何人にも断ち切ることのできない絆が
ナルトが倒れた。過呼吸だった。
カカシがその身体を支え、背中をさすってやる。それと同時にチャクラを流し込み自発呼吸を促す。その早業と処置はさすがだ。医療忍術とまではいかないが、こんな器用な真似ができるのか――つくづく、何でもこなしてしまう男だ。次いでヤマトが手に持った何かを嗅がせた。薬草の一種らしく、ナルトの呼吸が落ち着いていく。
モモカとて、それなりに修羅場は潜り抜けて何度か生死の境を彷徨ったりもした。咄嗟の処置だって心得ている。しかしそのモモカでさえも、この二人の処置の速さの前ではただ見ているだけでしかなかった。
「ナルトの傍にいてやってくれないか」
イクルや――あるいはトウキであっても、きっと、モモカよりは上手くやるんだろう。一定の呼吸を繰り返すナルトの横顔を眺めながらぼんやりと考えるモモカは、カカシの低い声に顔を上げた。カカシが窺うようにモモカを見ていた。
モモカは静かに眠るナルトとカカシを交互に見て、すぐには答えない。カカシはサイの影分身とともにサクラを追いかけ早まったことをしないよう止めに、ヤマトはナルトと里に帰るように話していたところだった。
「……私も――」
「ナルトの傍に、いてやってくれ」
再度、カカシは言った。モモカは一つも納得いってなかったけれど小さく頷く。カカシのそれは命令ではなくあくまでお願いで、モモカにそうして欲しいと本当に思っていることが分かったからだ。
「……気を付けて」
少し不満を滲ませてそう言えば、カカシが笑う気配がする。カカシの顔を見ても笑っていなかった。けれど確かにカカシは口布の下で綻んでいたのだと確信して、モモカは目を瞬いた。
カカシはモモカの頭に手を乗せる。またこれか――子供扱いのようで――しかしモモカは存外これが嫌いではない――……。だがいつもと違い、カカシはモモカの頭に乗せた手をぐいと力強く引き寄せた。モモカの頭はカカシの胸にすっぽりと収まり、右の腕に包まれていた。一気に鼓動が強く速くなる。
「モモカにしか出来ないことが、あるだろう」
カカシの匂いをめいっぱい吸い込んで気が動転しているモモカに、カカシが低い声で囁いた。じんわりと頬を熱くさせながらもその言葉の意味を考える。カカシの体はすぐに離れた。ヤマトが口を半開きにさせて間抜けな顔で、サイの影分身は常と変わらぬ無表情で、カカシとモモカを見ていた。モモカは慌ててカカシと距離を取り、自分の足のつま先を見つめる。
「そ、そろそろ行かなくてはいけないのでは」
しどろもどろで言うモモカに、ヤマトも我に返ったかのように咳払いをした。
「……あーそうですね、カカシ先輩、ここは僕らに任せて、そろそろ」
カカシは頷き、サイを見る。サイは窓から飛び立ち、カカシも未練など何もないかのような軽やかさで窓から出て行った。開け放された窓からは冷えた外気が吹き込み、モモカの熱くなった頬を冷やす。
残ったヤマトとモモカは、身体の傷に加え心労の溜まったナルトが十分に休息を取ってから里に帰ろうということになった。雪は依然降り続いている。今はまだ熟睡しているものの、目を覚ました時にカカシ達を追いかけサクラの元へ行くなどと無理をさせない為にも、ヤマトとモモカは順番にナルトを見張ることとした。
ヤマトは古くからカカシと付き合いのある忍だという。カカシとの関係について何か聞かれるかもしれないとモモカは内心身構えていたが、彼はもの問いだげな視線を向けこそすれ、直接何かを尋ねてくることはなかった。
布団に寝かされたナルトはわずかな寝息のみで、実に静かに眠っている。時折苦しそうに眉根を寄せるのは悪夢を見ているのだろうか。腰かけた古い畳からは埃っぽい匂いがした。窓は結露で曇っているうえ、この天候のせいで座ったモモカの目線の高さからでは真っ白にしか見えない。しかし南に面するこの部屋は、照明を付けなくても厚い雲を突き抜けた鈍い明かりで、さほど暗くはなかった。
“友としてできることを”
先ほどの風影の言葉を反芻する。カタカタと、風に窓が揺れた。
(友として、か)
モモカは窓の外からナルトに視線を戻す。友が闇に堕ちていくのを止められないのは何と歯がゆくもどかしいだろうか。仲間が、その友を殺すというのだからどれ程苦しいだろうか。果たして、モモカがナルトの立場だったらどうしていたかな――。
自分だったら――。
モモカはもたれかかる壁に体重をかけたせいで段々と浅くなっていた腰を浮かせ、座り直す。
“モモカにしか出来ないことが、あるだろう”
カカシの先ほどの声が頭の中で響く。
そういえば、自分は、里抜けをしたのだった。他人事のようにモモカは思い出す。
犯罪者として監禁されていたイクルを連れ出し、同盟国でもない他里に潜伏しているトウキの元へ、行ったではないか。
モモカは自分で自分が可笑しくなってしまった。ナルトが寝苦しそうに身じろぐ。額に滲む汗を手ぬぐいで静かに拭ってやった。ナルトの硬い金色の髪が汗で額に張り付いている。モモカは急に愛おしい気持ちが溢れて自身の左手首のミサンガを撫でた。もう三年も付けたままだからさすがに薄汚れてきてはいるけれど、決して千切れることはなく、光にかざせば今もその中に一筋の金糸が輝く。この金糸の持つ意味を、未だカカシに聞けていない。
(友ではなく、もしあの人なら?)
