夜は明けるのだと、愛しいあの人に伝えるために
「痛いっ」
自分の声でモモカは意識を戻した。急速に冷えた頬が乾いた風を感じ取っていた。夜は深く、未だ戦いの気配は鎮まっていない。
痛覚を感じたのは左の掌だった。かつて自分で串刺しにした傷跡はまだ色濃く残っているが、そこから新たに米粒ほどの鮮やかな血が浮かんでいた。手首の辺りに黒い鳥が掴まっていて、どうやらこいつに強く啄まれたらしい。真っ黒な鳥はカラスにも見えたがそれよりも小ぶりで、嘴と頬が鮮やかな黄色をしていた。
「モモカ!!」
切羽詰まったイクルの声に、また心配をかけてしまったなとモモカは他人事のように考えた。
「……結界の外に出られたんだね」
脂汗を滲ませてモモカを覗き込むイクルにモモカは言った。体の怠さは変わらないが気分は幾分かましになっている。恐らく、ナルトの陽の気に満ちたエネルギーに直に触れたからだ。
「ああ……、ナルトと四代目がどうにかして全員を飛ばした……」
イクルは探るような目をモモカに向けていた。外に飛べた奇跡のような現象が起きたのにはナルトだけでなく、モモカも何かしらを、それも自分の体を顧みずにしたのではないかと疑っているようだった。爆音が響いて土煙が舞う。ナルトとサスケ、そして火影達が覚醒したオビトと依然戦闘を繰り広げているのだ。
「……何があったか正直さっぱり分からないけれど……頼むから無茶をしないでよ……。君、またしばらくの間意識が全然戻らなかったんだよ」
その声はあくまで平静を保っていたが、イクルは血が出てしまうのではないかと思えるほどに唇を噛みしめていた。モモカの背に当てた掌からはチャクラが流れてきていて、彼がずっと医療忍術で処置してくれていたのだと知る。
「ありがと……それでこの子が起こしてくれたのか……」
腕に止まったままの黒い鳥を見下ろしてモモカは言う。人馴れしている様子からも野生のものではないことは明らかだ。しかしここで、イクルは困惑した表情を見せた。
「……僕の忍鳥じゃないんだよ」
イクルは困惑と少し緊張の入り混じった顔で答える。これだけ人を怖がらずにいる鳥が、飼い慣らされたものではないことが俄かには信じられなかった。じゃあこの鳥は? モモカの疑問は甲高い声によって遮られた。
「モモカ、コイ」
それを発したのは紛れもなく、モモカの左手首に止まる、ずしりとした重みの黒い鳥だった。
「喋った?!」
モモカは素っ頓狂な声を出した。目を点にしていると鳥は続けて言った。
「モモカ、コイ。ルツツ、マツ。モモカ、コイ」
黒々とした丸い目を見つめてモモカは目を瞬いた。
「……ルツツ、なの?」
ぴよう、と、鳥らしく可愛らしい声で鳴く。肯定の意らしい。イクルを振り返ると彼は複雑な顔をしていた。
「さっきからこの調子で、本当にルツツさんなのかも僕には判断が付かなくて」
モモカは再び黒い鳥に目を戻した。この鳥は、確かに鳥だ。その艶々とした羽毛の自然の美しさをよく観察しても、忍が変化したものではなく確かに紛れもなく鳥だとモモカには見えた。恐る恐る空いている右手を伸ばしてみてもまるで怖気づかずにモモカをじっと見つめている。
「モモカ、ココ、イバショ、チガウ。モモカ、ナオス、コイ」
高い声で鳥は続けた。鮮やかな黄色い肉垂の下にそっと触れると高い体温と強い意志を感じることができた。これは紛れもなく野生の鳥なのだが、その一方でルツツでもあった。
「……間違いない、ルツツだよ」
あの雄大な気配を感じ取ると途端に懐かしさが込み上げて、思わずモモカは声が震えた。
「……ん、分かった」
イクルは意を決したように頷くと忍鳥を召喚した。イクルの契約している忍鳥の中でも速く強い大きな鷹だ。彼はモモカの両脇から手を入れて器用に鷹の上に乗せると、自身も鷹の背に飛び乗り、後ろからモモカを支えるように抱えた。
