に、カカシは目を閉じる。清潔で守られた優しい世界に、鈴の音が響いた――……。
夢から覚めて、カカシは自分が泣いていることに気が付いた。
しゃばしゃばと、雨の音が聴こえている。窓の外は暗いが感覚的に夜明けが近いことは分かった。
涙を流したのなんて、いつ振りだろう。左目に借り物の写輪眼があった時は、そこから涙が零れることは何度かあった。けれど決まってそれは左目からのみだったから、カカシの代わりにオビトが泣いているのだと思っていたし、今でもそう思っている。なれば、カカシ自身が、最後に泣いたのは随分昔のことだ。父親が死んだ時だって泣かなかった――いや、泣けなかった。
最後に泣いたのはきっと、まだ父親が生きていた時。既に母親を亡くし、帰りの遅い父を思って寂しい寂しいと涙を零した幼子が、覚えている限り最初で最後の泣いた自身の記憶だ。
泣くのも、存外疲れるな――。カカシは重い頭を休めたくて再び瞼を閉じる。
天から降り注ぐ水滴は依然として窓を、地を、木々を叩いていた。しゃばしゃばしゃば。孤独な未明の里に、雨音だけが響く。
さわさわ、ざわ。軒先から大きな水の塊が落ちた。雨は何もかもを洗い流す。窓に付着した汚れ。大気に舞った土埃。果てのない、後悔。ざぶ、じゃぼん。
しゃばしゃばしゃば。全てを許す雨音。あるいは、気まずい本音を包み隠す雑音。じゃばざぶじゃば、さわさわさわ。
りん。
雑音の中に澄んだ音が一つ。
カカシはハッとして目を開けた。
がばりと起き上がり、耳を澄ませる。鼓動が早くなって、今の音を聞き漏らすまいと息を止めた。今か今かと夜明けを待つ暗闇の中で生きた体は、じんわりと汗をかいていた。
モモカは、何て言っていた? まるで自分にとって都合の良いあの夢の中で――。確か彼女は、会えると、そう言い切った。そして、鈴の音が導いてくれるとも。
じっと神経を研ぎ澄ませるカカシの耳に、再び高らかに響く鈴の音が届いた。
りぃん――……
期待と興奮により心臓の脈動は一層強くなり、カカシは勢いよくベッドから飛び起きた。
いる。モモカが、いる。そう遠くない場所に、いる。
根拠のない確信に、カカシはすっかり覚醒していた。もう一度あの澄んだ音が鳴るのをじっと待っていたが、そのうちに待ちきれなくなって、薄手の上っ張りだけを羽織ると、長い廊下を渡るのももどかしく窓から飛び出した。
目覚め前の静かな里には依然として雨が降り続いている。再び雲は薄く、雨粒は細かくなっていた。さわさわと霧雨がカカシの露出した顔を撫でつける。湿った新鮮な夜明け前の空気が肺に優しく、喜びを告げた。東の空は白み始め、あと一刻ほどで人々は活動を始めるだろう。
柔らかい雨を浴びながら、カカシは必死にモモカの気配を探った。一体どこだ。どこにいるというのだ。
図書館裏の梅の木の下? 彼女にミサンガを渡した、あの夕日の差す門? 同じ傘の下を歩いた細い路地? 月が見守っていた、懐かしい部屋? 朝日は火影岩の左側を回り込んでいた。刻一刻と明けていく夜が、目にも痛い光となって希望を訴えかけてきた。
りん、りん――。
鈴の音の鳴る間隔がカカシを急かすように短くなっている。どこだ。どこなのだ。肩で息をしながらカカシは天を仰ぐ。どこに行けばモモカに会える――?
