新たなまじない
青白い光が水面に反射する寒々しい洞窟の中で、カブトの放った何匹もの白蛇が縦横無尽に襲いかかる。躱す間にカブトは白蛇たちの影に隠れ、視界は蛇で埋め尽くされる。
鎧の形をした禍々しいチャクラを、イタチとサスケは同時に出した。
「それが須佐能乎だね!」
カブトの叫ぶ声に、モモカはどうにか蛇の攻撃を避けたところで必死になってその姿を観察した。おどろおどろしいチャクラは術者の意志そのままに動くようである。イタチの須佐能乎は両腕で白蛇を掴むにとどまっているが、サスケのそれは白蛇を両断していた。
「手荒いぞサスケ。殺すなというのは分かっているな!」
イタチがサスケを諫めるが、サスケは攻撃の手を緩めることなく追撃していた。白蛇は今や数えきれないほどに増え、植物の蔓のように複雑に絡み合ったかと思えば解れ、攻撃を避け、それと同時に噛みつかんと猛撃を繰り返す。
きっと、この場でうちは兄弟とともに立っているのがモモカでなければ、とっくにこの激しい攻防に付いていけずに死んでいただろう。
暗闇での戦闘は何よりも感知能力がものを言った。最強と名高い瞳術を持つうちはの二人。体温感知と嗅覚感知を高めたカブト。これらと対等に渡り合うなど不可能に思えるかもしれないが、モモカに限って言えばそうではない。虎の子の同化と、そして仙術があるのだ。
モモカは最大感度まで上げた同化と仙術によって全てを避け、時にはカウンターを合わせて白蛇に攻撃を加えもする。
モモカの常人離れした身のこなしに、柱の奥でカブトが憎々し気に舌打ちする音が聞こえた気がした。
「あんたの動きはなんだ?!」
激しい攻撃を繰り出しながらも、ついにサスケが聞いた。モモカは天井に逆さまに張り付いた状態から体を反転させて白蛇の攻撃を避けたところだ。
「私は、実は、触れた対象の思考、イメージを見ることができる」
着地したモモカに別方向から飛んできた攻撃は、両足で器用にいなすと同時に蹴り上げる。
「もうずっと前に、里抜けしたばかりの頃のイタチにあったことがある。今から、八年ほど前の話だ。そこで戦闘の中でこの能力を使い、天才忍者の思考を読んだ。攻守のパターン、敵のそれに対する何千通りもの策、体のこなし方。きっと、知らず知らずのうちに私はイタチのそれを吸収しモデルにしていたんだ。だからきっと、サスケとの訓練の中でもそれをお手本に動いていた節は、ある」
モモカは息を弾ませながらも、淀みなく答えた。サスケの質問は、なぜモモカがイタチの体術と近い動きをするのか不審に思っているからだと、その心の声から分かっていたから自然とそれに答える形になった。サスケが白蛇から目を離し、モモカを見る。今までのように殺意の籠っているものではなかった。
モモカの言葉をサスケなりに咀嚼して、そうしてようやく納得できたらしい。なぜ、うちはに所縁もないモモカが、イタチとそっくりな体のこなし方をするのか。それは奇しくも、一族最後の一人になった幼いサスケに、うちはの生んだ天才の動きを伝授することに繋がっていた。もちろん、当時のモモカもサスケもそんなことは思いもよらなかったし、イタチも、誰でさえも、平凡なくノ一である――あった――モモカを挟んだ間接的な兄弟の体術の受け渡しを予想することなど出来ようか。
話しているモモカ達にカブトの攻撃が再び飛んでくる――そこに彼の苛立ちをモモカは感じ取った――やはりモモカは彼に嫌われているのだ――。確信はないが、薄々その原因も予想が付いていた。初めてカブトと対峙した時、中忍試験の死の森での出来事だが、その時にモモカが同化でカブトの心の中を読み取り、恐らくカブトの核の部分である人物を覗いたからだ。カブトがマザーと呼ぶ人物を。
焦れたサスケが、須佐能乎の弓を射る。高速の、なおかつ威力のある一撃だ。しかもその瞳力によって動きを読んだ上で放たれた強力な矢である。なんと、カブトはそれすらも避けた。サスケは驚きに目を見開き、幽霊のように暗闇に消えるカブトの影を凝視する。