「ルツツさん達のところへ行こう、モモカ。治してもらうんだ」
怪訝な顔をしているモモカにイクルは言った。小さな黒い鳥に先導をさせるつもりだ。人語を喋るその鳥もまたその意図を汲み取って羽ばたいた。
モモカは反論することはなかった。イクルも、分かっていたのだ。付け焼き刃の医療忍術では根本的にモモカを回復させることはできないことを。チャクラを送れど送れど栓の抜けた浴槽のようにモモカからエネルギーが流れ出ていくことを。せめてモモカを戦場から遠ざけて、モモカと同じ力を持つ人々に託す方がまだ、勝算はあるのだ。背中のイクルからはモモカの回復を願う気持ちと、それと同じくらい強い悔しさが伝わってきた。自分ではもうモモカをどうにもしてやれないという、悔しさだ。ひしひしとイクルの想いを感じ取って、モモカは何も言えなかった。
やがて先導する黒い鳥が急降下して、眼下に集まり祈りを捧げる男たちが見えた。ルツツ達だ。こんなに戦場近くまで来ていたのか、とモモカの心臓が恐怖を感じて脈動をした。モモカとイクルを乗せた鷹も続き、大地に降り立つ。男達の祈りの声は低く木霊し、ある種の風鳴りのようにも聴こえた。
男達の中央に位置するのはルツツだ。彼は胡坐をかいて目を閉じている。黒い鳥は真っ直ぐルツツの元へ飛んでいきその肩に止まった。びくんとルツツの体が小さく痙攣したかと思うと、彼はゆっくりと瞼を開けた。黒い鳥はすっかり野生の顔に戻って、あっという間に羽ばたいて去ってしまった。
「……やっぱり、あの子の中にルツツが入っていたんだね」
涼しげだけれど意志の強いルツツの瞳と約二年ぶりに対面して、モモカは自然と微笑んでいた。ルツツは相変わらずの仏頂面で頷いた。けれどその表情は二年前よりもずっと優しさに満ちて見えた。
「ああ、喋るのに適している鳥を探すのに苦労した」
低く落ち着いた声でルツツは答えた。隣でイクルが静かに息を吐いた。
「だから九官鳥だったのか」
イクルの呟きに、確かにあの黒い鳥は九官鳥だったとモモカも思い至る。
「……参ったね」
イクルは頭を振った。ルツツが胡坐をかいたままで不思議そうに彼を見上げる。
「獣の精神に入り込む忍術はいくつかある。山中一族の扱うようなものとか色々あるけれどどれも複雑で高度な術だ……。それを忍ではない人がするなんて」
イクルの驚きにルツツは驕りも委縮もせずに答えた。
「忍がチャクラと呼んでいるもの……それはかつて、“繋ぐ”ものだった。人と人、あるいは獣、そして大地。忍は己の肉体と精神を結びつける方面ばかり得手なようだが、その対象が鳥になっただけだからさほど難しいことではない」
イクルは納得のいっていない顔をしていたが何も言わなかった。モモカにはイクルの言い分もよく分かった。忍が忍術を扱えるのはチャクラを練り、さらに印を結んでこそだ。いわば練り上げたチャクラを印の作った型に嵌めることで型どおりの忍術が生まれるのだ。それをチャクラを練らず、印も結ばず、まるで思い付きで散らした泥水が巨匠の描いた絵画になってしまうような現象は、忍の感覚から言うとどうも理解しがたいものなのだ。
「……それで、あなた達のその力でモモカを治すことはできますか?」
敬意を込めたイクルの問いにルツツは静かに頷いた。
「治す、というのはまた違うが……先ほども言った通り繋ぐことは出来る。俺たちとモモカを。大地とも。ばらばらになって解けかけているモモカの魂の一束一束を寄せ集めることはできる」
ルツツの言葉にイクルは肩の力を抜いて、やっと穏やかな表情を見せた。数度呼吸を繰り返し、寒風吹きすさぶ夜空を仰ぐ。
「トウキが戦場に戻ってくる……影達は誰も欠けることなかったみたいだ」
