真っ暗な里の外へ、再び駆けだした
モモカ達クリキントンは任務に明け暮れる日々を過ごした。イクルの忍鳥で大雑把な位置を割り出し、トウキの築いた人脈で情報を収集し、モモカの同化能力で地中に気配を探る。ゼツという生き物は動物よりもむしろ植物に近く、最初その気配を探ることには苦労したが、ひとたびその気配に気づくと実におぞましいものであった。得体の知れない生物が数多く地中に息を潜めているのは気味の良いものではない。
本音を言えば、地中に潜んでいるそのひとつひとつを駆逐して回りたかった。だが今それをしてしまえば、モモカ達の溜飲が下がったとて、敵にこちら側がどこまで地中の刺客について把握しているかを伝えることになり、結果としては不利な状況を作ることになってしまう。モモカ達クリキントンはそれを重々承知していたから、じっと堪えて、ただただ情報を収集することに意識を集中させた。それはまるで目の前で沸いている蛆虫を見て見ぬ振りをするような心地悪さだった。
クリキントンの仕事はゼツの把握だけではなかった。動きの怪しいカブトの動向を探ることもまた命じられていた。こちらの気配を悟られないよう細心の注意を払いながらもカブトの痕跡を追うことは想像以上に骨の折れる作業だった。こちらは主にイクルの仕事ではあったが、極力目標に近づいての調査となるとモモカの仙術がものを言った。
そんなことだから、クリキントンの活動範囲は実に広かった。里を離れていた期間に比べれば些末な距離ではあるが、東西南北に飛び回り目まぐるしく日々は過ぎ去っていく。三人一緒に連れ立っての行動もあるが各々が全く別の地に調査に出ることもあり、きっと、これまでの試練や里を離れて過ごした孤独な日々がなければ到底こなせないであろう任務内容と行程であった。それを思うと、綱手という火影は案外そこら辺のさじ加減が上手いのかもしれない。あれだけ人をまとめ上げることに向かないような言動をしておいて、その実、個々の性質や生い立ちに気を配りギリギリ遂行できる任務を割り当てているのだから大したものである。
報告の為に月に一度、運が良ければ三度、里には帰れている。基本的には各々が一人で報告に行くことが常だった。年が明けて、七草粥も終えて、年始の気配も薄れてきたころにモモカは三度目の報告に来ていた。
一度目の報告の時にはカカシには会えず。二度目である前回は会えたものの挨拶程度の言葉しか交わせず。三度目の今回、里に留まっている時間がほぼ丸一日もあり、なおかつカカシの都合も付いたのは幸運と言えよう。
深夜に里に付いたモモカは翌午前の早い時間に綱手への報告を終える。昼前の長閑な里を歩いているとカカシに声をかけられた。どうやらモモカが里に戻っていることを誰かに聞いて、わざわざ行方を辿ってきてくれたらしい。聞くとカカシも夜間任務明けで、つい先ほど帰ってきたところだという。
二人は五丁目の定食屋の開店とともに入り、遅めの朝食をともに食べた。お互いの近況を報告し合い、店を出る頃には既に日が高く昇っていた。
「俺も夕方まではフリーなんだが……如何せん、シャワーを浴びたい」
埃っぽい髪を撫でつけながらカカシが言った。
「また合流したいけど……モモカも一回家に帰るだろ?」
モモカは少し考えて首を横に振る。
「ううん、昨日帰ったし、カカシさんの家に一緒についてくよ」
カカシは二回、瞬きし、頭を掻いた。
「……あ、そ」
カカシの家に着いて、モモカは今更ながらに緊張感を覚えた。何度か訪れたことのある部屋ではなく、ペイン襲撃以降に建てられた新しいアパートだ。カカシではない他人の家の匂いがして、まだ何もない殺風景な部屋ではあるけれど、先日の会話が思い出されたのだ。
“俺も男なわけで……、男が好きな子と触れ合って考えることなんてたかが知れているわけで”
簡易的なバスルームからはシャワーの音が聞こえる。とりあえず汗を流したいと、カカシがシャワーを浴びているのだ。手持無沙汰でがらんとしたカカシの部屋に座っているとどうも居心地の悪い思いがした。
ガチャリとバスルームのドアが開く音がして、カカシが鼻歌混じりで出てくる。その力の入っていない気楽さにモモカはホッとしたが、石鹸の匂いが心臓に熱をもたらしたのも確かだった。
帰宅前に立ち寄った商店で購入したお茶を二人分コップに注いでくれて、カカシは卓袱台の前に腰を下ろす。家を空けることが多く、冷蔵庫もやはりほとんど空なのだそうだ。
「ホント、何もないけど」
カカシは苦笑してお茶と一緒に買った煎餅を机の上に出した。相変わらず手持無沙汰なモモカはそれをいただき、ようやく落ち着く心地がした。
「大戦前ってこんなもの?」
忙しさを指して言っているのだろうが、モモカの言葉は時折、足りないことがある。
「んー……、いや」
素直な質問に少しカカシは考えて頭を振った。