カブトは愉快そうに笑い声をあげる。決して明るい声ではなく、恨みつらみが滲み出るような、陰気な笑いだった。そして彼は自らに取り込んだあらゆる細胞について話し始める。水月の液体化できる性質、香燐のうずまき一族由来の豊富な生命力、重吾の自然エネルギーを爆発させる力――……。
「そして僕は、龍地洞の白蛇仙人のもとで仙術を修得した! 大蛇丸様をも超えたんだ!!」
邪悪な顔で笑うカブトの見た目は人間離れしていたが、自然の姿かというとそれとも違う気がした。仙術を使うと自然エネルギーを取り込み、そしてそれを修得した拠り所の仙人の姿に近くなるから、どうしてもその生き物に近くなってしまうという特性はあるが、それを差し引いたとしてカブトの姿は奇妙だ。まるで蛇とトカゲの中間のような生き物を巨大化させ、そして人間の表情と悪意で模ったようなものになっていた。
何か、くる――。
モモカがカブトの放つ邪悪な気をひしひしと感じながら警戒をしていると、不意にイタチがこちらを見た。何かを訴えるような視線に、モモカは考えを巡らせる。イタチは一体、モモカに何を伝えようとしているのだろう。
カブトの邪気がさらに強まり、モモカは彼に視線を戻す。人間離れした姿形をしたカブトの縦に切り込みのように走る瞳孔が、さっと暗転した。
(光を閉ざした!)
モモカは咄嗟に瞳にチャクラを集めた。モモカの付けている狐面は単に防護の役割だけではなく、チャクラを込めると暗くなるガラスが嵌められていることから、遮光の役割も果たす。元来はモモカの目くらまし用の拡散する雷切のための装備だった。それが思わぬところで役に立った――が、カブトの放った光は想像以上に強烈なものだった。遮光ガラスを通しても届く光は眩く、そればかりではなく、強烈な音もまた鳴り響いている。高音のけたたましい音は空気振動を起こさせ、骨の髄まで震わせるようだ。この殺人的な光と音の中において、自由に動けるのは体内を液化して振動に耐えうるカブトだけだ。
モモカは一筋の殺気を拾い取って、そちらに目を向ける。眩しい、が、狐面の遮光ガラスのおかげで全ての物体が見えなくなったわけではない。モモカはサスケに向かって飛んでいくカブトの影を捉えた。
叫んだとてこの高音の渦の中では聞こえない――モモカはカブトの背に向けてクナイを投げた。強烈な光で輪郭がほとんどぼやけ、一本の線のようにしか見えないそれがカブトに到達するより速く、イタチの須佐能乎がサスケの前に出現した。カブトは咄嗟に向きを変え、迎え撃つ須佐能乎から逃げる。逃げた先にモモカの放ったクナイが飛んでいき、カブトの右上腕をかすめ、ぷつりと、水滴程度の血が散った。
光と音の止んだ洞窟の中で、カブトは右腕のわずかな切り傷を憎々しく眺める。強烈な光と音の余韻で、視界はチカチカとしていたしまだ体の末端は震えているような感覚が残っていた。カブトはモモカに殺気を放ちながらも、イタチを観察した。
「イタチ……君はどうやらボクの居場所を嗅ぎ当てるのが上手らしい……僕のチャクラを感知できてるのかな?」
サスケを食らおうと縦に大きく裂けていた口が、カブトが喋るたびに大きく息を吐きだす。
「でもアレ……? 君はお前に操られている間って言ったはず。……なら今はボクのチャクラは感じ取れてないってことだよね。またお得意のウソでボクを騙そうと?」
神経を逆なでするような声音でカブトは尋ねた。イタチを、それ以上にサスケを煽っているのだ。大きく開いた口が妖しく笑う。
「お前のチャクラを感知できたのが俺だとは言っていない。それが出来たのは一緒にいた長門だけだ」
長門も蘇ったのか、そしてイタチといたのか。イタチの言葉にモモカは長門の姿を思い浮かべる。モモカの知っている長門は痩せて骨が浮き出た病気の老人のような体に管を繋げて、復讐のためにどうにか命を繋いでいた姿だった。その復讐のために、命を削り、燃えるように生き、そして最後は未来への希望を胸に、散っていった男だ。
