どこか遠くで、澄んだ鈴の音が響いた気がした
また、春が来る。
春が来る、とは、何を持ってしてそう思うのだろう。にじりにじりと上がってきた気温? 伸びてきた日の長さ? 気だるげな大気の雰囲気? 鳥たちの歓喜に満ちた声? 耐えるべきを耐えて芽吹く木の芽?
何十回もと春を迎えてきて、失ってきた季節もあれ、まだこうして生き永らえている。あれだけ戦いの中に身を置いてきた自分が、平和の象徴の真っただ中に据え置かれている。
窓の向こうでは子供たちの笑い声が響き、すぐに遠くに消えた。硝子一枚を隔てて存在している平穏が、むずがゆくも、始まりの季節にはよく似合っていた。
カカシは机上の書類から窓の外に目を向け、驚くほど陰影の強い陽だまりに目を細める。凝り固まった首を大きく逸らすと関節が硬質な音を立てて鳴った。こんな気候の日に火影塔に籠ってばかりいるのはひどく罰当たりな気がした。
この調子だととっくに図書館裏の梅の花も咲いているだろう。自然と瞼が重くなる大気を満喫しつくすこともなく、廊下に感じられた気配にカカシはもっともらしく大きく伸びをした。
躊躇いなくノックをする音、呼びかける声、数拍ののちに開けられる扉、変わらず伸ばす上半身。火影室に足を踏み入れた奈良シカマルは、あからさまに退屈を体現する六代目火影に苦笑する。
「終わったんすか?」
シカマルが机に近づくとカカシは書類の束を目線で示した。
「さすがっすね」
素直な感心と同時に、シカマルは目の前の若き火影に同情の念もまた覚える。間違いなく先代である五代目より要領がいい彼は、どんな仕事もそつなくこなしていた。そして彼が仕事をこなせばこなすほど新たな仕事は増え、業務に追われていく。要は器用貧乏なのだ。
六代目火影であるはたけカカシが大量の仕事を抱え込むのは先の大戦の後の煩わしい物事を全て片付けようとしていることも、それが次の火影のためであることもシカマルには分かっていた。得てして、偉大な指導者として歴史にその名を残すのは激動の時代を駆け抜けた者で、現火影もよくそれを分かっていて敢えて時代の波間の影に徹しようとしている。
シカマルが新たな書類の束を差し出すとカカシはわざとらしくもう一伸びしてみせた。
「あーあ、読書もお預けか」と愚痴る里長にシカマルは曖昧に相槌を打つ。
のん気を模る彼が誰よりも難しい大戦後の復興に全力を尽くしていることも、あくまで彼が偉大な火影と火影の合間のさらに影に徹しようとしていることも十分承知していたから、どうも追い打ちをかけるように仕事を与えることには気が引けた。
「それと、霧隠の使者が一足早く火の国に入ったっすよ」
伸びをしながらもすでに書類を横目で眺めていたカカシがゆっくりと瞬く。
「そ、じゃあそのうちここにも来るだろうね」
飄々とした表情のカカシにシカマルは頷いた。それ以上用事のなくなった彼は書類を摘まみ上げる姿を尻目に火影室を後にする。第七班がカカシにとって唯一無二の存在であることは当然のことなのだが、それとはまた別の意味で、直接の部下でもなかったあの人たちが特別であることもまた事実であった。重い昔ながらの鉄枠のドアが閉じて、かえって逆効果だったかとシカマルは頭を掻いた。
シカマルが退室した扉をしばらくぼんやりと眺めていたカカシだが、徐に書類に向き直る。左側の細窓からは朝の光が差し込んでいた。やがてそれは執務机背後の大きな窓に回り、惜しみなく室内に降り注ぐ。
『新人下忍の班編成について』と題された決裁文書に目を落とし、もうそんな時期かと月日の流れの速さを不思議に思った。
モモカが消えてから、もう一年が経っていた。
起案鏡を一枚捲り、班編成リストを確認する。全て知らない名だ。氏名の横に書かれたアカデミーでの成績と、人物評価(積極的、思慮深い、協調的などそういったものだ)だけで、その組み合わせが適しているか検討しなければならない。とは言っても、ここまで上がってくる前に、優秀な何人もの部下の目を通り検討されつくされてきたのだから、火影が口を挟める目立った問題など何もなかった。そうして火影の承認を受けて、担当上忍にリストが渡されるのだ。
