まだそのことを知る由もなかった
腹部をまさぐられる感覚にモモカは目を開ける。
柔らかな銀髪がモモカの頬辺りに触れて、くすぐったさに目を瞬く。その男は悪びれもせずに目を覚ましたモモカを見つめていた。
なあに? と体を起こそうとして、それは叶わなかった。まるでチャクラを全て使い切った時のように体は重く、自由が利かない。金縛りにあったみたいに、頭はクリアなのに指先すらも動かすことはできなかった。
そんなモモカの状況を分かっているのかいないのか、カカシは口布を外すとモモカに口付けた。柔らかなそれが触れて、離れ、目が合った男の瞳には燻る熱が確かに宿っていた。
ドキリと、モモカの心臓が一鳴りする。
再びカカシがモモカに口付ける。啄むように何度も何度も、唇の感触を楽しむように口付ける。やがてだらしなく開いたモモカの口にカカシの舌が侵入してきた。温かい。そして男の欲望の生々しさがねっとりと滲み出ている。生温かく質量のあるそれに翻弄されているうちに、カカシの右手はモモカの下着の中に入り込み、妖しく優しく臀部を撫でまわした。直に触れられることでうっとりするような快感の波が押し寄せ、モモカの脳内で中毒性のある危険な成分を放出する。壊れ物を扱うかのように優しく撫で、時には強く押し付け、時には触れるか触れないかのもどかしさを繰り返し、じわりじわじわと快感の波を徐々に確実に昂らせていく。
右手はモモカの下半身をまさぐったままで、カカシはいよいよモモカの上に体重を預けた。口付けていた唇がやっと離されたかと思うと首筋をべろりと舐め、更には鎖骨の辺りを甘噛みする。びりびりと快楽が鎖骨から伝わり、脊髄を伝い、脳を痺れさせる。鎖骨から、カカシの艶めかしい舌は下へ下へと伝い、やがて乳房に到達した。モモカは期待と不安と快楽に身を委ね、ただただなすがままになっていた。重く伸し掛かるカカシの体に、その圧迫感に、力強い腕に、どれだけ忍として強くなったとてこの男の前では自分はただの女であり、なんの成す術もないのだという事実を思い知らされる。ただ翻弄される身体はこの男にもうすぐで食われるのだという予感に、モモカの心臓は歓喜に打ち震えていた。
カカシの右手はいよいよ最奥に辿り着き、湿り気のあるその場所をこじ開けた。侵入を許すことで初めて、そこがどういう状態なのかをモモカは知った。カカシの指の節々が、やけに敏感に感じられる。
「っあ、ああ」
ようやく発したモモカの声は驚くほどに快楽にのまれており、また、世界にそれだけの音しかないかのようにやけに響いた。それと同時に落下する重力を感じてモモカはがくんと体が大きく揺れてハッとする。
急激な落下の感覚はモモカに外気の冷たさを思い出させた。冷たく湿った空気が肺を満たし、代わりに吐き出す息は白い。
先ほどまでモモカに覆いかぶさっていたはずのカカシは、隣にいた。カカシの肩に頭を預ける形でモモカは目を見開いて、荒い息をしている。心臓は早鐘のように鳴っていて、何が起きたのか全く理解できなかった。
頭を起こすとカカシの肩に密着していたこめかみのあたりがじっとりと汗をかいていた。ほとんど明かりのなくなった暗い洞窟の底では、もう物体の輪郭をなぞることは難しい。隣のカカシを恐る恐る見上げると、カカシは目を閉じていた。
モモカは理解した。自分が見ていた卑猥な光景は夢だったということを。
瞬間的に顔中が熱を帯びた。ほとんど間を置かずに、無情にもカカシの瞼がゆっくり開く。
知っていた。夢もまた共有できるのだ。今モモカが見ていた夢、その中で感じていた快感、すべてをカカシもまた共有しているはずだ。それが分かっていた。だからこそモモカは恥ずかしさでどうにかなる思いがした。
果たしてその夢はモモカが見たものかカカシが見たものか。発端はどちらなのか今となっては分からないけれど、確かに二人はあの卑猥な夢を共有したのだ。
モモカがことさらにその確信を強く得たのは、モモカの瞳を覗き込んだ現実のカカシが、夢の中と同じ熱をたたえてこちらを見つめ返していたからだ。目覚めたばかりで虚ろなはずのその瞳は、奥底に欲情を覗かせていた。
あ、と思った時にはカカシがモモカに覆いかぶさっていた。モモカがつまらない言い訳をする暇なぞ与えずに、その唇を押し付けた。柔らかな感触は夢の中そのままだった。だが、隙間からねじ込まれた舌は、その味は、夢よりも遥かにリアルで生々しかった。
