大地に捧げる音の中で


「モモカが、消えた」

 その言葉を告げられた時、どこか妙に腑に落ちたところがあった。
 無論、信じられない気持ちの方が大きかったし信じたくもなかった。よく分からない理不尽な理由で、この世から奪い去っていいような人ではないのだ。真っ直ぐで、暖かな陽だまりのような彼女がいない世界など、考えられない。
 しかしそう強く思う一方で、いつかこうなる気がしていたのもまた確かだった。
 カカシはのろのろと立ち上がる。底なし沼のような疲労はどこかに消え去っていた。
「どこにもいないんです」
 絞り出すようなイクルの声は、いつも冷静な彼にしては珍しく泣きそうな響きを伴っている。
「この戦争中に、モモカは何度か光で出来た異次元を行き来していたみたいなんです。そこでは物事の運命を手繰ることができるって――でも、危険だから、戻ってこれなくなるからって、イタチや、あの大蛇丸にさえも注意されていたんです。それなのに――」
 荒い息のままでイクルは堰を切ったように喋った。
「最後にモモカに会っていたのがあのルツツって奴だからモモカの行方を聞いたんだ……そしたらモモカは一人で行ったって。そんで、大地に還った、なんて抜かしやがった」
 トウキも胸を激しく上下させ、唸るように言う。
「それで――僕らもまだ周囲を隈なく探したわけじゃないんですが――とりあえずカカシさんには伝えておこうと思って――」
 二人の怒涛の訴えが聞こえているのかいないのか、カカシは耳を傾けているはずだが、心ここにあらずといった感じであった。一つ、二つ、真白い日差しを受けて瞬きをするとカカシは感情の読めない表情で二人を見つめた。
「探してくる」
 それだけ言うと、カカシはあっという間に飛び出していった。
「あっ、待ってください、それなら僕の忍鳥を付けるので相互に情報を――」
 イクルの静止も聞かず駆け出したカカシはすぐに見えなくなり、後には呆然と立ち尽くすトウキとイクルが残された。彼らにとって、カカシは唯一とも言える手放しで頼れる年長者だった。途方もない絶望に、その不安の全体重をかけてもたれかけられる大人など、彼らにとって片手で数えても余るくらいだった。その全幅の信頼を置いている忍が今、振り返りもせずに飛び出していったのだから、最早彼らに寄り添い慰めてくれる者など誰もいない。しかし二人はすぐに表情を引き締めると泣きたくなる気持ちを押し殺して捜索に駆け出した。弱音を吐いたって、何も掴めないことを痛いほどに彼らは思い知っているのだ。

 戦争が終わったばかりの騒動の中で、まさか人一人を探すのを手伝ってくれなど、誰にも頼めなかった。負傷者の治療、搬出、各国への連絡など優先度の高い仕事はいくらでもあったし、モモカ以外にも行方不明者や尋ね人は少なからずともいたからだ。それでもトウキとイクルは二手に分かれて、行く先々でモモカの行方を尋ねて回った。考えられる限りの場所を訪れ、イクルは上空から、トウキは地を這うように、血眼になって探した。忍鳥も、今の残り少ないチャクラで召喚できる最大限を呼び出した。けれどもモモカのいる気配はどこにも感じられず、ただただ体力だけが削られていく。
 一日目の晩が明けて、モモカのことを聞きつけたゲンマとアンコが捜索に加わってくれた。
「動き通しじゃかえって効率が悪い。少し休め」
 ゲンマの言うことは尤もだった。二人とも気絶するまでモモカを探し通す気でいたが、忍鳥の数も集中力も目に見えて減っていたのは確かだった。二人は二日目の夕刻に仮眠を取った。短い睡眠の後、夜中に目を覚ますと、更に霧の長十郎、砂のカンクロウ、雲のオモイが捜索に加わっていた。皆が皆、大戦直後で疲れ切っているはずだが、休憩を交代で挟みつつ、懸命にモモカの行方を探ってくれた。けれど探せば探すほどにモモカが遠くなっていく気がして、トウキもイクルも皆に感謝を述べるような気は一切回らなかった。
 三日目の夜が明けた早朝、モモカが最後にいた場所にルツツ達が戻ってきた。一度引き上げた彼らだったが、戦争に参加しなかった他の村人と合流して、大きな荷物を背負っている。