あの子は、一体何と評されていたのだろうか。ちょうど十年前、確かに班編成のリストを見たはずなのだが記憶にない。過去の記録を探せば残っているかもしれないが、ペイン襲撃の折に消失してしまった可能性も否めなく、積極的に探すまでの気は起らなかった。
きっと、“協調的”か“純朴”か、そんなところだろう。カカシとて初対面の印象などほぼ残っていない。平凡で、未来ある数多くの子供たちのうちの一人だった。そう、ただの子供だった。思わぬ動きの良さに驚かされたことはあったが――カカシにとって、なんて事はない、子供だったのだ。
火影室に差す光がなくなっていることに気が付いてカカシは顔を上げる。もう昼時に近いはずだが窓の外に目を向けると空には雲が覆い、優しい春の日差しはすっかり隠されていた。
シカマルとは違う騒がしい気配を感じ取って、カカシは正面の入り口扉を見つめる。やがて荒っぽくノックされた後、返事をする暇すら与えずに扉が開けられる。
こいつはきっと、“豪胆”という人物評価だったに違いない――ずかずかと入り込んでくる恰幅の良い義足の男――トウキを見てカカシは考えた。
「よお、イクルは任務か?」
入ってくるなり飛んできた質問にカカシは苦笑する。仮にも現火影に対してここまで図々しく明け透けな態度を取れる男はそうそういないだろう。よくよくトウキを見ると彼の体も髪も満遍なく濡れていた。
「や、違うけど」
イクルの人物評価は“慎重”か“利発”かな、と考えながらカカシは答える。
「はあ? じゃあなんでアイツ、迎えに来ねえんだよ。国境付近は土砂降りだったぜ? アイツが忍鳥で迎えに来ることを見込んで外套も置いてきたってのに」
だからこんなに濡れているのか、とカカシは文句を垂れるトウキを眺めた。もうすぐこの辺りも雨になるかもしれない。
「で、水影の木の葉入りは予定通りか?」
トウキの文句が続く前に、カカシはそれとなく本題に移った。
「ああ――」
トウキは濡れた長い髪を鬱陶しそうにかきあげる。
「当初の行程表の通り、到着は三日後だ」
まさか木の葉の問題児だったこの男が霧隠の使者になる日が来ようとは、とカカシはささやかな感慨に耽る。彼は今や本格的に霧隠に腰を据え、今や水影の付き人の一人だ。今回木の葉に来訪する水影に先んじて寄こされた使者であり、水影が滞在する宿や滞在中の行程に保安上の問題がないことを確認するのが役目である。とは言え、トウキにとっては生まれ育った勝手知ったる里であり、帰省も兼ねた気楽な仕事と言えよう。
それからほどなくして、イクルが火影室に姿を現した。トウキとは違い一応の礼節を弁えている彼が窓から訪れたものだから、カカシは少々面食らった。
「もう着いていたの、迎えに行こうと思ってたのに」
しきりに窓の外を気にしていたイクルだが、トウキを見るなり表情を和らげた。トウキがわざとらしく鼻を鳴らす。
「おう、俺もいつものように忍鳥で迎えに来てくれるもんだとばっかり思ってたぜ。空ばっか見過ぎたせいで首が痛えし、おまけに雨には降られるし」
上から下までトウキを眺めまわして、初めてイクルは驚いた顔を見せた。
「なんだ、雨が降っていたのか。それなら猶のこと迎えに行ったのに――」
「おいおい」
トウキはイクルよりもむしろ、カカシに向き直って苦言を呈す。
「この里の監視を担う火影直属の忍がこんなんでいいのか? 周囲数十里に亘って監視している鳥吉の目にかかれば、ちょいと離れた場所の天気なんて把握してて当たり前だろ?」
トウキの指摘も尤もだった。イクルは火影直属の忍として、半分はその知識を活かし相談役としての役目、もう半分は鳥吉の秘術を活かして里の監視役を務めていた。相談役は次代の火影の為のシカマルに半ば引き継ぎつつ、鳥吉当主であるイクルの兄と里とで取り決めを交わし、監視情報に関して火影にその全て一切を報告している。その為正規の部隊に配属されることもなく、気ままな身分ではあった。
「雨の中歩かせて悪かったって……。ちょっと知り合いに掴まって――世間話をしてたんだけどなかなか、その、離してもらえなくて」
バツが悪そうなイクルの言い分に、すかさずトウキの嗅覚が反応を示した。
「知り合い? 鳥吉関係か?」
イクルは何でもない風な表情で首を振る。
「いや違うよ。知り合いの、中忍の子」
「知り合いの中忍の子?」
