既に夜の匂いを含んでいた
カカシに再び会ったのは、下忍承認試験から1か月半が過ぎた頃だった。
訓練の疲れを癒そうと、木の葉の湯という大浴場のある銭湯の帰りだった。ここのところ、訓練後に木の葉の湯で汗を流すのがモモカの楽しみであった。
夕日に光る銀髪は目立つはずなのに不思議と街に溶け込んでいた。ズボンのポケットに両手を入れてやや猫背で歩くその姿に、モモカは胸が高鳴った。
「カカシ先生!」
見間違いじゃないことを再三確認してから、声をかけた。
カカシはすぐに振り返り、声の主であるモモカを見た。少し首を傾げてきょとんとしているようにも見える。
「カカシ先生、こんにちは」
近くまで寄ってから、モモカは頭を下げた。
「えーっと……」
元々困ったような、間の抜けた表情をするこの男だが、本当に困っているようであった。どうやら、モモカが誰かを思い出そうとしているらしい。
「あの、さとりモモカです。えーっと、鈴取り演習でお世話になりました」
あの下忍承認試験をなんと説明したらよいかとっさに思いつかずに、モモカは“鈴取り演習”と称した。
数秒、戸惑いの空気とともに沈黙が流れる。
「あー、あの時の」
ピンと来たらしいカカシはスッキリとした表情をした。そしてすぐに、申し訳なさそうに眉を下げる。
「思いっきり殴っちゃって、悪かったね。怪我の調子はどう?」
「もうすっかり良くなりました」
自分のことを覚えていてもらえたことにモモカの心は踊り、自然と笑みがこぼれる。
「カカシ先生がだいぶ手加減してくださいましたし」
モモカの言葉にカカシは明後日の方向を向いた。
「いや、まあ……その通りなんだけど、まあ、ね」
要領を得ないカカシの反応にモモカは首を傾げた。頭をかく頼りなさげなカカシの姿からは、先日の演習中のあの力強い姿が嘘のようだ。
「ひとつ聞いてもいいかな」
「はい」
カカシの問いにどぎまぎしながらモモカは頷いた。
「君のチームメイトのあの子、何て言ったかな……違う違う、ほら、背の低い方の……、そう、イクル。彼の左胸には何があるの?」
やっと名前を思い出したカカシの質問は思いがけないものだった。
「彼のお家の宗教上の理由だとかで、変な鉄板を左胸のポケットにいつも入れています」
モモカは正直に答えた。しかしこれは本人から聞いた話ではない。ふいにイクルに触れた時に同化の能力で得た情報だった。もちろん不審がられるわけにはいかないのでイクル本人には確認していないが。
表情は変わらず、しかしカカシを取り巻く空気が柔らかくなった気がした。
「へえ、そうなんだ」
自分から尋ねた割にはカカシはあの無関心そうな、飄々とした顔をしていた。
なんと答えたらよいか、モモカがカカシを見上げるとカカシはモモカの頭に手を乗せた。心臓がギューッとなって、色々な感情が溢れた。その中にモモカのものでない感情が紛れている。
“君は仲間を傷つけようとしたわけじゃなかったんだね。それが分かって良かったよ”
その表情とはまったく裏腹の、カカシの思いが伝わってきて、しかしカカシはそれを口にすることなく、ポンポンと頭を撫でて手を離した。
「じゃ、お大事に」
背を向けて歩き出したカカシをモモカはしばらくぼうっと見つめていた。
カカシはあの演習で、イクルにクナイを投げたモモカに対して少なからずとも嫌悪感を抱いていた。
しかしそれはモモカがイクルの胸に鉄板が入っているのを知っており、下忍合格という自己の利益のために仲間を傷付けようとしたわけではない。イクルの鉄板によりクナイが弾かれると確信を持っていたのだ。
カカシがいつ鉄板のことに気付いたかはわからないが、モモカの思惑を知り、モモカの人となりに対する誤解が解けて、それどころかその思いがけない賢さに感心すらしていた。
これがモモカの頭を撫でたカカシの手から、無意識に同化して得たカカシの心の内だった。