「そもそも戦に心構えや準備期間なんてないよ。いつだって突然やってくるもんだ。特に手足となって前線で戦う忍にとってはな。今回が特殊なだけだ」
カカシの答えに、モモカは黙り込む。これまで散ってきた命に想いを馳せて、少し暗い気持ちになった。
「ま、今度の大戦がかつてない大きなものなのは間違いないけど……逆を言えばこれだけ準備期間がある。不幸中の幸いってやつかな」
「……へえ」
あっけらかんと言い放つカカシに何と相槌を打てばよいか迷った末、モモカは中途半端な返事をした。
「不安?」
「え? ううん、そういうわけじゃないけど」
「そうか」
すぐさま否定してみせたモモカにカカシは軽く笑う。馬鹿にしているわけではないのだろうが、この男にはモモカの言動のひとつひとつに笑う節があった。
何か気の利いた言葉を返そうとモモカが思案しているうちに、カカシの左腕がモモカの腰を通り越しすぐ脇に手を付いた。石鹸の匂いがより強く感じられ、あ、と思った時にはカカシがモモカに口づけていた。柔らかなそれが離れて、モモカはカカシをじっと見つめる。
何で笑ったの? そう聞こうと思って、口を開かないうちに今度は右の頬に口づけられた。次いで左頬、額、こめかみとキスが降り注ぎ、モモカも次第に頬が緩み、終いにはクスクスと笑い出す。
それはある種子供の戯れのような無邪気な触れ合いだった。親から子にするような、はたまた年端も行かぬ子供同士がくすぐり合うような、そんな爽やかな親密さと笑いが溢れるようなひと時だ。頬から額、瞼、こめかみへと楽しむようにキスを落とすカカシにモモカは朗らかに笑う。
そして、カカシのキスがうなじに一片落ちた時だった。
陽だまりのように朗らかに笑っていたモモカの体を電流が走り抜ける。カカシの柔らかな唇が触れたうなじから脊髄を通り、脳天を直撃し、その一方で枝分かれしたものは仙骨の辺りで拡散して散った。
「、あ」
それは文字にしてみれば単なる一つの音だった。しかしモモカの脊髄を走り抜けつむじの真ん中から発せられたその音は紛れもなく色を帯び、媚びたような甘ったるい響きを伴っていた。子供のような戯れと、無邪気に綻んでいた笑い声とは明らかに異なる種類の音にハッとなったのはモモカ自身だった。
まるで自分のものではないような声が発せられたその口のままで、そろりと顔を上げる。驚いた顔で自分を見つめる男と目が合った。艶のある声が自分から出てきたのに気づいたのと、目の前の男が驚きながらもその瞳の奥に確実に熱を帯びた何かを秘めていたのを確認したのは同時だった。そして次の瞬間にはモモカは弾かれたように立ち上がり、部屋を飛び出していた。
しばし呆けていたカカシは少し遅れて追いかけて玄関ドアを開ける。真新しいアパートの外通路の角のところに、モモカはしゃがみ込んでいた。真っ赤になった頬を外気で冷ますように、じっと佇んでいる。
「あの、ち、ちがうの」
カカシの近寄ってくる気配にモモカは言い訳じみた声を出した。先ほど自分から出た声が信じられず、心を落ち着けようと必死だった。実際の経験はなくても色任務に出たことだって何度もある。その内容だって、知っている。しかしまさか、実際の経験のない自分からあんな色を秘めた――有り体に言ってしまえば破廉恥な――声が出たことがたまらなく恥ずかしく動揺していた。
「うん、分かってる。大丈夫だから」
ごく普通の、落ち着いたカカシの声にモモカはゆっくりと振り向く。その表情も平素と変わらなかった。一体何が分かっていて、何が大丈夫だと言うのだろうかと、モモカは少し恨めしい気持ちになった。
「とりあえず、寒しさ、中に入らない? 風邪ひくよ」
濡れた髪のままのカカシを見上げてモモカは控えめに頷く。本当はまだまだ動揺していたのだが、ここで変に反論してもかえって自分の子供っぽさを露呈するだけなのは目に見えていて、渋々頷いたのだ。
冷たい外気に急速に湯冷めしたのか、部屋に戻るなりカカシは着ていた薄いシャツの上からもう一枚トレーナーを着こんだ。まだ頬は熱いのに、やはりモモカも首元が寒くて一つくしゃみが飛び出る。
「あはは、ほら」
カカシは軽く笑ってくれたが、モモカは情けない気持ちになった。カカシはスカスカの押し入れから厚手のカーディガンを取り出し、モモカの肩にかける。カカシの匂いに包まれてモモカは俯いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
床に腰を下ろすと、カカシはいつもの小説を取り出して読み始める。先ほどのことを全く気にしていない素振りも、重ねた服も、全てがモモカを気遣ってのことのように思えた。モモカは自分がこんなにも幼く未熟ではないはずだ、と唇を噛んでカカシの正面に座り込んだ。片膝を立てて座る彼のすぐ近くに腰を落としたものだから、その懐に入るような形になった。
さすがにカカシは驚いた顔をして、本からモモカに目線を移す。
「あのね、ちがうの」