「おい、奴ら何て――?」
 ルツツ達が姿を現したことを聞いたトウキとイクルが飛ぶように戻ってきた。ちょうどルツツ達と話していたゲンマと長十郎が、困った顔で振り向く。
「あの、死者を送る為の音楽を奏でたいって――この戦争で消えた命と、大地に捧げる音だと――」
 長十郎がおっかなびっくりトウキの表情を窺いながら答えた。埃まみれで薄汚れてくたびれた姿とは裏腹にトウキの瞳はめらめらと怒りに燃えて、短く息を吐くと同時にルツツに飛び付いた。長十郎は慌ててトウキを抑えようとしたが、ゲンマはただ傍観しているのみだった。
「――てめえ! 何が――何を奏でるって? 大地に捧げる音? 消えた命たちに? そんな――それはつまり――葬送曲みてえなもんか?! なあ、勝手にモモカを殺すなよ!!」
 物凄い剣幕のトウキに胸倉を掴まれても、ルツツは表情を変えなかった。
「違う、それとは似て非なるものだ。俺たちは魂が迷わないようにしたいだけだ。疲弊した大地では、きっと、指標が見えない。それにモモカは――」
 淡々と喋るルツツは一旦言葉を切った。
「……モモカに関しては分からないが……、大地に還ったことだけは確かだ。モモカの一部だけか、それとも全部かは、何とも言えない。でも、ここではない場所にしかいないことは、確かだ」
 殴りかからんとする勢いのトウキを、ようやくゲンマが止めた。ゲンマと長十郎の二人がかりで押さえつけられたトウキはわなわなと震えて、憎しみのこもった目をルツツに向ける。イクルがやはり埃っぽくてやつれた身を投げ出すように力なくその場に座り込んだ。
「……あなた達にモモカを託すんじゃなかった……。モモカはきっと無茶をするって、分かってたのに……きっと、同じ力を持つあなた達でも止められないかもしれないって、あの時考えつかなかったわけじゃないのに……」
 弱気な声で呟くイクルの虚ろな目を見つめて、トウキは突き上げていた拳を下した。だらりと腕を脱力して項垂れる。トウキもイクルも、ルツツ達が決してモモカをそそのかしたわけでもないことは分かっていた。モモカは間違いなく自分の意志で、この選択をしたのだ。ただただモモカが居ないことだけが受け入れられなくて、諦めきれない。ルツツ達が言うところの大地に捧げる音を聞いたら、モモカがいないことを事実として受け止めざるを得ないような気がして、それが堪らなく怖かった。
「……俺たちは逝くべき人が彷徨わずに逝けるように、あるいは生きるべき人が迷わずに戻ってこれるように、音を捧げるんだ」
 ルツツが辛抱強く繰り返した。
「音だけじゃく、できれば火をくべたい――モモカと約束していた男がいた。モモカの道しるべとなる火をくべると言っていた。だから、なるべくモモカに縁のある、なおかつ思い入れの深いものを燃やしたい」
 ルツツの言っていることはほとんど理解できなくてトウキとイクルは疲れた顔を見合わせた。
「……モモカと約束? 誰が?」
「名前は分からない。片眼には強い瞳力を、もう片眼には信念を持った男だ」
 眉を寄せていたイクルが、徐に顔を上げる。
「それって……、カカシさん……?」
 そういえば、あれ以来カカシを見ていない。三度目の朝が来ても、カカシは未だ戻っていなかった。カカシはあれだけの激戦の後に飛び出していったのだ。モモカを探すことに必死だったけれど、今更ながらに彼の身が心配になった。カカシに限って下手なことはいないだろうが、モモカに関してはどう出るか予想が出来なった。
 ルツツの視線がトウキとイクルからその背後に移される。
「……あなたじゃない。ゴーグルをした少年だった」
 トウキとイクルははっとして振り返る。ルツツの視線の先には、亡霊のようにカカシが立っていた。彼はあれから休まずモモカを探していたのだろうか。そしてどこにもその姿が見つけられず、トウキとイクル同様に絶望に打ちひしがれてここに戻ってきたのだろうか。
 カカシは無表情で、生気が全く感じられなかった。この戦争を終結させた功労者には到底見えない疲れ果てた姿だった。モモカと共に、カカシの魂だけがどこかここではない場所へ連れ去られてしまったみたいだ。しかしどういうわけか、ルツツの言葉を聞いたカカシからは、驚くべきことに力強いチャクラが漏れ出した。虚無しか映していなかった瞳には、僅かに力が戻っている。何かしらの光を見出したみたいだった。
「……本当に、約束したんだな。あいつが……」
 カカシの言うあいつが誰なのか皆目見当もつかないが、彼には思い当たる節があるようだ。
「ああ、そうだ」
 ルツツの力強い頷きにカカシは目を閉じる。そのまま気絶してしまうのではないかと思われたが、カカシは再び目を開けルツツに腕を伸ばした。その手にはぼろぼろになった紐状のものが握られている。トウキとイクルにも見覚えのあるものだった。
「……それ、モモカの付けてたミサンガじゃねえか」
 どこかに落ちていたのを拾ってきたのか、土と血で汚れたそれをカカシは大事そうに握り、差し出している。ルツツは一瞥すると受け取った。
「確かに、これなら申し分ない」
 ルツツは受け取ったぼろぼろのミサンガを日の光にかざして慈しむように眺めた。