夜空の何もない場所を見つめるイクルの瞳も発する声も穏やかだった。イクルはトウキと感覚の共有ができる。特有の金属を拠り所としているとは言え、それはルツツ達の言うところのチャクラの本来持つ人と人とを“繋ぐ”力に近いのではなかろうか。しばらく冷たい夜風に髪を遊ばせたままで、イクルは宙を見つめていた。まるで幼い子供が初めて空に憧れを抱いた時のように、飽きもせず、眺めていた。
「僕は戻るけれど……、君はきちんと治してもらうんだよ」
モモカに向き直った時、イクルは優秀で冷徹な忍の顔に戻っていた。あどけない無垢な少年のような先ほどの彼が嘘みたいだった。モモカは控えめに頷いた。
鷹の背に乗ったイクルはしかし、思いつめた顔でモモカを振り返る。
「モモカ、僕はひねくれているし、トウキみたいに真っ直ぐなことは言えない。けれどこれだけは言っておくよ」
イクルは果てのない夜空を背景に微笑んだ。それは無垢な少年から最も遠い、死という絶望を何度も見てきた大人の顔だった。
「もしモモカが死んだら僕も後を追うよ」
その物騒な言葉の持つ意味とは裏腹な、酷く穏やかな顔でイクルは告げた。穏やかで、優しくて、そして切ない瞳だった。トウキと全く真逆のやり方だ。けれど根っこの願いは全く一緒だとモモカは理解した。彼もトウキと同じ思いで、仲間に訴えている。絶対に死なないで欲しい、と。
モモカはイクルの不器用な優しさに不敵に笑ってみせた。
「死なないよ。私は死なないし、イクルも死なせない。長生きさせてあげるからね」
イクルはもう一度微笑み、鷹の背に乗って颯爽と羽ばたいていった。豆粒みたいに小さくなってやがて見えなくなるそれを見送ってから、モモカはルツツに向き直る。
ルツツはやっぱり、二年前よりもずっとずっと優しい顔をしていた。守るべきものができた顔かもしれない。
「そこに座って。モモカの一番楽な、自然な形で」
モモカはルツツに言われるがままに乾いた草の上に腰を下ろした。依然として祈りを捧げる男達の低い声が直に響いてモモカの魂の根源を震わせる。
「モモカを大地に繋ぎとめよう。大地の血潮が流れてばらばらになりかけた魂をきっちり繋げば、少しは元気になるだろう」
ルツツの声に誘われるようにモモカは目を閉じる。冷たく乾いた風が吹きすさぶ侘しい大地の夜に、ルツツ達の捧げる祝詞は浮かび、溶け込み、沈んでいく。低く響く声の重なりは大地に吸収されその何倍もの力となって共鳴していた。
胡坐をかき背筋をすっと伸ばし、祝詞に耳を澄ませているとモモカは暖かなものが流れてくるのを感じ取った。祝詞の言葉の意味自体は分からないが、胸にじんわりと暖かな光が広がる。モモカの疲れ果てた脳がお湯に浸かったように温もりに満ちて、あちこちに散らばっていた心が戻ってくるように感じた。そして次第に、低い祈りの声以外にも様々な声が聴こえてきた。歌うような、泣いているような、不思議と反響するいくつもの声だ。偉大な大地の声だろうか。それとも理不尽な戦に怒る人々の声だろうか。あるいは幾星霜の時間、この地で生まれ歩み朽ちてきたいくつもの命たちの、声だろうか。
気の遠くなるほど命の喘ぎの中に、愛しい声を聴いた。
モモカの世界に光が満ちる。強烈でありつつも暖かな光は何よりも愛おしい、失い難いものだ――それは紛れもなく――カカシの生命の煌めきだった。モモカは神威空間から舞い戻ったカカシの気配を確かに感じ取ったのだ。
「ねえ、ルツツ」
ゆっくり、薄く目を開けてモモカは呼びかけた。
「そう言うだろうと思った」
ルツツも祈りを中断して目を開ける。モモカの言わんとしていることを予想していたみたいだ。実際彼はモモカと同じくらい巧みに同化の力を――それはモモカがそう呼んでいるだけなので彼らの言葉で言えば赤き心を持つというが――扱えるのだ。モモカの心の内など手に取るように分かるのだろう。他の男達の祈りの声は変わらず孤独な夜空に木霊していた。モモカの体も頭の痛みも、幾分も楽になっていた。視界もはっきりしている。