おずおずと、先刻と同じ言葉をモモカは繰り返した。
「確かにびっくりはしたんだけど、決して怖いわけではなくて、外に出たのは気持ちを落ち着かせるためで、逃げ出したわけじゃないの」
じっと熱を込めてカカシを見つめると、彼は頷く。
「うん、分かってるよ」
彼も同じ言葉を繰り返した。それが少しモモカには不満だった。
「……本当に分かってる? だから、私が言いたいのは、私だって子供じゃないし……あの、もう逃げ出さないってことなんだけど」
暗に、続きを促しているのだが、この言葉を絞り出すのには大層勇気がいった。モモカにとって、この手の話をカカシとするのはこの上なく恥ずかしいからだ。それでも、カカシがモモカに遠慮して少しでも引いてしまうことがないように、きちんと言わなければいけないと思った。だから、言った。
「うん」
カカシの端的な返事にモモカは唇を尖らせる。本当に、モモカの言っていることが伝わっているのか疑わしかった。何か続く言葉を探していると、カカシが徐にモモカの頬に左手を添えた。
「隈、出来てる」
突然触れられた大きな手に身構えてしまった自分を恥じながら、モモカはその言葉の意味を考えた。そして彼はモモカに寝るように促しているのだと思い至る。
「平気だよ」
ムキになって言い返すモモカに、またカカシは笑った。そして触れた左手をモモカの腕に伸ばして強く引き寄せるものだから、モモカはカカシの胸の中になだれ込む形になった。
密着しているモモカを、カカシは強く抱きしめる。
「また今度な」
抱きしめられたままで言われた言葉にまた熱が上がるのをモモカは感じた。反論しようとしてモモカは顔を上げる。優しい瞳で自分を見つめるカカシと目が合って、何も言えなくなってしまった。モモカは黙って頷く。
カカシもまた、夜勤明けだということをようやくモモカは思い出していた。モモカの自分勝手な我儘で振り回していいような人ではないことを、突き付けられたような気がしてより一層惨めになる。そんなモモカの心の内さえも見透かすようにカカシはモモカを抱きしめたままでその頭を撫でた。子ども扱いしないで、などは到底言えなかった。
カカシの前で自分は未熟な女であると、まざまざと思い知らされた。それでもモモカの頭を撫でるカカシの手は余りに労りに満ちていて、心地よかったのもまた事実である。これまでの任務の話を言い訳がましく、しかし心から聞いてほしいという思いでモモカは語る。次から次へと言葉が溢れて止まらなかった。相槌を打つカカシの低く穏やかな声と温かな体温は実に心地よい。次第に自然と瞼は重くなり、どんなに虚勢を張っていても折り重なる任務の疲労は如実に表れていた。カカシの腕の中で、モモカは迫りくる睡魔に抗うことが出来ずに瞼を閉じていた。
次に気が付いた時、太陽はすっかり沈んでいてモモカはやってしまった、と数時間前の自分を責めた。
「ん、おはよ。もうそろそろ起こそうと思ってたとこだよ」
カカシは既に身なりを整えて本を読んでいた。壁掛けの簡素な時計を見れば彼があと小一時間で里を発たねばならないことが分かる。
「俺は先に出るよ」
モモカがのろのろと準備しているとカカシが声をかけた。カカシはかちゃりと金属音を立て、鍵を渡す。冷たい硬質なそれをモモカは怪訝な顔で見つめた。
「モモカはもう少し時間あるだろ? 戸締りだけよろしく」
黙って頷き、モモカはひやりと冷たい鍵をそっと握る。何もない家とはいえ、プライベートな部屋をモモカに委ねたことが、想像以上に嬉しかった。カカシは満足げに頷いて、ちょっとお使いに行く程度の軽さで部屋を出る。その気軽さとは正反対の、きっと重要な任務であろうことはモモカは十分分かっていた。
カカシが発った後の部屋で、モモカは大きく伸びをする。あんな接近した後で、男女として次のステップへ進むせっかくのチャンスだったというのに、モモカはすっかり眠りこけてしまったのだ。つくづくもったいないことをしたと今になって思う。しかし熟睡したおかげで疲れは取れ、頭もスッキリとしていた。結果としてしっかりと休息が取れて良かったのだろう。それは同じく夜勤明けであったカカシも同様だ。「また今度な」というカカシの言葉を不意に思い出しモモカは一人赤面する。また今度、とは一体いつだろう。
寝起きの準備運動がてら軽く部屋を掃除し、次帰ってきた時にすぐに休めるように寝具を整え、わずかしかないゴミをまとめ、そうして部屋を出た時にはすっかりモモカの気持ちは上向いていた。カカシの腕の中で熟睡できたことで心身ともに回復してエネルギーに満ち溢れていた。
「……よし」
気合を入れるように呟くと、モモカは玄関のドアを開ける。底冷えする里はもう暗く、新しく建てられた家々には明かりが灯っていた。深く息を吸い込むと夜の匂いと、どこかの家から夕飯の匂いがして、新しい日々の営みがこの地で始まっているのだと感じる。
モモカは真っ暗な里の外へ、再び駆けだした。