モモカは立ち上がり、窓を開けた。雪の勢いは激しいわけではないが地上に届く光はどんどん薄くなっていく。湿った冷たい空気が肺を満たし、吐く息は白い。新鮮な空気に、頭がクリアになっていくのを感じた。物事は、きっと、そう複雑ではないのだ。
モモカは、カカシが闇に堕ちたとして追いかけていく。嫌われても、憎まれても、泣きじゃくってでも、這ってでも、追いかけて、その頬を叩いて、そして腕を取って、無理やりにでも光の下に連れ出すのだと、それだけは断言できた。
「私にしか出来ないこと……」
しんと静まり返った部屋でひっそりと呟く。
寒さが堪えるのかナルトが小さく呻いた。モモカは窓を静かに閉めると、ナルトの布団を肩の上までかけなおしてやる。眉間に皺を寄せているものの、生命力溢れる生き生きとした肌の力強さやあどけない面影はあの頃のままだ。逞しく成長したけれど、悪戯坊主だった頃のナルトがもはや懐かしい。今になって思えば、モモカのしてきたことの何と可愛げのないことか。下忍になる前から度々里を抜け出し好き勝手にやり、納得のできないことにはいつだって噛みついて、里の上層部に歯向かうことも厭わない。あまつさえ、今も、自分たちのやりたいことは里の枠組みの中では為し得ないと、飛び出してきている身だ。
「私にしか、か」
モモカは一人綻んだ。物は言いようだ。どんなにも変わっても、変わらない根っこの部分をカカシが指摘したことが、なんともむずがゆかった。
(何度振られたって、あの人を諦めなかった私だもの)
ナルトが薄く目を開いた。まだ夢現なのか、ぼんやりとして焦点は定まっていない。
「諦めの悪さなら、負けていないでしょう」
モモカは少年から青年に変わりつつあるその寝顔に微笑んだ。
「交代の時間だ」
部屋の外からヤマトの声がして、モモカは最後にナルトの額にそっと手を添える。朦朧としたナルトと目が合った。
「私は下にいるからね」
モモカはナルトから離れ、ヤマトが襖を開けた。襖もやはり古く埃が舞う。人当たりは良いがヤマトの視線は間違いなく抜け目ない忍のそれであった。
「ナルトは何度か唸っていましたが、変わりなしです」
現状を報告し、モモカはヤマトと入れ違いで部屋を出る。ヤマトはナルトの枕元まで近づきその顔色を確認すると再び部屋から出てきた。いくつかの印を結ぶと、部屋の前に腰を下ろす。室内ではなく廊下で見張りをするつもりらしい。それはかえって、モモカにとって――いや、モモカ達にとって、都合が良かった。
「おねがいします」と会釈をするとモモカは階段を下り一階の客室に入る。ナルトの寝ている真下の部屋だ。
腰を下ろし、モモカは手持ちの忍具を畳の上に並べた。小サイズの手裏剣が十二枚、中サイズに手裏剣が五枚、起爆札が二枚、兵糧丸が一つにクナイが三本、うち一つは、特性のクナイだ。
「――カカシ先生は――」
上階から聞こえた声に耳を澄ませる。
「サクラを止めに――」
「あちらは先輩に任せて君は僕らと里に帰るんだ――」
「――分かってるってば――」
「もう少し休んだら帰るってばよ――」
会話を終えて、ナルトが布団に潜り込む気配がした。モモカは天井を見上げる。この部屋は二階ほど日が入らず、薄暗い。モモカは目を閉じた。何段階か明度を落としたこの部屋で置物のようにじっと座っていると、色々な音が聞こえてくる。寒風が戸を叩きつける音。遠くのお勝手で炊事をする従業員の出す雑音。何かを削り取る、乾いた規則的な音。
