冷たい潮風が吹きすさぶなか
モモカとイクルの里抜けが発覚する前夜のことだ。
モモカは四丁目の不動産屋を訪ねていた。もう営業も終わりシャッターは半分閉まっているが、開いた半分から洩れる明りがまだ中に人が残っていることを告げている。モモカはシャッターを潜り中に入った。相変わらず辛気臭い店だ。虫の羽音のように聞こえるのは切れかかった蛍光灯が発していた。壁に貼られた物件のチラシはあまり入れ替わりのないようにも思える。不動産屋の親父はいつもの定位置で煙草をふかしながら、新聞を読んでいた。
『蝉の抜け殻』
イクルから渡されたメッセージにはそう一言だけ書いてあった。
初めて違法に里の外に出た日のことが今でもありありと思い出せる。幼い自分達はどきどきしながら未知の世界に踏み出した。あの高揚感も、自分達の力で勝ち取る報酬も、全てが輝いていた。里から出るための手引きはこの不動産屋の親父が行っていて、『蝉の抜け殻』はその時の暗号だ。
なるほど、確かにこれであれば例えイクルからのメッセージがバレたとしても、モモカ以外には何のことか見当もつかないだろう。モモカは三人の初めての冒険をイクルがメッセージとして使ったことを嬉しく思った。イクルはやっぱりイクルで、今も共に戦ってきた記憶を大事に抱いているのだ。
「おお、来たか」
不動産屋の親父は一人で立つモモカを見て言った。幸の薄そうな顔の、眼鏡の奥の瞳がきらりと光る。
「下忍承認祝いが作られた場所に行ってみな」
親父はそれだけ言うと、再び新聞に目を戻した。相変わらず無愛想で商売っ気の欠片もない。それでも、イクルからの依頼を律儀にこなしてくれる。恐らく、彼はモモカ達の味方だ。モモカは頭を下げて不動産屋を後にした。
それから向かった先は忍具の製造工場だ。モモカの年の離れた兄の職場でもある。夜のこの時間にもちろん人気はなく静まり返っている。施錠はされているがモモカは針金一本で容易く開けた。機械油の匂いがどこか懐かしい。ここに来るのも随分久しぶりだ。
静まり返った工場を抜けて奥の方の旋盤に向かう。数ある工作機械の中でも兄が最も得意とするものでその管理も任されている。モモカは旋盤の裏をひょいと見た。小綺麗な巾着袋が張り付けてある。
巾着の中には金属で出来た缶切りのような形の器具とメモが入っていた。
『夢を追う若者ってのはいいもんだな。また皆で飯でも食いに行こう』
まさかとは思ったけれど、自分の兄までも、協力しているだなんて――……。モモカは目頭が熱くなった。この台詞は、初めて兄に忍具整備を依頼した時に言われたものだ。下忍になってから兄とご飯に行った定食屋は、下忍時代はよく利用してモモカ達も常連になっていた。
五丁目の定食屋は質よりもむしろ量を重視した店だ。年老いた店主と女将さんで切り盛りしているが、お昼時など繁忙時にはパートやバイトの従業員がちょこまかと動き待っている、地元の常連客によって手厚く支えられているような店だった。
当然夜深いこんな時間に人影はなく、モモカは店の前に立った。そういえばカカシやアスマともずっと前に来たことがあったな――モモカは銀髪の男を思い出して悲しい気持ちになり、頭を振って追い出す。いつまでも囚われていてはダメだ。
ふと、店の瓦屋根に一羽の烏が止まっていることに気が付く。じっとモモカを見つめる烏は、野生のものではないとモモカは直感した。
烏は羽ばたき飛んで行く。モモカは後を追った。向かう先は鳥吉の屋敷の方向だ。烏は広大な屋敷の正門ではなく西側の裏口の方に旋回していく。モモカも飛ぶように続き、先導する烏が最上階にある部屋に入っていくのをその目に認めた。窓が開け放たれて、夜風にカーテンがたなびいている。
モモカは外壁を滑るように登り、その窓から内部へ侵入した。暗い廊下には男が立っていた。鳥吉の長男――イクルの兄だ。彼は腕に烏を止まらせて、モモカを見ると険しい顔付きを穏やかに緩めて微笑んだ。その表情はイクルにそっくりだった。
「よく来てくれた――ありがとう」
モモカに述べた感謝の言葉には、色々な意味が含まれていたように思う。
「二階の昼間の部屋へ――あまり時間がない。イクルに触れないように、工場で手に入れた道具を渡してくれ」
気忙しく話す彼にモモカは黙って頷いた。音もなく廊下を渡り、階下に下る。すぐに昼間の客間が見えて、モモカは躊躇いなくその扉を開けた。
イクルは部屋の中央に佇んでいた。上下白い服に白い首輪を付けられたその姿は、幼い頃に絵本で目にした天使にも見えた。イクルは真っ直ぐにモモカを見つめている。