「それに……今にしてもお前がどこを狙うかはハッキリしてる。なら先にそこを守ればいい」
イタチの説明にカブトは細い切れ込みのような瞳孔の目を素早い動作で瞬きする。
「君がうちは一族の中で他と違うのは本当の意味での瞳力だ……。人の心を見透かし心を読む。そしてそれを戦いに利用する。だからこそ人を騙すのが上手い……。そもそも君は嘘をつき通して死んだ。根っからの嘘つき忍者だしね」
素直に褒めたかと思えば、イタチを嘘つき呼ばわりし、サスケが歯噛みする。カブトはとことん、サスケを挑発したいようだった。相変わらずの何を考えているか読み取れない無表情で、再びイタチがモモカを見る。
「……ああ、人の心を見透かすと言えば」
ことさらに馬鹿にした声音をカブトは出した。半ば遮るように、イタチがやや声を張り上げる。
「同じ仙術と言えど、大きな違いだな」
モモカは何と言っていいか分からず、イタチを見つめ返した。同じ仙術と言ってもモモカのそれとカブトのそれは性質から大きく異なる。そして感知する、という点に関して言えば、モモカのそれはほぼ先天的なものだ。
「特別な修行を積まずとも――あるいは修行に耐えうるだけの強靭な肉体とチャクラを持たずとも――自然の声を感じ取ることができる――それだけで、他とは違う、アドバンテージになっている」
イタチの言葉に眉をしかめたのはモモカだけでなく、カブトもだった。
「……それは、僕が、そこのくノ一に劣っているって、そう言いたいのかい?」
カブトの声は明るく余裕を取り繕っているものの、確かな苛立ちが滲んでいる。
「優劣の話ではない。単なる個の問題ではなく、この“場”における、自然の全体の中での役割としての意味だ」
イタチの言っていることはとんと理解できなかった。自然の全体の中での役割――まるで、ルツツ達みたいなことを言うイタチをモモカは訝しげに見つめる。イタチはその瞳で何を見てきたのだろう。そしてこの先の何を見据えて――モモカに何を伝えようとしているのか。
「ここから、戦闘には参加するな」
イタチの指図に、思考を巡らせていたモモカはむっと口を尖らせた。カブトが唇を歪める。
「写輪眼を持ったあなた達の戦いは確かに常人離れしているけど……、でも、今のところ避けられているよ。仙術の持続時間もまだまだあるし――」
イタチが自分を戦いから下げようとしていることに気付いてモモカは反論した。カブトに決定打は与えられずとも、少なくとも足手まといにはならないはずだ。イタチとサスケの二人だけでなくモモカもいることによって、何かしらのプラスにはなるはずだ。しかしそんなモモカの訴えは、全くイタチに響いてないみたいだった。
「俺がお前に下がれと言っているのは――戦う以上の、価値や意味があると、そう思っているからだ」
イタチの言葉にモモカは言葉を詰まらせた。戦う以上の、意味? 忍である以上、戦う以外に自分の信念を貫き通す方法があるとは思えなかった。こんな大戦の場においてなら尚更、戦わなければ何も守れないではないか。カブトが鼻で笑った。彼も、イタチがモモカを退けるための方便を言ったと考えているようだった。
「あの傷も、なかなか役に立つ――が、お前のその力で、何ができる? そこにどんな意味を持たせるかは、お前次第だ」
イタチはカブトを指差す。先ほどモモカのクナイが掠めた切り傷を指しているらしかった。あんなもの、大した傷ではない。カブトにダメージを与えるようなものではない。それが役に立つだなんて、イタチはモモカを宥めているのかと、モモカは唇を噛んだ。そしてあんな些末な傷以上のできることが、戦う以外にあるだと――モモカの能力に何を期待しているのか知らないが、モモカは悔しさでじっとイタチを睨んだ。
「……分からないよ、言っていることが」
拗ねた子供のようにイタチに訴えると、イタチは小さく息を吐いた。
「分からないのなら、黙って見ていろ」