モモカはより一層肩の力を抜いて、しかし意識だけは集中して静かにチャクラを練った。刃を研ぎ澄ますかのように、静かに、練った。
カリカリカリ――……。
様子を窺うように時たま音は止まり、また始まる。出口は、もうすぐそこだ。そしてその出口がやっと、スタートラインだったりするものだ。
カリカリカリ――……。
少しずつ、しかし確実に音は近づいてくる。パラパラと砂状に削り屑が目の前に落ちて、ようやくモモカは目を開けた。
天井に空いた穴から降りてきたのは、上階で横になっていたはずのナルトだ。
やっと通れるサイズの穴を、ヤマトに悟られないように削り取った彼は、しかしモモカを目にして狼狽えた。見張りの目を出し抜いてやっと抜け出せたと思ったらモモカがいたのだから、その驚きと落胆は想像に容易い。
モモカは唇に人差し指を押し当て、騒がないようナルトに促した。
「行こう」
モモカが言う。その口調は静かで穏やかだけど、目は生きる気力に満ち溢れキラキラと輝いている。まるで太陽光を反射した水面のようだった。
「行くって――どこへ――?」
ナルトは声を潜めて聞き返す。
「ナルトが行こうとしていた所だよ。仲間の元へ」
モモカは一旦言葉を区切り天井に視線を向けた。ヤマトの気配は変わらず二階の廊下にある。いつ抜け出したことがばれないかと肝を冷やしていたナルトは「とりあえず出よう」というモモカの申し出に安堵した。
二人はそっと民宿を抜け出し、雪深い森の中で立ち止まる。
「俺は仙術でサクラちゃんたちを捜すつもりだってばよ」
暗に邪魔をしないでほしいと含んでナルトは言った。モモカの肌は雪の中において殊更に白くつるりと滑らかで、鼻先は寒さのせいか赤い。目だけは、野生の獣の力強さを帯びている。彼女の小さな口が、白い息と共にナルトの背を推す言葉を吐く。
「それよりも、もっと確実で速い方法がある」
問いただすような視線をモモカに向けると、彼女の瞳はより一層の輝きを放った。
「ナルト、助けに行こう。大切なものを守るんだ」
その瞳の輝きを見れば、自分を里に連れ戻す気はないのだとナルトにも分かった。
「いいのか? 俺を見張っとけって言われたんだろ――カカシ先生に」
ナルトが問うと、モモカは大きく息を吸い、華奢な胸を膨らませる。
「私にしかできないことが、あるからね」
怪訝な顔をするナルトにモモカはけらりと笑った。
「大丈夫、昔っから規則なんてものは歯牙にはかけないし、大人の言うことなんて聞かない、自分たちの思ったことを、枠に嵌らずにやり遂げる――――そういう悪ガキだって。私たちは、そうなんだって、そのカカシ先生が言っていたよ」
悪戯っ子の顔で無邪気に笑うモモカを、摩訶不思議なものを見るような目でナルトは見つめる。ナルトのイメージのモモカとは随分違った――彼女は実力のあるくノ一で世の中の理をよく弁えていて冷静で――いや、そういえば彼女は仲間を連れだして里抜けをしたのだ――きっと本来の彼女の姿は、こちらなのだろう。
「私が力になるよ」
力強いモモカの言葉は今の心細いナルトにとって何よりも有難かったし、頼もしかった。胸の内に光が差すようだ。
「でも、どうやって?」