モモカとしては、仲間を平気で傷付けるような人間だと誤解されていた歯がゆさと、しかしその誤解が解けたことに対する安堵と、頭を撫でたカカシの手の温もりに対するよく分からない気持ちがごちゃ混ぜになっていた。
別れ際にもっと気の利いた挨拶をすれば良かったとモモカが思い至ったのは、家に着いてからだった。
それからも三人は訓練に打ち込み、それぞれトウキは体術を始めとする得意な近距離戦を、イクルは中〜遠距離戦を、どちらも突出した能力のないモモカは平均的に、力を伸ばしていった。
毎日早朝の涼しい時間から始め、午前に30分の休憩と、昼に1時間の休憩とそしてまた午後にも30分の休憩を入れるだけで、きっかり16時まで毎日真面目に訓練に励んだ。
もちろん家に帰ってからも各々自主練を欠かさず、へとへとになるまで時間をめいっぱい訓練に使った。週に一日は軽い基礎トレーニングだけと座学や戦略的勉強の日も設けた。
モモカは同化能力のおかげで相手の攻撃を読む速さは素晴らしかった。だがそれに対応できるだけの身体能力がないと何の意味もなさないことを、日々強くなっていくトウキとイクルとの組手で痛感していた。だからこそ、一人の時は基礎トレーニングを欠かさなかった。
さらに4カ月が過ぎたが、そのうちカカシに会ったのは3回だけだった。
1回目は週に一度の座学の日、三人缶詰していた図書館からモモカが一人気分転換で甘味を買いに出た帰りだった。
カカシ先生。その言葉を飲み込んだのは、向こうに連れがいたからだ。ガタイの良い――名前は失念したが――髭を生やした熊のような、確かカカシと同じ上忍の忍とともに歩いていた。平日昼過ぎの、メインストリートから1本離れたこの道はそれでもそこそこの通行量があった。
三人分の団子を抱え、モモカが声をかけようかとためらっているうちにカカシがこちらに気が付いた。道と道の端で、距離は5m程離れているがこちらに顔を向けたカカシに言いようのない気持ちがこみ上げる。
目が合い、モモカは会釈をした。カカシは手をあげ答える。
それだけで、良かった。
声は聞こえないが、連れのガタイの良い上忍が誰?と尋ねているらしい様子が伺えて、何となく気恥ずかしくなってモモカはその場を立ち去った。
次にカカシに会って―――というか、見かけたのは梅雨の合間の蒸し暑い日であった。
この頃、木の葉の里では里を揺るがす大事件が起こっていた。
うちは一族の虐殺事件だ。
この事件は里中の忍に大きな衝撃を与え、一時里内は混乱し一中忍である父親も慌ただしく業務に追われていた。
下忍未満のモモカ達もうちは一族に関するニュースを何度か話題に出した。一人生き残りの少年がいること、そして事件の首謀者はその少年の兄であることが更に事件に悲劇性を与えていた。
モモカは事件の二週間後、この日の三人での訓練を終え、夕飯前に流す程度の走り込みを一人していた。
火影中央棟の東口前を通ると、カカシが他四人の忍と立ち話をしていた。
周囲は中央棟を始め役所関係やら教育施設やら建物が点在し、帰宅の者が数多く歩いていた。その流れの中で不自然ではない程度に立ち止まりモモカはカカシを見つめていた。他の忍も中忍以上、いや恐らく雰囲気からして皆上忍だろう。
モモカの汗が地面に滴り落ち、シミを作る。真面目なその顔は仕事の話をしているらしかった。忍達は皆難しい顔をしていて、モモカはもう、うちはの事件をあまり気にすることはなくなっていたが、まだまだ木の葉の忍達に与える影響は大きいのだと感じる。
終ぞカカシがモモカに気付くことはなく、モモカは少し名残惜しく思いながらもロードワークを再開した。
三回目に会ったのはトウキとイクルと、三人一緒の時だった。この頃は蝉が盛んに鳴き、夏も真っ盛りだった。
三人は午前の訓練を終えてお昼を食べに里の中心地に上って来ていた。
誰よりも早く、モモカはカカシの姿に気が付いた。今日は一人だった。片手をポケットに入れて道の向こうから歩いてくる。この猛暑の中でも、相変わらず左目と口元は隠し、しかしその顔は涼しげだ。