これにはさすがにモモカも傷ついた。勝手にモモカが追いかける目標にしていたに過ぎないのだが、そのイタチにようやく追いついて同じレベルで戦いに参加できると思っていたのだ。それなのにイタチはモモカをなど相手にせず、蚊帳の外に追いやろうとしている。モモカはここでは、誰にとっても関係者ではなく、ただの他人だった。
「ははは、イタチの言うことは尤もだ……。君じゃ役不足だよ。まあイタチをもう一度操り人形にしてサスケ君を手に入れた後、君はこの場にのこのこやって来たことを後悔させるくらいには痛めつけて殺してやるから、大人しく指を咥えて待っていなよ」
モモカが仲間外れにされたことが、カブトには嬉しいようだった。彼は嬉々としてモモカを外そうとする。イタチを睨んでも彼がもうモモカを見ることはなく、何を言っても無駄らしかった。
サスケの須佐能乎による攻撃を皮切りに、再び激しい攻防が繰り広げられた。モモカはとうとう手持ち無沙汰になって、すごすごと脇の大きな鍾乳洞の傍まで引っ込んだ。
うちは兄弟と仙人モードのカブトによる桁違いの戦闘をモモカは恨めしい気持ちで睨むように観戦する。悔しさと情けなさで泣きたくなるくらいだった。
イタチは自分を過少評価している、とモモカは思った。今ここで見ている限りでも、モモカはこの戦闘には付いていけると、モモカ自身そう信じて疑っていない。
腰を下ろして、まるで余所者の風体で戦闘の行く末を見守っていると、何故だが先日のナルトの寝顔が思い出された。鉄の国からの帰り、マダラと遭遇して寝込んだナルトをサスケとサクラの元へ連れていく直前のことだ。あの時も今みたいにじっと佇んでいた。あらゆる雑音に耳を傾け、自然の声を聴き、そして自らの心の声にもまた耳を澄ませていた。悔しさを押し込んで、あるがままを見つめて、聞いて、感じられる全てを感じていると、目の前で繰り広げられる激しい戦闘は、見えない膜一枚を隔てた別の世界で起こっているみたいだ。
戦う以上の、価値。
イタチの言葉は体よくモモカを追い払う方便にしか聞こえなかった。激しさを増していく戦闘に意識を集中させながらもモモカは目を閉じる。注意して見ているのに、見ない。相反することをしていると、ことさらに色々なことが感じられた。戦闘による地響きのような振動。青臭い地底の匂い。鍾乳石の先から垂れ落ちる水滴の奏でる音。激動するチャクラの流れ。憤怒の影。自分が何者でもないという、途方もない寂しさ。
次第にモモカはふわふわとした心地になって、意識を開放した。下がって戦闘を観戦している立場とは言え、なんと無防備なことだろうか。いつ凶悪なチャクラの矢が飛んでくるかも分からぬ状況で、胡坐をかき、目を閉じ、あちこちに意識を向けているのだ。いや、モモカが意識を向けているのはあちこちでもあるし、自分の内でもあった。自らの奥へ奥へと沈んでいくようでもあるし、はたまた大気中にモモカの存在を解き放ち紛れ込ませているようでもあるし、実に不思議な感覚だった。頭の片隅では、これにのめり込みすぎてはいけないと自覚しつつも、どこか心地よい感覚になかなか止めることは出来そうになかった。
やがて閉じた瞼の裏に一筋の光る糸が見えた。糸はきらきらと輝きながら本数を増やし、幾重にも重なり、解れ、次第に複雑な形状を形作っていく。地面からはこれまた光り輝く草が生い茂っていた。モモカは最早、自分が目を閉じているのか開けているのかすらも分からなかった。今見えている光景が現実なのか、判断ができない。洞窟の中のはずなのだが光る花びらが天から降り注ぎ、辺り一面を埋め尽くす。
(戻ってこれなくなる――)
モモカは意識を研ぎ澄ませることを続けながらも、どこか冷静な部分がそう考えていた。