いよいよもってトウキは訝し気に聞き返した。まさかイクルに気軽に世間話をするような――それも年若い知り合いがいるなど――全く知らなかったし、今までの彼からは考えられなかったのだ。
傍観者然としていたカカシが口を挟む。
「もしかしてあの子?」
カカシの指摘に、イクルは表情こそ変えなかったものの身じろいだ。
「あの子って?」
すかさずトウキが食いつく。
「イクルのファンの女の子がいてさ、優しく対応してあげればいいものをいつも逃げ回ってるんだよね」
カカシは面白半分でトウキに説明する。苦々しくカカシに訴えかけるような目を向けるイクルを見れば、トウキが知らないのは容易に想像できた。
「ああー?! なんだよそれ」
声を上げたトウキにイクルは唇をぐっと結ぶ。トウキの顔には思いがけない愉快な話題の気配に意地悪い笑みが浮かんでいた。
「あのね、言っとくけどトウキが思うような感じじゃないよ」
イクルの反論にトウキはにやりと目を細める。
「いいじゃねえかよ、相手いくつ?」
イクルは盛大にため息を吐いた。
「子供だよ……。十四歳だったかな」
途端にトウキは興味をなくしたらしく、イクルに負けず劣らずの長い息を吐く。
「なんだ、ガキじゃん」
トウキは心底つまらなそうに吐き捨てると、断りもなく執務机横の椅子に腰かける。そしてこれまた断りなく、タバコに火をつけた。
「禁煙だよ」
「三代目は吸ってたじゃねえか」
「まあ、ね」
本気で止める気のないイクルと、相変わらず傍若無人なトウキの会話を背景音楽に、カカシは残った書類に判を押していく。
それを阻止するかのように、トウキはばさりと巻物を机の上に置いた。今しがた目を通していた書類が下敷きにされたことに文句も言わず、カカシは巻物を紐解く。
「今回の調査結果だが――ま、めぼしい情報はねえな」
トウキは肘を付いて煙を吐いた。巻物には近隣諸国の地図とともに彼らが訪れた場所と神子に関する伝承がまとめられてはいたものの――その調査結果が示すものは――所在不明の神子を捜して、しかし何の手掛かりもつかめないというものだった。
モモカが消えて、一年。
つまりカカシが火影に就任して一年弱。
そしてトウキとイクル、そしてカカシがモモカの行方を捜しまわってもまた一年が経ったということだった。
ちちち、と雨の訪れを告げるように名の知れぬ鳥が外で鳴く。雲はどんどん濃く広がっていく。雨が降り出すのも時間の問題だ。
「そろそろ、蛇の巣をつついて見ようかと思います」
静かにイクルが告げた。トウキが長く煙を吐いて、境界のない靄が拡散する。
蛇とは、大蛇丸を指す隠語だ。カカシは書類に判を押す作業を続けてしばらく答えなった。
モモカを探す道はまるで煙を掴もうとするかのように手応えがなく、イクルもトウキも途方に暮れていた。ルツツ達の村もこの一年の間に三度訪れたが何の手掛かりもなかった。だからいよいよ、この世のあらゆるものに造詣の深い大蛇丸を尋ねようとしていたのだ。仮にも里長であるカカシに面と向かって、犯罪者と接触を図ることは言えない。ましてや火影本人が会うなど、許されることではない。きっとカカシは誰よりもモモカのために出来得ることをしたいだろう。実はカカシが――火影として誰よりも多忙を極めるというのに――遥か北の大地にあるルツツ達を訪れたのも、トウキ達は知っていた。一体どうやって都合を付けたのか。そしてどれだけ飛ばして往復したのだろうか。モモカを見つける糸口を探すための努力をカカシは惜しまない。
だからこそ、イクルは大蛇丸に接触することを敢えて口にしたのだ。カカシが忍世界の規律に反して無謀なことをしないために。釘を刺したとも言い換えられる。
煙草の煙と書類の乾いた音だけの室内に、寂しい時間が流れた。
「……ま、つつきすぎて噛まれないようにな」
ようやく発したカカシの、いつもの飄々とした口調にトウキは煙と共に軽い笑いを吐き出す。
自らが行きたい気持ちを堪えて託したカカシの気持ちを思うと、蛇に噛まれてのこのこ帰ってくるわけにはいかなかった。
…
案の定、午後には雨が降り出した。激しさはなく粒の細かい柔らかい雨だったが、長く続きそうな降り方だった。雨雲が薄いためか日差しもさほど暗くもなく、大地を労わるような雨だ。トウキとイクルが去った後の火影室は長閑で退屈な静寂に包まれている。