モモカも仙術を扱うことはナルトも聞き及んでいるが、仙術よりも速い探索と移動の術が何なのか見当は付かない。
「君のお父さんの得意忍術だ」
モモカの言葉にナルトはさらに首を捻った。こんな問答はからきし苦手だった。螺旋眼が思い浮かんだけれど、違うだろうということは流石にナルトでも分かる。
「仙人モードの時と同じように、自然と一体化するように、私に“同化”して。一緒に飛ぶよ」
モモカはナルトに手を差し出す。ナルトは意を決してその手を掴んだ。モモカはもう片方の手で大振りのクナイを頭上にかざす。どんな忍術かなんてナルトの知識じゃ皆目分からないけれど、彼女の向かう先が、ナルトの希望の先でもあるのだということは、本能的に理解した。
腹が決まったナルトの表情を確認してモモカは頷く。
「それじゃあ、行くよ――」
目も眩むような、光だった。
いくつもの光の筋が、回る天球の星の道筋の如く通り過ぎていく。太古の昔から、連綿と続く生命の鎖のように、流れていく。誰もがここに存在することは無意味で、何の価値もなく、その一方で何よりも尊いものだと語り掛けてくる。
眩い光の筋を何千何万と見送り、ナルトは気が付いた。結局のところ、誰も彼も他人で、この広い世界のごく限られた時代の中でたまたま出会ったに過ぎないことを。そこに意味や絆を見出すのは人間のおこがましい勘違いだということを。しかし、そこに何の意味はなくとも、意味を作ることはできる。誰の意図もないからこそ、思うがままに、繋がれる。手を握っていられる。諦めないで、その絆を手放さずにいられる。
幾つもの白い獣が真っ暗なナルトの足元を駆け抜けていく。明かり一つない漆黒の闇の中において、不思議とその獣は白く発光していた。ナルトの腹の底の何かが――いや――誰かが、低く唸る。獣の駆けていく先を見やればモモカが走っていた。ナルトを導く不思議な光だった。何にも屈することのない力強い瞳。曇ることのない魂の輝き。あらゆる心の声に耳を傾けることのできる不思議な力。しかしその力とて、いつかは返す時が来る。そのいつかが、どれくらい先の未来かはなど想像もつかないが、今この時は、間違いなくナルトの傍に寄り添って、柔らかな月光のように心の内に射し込んでいた。
道標のようなそれが猛々しい気配を伴ってきたので、ナルトは前方を見つめる。
サクラがいた。カカシがいた。そして、サスケがいた。愛すべき全てが、そこにはあった。
ナルトは一息吸い込み、瑞々しい自然のエネルギーで肺を満たす。地を蹴り一足飛びで彼らに近づくと、サクラをその腕に抱いた。彼女を貫こうとしていたサスケの攻撃は、モモカの両腕によっていなされる。
だがサスケのクナイの切っ先がナルトの頬を掠め、血液の玉粒が飛び散った。
予想だにしていなかったナルトとモモカの突然の出現にも関わらずサスケがカウンターを合わせて反撃してきたのは流石うちはの血と言えた。大きな石造りの橋から弾ける飛沫が視界を遮っても、サスケの殺意は鈍らない。クナイの右払い、突き、裏拳、右蹴り、からの踵落とし――モモカはその全てを紙一重で、しかし確実に避けた。
(こいつの動きは何だ――)
(昔から気に障る)
(この動きは――)
(身のこなし方は――)
(イタチに重なる――)
(うちはに縁もゆかりもないこんな奴が)
(目障りなんだよ――!)