りぃ……ん、りん――……。
「鈴の、音……」
そういえば、鈴と言えば、思い当たる場所があるではないか。
代々受け継がれてきた試験の場。英雄たちが眠る碑。初めて彼女に会った、あの場所。
カカシの足は自然と第三演習場に向かっていた。ヒルゼンが、自来也が、ミナトが、未来への希望を託した場所。そして受け取ったそれを、自分がナルト達へと受け渡した場所。何度も何度も懺悔をしたあの場所。そして何度も、希望に触れた場所。
ひやりとした鈴に、モモカが触れてから、彼女はあの時掴めなかったものを掴もうとするかのように、真っ直ぐにカカシのことを追い続けてきたのだ。一心に。挫けずに。顔を上げて、追いかけてきてくれた。今度は、自分が、掴みにいかなければ。
鈴の音は、今や期待に満ちた軽やかさで絶え間なく鳴り響いている。いよいよ光は近い。細かくなった雨粒は、かえって里の景色をけぶらせていた。けれど、夜明けはすぐそこまで来ている。
早く、早く。
春の雨の中をカカシは駆けた。全てを明け渡せる愛しい存在を、迎えに行くために。
降り続く雨は弱く、時たま止むこともあるがしとしとと降り続いている。
草木はすっかり濡れて、露を滴らせていた。どこかでゴミだろうか、焚火だろうか、何かを燃やしているような煙たい匂いがする。
演習場の中は六割が平原、二割が森林、残す一割は砂地であった。髪は濡れて顔に張り付き、脚の露出部も雑草の中を分け入るたびに草が張り付いた。煩わしいことこの上ないが、カカシは気にも止めていなかった。
とうとう朝日が火影岩から顔を覗かせ、世界を照らす。
第三演習場のよく見通しのきく原っぱのど真ん中で、座り込んで佇む女の頭が見えた。
もうほとんど粒を感じられないほどにまばらになった雨の中で、彼女の湿った髪が風に揺れる。
「モモカ」
実を言うとカカシは怖かった。声をかけた女が、モモカそのものである確証がなかったからだ。モモカの形をした別の何かだったらどうしよう。そんな恐怖があったのだけれど、それ以上に何が何でも彼女を取り戻したいという強い思いがあったから、考えるより速くその名を呼んでいた。震えるカカシの声は湿潤な空気に溶けることなく響き、よく通った。
彼女の頭がゆっくりとこちらを振り向く。シルクのように艶やかに髪が流れて、そのすっきりした輪郭も、生き生きとした肌も、神様が作り上げた芸術作品みたいだった。
「……――あ、」
振り返ったその顔を眩い朝日が照らす。
つるんとした頬にさっと赤みが差して、瞳には太陽の光が反射して黄金色に輝いた。
モモカは、紛れもなくモモカだった。カカシを捉えた瞳は、この世界のどんな宝石よりもきらきらと輝いている。
カカシは駆け出し、モモカとの距離を詰め、そしてその体を力いっぱい抱きしめた。朝露が弾け飛んで、朝日を虹色に反射する。
抱きしめた体の輪郭も、肌の質感も、匂いも、確かにモモカだった。モモカが、戻ってきたのだ。
「モモカ!」
存在を確かめるようにカカシはきつく、抱きしめる。モモカの匂いを胸いっぱいに吸い込み、そしてようやくその顔を覗き込んだ。目に刺さる日差しに、いつの間にか雨が止んでいたことを知る。
モモカの表情は、夢で見たような慈愛に満ちていた。カカシは再度、モモカを力強く抱きしめる。
「……随分、探した」
そんなつもりはなかったのに、寂しさを訴えかける声はどことなく責めるような声音になってしまった。
「うん……ごめんなさい」
モモカは素直に謝り、カカシの背を優しく撫でる。
「どこにいたの? 今まで」
「どこに……ええと」
モモカは困惑した声を出した。しばらくカカシはモモカを抱きしめていたが、もうモモカがどこにも消えてしまわないことが確信できると、ようやくその腕の力を緩めた。
「どこだろう?」