さわさわと窓を撫でつける雨をぼんやりと眺め、モモカに初めて会った日も雨だったと、カカシはふと思い出した。まだほとんどモモカをモモカと認識していなかった頃。鈴取り演習の日。
りん、とひんやり澄んだ音が聴こえた気がしてカカシはハッと顔を上げる。
ぼんやりしていた焦点を窓の外に合わせてみても、さめざめと雨が降り続くのみだ。
“私、カカシさんのことが好きです”
初めてモモカにそう言われた日も、そういえば雨だった。あの時の彼女も、やはりまだ子供だった。突然の言葉に驚いたけれど、それは面と向かって告げる少女の意外な豪胆さに驚いたものであり、その好意には薄々感づいてはいた。あの年頃の女子にありがちな一過性の熱。初めて触れる男というものへの幻想と憧れ。彼女の自分に向ける視線もその類だと分かっていたから、当たり障りのない対応しかしてこなかったのだが、まさか正面切って好きというとは――あの頃合いの子供に特有の勢いと、一見すると大人しいあの子がそれを持ち合わせていたことがあの日の自分には新鮮で、微笑ましく笑えたものだ。
「……六代目?」
恐る恐る、伺うような声で問いかけるシカマルを、カカシはゆっくり振り返る。いつも通り廊下を歩いてきた時点で彼の気配には気が付いていたのだが、扉をノックし彼が開けても反応を示さなかった里長をシカマルは訝し気に見ている。
「大丈夫っすか」
「何が」
すぐに聞き返すカカシにシカマルは苦い顔をした。
「ぼーっとしてるように見えたんで」
シカマルは廊下から室内へ足を踏み入れ執務机に近づく。
「ぼーっともさせてくれないの?」
「そういうわけじゃ……あ、こっちももう終わったんすね」
机の上のまとめられた書類に目を落とし、シカマルは感嘆の声を漏らした。手早く回収すると枚数を確認し、満足げに頷く。
「早くて本当に助かるっす。親父はいつも、五代目の締切の守らなさに文句言ってたから――」
シカマルは、随分と穏やかな顔で父親の話をするようになった。あの大戦で身内を亡くした者の中でも、立ち直りは早かった方だ。それは彼の性質に依るところが大きいが、死ぬ直前に未来への言葉を託されたというのも一因としてあるに違いない。きちんと別れを告げ、未来を託され、そしてその死の証拠があるから、受け入れることが出来るのだ。
自分も、絶対的な死を見せられれば受け入れられたのだろうか。最後に言葉を交わした時の彼女が、たとえ自分は死なないと約束していたとしても。
再び窓の外の雨に視線を戻すカカシを、シカマルは少しの間観察した。
「早いけど今日はもう上がったらどうすか? 仕事は山ほどありますけど取り急ぎ片付けなきゃいけないもんはないし」
不意に表情を和らげてシカマルが提案した。カカシは窓の外の雨を一心に眺めたままで気のない返事をする。
「……やっぱり六代目、ぼーっとしてますよ。働き詰めだし、ちょっとは休んでください。どうせ水影が到着したらゆっくりなんかしてられなくなるんだし――今日だけと言わず、明日、いや、明後日の午前くらいまで」
雨を眺めたままのカカシの机の上の資料や仕事道具をそれとなくまとめてシカマルは続ける。
「……んー。じゃ、そうさせてもらおうかな」
「え?」
まさか快諾されるとは思わず、シカマルは間の抜けた声で聞き返してしまった。てっきりのらりくらりと断られると思っていたので、無理矢理にでも休んでもらう口実を何パターンか考えていたのだ。素直に休みの申し出を受け入れるのは、想定外だった。
ぽかんとするシカマルの顔をカカシは可笑しそうに笑う。そうと決まれば彼の身のこなしは速く、先ほどまでぼんやり外の景色を眺めていた者と同一人物とは思えない。既にシカマルが机の端に寄せていた煩わしいあれやこれやを引き出しに放り込み、机の上には火影の象徴でもある笠を置き、裾の長いローブのような火影装束を脱いで皺にならないよう衣紋掛けにかけると身軽になった体で扉に手をかけた。
「じゃ、後はよろしく」
颯爽と立ち去るカカシを見送り、何十年経とうときっとこの人には敵わないのだろうと、シカマルは一人苦笑した。
火影装束を脱いだカカシは上下真っ黒なラフな服で、雨の里を南へ下った。元々存在感を消すことに長けていたこともあり、目立つ火影装束を脱げば案外里の民に気付かれることもない。雨を避けるために軒先を選んで歩くと、霞んだ街影の中にモモカの面影を見出せそうだった。