サスケの苛立ちを肌で感じながらも、モモカは後ろに大きく飛び退いて距離を取る。橋から落下した水の流れにずぶ濡れになりながらもサスケから目を離さずにその一挙一動に刮目した。小雪の中の刺すような水温に思わず息が止まりそうになる。空いたサスケの鳩尾にすかさず、カカシの拳が入った。サスケは大きく吹っ飛び石造りの立派な欄干に打ち付けられそうになるも、空中で体を捻りどうにか受け身を取り体制を整える。サスケの蹴った橋の一部がぱらりと崩れた。
ナルトとサスケ、そしてカカシの三竦みの状態が須臾の間訪れる。ようやくモモカは落ち着いて周囲を見渡し、サクラがサスケに仕掛けた忍具の残骸と、蹲る女を認めた。香燐というサスケの仲間の女だが、血みどろで重症を負っている。サスケの体が地面に辿り着き、荒く水しぶきを上げた後に声を発したのはカカシだった。
「俺以上にいいタイミングだよ……ナルト。お前まで来るとは思わなかったけどとにかく助かったよ」
嘘ばっかり、とカカシの言葉にモモカは苦笑する。ナルトに抱きかかえられなければ殺されていたであろうサクラと眼を酷使したカカシの状況を見れば確かに窮地であったことには間違いない。しかしカカシは半ば確信していたはずだ。ナルトがここへ来ることを。ナルトを連れ出すのがモモカであることを。だが、途方もないサスケの憎しみの闇にそれが甘い考えであったと、今は思っていることが、モモカには伝わっていた。カカシの落胆を肌で感じ取り、思わずモモカは身震いする。
「あ、ありがと……ナルト……」
ナルトの腕からそっと地面に下されたサクラは悲しみと驚きの入り混じった表情で礼を述べた。彼女は今しがた、サスケによって命を絶たれるところだったのだ。
「サスケ……サクラちゃんは第七班の仲間だぞ」
ナルトの声には只ならぬ怒りが滲んでいた。
「元……第七班だ……俺はな」
サスケが意地悪く口の端を歪める。その瞳は真っ黒の闇で、憎しみ以外の何も映してはいなかった。ナルトが一歩二歩、サスケに近づく。
「ナルト……前にも言ったはずだ。親も兄弟もいねえてめえに俺の何が分かるってな……」
サスケは上から余裕綽々に物言う態度を一変させて、殺意の限りを込めてナルトを睨み上げた。
「他人は黙ってろ!!!」
その殺意に怯むことなくサクラが睨み返す。
「ナルトはどんな想いでサスケくんを……! どんな悪いことを耳にしても仲間だって思ってた!」
しかしサクラの訴えなどまるで聞こえていないのか、サスケは大層愉快そうに笑ってみせた。
「さっきだ、さっきやっと一人だけイタチの敵を討てた。木の葉の上役……ダンゾウって奴だ」
モモカは眉を寄せる。あのダンゾウを殺したのか。少し離れた位置に立つカカシからも動揺が伝わってきた。
「今までにない感覚だ。汚されたうちはが浄化されている感覚。腐れ切った忍世界からうちはを決別させる感覚。ある意味お前達木の葉がずっと望んできたことだ。昔からうちはを否定してきたお前達の望み通りお前達の記憶からうちはを消してやる」
次第にサスケは興奮とともに大きくなる声を抑えることなく、さらに邪悪な笑みを深める。その眼の危うい光は麻薬に侵された末期患者のそれに似ていた。
「お前たちを、木の葉の全てを殺すことでな! 繋がりを全て断ち切ることこそが浄化! それこそが本当のうちはの再興だ!」
歓喜に満ちた表情で叫ぶサスケに、サクラもカカシも何も言えなかった。この世の憎しみ全てを具現化したサスケは止まらない。きっと、彼を支配する憎しみと同じだけの強さを持った覚悟と絆でなければ、止められないのだ。カカシの直感は正しかったかもしれない。
ナルトだけは憎しみの化身の真っただ中を正面から捉え、徐に印を結んだ。影分身が数体現れたがカカシがそれを制する。カカシはカカシなりに譲れないものがあった。数えきれないほどの後悔を味わってきた彼だからこそ、憎しみの歴史の積み重ねが作り上げたサスケを誰よりも理解していたし、解放させたかった。その役目はサクラはもちろんナルトにさえ重く、未来永劫続く苦しみと業を背負わせることを分かったうえで彼らに手を下させる気などさらさらなかった。
「カカシ先生それってば……サスケを殺すってことか……?」
ナルトの問いかけにカカシは答えない。代わりにモモカに目配せした。ナルトを止めろということだろう。一瞬の視線の動きでその意図を汲み取れるほど、今のモモカはカカシのことが理解できていた。
だが、それでも。
「お前たちはここから消えろ……行け……」
ナルトとサクラにそう言い、カカシは臨戦態勢を取る。