本当に不思議に思っている顔のモモカを見たら、愛しい女がこの腕の中にいることが急に現実味を帯びてきた。優しい風が二人の間を通り抜け、湿潤な空気が頬を撫でる。
「……それは?」
カカシはモモカの髪に結ばれた小さな真鍮の塊に気が付いて問いかける。小さな鈴が二つ、結び付けられていたのだ。
モモカは今気が付いたかのように髪に結び付けられた鈴に触れ、瞳を見開く。震える瞳は、やがて愛に満ちた色を滲ませた。
「……あのね、色々と分かったの。全部、繋がって、どういうことか分かったの」
穏やかに呟くモモカにカカシは首を傾げる。
「分かった? 何が?」
「ええとね、えっと――……」
モモカは言葉を途切れさせ、小さく息を吐くと、朗らかに笑った。
「忘れちゃった」
カカシは虚を突かれて、まじまじとモモカを見つめる。
「忘れちゃった?」
照れくさそうにモモカははにかんだ。
「ごめん、そう、忘れちゃったの――。でも、忘れちゃっただけで、なくなってはいないの。分かったの、大切なこと」
相変わらず要領の掴めないモモカの言葉に呆れ、これがモモカなのだと妙な安心感に包まれ、そして終いにはカカシは笑いだしてしまった。
「そっか」
カカシの笑いに安堵したのか、モモカもまた笑った。
二人の無垢な笑いが、数多の英雄が眠る第三演習場に響き渡る。
「色々と聞きたいことはあるし、言いたいこともあるんだけどさ」
一頻り笑った後で、カカシはモモカの髪を撫でて語り掛けた。
「ま、モモカのことだろうから俺の言いたいことはとっくに分かっているだろうけど……」
敢えて心を閉ざさずにモモカに触れてカカシは言った。モモカは少し不思議そうに目を細めて、そしてゆっくりと首を振った。
「……ううん、分からないよ」
「分からない?」
オウム返しに聞き返すカカシの髪を、春の風が撫でる。生ぬるい湿気を伴った風はモモカの鈴を再び揺らし、天に消える。古い知り合いが、最後に見届けにきてくれたみたいだった。
「うん。もうね、人に触れても何も読み取れないの。思い浮かべているイメージも、考えている思考も……。同化の力が、なくなったみたい」
カカシはモモカの顔をまじまじと見つめる。その瞳には少しだけ寂しい色が滲んでいたが、何の未練もない、晴れやかな顔をしていた。
「そう……、そっか」
かえってカカシの方が喪失感を覚えてしまうくらいだった。モモカはそんなカカシを真っ直ぐに見上げる。出会った時から変わらない、希望に満ちた眼差しだ。カカシはモモカの瞳に映る世界の美しさを、いつまでも守り抜きたいと強く思った。
「それじゃあ、一番言いたいことをまずは言うよ」
カカシは懐から大事に取り出した金色の組紐を鈴の横に器用に結び付けた。その紐は黒い艶やかな髪の中で朝露と太陽の光と未来への希望を映して、黄金色に輝く。
「俺はモモカが好きだから――何よりも大切だから――……」
カカシの大きな手がモモカの頬を包む。また新しい朝を迎えた世界に、二人は真っ直ぐにお互いの瞳を見つめ合っていた。
「モモカのこれからを、未来を、俺にくれませんか?」
それは、ずっと過去に縛られていた男の、未来へと続く言葉だった。特別な、かけがえのない唯一のものを作ることを恐れていた男の、愛を誓う言葉だった。
モモカは微笑み、しっかりと頷いた。
瞬間、世界が色づく。カカシを導く、尊い光。カカシをこの世に結び付けてくれる金色の糸。何にも代えがたい、自分を照らす暖かな日差し。夜が、明ける。
もう見ることのできない眩い金糸が、雨上がりの世界に輝いた気がした。
思えばあれが、初恋だったのだ。
ただの、初恋だった。やがてそれは強い絆となり、愛となる。たとえ降り注ぐ花びらも眩い糸も見えなくなったって、消えてなくなったたわけではない。
何も、何一つも、取りこぼしてなどいなかった。
春の雨は止み、湿気を含んだ風に鈴が揺れる。
「一緒に、生きていこう」
…
完