“あの、どうしてキスしたんですか”
子供ではなくなったモモカの問いかけがカカシの脳内で木霊する。彼女は不安そうな顔で、けれど決して目を逸らさずに、真っ直ぐにこちらを見据えてそう問いかけていた。思い返してみれば、自分は何度あの子の真っ直ぐな視線から目を逸らしてきただろう。
あの時、確か自分は“出来心”だと言っただろうか。それは偽りではなかった。姿形だけは大人の女性になったモモカに、抱いてしまった欲が突発的なものだったことは紛れもない事実だ。熱に浮かされたとは言え、してはならないことだった。きっと、自覚はせずとも既にあの頃の自分の奥底にはモモカを一人の女性として認識していたからこその欲なのだろうが――兎にも角にも、正直に出来心だったと打ち明けることが彼女を傷付けることになると重々承知の上で、そう言った。一時の欲に飲まれこそすれ、あの当時の自分に誰か特定の一人を受け入れる気など更々なかったし、変に期待を持たせてしまう方がよっぽど悪いのは自明の理だったからだ。
カカシは五丁目の定食屋に入り、山菜そばいなり寿司付きを注文する。店に入るまでは焼き魚定食を頼もうと思っていたのだが、以前モモカが頼んでいたこのセットを目にしてつい頼んでしまったのだ。
あの時と変わらぬ女将さんが、あの時よりも皺の増えた手で蕎麦を配膳する。黒に近い汁は甘辛く、確かにいなり寿司と一緒に食べて丁度よい塩梅かもしれない。ぺろりと平らげたものの、ここのところすっかり食の細くなっていたカカシは過ぎた満腹感を抱え店を後にした。
定食屋を出ても依然として雨は降りそぼっていた。なるべく屋根の下を選んで歩いても、どうしても限界はある。六丁目から先は細かな雨に打たれるのも構わずに歩いた。
里の南東に位置する門は規模が小さく、出入りも少ない。近くにはまばらになった民家が点在するのみで、いよいよ雨を避けて進むことは難しい。ようやくその門に辿り着いた時、カカシはすっかり雨に濡れていたが、今になって小降りになってきた。門に向かって右手後方を振り向けば、薄くなった雲間から濃橙の夕日が差し込み雨に濡れた里を幻想的に照らしていた。
里を発つモモカに、初めて心を明け渡した場所だ。
あの時に見た夕日を、カカシは生涯忘れることは出来ないと思っているが、果たしてモモカの方はどうだろうか。
“私は、絶対に、どんなことがあっても死なない”
泣き笑いの顔を思い出して、カカシは泣きたくなった。普段は余程のことがない限り感情を乱すことはないが、モモカの涙に濡れた顔を思い出すとどうにも心臓が締め付けられる。
懐から一本の紐を取り出しカカシはじっと痛みに耐えた。紐は夕日を反射しきらきらと輝く金色をしている。モモカに編んだミサンガにこっそり織り込んだ金糸と同じもので、この一年の間に新たに編んだものだった。
かつて、火の国には婚姻を結ぶ相手に、男が編んだ髪飾用の組紐を渡す習わしがあった。それは一万匹に一匹の割合で生まれる特別な蚕から生産される金糸で出来ていて、高価なその金糸を男は時間をかけて編み、贈られた女は婚姻の日に身に着ける。生産性の割に合わないことと繰り返される戦争の時代にいつしか廃れた習慣は、若いくノ一の間で憧れとして残っていた。いつだったか、チームメイトだったリンに聞いたことがあった。
“さすがに髪飾りにするほどの金糸は高くて、とてもじゃないけど今では編む人はいないけどね。でも、たかだが一本、これくらいの短さなら今でも簡単に手に入るから。この金糸一本を編み込んだミサンガを好きな人に渡すと――……”
恋だの愛だの、微塵も興味のなかったあの時の自分はくだらないと、聞き流していた。それがいい大人になってから、十も歳の離れた子に渡すのだからとんだ笑い話だ。
顔を上げれば、弱くはなったものの止むことのない雨が目に刺さった。鮮やかなオレンジ色は雨に滲み、モモカの思い出とともにカカシに心をぎゅうぎゅうに締め付ける。
「死なないって、言ったもんな」
誰も返事をすることのない言葉は、柔らかな雨に吸収され消えた。
こんなことなら、もったいぶらずにこの金糸の意味を伝えていれば良かっただろうか。
どこか遠くで、澄んだ鈴の音が響いた気がした。