モモカはイクルの兄に言われた通りに工場で入手した缶切りのような器具をイクルに投げて寄越した。彼はやせ細った手でそれを受け取る。先端を首輪に宛がい、それこそ缶切りのように何往復か上下させた。最後に高く持ち上げた直後に、ぴきぴきと氷が融解するような音が鳴って首輪は割れた。大きな二つの破片と小さな一つの破片に分かれたそれは硬質な音を立てて床に散らばる。内側にはびっしりと文字が描き込まれていて、イクルを拘束し追跡しそしてモモカとの接触を禁じるための術式だと分かった。
無機質な瞳でそれを見下ろしていたイクルは一つ息を吐き、モモカに近付いた。モモカはイクルの首元から右頬にかけた火傷の痛々しい跡を眺めながら、彼の両腕に抱かれる。随分と痩せてしまったが、イクルの背はモモカの記憶のそれよりも更に高くなっていた。
(ありがとう)
(生きていてくれてありがとう)
(僕を信じてくれてありがとう)
(僕をすくってくれてありがとう)
(あの時死なないで良かった)
(生きることを諦めないでいて――……本当に、良かった)
イクルの熱い想いが流れ込んでくる。モモカから離れたイクルの目には涙が浮かんでいて、モモカの目頭もまた熱くなっていた。イクルが泣くところを見たのは、初めてだった。
「行こう」
モモカが力強く言い、イクルは微笑み頷く。
廊下を引き返し侵入してきた窓辺に戻ると既にイクルの兄の姿はなかった。代わりに革製の袋が置いてあって、イクルはそれを拾い上げる。中からは聞き慣れた金属音がしてイクルの為の忍具だと分かった。窓から吹き込む夜風がイクルの濡れた目を刺す。窓枠に足をかけて、彼はとうとうこの屋敷から出た。誰の命令でもない、自らの意志で、鳥吉という名の鳥かごから飛び立ったのだ。
里の縁まで走り、モモカとイクルは塀を駆け上る。今の二人にとってこの程度の塀を登ることなど造作もないことだった。
夜の闇は二人を優しく包み込み大地の静かな鼓動は勇気を与える。モモカは初めてトウキとイクルと里を抜け出した夜のことを思い出していた。自分達だけで外の世界に踏み出す興奮と自由への高揚感。約束された安全などない世界で羽ばたく歓びを、あの時モモカは知ったのだ。
黙々と走り続けた二人は月が西の空の低い位置に回った所で最初の休憩を取る。線のように細い三日月だった。ずっと監禁されていたイクルは体力が落ちているらしく、目に見えてしんどそうだ。
「よく分かってくれたね」
飲み水を口に含むとしかしイクルは晴れやかな顔で言った。モモカは頷く。
「あのメッセージは、仲間の存在を示唆していた――それこそ、忍ではない彼らのことを」
モモカはイクルのヒントを思い出して目を細めた。
「その通りだよ。どうやら僕らは木の葉の上層部には大層嫌われているみたいだけど――でも、仲間はたくさんいるんだ。昔から、僕らを見て、支えてくれた人たちは少なからずともいる。モモカのお兄さんだってそうだ……。僕に付けられていた首輪はお兄さんの忍具工場に特注で作らせたものなんだ。だから彼がそれを解除する道具を作ることもそう難しいことではなかった」
「そうだったんだ……そんなこと全く……」
モモカは今初めて知った事実に驚きながらも、そういえばそもそも兄とはしばらく会っていなかったことを思い出した。
「……モモカも根から監視されていたからね。モモカと接触のある人間は疑いの対象になるから……接触を避けてもらっていたんだ」
イクルの説明にモモカはぼんやりと彼の火傷の痕を眺める。
「そういった種々の手配はイクルのお兄さんがしてくれてたの?」
モモカの問いかけにイクルは頷いた。
「子供の頃、兄さんと約束したんだ……二人で鳥吉を繁栄させようって。里の立派な力になるために、兄さんは一族のリーダーとして家を守り、僕は忍として忍鳥を支配する。そうしてこの里を守ろうと……。けれど今の父さんがしていることはかつての僕らの理想とは程遠い。もちろん、里の為、家の為のことだろう……それが正しいか間違っているかなんて判断も、出来ない。だから、僕らは僕らのやり方で家を、そして生まれた里を守ろうと決めたんだ」
イクルは膝を引き寄せ抱いた。その目は寂しげだけれど、意志の強さが見て取れる。
「正直なところ、これだけの仕打ちを受けて、果たして僕に火の意志があるかは分からない。けれど守りたいものは分かる。大切にしたいものくらい分かるよ。だから僕は……里の敵を倒す。里そのものに未練はないけど、そこに生きる人たちを守るために、自来也様の意志を継ぐ」
イクルはあの勝気な笑顔で笑ってみせた。モモカはその顔が酷く懐かしく感じて、胸が詰まる思いだった。
「自来也様の……意志……」
モモカの呟きにイクルは頷く。
「自来也様は暁を追っていただろう。組織だった里では決して出来ない方法で。今の僕らの実力なら、それが出来る。組織に属したままでは成しえないやり方で……里を、里に住まう大切な人たちを、守るんだ」