「げっ」
次いでトウキがカカシに気付いて声を上げた。下忍承認試験で足蹴にされて以来、トウキはどうもカカシのことが気に入らないらしい。トウキの声にイクルも何事かとキョロキョロとした後、カカシの姿に気が付いた。
「どうもこんにちは」
声の届く距離まで来て最初に挨拶したのはイクルだった。彼はやはり育ちの良さというか、こういうところがしっかりしている。モモカも挨拶をする。トウキはそっぽを向いていた。
カカシは今初めて気づいたというような顔で三人を見た。
「おや、三人連れだって修行ですか」
カカシの問いにモモカとイクルははい、と答える。
「精が出て良いことだ。その調子で頑張りなさい」
教育者としてはもっともらしいことを、いつもの飄々とした興味のなさそうな表情で言うものだからこの男はいつもどこかうさんくさい。
トウキが舌打ちをする。全員トウキの方を向いた。
「余裕こいてんのも今のうちだぜ。あんたなんかあっという間に追い抜いてやるからな」
だんまりを決め込んでいたトウキが不敵に笑った。しかしその口調には苛立ちが見て取れ、カカシの態度が気に障ったのだな、とモモカは思った。
カカシは目をぱちくりさせた。
「ま、せいぜい頑張ってネ」
去り行くカカシの後ろ姿にいけ好かねえヤローだと、トウキが悪態を吐く。
「俺あいつ嫌いだわ」
モモカとイクルは顔を見合わせた。
「知ってるよ」
「知ってる」
二人の答えに何だよ、とトウキは更に苛立ち長い前髪を鬱陶しそうにかきあげた。
急遽呼び出されたアカデミーで、再度下忍承認試験を行うと告げられたのはまさにその翌日のことであった。
三人とも降って沸いた話に心が跳ね上がった。
しかし下忍承認試験は通常4月に年一回だけ行われることを知っていたので、ぬか喜びはせずにどういうことかと矢継ぎ早に質問した。
「まあまあ、落ち着けお前たち」
三人に再試験を告げたのはイルカ先生だ。モモカたちの直接の担任ではなかったが、新任のその先生は研修のためか色んな授業に顔を出しておりいくらか面識はあった。
イルカの説明によると、下忍承認試験は三人の言う通り原則4月に行われ年に一度だけだが、あくまで原則は、というだけで半期毎に行われることもあるとのこと。
「つまりだ、下忍として十分な能力を満たしており、適切な先生がいれば10月にも承認を行うということだ。で、お前たちの代は割かし優秀であり、チームバランスを考えて均等にメンバーを割り振ってはいるが、その中でもお前たちチームは更に優秀な方だというのがアカデミーの先生方の意見だ」
チームバランスを考えて、のところでモモカは私のことだなと思った。トウキは勉強はともかくとして(それでも非常に頭が切れることをここ数ヶ月でモモカもイクルも知っていた)体術や手裏剣術は同期の中ではピカ一だった。そして座学の方の首席はもう一人のチームメイトであるイクルだったのだ。
対してモモカは実技も座学も平均くらいで突出した長所もない目立たない生徒だった。
「試験をする先生との相性もあるし…いや、まあ運も実力のうちと言うが、それでもお前らに同情の声が上がっているのは事実だ。お前たちのアカデミー卒業生の同期は皆、どのチームも承認試験に合格して下忍になっている。その中でも優秀なお前たちのチームを不合格にしてあと一年任務にも付けずに宙ぶらりんな状態にして経験を積ませることができないのは里としてもメリットがない。幸い、面倒を見てくれるという先生もいる」
上の先生から聞かされたことをまるでそのまま暗記したようにスラスラと説明をしているイルカの声を、「えっ」と遮ったのはモモカだった。モモカはトウキとイクルと顔を見合わせた。
「別の先生なんですか?カカシ先生じゃないんですか?」
チームメイト二人の表情から、モモカと同じことを思っているのは明らかだった。