やがて、白い狐が何匹もモモカの脇を通り過ぎていく。発光する狐たちの行く先を見ていると、光の花や草木が入り乱れる景色の中で、光る物体が忙しなく動いているのに気が付いた。それは三体あり、眺めているとイタチとサスケ、それにカブトなのだということが分かった。あるいは、彼らの魂と呼ぶべきものかもしれない。ピンと張りつめた、美しくも恐ろしい力強い光はイタチだ。煌々と照る月のような、絶対的な美しさと無慈悲さがある。激しく怒りを高ぶらせている噴出する火花のような光はサスケだろう。そして全身から湯気のように細かな無数のミミズ状の――いや蛇か――にょろにょろとしたいくつもの歪な生命の光を立ち上らせているのはカブトだ。よくよく意識を研ぎ澄ませてみると、三体の光の他にも横たわる一体の光があった。カブトとどこか似ている歪で危うい光――それはみたらしアンコのものであると、モモカは自然に理解していた。
モモカは先ほど同様、三人の戦いを見ているのだ。しかし見えている光景がまるで違う。何故なのか。イタチの高潔な魂の輝き、サスケの尽きることのない怒り、カブトの彷徨う心、岩場の影に隠されたアンコの弱った息遣いまでもを感知できた。目で見ているのではない。けれど、視える。まるで別の次元から覗き視ているような――……。
イタチの光がカブトの光に何かを仕掛けた。全てをさらけ出してしまうような光がカブトを満たしたけれど、光はカブトの光の芯を捉えられず、影を作る。影の中でカブトから立ち上る無数の蛇のシルエットが蠢く。カブトの光はこの世の理から外れ、大地の脈動に反している、とモモカは感じた。
(ならば導いて、もどしてやればいい……本来の、あるべき流れへ――)
モモカはカブトから立ち上る輝く蛇たちが全て、イタチの光に飲み込まれる様を思い描いた。この空間を満たしている幾重にも折り重なった光の糸がカブトの光を包み、そしてモモカの思った通りにイタチの光の中に入る。空から降りしきる光の花びらはより一層激しく、地面から生い茂る草木は密度を増す。光の糸はやがて絡まり合いながら太い螺旋を描き、カブトの光はその中をぐるぐると廻る。螺旋を描きながら天に昇っていけるように見えるが、糸は縺れ、廻るほどに再び元の地点へ戻ってしまう。
イタチの無慈悲な月光のような光は柔らかさを滲ませ、サスケの迸る憤怒の光は落ち着きを取り戻していた。
光に溢れ空間にいよいよ意識が肉体から乖離していたモモカは、自分の左手を掴む感覚に唐突に引き戻された。
眩暈のような感覚が一瞬だけして、しかしすぐにモモカの意識は現実を向いていた。急に血の気が戻ってきたからか、じんわりと手先が痺れていた。眩い光の花びらや生い茂る草はなくなっている。
モモカの左腕を、イタチが掴んでいた。考えていることが何も感じられないのは彼が死体だからか。
「……戻れなくなるぞ」
イタチは彼にしては珍しく、まじまじとモモカを見つめている。
――――戻れなくなる。モモカは急に心臓がひゅるりと縮む思いがした。
先ほどまでの光溢れた光景は夢のように消え失せ、元どおりの現実の光景が広がっていた。イタチの後ろでは怪訝な顔でサスケが成り行きを見守っている。さらにその背後には、地面から生えたようにカブトが佇み、微動だにしていなかった。
イタチがモモカの左腕を離し、汗が洞窟の風に冷える。死体のイタチが汗をかくわけがないから、モモカの汗だろう。
「……カブトは?」
モモカは尋ねた後で、まずはお礼を言うべきだったと思い至った。しかし声を出すのが酷く億劫だった。イタチは全く気にもせず、カブトを振り返る。
「イザナミにかけた」
「……いつ仕掛けた?」
聞き返したのはサスケだった。カブトは相変わらず銅像のようで、ぴくりともしない。
「カブトが最初に俺をその刀で刺した時だ」
イタチは無防備な様子でカブトに近づく。
「しかしどうやって? 視覚じゃない瞳術とはどういうことだ?」
「イザナミは自分と相手、二人の体の感覚によってハメる瞳術だ」