「モモカ、君は大地に選ばれし神子だ」
決して大きな声ではなかったけれど唐突なルツツの言葉は大地に吸収されず、大気に拡散もされず、低く響いた。
「……時代の節目に現れるという、大地に祈りを捧げる神子のことだよね。役目を終えた後は大地に吸収されるという」
先ほど聞きかじったばかりの知識をモモカは口にする。祝詞を唱える男達に動揺が走ったが、「続けて」とルツツが命じたので彼らの祈りは変わらず大地を包んだ。
「そうだ。忍の世界でどのように伝えられているかは知らないが、影から、人知れずに、ずっとずっと昔から神子は大地と人とを繋いできた。神子が祈って大地と人を結べば世界を滅ぼすような厄災は免れるけれど、神子は人の世との繋がりを永遠に絶たれてしまう。代々、俺たちの村は、選ばれし神子は、そうして大地と人を、時には人と人同士を結んできたんだ」
モモカはルツツの静かに燃える瞳を食い入るように見つめた。初代火影である柱間でさえも伝承のように語っていた神子の存在をあっさりと肯定したのだ。モモカが彼らの村に滞在していた時はそんな話は一切してくれなかった。それはつまり余所者はもちろん、村人であっても簡単に口にしてはいけないことだということだ。それを、今ルツツは口外した。つまり、今この世界は、そういう局面だということなのだろう。所謂、時代の節目。神子の祈りが必要とされる時。
「普通は、白い狐を見た者がその時代の神子となる。平時であれば村の長となり皆を導くだくだけだが、もし厄災が降りかかるのなら大地に祈りを捧げて役目を全うするんだ。だけど今、この時、その選ばれし者は――つまり白い狐を見た赤き心を持つ神子は――俺とモモカの二人いる。それがどういうことだか分かるか?」
ルツツの問いかけにモモカはゆるゆる首を横に振った。ルツツの頑丈そうな口元にくっついた薄い唇が、わずかに弧を描き優しい笑みを作る。
「君を繋ぎとめることができるということだ」
初めて見たルツツの表情にモモカは思わず面食らってしまった。懐の深い雄大な自然のような男だったけれど、慈愛に満ちた――ともすれば母のような――この表情はどういうことだろう。
「……どうすればいい? 大切なものを守るために」
モモカは腹を据えて尋ねた。望むことはただ一つだ。あの人が笑う未来を、勝ち取りたい。
「モモカはモモカが思うがままにすればいい。俺がモモカを繋ぎとめるから、安心して、繋ぎたいもの繋ぐんだ。そしてそれを可能にするのはここで祝詞を唱える我々の結界だ。だがいいかい、もし我々を感じ取ることが出来なくなったらすぐに戻ってくるんだ。本当に、戻れなくなるよ。愛しいあの人にも、永遠に会えなくなる」
少し前のモモカだったら、ルツツの言っていることの十分の一も理解できなかっただろう。だが今はルツツの言うことがすとんとモモカの内に入って、その意味がよく分かった。
モモカはモモカが思うがままに人と人、大地、あるいは運命を繋ぐ。そうして大地と離れ離れになってしまうモモカを、今度はルツツが繋ぐ。もしルツツがモモカを繋ぎ留められなくなったら――例えばルツツが死んでしまった場合などだ――モモカの魂はあちら側に行って、永遠に生まれ育ったこの大地とは結びつかなくなってしまうのだ。
「……分かったよ、ありがとう」
モモカは頷き、心を決めた。ルツツがまた、あの慈愛に満ちた目をしてみせた。そしてモモカの手を武骨で大きな手で握った。
「モモカ、俺に子供が生まれるんだ」
思いがけない言葉にモモカは目を瞬く。ルツツから流れ込んでくる想い。愛しい女の顔。やがて生まれてくるきらきらと輝く命。眩い未来。母となる女の顔には、モモカにも十分すぎるほどの見覚えがあった。