喰われる、そうモモカは直感した。この男の前では自分は果てしなく女で、抗いようのないものを秘めているのだ。カカシの唇がモモカの唇から離れる。そしてそのままに首筋にかじりつく。
「、う、あ」
堪らなくなって声が漏れた。夢の中で発したそれよりもずっとずっと、現実的で無慈悲な響きを持っていた。全身で受け止めるカカシの重量に変わりはない。生温かな、生きた舌の感触に、離れたそばからひやりと空気に触れる首筋に、自分のものだかカカシのものだか分からない快楽の渦にモモカは飲まれていった。
私はここで、この男にくわれるのだ――……。
モモカがそう確信した直後、耳たぶに噛り付いていたカカシが大きく息を吸い込んだ。そしてなんと、彼は硬い岩肌にその額を打ち付けた。
鈍い音にモモカは呆気に取られる。目を瞬いていると、カカシが今度は深く、深い息を吐いた。何度もカカシは深呼吸を繰り返す。モモカの心臓は皮膚を突き破らんばかりに鼓動していたが、カカシのそれも負けず劣らず脈動しているのが分かった。
どくどくどくどく。二つの心臓が、各々に、収縮を繰り返し血液を送る。
女だ。自分は紛れもなく女だと、実感せざるを得なかった。そして薄暗くじめじめとした洞窟で密着して抱き合う二人は、ただの男と女だった。
「……はあー、」
カカシのため息にすらびくりと反応してしまう体が憎らしい。モモカはじっとりと触れ合う皮膚の生々しさを殊更に感じ取って、密着しているその箇所から溶け出してこの地の鍾乳洞を形作る成分の一滴になってしまうような感覚に陥った。
しかしカカシはモモカの期待の滲んだ恐怖とは裏腹に、力強い腕でその体を離す。モモカを見つめる瞳の奥に燻る熱を感じこそすれ、その色はすでに冷静そのものであった。
「さすがに今は……まずいからなぁ」
カカシが何でもないような口調で言った。前髪をかき上げた額には薄っすら汗が滲んでいて、やはりまだ、艶めかしい。
「う、うん……、うんっ」
モモカは馬鹿みたいに頷くことしか出来なかったが、裏返ったその声をカカシが馬鹿にして笑うことはなかった。カカシは一粒の丸薬を丸飲みすると、モモカにも一粒取り出して見せた。
「興奮を鎮める薬だ。効能は瞬時的なものだから、地上に上がるころには通常通りに戻っているだろう。……どうする? 飲んどくか?」
モモカはまたしても頬に熱が集中するのを感じた。それはカカシがモモカに欲情していたのだというのが紛れもない事実だったと認識したからであり、また、モモカもまた興奮していたのだと、カカシがまるっきり知っていたみたいだったからだ。
モモカは控えめに頷き、カカシの掌の上に乗った小さな丸薬をつまみ上げると口に含んだ。がりり、一噛みする。苦い。丸薬は非常に苦かった。苦味の奥には癖のある香草の強い香りがあった。清涼感のあるそれは鼻から広がり、モモカの胸いっぱいを満たす。
次に深く息を吸った時には、先ほどまでの興奮の波が漣のように引いて、凪いだ心がそこにあった。なるほど、確かに、瞬間的に興奮を抑える効能は確かなようだ。しかしそれは喫煙者が煙を吸い込む程度のもので、持続するような代物ではないことは体感的に理解できた。むしろ、興奮を無理に鎮める作用が長続きするのであれば、それは戦場に戻った時に命取りになりかねない。
二人はしばらく、何も言葉を発さずに岩壁に頭を預けて、薄暗い天井を思い思いに眺めていた。先ほどまでの欲情の漣が引いて、気まずさだけが残っている。汗が冷えて、やけに寒かった。
ちらりと、カカシを窺い見ると、彼はいつもの困った表情で笑った。
「生命の危機が訪れると性欲が強くなるって、よく言うしな」
確かにモモカも聞いたことがある。生命の危機を感じると種を残そうとする本能が働くのだとか。モモカはその言葉の意味をよくよく考えて、そしてカカシがモモカの返事を期待しなくなった頃に、ようやく口を開いた。
「……死なないよね?」
囁くようなその声に、カカシは一瞬言葉を詰まらせる。しかしすぐに口元を綻ばせた。それはいつもの困った顔ではなく、彼がどこか遠い昔に置いてきたような、悪戯っ子の少年の顔そのものだった。
「死なないよ。モモカを抱くまで、死ねないさ」
モモカは虚を突かれ、またしても頬を赤くさせた。よくも抜け抜けと、そんなことが言えるものだ。全く、この男には、どこまで行っても敵わない。