 それから、ルツツと村人たちは荷をほどき始める。大きな荷物の正体は楽器だった。大きな縦笛が四本、中くらいの横笛と小さな横笛が三本ずつ、小さな鼓が三つに大きな太鼓が一つ、そして見たことのない袋に管が付いたような形状の管楽器が五つだった。
 袋状の管楽器に呼気が吹き込まれると低い音が響いた。地の底から響き渡るような音だった。続いて大小様々な笛から風のような掠れた音が奏でられる。ばんと、一つ大きな太鼓が打ち鳴らされると、先端に鈴がいくつも付いた錫杖を手にしたルツツが躍り出た。ルツツは舞手らしい。
 彼らによって奏でられる音楽は聴いたことがないもののはずなのに、酷く懐かしかった。トウキもイクルも座り込んで、力なく聞き入る。望郷の念に駆られるような切ない旋律だ。それはまた、自然そのものでもあると思った。彼らやモモカみたいな超常的なものを感じ取る力はないが、彼らの奏でる音が傷ついた大地と人々の慰めになるのは痛いほど分かった。
 地から低い音が響くたびに魂が揺さぶられる。天に抜けていくような切ない音に、命が愛おしく思う。打ち鳴らされる大気の振動に、生きる勇気が湧いてくる。そしてルツツが舞うたびに鳴る澄んだ鈴の音は大地の怒りを鎮め、疲れ果てた心に寄り添い、憎しみを浄化させていくようだった。
 気が付けば、頬に涙が伝っていた。トウキとイクルだけでなく、周囲にいた忍び達皆の頬にだ。大戦の後で目まぐるしく働いていた人々は、自然と足を止め音楽に聞き入り、この戦で失ったものに涙している。
 終わった。戦いは終わったのだ。多くを失ったが、生き残った者は、それらが繋いでいく命たちは、これから如何様にも生きていける。
 それと同時に彼らの奏でる旋律は、逝ってしまった者たちを労り敬っていた。それだけで救われた気がする。救われたのは逝った者ではなく、今を生きる者たちかもしれない。慰められたのは、まさしく、まだこの大地で生き続ける我々だ。死者を見送る音楽は、本当は生きる者たちの為のものかもしれなかった。そうして区切りをつけることで前を向いて生きていくことが出来るのだから。
 イクルには、やはり、聴くんじゃなかったという想いと聴いてよかったという気持ちが混在していた。逝く者たちを、モモカまでも、その存在がいないことを認めてしまうのは、必要なことだけれど、どうしようもなく悲しかった。
(モモカが死んだら後を追うじゃなくて……消えたら、て言えばよかったのかな……)
 失敗したな、とイクルは項垂れる。モモカが死んだかどうかなんて分からないから、これじゃ後さえも追えない。追うべき場所が分からないのだ。
 横に座るトウキが力強くイクルの肩を抱いた。トウキからは小さな震えが伝わってくる。顔を上げるとトウキは流れる涙を拭いもせずに、舞うルツツを一心に見つめていた。
 いつも、諦めない彼にどれだけ救われてきたことだろうか。大地に捧げる音の中で、やるせない過去と果てない過去を見つめながらも、虚しさが胸を覆う。全てを労わる色とりどりの音の中で、モモカの笑い声だけがなかった。
 やがてルツツは舞ながら手にしていたモモカのミサンガに火をつけた。小さな火だったけれど不思議と高く立ち上り、煙が大気に混ざり合っていく。穏やかな気候の中である種異質な灯を見ていると、イクルの心にもわずかな希望が灯る。
 鼻をすすり周囲を見渡すと疲れ切った人々がルツツ達の音楽に聞き入り、涙を流し天に祈っていた。

 幸せに、なれますように。
 大切な人が、笑っていられますように。
 未来が、続きますように。

 カカシに目を向けると彼も音楽に聞き入っていた。表情は、よく見えない。背中を丸くするカカシの銀髪を、乾いた風が撫でた。
 彼は今、この音を聴いて何を思うのだろうか。春を告げる陽だまりの中で、未来にどんな希望を見出せるのだろうか。

 錫杖の鈴の音が一際強く、凛と鳴り、深い傷を負ったカカシの体は大地に倒れ込む。

 もうこの世界のどこにも、モモカの気配は感じられなかった。



back



- ナノ -