「……スーミが……?」
モモカの驚きの声にルツツが頷く。無邪気で、ころころと表情を変えて、嘘偽りのない太陽の明るさを持った少女。大地に愛された笑顔。あの時のモモカもどれだけ彼女に救われただろうか。ルツツの中に見た愛しい光は紛れもなく、あの春の日差しを背負ったスーミだった。モモカが村を発った後の二人にどんな物語があったのか分からないが、二人が結ばれて命を結ぶのは、とても喜ばしいことだった。
「尊い命だ」
ルツツはそっと呟く。モモカはルツツの纏う雰囲気が以前と比べて優しくなっている理由に気が付いた。彼も次期村長として育てられ、物心つく頃には既に守るものがたくさんあっただろう。それが今、彼は自らの意志で、芯から守り抜きたい存在が出来たのだ。
「俺は、愛しい命を絶やしたくない。今がその時だと、そう思うんだ」
ルツツの言葉にモモカは深く頷いた。絶やしたくない。失いたくない。諦めたくない。その想いが、我々を、ここまで連れてきたのだ。
ルツツの手がモモカから離れたのを合図に、モモカは瞼を閉じそして自己の奥深くへと沈んでいった。深く、深くへと。人々の魂の叫びを知るには、まずは大地を知らねばならない。そして大地を知るためには、己を知らなければならない。深く自分自身の中枢へと潜っていくほどにモモカは耳鳴りがするほどの静寂な闇に包まれていく。真っ黒く、塗り潰された闇だ。途方もない闇。深海の底のような、はたまた恒星の光が届かぬ宇宙の果てのような、永遠とも思えるような闇。
その一方で、モモカは闇の鼓動を聞く。どくん、どくん。太鼓を打ち鳴らすような鼓動が響いている。全てを飲み込む闇も、そこには生命の息遣いがあった。死があるからこその生だ。そこにたとえ喜びが見いだせなくなったとしてもそれは消えてしまったわけではない。思い出せないだけで、あの胸を貫く強烈な光が消え去ったわけではないのだ。
どくん。どくん。どくん。
耳の奥から突き破ろうとする鼓動は一拍ごとに力強さを増していく。荒々しい大地を吹き抜ける一陣の風のように、轟々と流れる沢の水のように、生死をかき分け芽吹く木々にように、人々の生活を明るく灯す炎の揺らめきのように、その鼓動はモモカのすぐ近くまで訪れていた。
どくん。どくん。どくん。どくん。
外からも内からも響く鼓動が共鳴し眩暈を起こすほどの振動になる頃には、天から黄金色の花びらが舞い降りていた。きた。先ほどと同じ感覚だ。
はらはらはら。
舞い落ちる光る花びらは尽きることはなく、みずみずしくやわらかな煌めきをもってして視界を覆う。
はらはらはらはら。
つい数時間前に見た光景と同じだけれど、一つ違うのは、モモカがこの世にまだ繋がれているということだった。モモカは、自分に繋がれた糸の存在を強く感じ取っていた。それは祈りを捧げるルツツ達から何本も伸びて繋がれたものである。繋ぎとめてくれている者がいるからこそ、モモカは何のしがらみもなく自然に解放されることが出来た。
光る花びらで覆いつくされ、むせ返るほどの濃密な生命の香りの奥に、汗臭い匂いがあった。ナルトだ。彼は何かを懸命に引っ張っている。引っ張る先には歪な光。歪だけれど強烈な光。一瞬の爆発で何億光年先まで届くような強烈な光を宿した男。うちはオビトだ。
二人の力は拮抗したように見えた。しかしナルトの背後には大勢の忍達が控えていた。ナルトは一人じゃない。孤独を知っていても、決して独りではない。それがナルトとオビトの大きな差だった。モモカは忍達とナルトとを繋いだ。一本一本は細いけれど、強く願えば切れることのない糸で繋いだ。モモカがしたことは何も特別なことではない。あるべくしてそこにある繋がりを、ほんの少し結んでやっただけだ。一本一本、丁寧に、絹糸で繊細な蝶結びを作るように、優しく結び付けていく。どの結び目も代え難く、大切なものだった。