名乗り出てくれたのは月光ハヤテという先生だという。特別上忍になったばかりの先生らしい。
10月1日付で下忍になるべく、試験は9月20日に行われること(つまりそれは二か月半後だ)、集合時間、場所。それまでよく準備を整えておくようにとの説明を受けて、三人がアカデミーを出た頃には既に日が落ちかけていた。
何となく、誰も言葉を発しないまま三人は肩を並べて歩く。
燃えるような夕陽を背に受けて伸びる影を、モモカは見るともなしに見つめていた。両端は同じくらいの背のモモカとイクルの影。真ん中で一つだけのっぽに飛び抜けているのはトウキの影だ。
夕日に照らされた色素の薄いイクルの頬は熟れた桃のようだったしトウキの黒いはずの髪も赤みがかって見えた。
いつもの三叉路、ヒョウタン公園脇で三人は立ち止まった。いつもならここで別れてそれぞれの家路に着くのだ。
「……おう、ちょっといいか」
トウキがぶっきらぼうに呟いた。くいと親指をヒョウタン公園の方に向け、少し話していこうぜ、ということらしかった。
モモカもイクルも頷き、三人は人気のなくなった公園のベンチに座る。まだまだ蝉はしきりに鳴いていた。
「……つまりさ、俺たちが不合格だったのは実力が足りないわけじゃなくて、単に不運だったてことだよな?」
トウキは冷たい無糖の缶コーヒーに一口口をつけた。
「うん、たぶん」
イクルが何も言わないのでモモカが返事をした。モモカはさっき自販機で買ったお茶を、イクルはアイスミルクティーをそれぞれ手に持っていた。
「で、その不運の正体はカカシに俺らが割り当てられたからで、それで不合格になったもんだから上の連中は慌てて10月の承認試験の話を出した。ように俺は感じたぜ」
トウキの中で、ますますカカシへの不信感は募っているようだった。
「……カカシ先生は、そもそも下忍の部下を持つ気はないんじゃないかな」
ようやくイクルが口を開いた。買ったものの、その手の中のアイスミルクティーにはまだ口を付けていない。
「そうなの?」
モモカはきょとんとした。
「うん、カカシ先生ってものすごい実力者らしいんだけど、下忍承認試験で合格者を出したことは一度もないんだって」
そうなのか。モモカはのんびりとしたカカシの顔を思い出していた。
「あのヤロー、前は暗部にいたんだってな」
トウキの言葉にモモカは二人を交互に見た。
カカシが暗部にいたという事実もだが、二人がカカシについて色々と情報を持っていることが驚きだった。トウキはカカシに敵意をむき出しにし、イクルはさも気にしていないような感じだったのに。
承認試験以降、カカシが気になって仕方ないのはモモカだけではなかったのだ。
「暗部って……、よく分かんないけどすごいんだね」
どこか他人事のようなモモカの感想にトウキもイクルもしばらく何も反応はしなかった。
ややあって、強いはずだぜ、とトウキが呟く。
「でも、俺はあいつに一泡吹かせるつもりでいたんだぜ」
イクルも静かに、しかし力強く頷いた。
モモカにしても、一泡吹かせるとかそんな敵意剥き出しなものではないにしろ、カカシに認められたいという気持ちは強くあった。そのためにここ数ヶ月は訓練に熱を入れて頑張ってきたのだ。
それがこんな結果になって、下忍になれるチャンスはチャンスなのだが、どこか拍子ぬけしてしまった。
しばらく三人は黙りこくった。
「でも、泣いても笑ってもあと2か月とちょっとだ」
すっかり辺りが暗くなって、ようやっとトウキが口を開いた。
うん、とモモカもイクルも頷いた。
「早く忍になりたい。その気持ちは変わらない。俺らが不合格になった背景は一旦置いといて、やるっきゃないんだ」
二人はより一層強く頷いた。缶コーヒー片手にずっと地面を見据えていたトウキが二人に向き直る。
「もっと強くなりてえ」
もう一度、二人は頷いた。それを待っていたこのように、トウキは目を輝かせた。
「次のステップに進んでみねえか?」