「……うん」
小さく返事をすると、カカシはますます悪戯坊主の笑みを深める。
「死なないでよ。絶対絶対、絶対だからね」
半ば自棄になって、モモカは言った。カカシはモモカの鼻の頭を、長く美しい人差し指で優しく小突く。
「ああ、死なないさ。……モモカも、だからな」
モモカの目を真正面から見つめて、力強くカカシが言った。こんな視線をカカシから向けられるのは初めてかもしれない。いつも飄々として、何かを諦めたような、常に一歩引いて俯瞰して物事を見ているようなこの男が――今は自分だけを見つめているのだ――。
モモカもまた、力強く頷いた。
ぱらぱらと頭上から砂状の欠片が落ちてきて、モモカとカカシは遥か高い天井を見上げる。
よく見知った気配が騒いでいるのを感じる。今やわずか針の先ほどにしか見えない薄ぼんやりとした遠い明かりの中で、何かが動いた。揺らぐ影が人であることも、ましてやそれが誰の顔であるかも到底判別できるようなものではなかったが、それが紛れもなくトウキとイクルのものであることはモモカには分かった。勝手知ったるその気配に、懐かしさすら感じたほどだ。
頭上の米粒ほどの気配は、ちょこまかと動きまわり、何かしらの対応をしているらしかった。
「イクルの忍鳥が下りてくるか」
カカシの言葉にモモカは感心する。その通りだったからだ。同化の力のような超常的な察知能力があるわけではない、特殊な金属で感覚を共有しているわけでもない。それなのに、こうも全てを見通すような言動には舌を巻く。彼の今まで積み上げてきた忍としての経験と、何より生まれ持ったその類稀なる嗅覚によって、判断をしているのだ。
トウキとイクルらしい気配が一瞬遠ざかり、再び現れ、モモカを引っ張り上げる算段を立てているうちにカカシはモモカを引き寄せ抱きしめた。
それは強く抱きしめるものだから、カカシがいつものように同化による読む能力を拒まずに、全てをありのままさらけ出しているのだということに気が付くのに少々時間がかかった。力強く暖かな腕の中、モモカは眩いほどのカカシの鼓動に聞き入っている。まるでカカシの血潮がモモカの中にまで流れ込んでくるような力強さだった。
(モモカ)
(モモカ)
(大切なんだ)
(失いたくない)
(他の何にも代え難い)
(一緒に暮らそう)
(この戦いが終わったら)
(ともに、未来を生きてほしい)
溢れ出る思いが、ダイレクトに伝わり、チカチカと眩い星がいくつも流れた。そしてこの星屑こそが未来への希望であり、いつかこの先の幸せの形であり、とめどないカカシの想いなのだ。モモカは泣きそうになるのを堪えた。しかしさしたる努力はせずとも、モモカの瞳から涙が零れることはなかった。
ずっと追い続けてきた男。背中ばかり見てきた男。強く、美しく、その目に映るもの全てを命を懸けて守ろうとし、その一方で自身に差し伸べられた救いの手は、一切掴もうとしない男。贖罪の道を自ら選んで孤独に歩む男。
その男が今、未来を見ていた。モモカと共に歩み、生きていく覚悟を見せたのだ。もしかしたらその覚悟はとうの昔にできていたものかもしれない。しかしここまで開けっぴろげに、包み隠さずにもモモカに見せたのは、初めてだった。
生きよう。
モモカは強く自分に誓った。この男と、共に生きよう。何があっても、生き残るのだ。
身体を離したカカシは柔らかく微笑んでいたから、きっとモモカの想いは伝わったのだろうと思う。
やがて大きな鷹が一羽、そして鷹を先導する形で梟が舞い降りてきた。カカシがモモカの手を取り立ち上がる。二人は鷹の脚に掴まり地上まで浮上した。
(生きる)
(生き残るんだ)
(何があっても)
(そして二人で、暮らしていこう)
モモカが彼の心の全てありのままを同化で読み取ったのは、これが最後であった。だがもちろん、この時のモモカはまだそのことを知る由もなかった。
(一緒に)
(どうか、一緒に)
(今を生きて)
(永久に、)
(君と)
(今度こそ、あの金糸の意味を)
(伝えたい)
(そして、)
モモカはすぐ近くにあるカカシの顔を見上げた。頭上を見据え、既に戦闘の心構えと切り替えができている顔だ。
次にゆっくり話ができるとき――終戦後になるだろう――ようやくカカシにもらったミサンガの、その中に編み込まれた金糸の意味を聞けるのだ。
モモカは深く息を吸い、わずかな光が差し込む頭上を真っ直ぐに見つめた。