やがて全ての糸を結び終え、ナルトとオビトの魂の綱引きは、ナルトが勝った。
はらはらはらはら。
黄金色の花びらが舞い落ちる。濃密な光の中で強烈なカカシの光が煌めく。爆発的な光が過り去った後には一人の男が立っていた。
うちはオビトは、少年の顔をしてモモカの前に立っていた。真白い世界ですっくと背を伸ばし、未来への恐怖など微塵も感じさせないあの頃のオビトのままで立っていた。あの頃のオビトをモモカは知らなったけれど、間違いなく彼なのだという確信があった。
「世話かけたな」
少年のオビトは額のゴーグルをくいと持ち上げて言った。
「あともう少しだけ、世話をかけることにはなるけど」
オビトの瞳は真っ直ぐだった。その真っ直ぐさに乗せられた寂しさが酷く悲しかった。
「俺もあと少しだけ……あとほんの少し、生き永らえた命でできることがまだあるから」
照れくさそうにオビトは笑った。モモカは目に力を込めて泣くのを堪えた。
「どうしても?」
「どうしても、だ」
モモカの問いにオビトは空を仰いで答えた。真っ白い、光だけの空だ。
「あいつに必要なのは俺じゃない。リンでもないし先生でもないし、親父さんでもない。時間の止まった過去の亡霊じゃなく、未来を共に生きるあんたなんだ」
モモカは僅かに頷いた。満足そうに、それでもどこかやっぱり寂しそうにオビトは笑う。
「もし迷うことがあったら……俺が道標になるからさ」
光の世界にごうごうと風が吹き抜けて、百花繚乱の花びらが狂ったように舞荒れる。オビトの笑顔が花びらに覆いつくされ埋もれていくのをモモカはいつまでも見ていた。その姿が霞んで見えなくなった頃、少年だったオビトは大人の姿となってモモカの背後に現れた。
「火をくべるよ、きっと。あいつの元へ戻れるように」
低い声が囁き、いよいよ視界は光に奪われた。ばさばさと重なり合う花びらに埋もれ、モモカは生きとし生ける全ての者たちの尊さを想った。
この世の理から締め出されたかった者なんて、誰一人としていなかったはずなのだ。
なのに運命の悪戯なんて他人事の言葉では納得できない理不尽さでこの世の理か引っぺがされて、彷徨っている者がどれだけいることだろう。
光る花びらの吹雪が過ぎ去って、視界が開けた。
見失わないように、火をくべる。帰り道となる糸を紡ぐ。輝かしい瞬間を忘れないように人と人とを繋ぐ。
モモカには懸命に今を生き戦う者たちの姿が光となってありありと見えた。
復活するマダラと体を支配されかけるオビト。尾獣を抜かれたナルト。マダラの刃に胸を貫かれ倒れるサスケ。それでもなお、諦めることのないカカシとミナト。命を賭して信念を貫き通そうとするガイ。イザナミのループから抜け出して帰るべき場所を見つけたカブト。そして、火影を目指していた頃の自分にようやく戻ったオビト。
それぞれの思惑がぶつかり、譲れない想いが煌めき、掴み取りたい運命が交叉する。ミナトの太陽のような輝きも、危なげな蝋燭のようなカブトの揺らめきも、燃え滾る炎のようなガイの光も、強烈の星の光のようなオビトの爆発も、そして雷鳴のようなカカシの煌めきも、そのどれもが代わりのいない、美しいものだった。
こんなにも、命の輝きは美しく、愛おしい。
こんなにも諦め難く、尊い。
その全てを胸に抱くように、モモカは光を紡いだ。きらきらと光の反射する金糸が一人一人の魂を大地に繋いでいく。運命を、大地に繋いでいく。この地にまだ繋ぎとめておきたい想いがあるから、丁寧に、誰の願いも零さぬように、結ぶのだ。