しかしサスケに向かっていくことは敵わなかった。ナルトの分身が後ろから羽交い絞めにしたからだ。カカシが驚きに大きく目を見開く。モモカはカカシを助けることはせず、飛び出さん勢いのサクラの体を押さえていた。ナルトの本体がサスケに向かって走る。足元の水が跳ね飛ぶ。モモカは三年前の、砂のバキを殺そうとしてしかし木の葉の上忍達に抑え込まれた時のことを思い出していた。あの時とは逆の立場でサクラを捕まえている。しかしその心の内は、身を焦がすほどの憎しみでも、やりきれない悔しさでもない。ナルトの切り開く未来を、ただただ信じていた。
ナルトの右手には螺旋眼。サスケの右手には千鳥。いつかの病院屋上での一幕と全く同じ技で、二人はぶつかり合う。けたたましい音と水が弾け飛び、目も眩むような光が周囲を覆った。
鼓膜を破きそうな勢いの音が破裂したにも関わらず、刹那、辺りは静寂に包まれる。それは人体が感知できないほどのごくごくわずかな瞬間である。それにも関わらず、この場にいる誰もが、その静寂の瞬間を確かに認知していた。
溺れそうになるほどのチャクラの濁流の後、ナルトとサスケはずぶ濡れでにらみ合っていた。お互いの全てを知り尽くし、なおかつお互いの全てが許せない目をして立っていた。
「前に話したことがあったよな。……一流の忍びなら……ってやつだ」
ナルトは瞬き一つせずにサスケを見据えて口を開く。
「今ではお前の心の内が手に取るように分かる……その憎しみも……。俺らが一流の忍に
なったってことかもしんねえ。お前も分かったろ……今俺たちが本気で戦えば――二人とも死ぬ」
二人がぶつかり合ったことで弾け飛んだ水は細かい霧状になって以前周囲を湿らせていた。ナルトの髪は水分を含んでキラキラと輝き、サスケの漆黒の髪は長く湿った夜そのものだった。モモカに押さえつけられたサクラが息を飲み、彼女の桜色の髪からもまた水滴が滴った。
「憎しみをぶつけるのなら……まずは全部俺にぶつけろ。木の葉を狙うのはその後だ」
寸分たりともサスケから目を離さずにそう告げるナルトは、長い夜の果てに昇る太陽だ。モモカはそうはっきりと感じた。
「お前と一緒に、俺も死んでやる」
ナルトの言葉にサクラの肩は小刻みに震えていた。唇を噛み締める彼女の顔は蒼白で、モモカは思わず彼女の肩に回した手に力を込める。
「なんで……」
低く唸るサスケの目は憎しみに満ち満ちていて、歯ぎしりの不愉快な感触までが響きそうだ。
「なんでお前はそこまでするんだよ!」
吠えるサスケに、ナルトが目を逸らすことはなかった。
「友だちだからだ」
ナルトの断固たる思いに、サスケは何を思っただろう。モモカはサスケの瞳に光が差すのを見た気がした。それはトウキと再会した時のイクルが見せた瞳の輝きと酷く似ていた。しかし一瞬後には、それが見間違いだったのだと思わざるを得ない闇がそこには広がっていた。
カカシがぴくりと動く。彼にしか感知できない何かを感じ取ったみたいだ。次いで、モモカもその気配を感じ取る。
音もなく、匂いもなく、ともすれば影すらもなくサスケの背後に現れたのは仮面の男だった。
「……マダラ」
モモカの小さな呟きにサクラは怪訝な顔をする。
「戻って体を休めろと言ったはずだろ」
マダラは心底呆れた声でサスケに言った。サスケはマダラに一瞥もくれることなく、ナルトを睨み続けている。荒い息に肩を上下させる姿に、モモカは久しぶりに人間らしいサスケを見たとも思った。
「いいだろう……まずはお前を殺してやる……」
サスケの吐き出した言葉はどんな忍術より強い呪いだ。それでも、ナルトは陰ることのない瞳でサスケを見つめていた。冷たく湿った空気がサスケのナルトの頬を撫で、サスケの髪を揺らす。
皆が運命の二人に刮目する中、モモカはカカシを見た。カカシは険しい顔をしている。だけれど、何故だろう。その顔が穏やかに見えるのは、どうしてだろう。
カカシもまた、モモカを見た。二人はじっとりとした湿度を伴って見つめ合う。
モモカは気が付いた。教え子の窮地にも、世界の危機にも、カカシの瞳が揺らぐことがないのは、まさしく、未来を見ているからだ。贖罪の孤独な道を歩んできた彼が、絶望にふさぎ込んだ自分の内でも、現実とかけ離れた空想の中でもなく、確かな光を見ている。その光をもたらしたのは、彼が諦めずに歩んできたこれまでの道と――そして、彼の教え子が、決して諦めることなく、顔を上げて走っているからなのだ。
ナルトとサスケが飛び散らした水滴が拡散し、ようやく乾いた風が吹き抜ける。マダラがサスケを連れ去った後の空をカカシが見上げる。サクラが見上げる。そしてナルトが見上げる。
三者三様、抱く想いは違えど、何人にも断ち切ることのできない絆がそこにはあった。