サスケの問いにイタチは術の説明をした。その原理は難解で、特に寝起きのような鈍重な頭の今のモモカが咀嚼するには非常に困難であったが、掻い摘んで言うと、行動の中の任意の一瞬を繋ぎ合わせることで、その間に起きたことを永遠にループさせるというものらしい。恐らくこれでも簡単に説明しているのだろうが、モモカに理解できたのは無限ループを作っているということくらいだった。
「ループ……だから、螺旋を描いて……」
先ほど見ていた光景を思い出しながらモモカは呟いた。説明を聞いているうちに頭の重さはいくらかましになったものの、体は怠かった。
あれはやはり夢ではなく、本当のことだったのだ。ただ見えていた次元が違うだけで、モモカは確かに、何重にも折り重なった光の糸が作る螺旋にカブトが飲み込まれるのを見ていた。
イタチとサスケが眉を寄せてモモカを見つめる。こうして見ると、二人はよく似ているとモモカは思った。
「なぜだ……」
苦々しいサスケの声には驚きが含まれていた。
「写輪眼を持っていない……というか、共体験によって術をかけるのならばそもそも視覚は関係なく、二人の間の共体験を見ることなど不可能なはずだ……」
「……見ていたのでは、ないのだろう」
イタチが言葉を挟む。モモカはどこか熱っぽい頭で考えた。確かに、見ていた。けれど、見ていたのではない。感じていた。どの感覚器官が感知したのかは分からないが――。そうだ、まるで別の次元から、薄い膜を隔てて見ているようだったが、あれは見ていたのではないのか。あの次元に、見るという言葉以外近い言葉はないから、そう表現せざるを得ないだけだ。
「しかし分かったはずだ」
考え込んでいたモモカは顔を上げてイタチを見つめる。
「あまりにそちらに意識を向けすぎれば……丸ごと、その世界に移動してしまう。現に物理的な刺激を与えただけは全くお前は気付かず存在が薄くなりかけていた――。万華鏡写輪眼によってどうにか連れ戻せたが、あと少し遅れていたらそれすら不可能だった」
モモカは目を見開く。てっきりイタチに腕を掴まれたことで引き戻されたのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。ちょっとやそっとでは戻れないのだ。イタチの強力な写輪眼があったから良かったものの――次はどうなるか分からない。
「人智を超えたことだ、本来すべきことではない。……使いどころを、見誤るなよ」
モモカは頷く。モモカもよく分かった。あの世界に没入しすぎると、帰ってこれなくなるのだということを。
モモカが重い体を起こして立ち上がる合間に、イタチは手早くカブトを幻術にかける。今度は目と目を合わせて、紛れもなく写輪眼の瞳術による幻術だ。
「穢土転生を解除する」
「なら兄さん……あんたも……」
兄弟の会話にモモカが口を挟むことはもうしなかった。カブトのかけた穢土転生を解除するということは、転生の死人は全て消えるということだ。もう、ここから残りの時間は、兄弟の時間だ。
まるで病み上がりのような重い体を動かし、モモカは横たわるアンコの傍まで歩く。顔には血の気がないが、まだ生きていることはかすかに上下する胸を見れば分かった。その傍らに腰を下ろして、モモカは悲劇の兄弟の最後を見守った。
イタチはカブトに向き直り穢土転生を解除するための印を結ぶ。サスケは兄に向け何事かを言っている。少し離れたモモカに聞こえない程度の大きさの声で、感情が高ぶっている様子もない。だがその悲しみはひしひしと感じた。
イタチが印を結び終えると、イタチの体から一筋の光が立ち上る。モモカが先ほど別次元から見ていた光の光景とどこか重なるものがあった。ぼろぼろと剥がれ落ちていく魂が塵となって風に散らされながらも、イタチはサスケに近寄った。その額を寄せ、そしてサスケに別れを告げた。愛の言葉とともに別れを告げた。これまで呪いのようにサスケを縛り付けていた言葉――「俺を憎め。醜く生き延びろ」――それを解き放ったのだ。
そして新たなまじないをかけた――……。
そのまじないは何人にも塗り替えられない強力なものである。
「お前をずっと愛している」という、まじないだ。