こんな史上最悪の戦禍の最中だというのに、モモカの心は穏やかで、凪いだ海のようである。やるべきことが分かっていると、人はこれほどまでに一心に物事に打ち込めるのだ。逆に言えばモモカに出来ることはこれしかなかった。大切な仲間を守りたい。無邪気なあの子に笑っていてほしい。愛するあの人が穏やかに過ごせる未来を勝ち取りたい。その願いがモモカに為すべき道を示し、人と人とを繋げている。
ガイが倒れ、ナルトとサスケが復活する。輝く若き光たちは、一点の曇りなく未来を見据えていた。
カカシの左目の写輪眼を奪ったマダラは、一際強く輝いた。それは恒星が死ぬ間際の爆発のように強烈で、目が潰れるほどの明るさを伴った破壊行動に他ならなった。
そびえたつ神樹が鈍く輝く。
天を支配していた月が、地上に這いつくばる人々を見つめた。月はいつだって、こちらを見ていた。この世に生まれ落ちた時も、初めて勝利の歓喜に震えた時も、尊敬する死を無残に奪われた時も、あの人に恋した日に振っていた雨も、夢半ばに敗れた悔しさも。
急にモモカは宙ぶらりんになる感覚を覚える。守られたゆりかごから不安定な世界に無防備に放り出されたような感覚の原因は、すぐに分かった。
モモカと大地を繋ぐ糸は半分ほどに減っていた。モモカと大地を繋ぐ糸は即ち、モモカをこの世界に結び付けていく糸だ。切れた糸の先にいた男衆はさっきまで祝詞を唱えて大地に祈っていたが、今はすっかり眠りについている。無限月読の見せる、幸せな夢の中だ。
(モモカ、戻ってこい)
ルツツの声がした。一本、また一本とモモカと大地を繋ぐ糸が切れていく。
(皆、幻術の世界に飲み込まれていく――)
ルツツの声が次第に遠くなっていくのを聞きながらモモカは自分との繋がりがどんどん消えていくのをはっきりと感じ取っていた。
(じきに俺も飲みこまれてしまう――君を繋ぎとめておけなくなる――そうなる前に戻ってくるんだ――……)
ざあざあと光の花びらが舞い乱れてルツツの声をかき消していく。これがあちらの世界に戻る最後のチャンスなのだろうということは、モモカにも分かった。
分かっていたけれど、戻ることは出来なかった。鬼のような形相で、なおかつ恐ろしく美しい姿で佇む女を見てしまったからだ。女の放つ光はこれまで見てきた中で一番強く、美しく、哀しいものだった。忍の根源にある光は全て、この女から分け与えられたものだと、本能的に理解できるような圧倒的な光だった。女は人よりわずかにチャクラの扱いに長けた忍という種族の、母そのものである。
「あなただったんだね」
モモカは納得して呟いた。
この世界のからくりの糸を操る人。そして、悲しみと憎しみを生み出した哀しい人。
「ごめんね、トウキ、イクル」
モモカは誰が聞いているわけでもない謝罪を述べた。ぷつりぷつりと糸が次々に切れ、やがて最後の一本が切れた。
深く大地に沈んでいたモモカの魂は光溢れた世界に解き放たれていく。モモカ自身がそうしたのだ。
「あれだけ無茶をするなって、皆に言われてきたのにね」
モモカは静かに微笑んだ。申し訳ないという気持ちはありつつも、未練や迷い、ましてや恐怖など一滴もなかった。
舞い落ちる花びらは一層密度を増し、月は鈍色に輝く。モモカが無限月読に飲み込まれないのは、別の次元から月を見ているからか。
ずっと不思議だった。何故自分に人の心が読むことをできるのか。遥か北の大地の人々のみがひっそりと受け継いできた力を持っているのか。誰から授けられた力なのか。何の為の力なのか。
その全ての答えが、今この瞬間にあると思った。
それはきっと、愛おしい未来を掴み取るためなのだ。あの人が笑う、尊い未来を。
命は、こんなにも愛おしい。どれだけの絶望の最中にあってもその輝きは失われることはない。諦めなければ、きっと。
ずっとずっと暗闇を歩き続けたあの人の輝きさえも。
夜は明けるのだと、愛しいあの人に伝えるために、きっと私はこの力を譲り受けたのだ。