モモカはまじまじとイクルを見つめた。確かに、里という組織に身を置いたままでは出来ないことや不自由はたくさんある。里を離れ、何のしがらみもなければこそ――為せることがあるのだ。
「自来也様がね、僕の意志を兄さんに伝えてくれたんだ」
「自来也様が?」
イクルの告白にモモカは目を見開く。
「うん。大蛇丸のアジトが崩壊して、逃げる僕を捕らえたのは自来也様だ。その時に僕はお願いした――兄に僕のメッセージを届けてほしいと。そしてそれが里に伝わらないようにしてほしいと。自来也様は承諾し、約束を守ってくれた。兄さんに僕の想いは伝わって、そして里抜けの為の手引きをしてくれた。傍目には、道を外れ里を裏切った弟を厳しく拘束する兄に見えるように……」
イクルの声は震えていた。
「僕はね、大蛇丸の所にいる間、色々な情報を集めた。彼らのアジトの詳細、それから暁に関する情報、他里の動向。それらを隠してきたけれど――これから回収しに行く。それがあれば、自来也様の意志を引き継いで、そして里を守ることだって、可能なはずなんだ」
モモカも涙ぐんで頷く。
「……そうなんだ……自来也様が……」
自来也はモモカにもそんなことは言ってなかった。微塵も態度に出さなかった。それでも、後継を信じて見守る偉大なその魂は、はっきりと感じられる。そして何より、イクルの目的と意志を知って、彼はモモカの大好きな、木の葉隠の忍のイクルのままだと実感して、心の底から嬉しかった。
モモカは深く息を吸い、じっとイクルを見つめる。
「それで……トウキは……」
いよいよ核心に迫ったことを聞いて、モモカは緊張した。イクルはモモカを見つめ返し、ゆっくりと瞬く。
「……分からない」
イクルは頭を振った。
「あまり期待させるようなことは言えない……。少なくとも、大蛇丸の実験を手伝わされていた僕の元にトウキの遺体が運び込まれて、僕が彼の右脚を切り落としたことは真実だ。でも、その時はまだトウキは仮死状態だった。だから僕は……彼の身体にあるものを仕込んで……そして、それ以上大蛇丸の好きにさせないように、トウキの仮死状態にある体を――……川に流したんだ」
イクルの顔は苦し気に歪み、その声も掠れていた。モモカは彼に何と声をかけたらよいか分からなかった。苦楽を共にした仲間を――助けるためとはいえ、その脚を切断し、川に流すとは、どれだけ心の血を流したことだろう。
「……あるもの、って?」
モモカは何故か声を潜めて尋ねる。
「僕の胸に埋められて……そして忍鳥にも埋め込んでいた……あの金属だよ」
モモカは思わずイクルの左胸に目を向けた。そういえば、彼は以前左胸の痛みを訴えていた。
「これ、だけどね。どうやら僕の経絡系を圧迫して、身体が拒否反応を起こしていたみたいなんだ。それがあの時モモカの雷切に胸を貫かれて――それで、どういうわけか、拒否反応は収まった。不思議だろう? でもよくよく考えてみれば僕の性質変化は水でモモカのそれは雷だ。水は雷に弱い――図らずとも、あの時モモカは、僕の胸に癒着した金属をその雷切で引っぺがしたんだ。そしてその後は……僕の方から大蛇丸にお願いして、再び身体に金属を埋め込んでもらった。経絡系を圧迫しない、しかし心の臓に近い場所に。繊細な技術が要求される手術だけど、大蛇丸は事も無げに成功させたよ。でも、僕はその手術の前に金属を割って――その片割れを――トウキの切り落とした右脚の断面に、こっそりねじ込んだんだ」
イクルは眉を寄せてとつとつと語る。モモカは息を飲んだ。
「それじゃあ、トウキにも今はあの金属が――? トウキの居場所が分かるの――?」
しかしモモカの問いかけにイクルは頭を振って、唇を噛みしめる。
「いや、残念ながら分からない。鳥吉秘伝のこの術も、一定以上の距離が離れると使えないんだ。トウキが今どこにいるのか――生きているかさえも――分からない」
モモカは考え込む。イクルが奇跡を願って、トウキに埋め込んだ金属。しかし、彼の表情を見るに、きっとそれは勝率の低い賭けでもなかったはずだ。
「……イクルはトウキが生きているかは分からないと言ったけれど……でも、死んでいるとも断言はできないんだよね」
モモカの問いかけにイクルはゆっくりと首を振る。
「……そうだね。少なくとも今までは、同じ金属を埋め込んで感覚を共有していた忍鳥が死んだら、どんなに離れたところにいようとそれが分かった。トウキに関してはまだそれがないから、希望的観測を言えばまだ生きているはず……。でも、トウキとはまだ感覚を共有していたわけじゃないし、そもそも人間同士でこの術を使ったことはないから、何とも言えない」
イクルは所在無さげにそう言ったけれど、モモカにはある種の確信があった。
「……数カ月前に、現風影が暁の襲撃にあってね……彼も人柱力だから……それで、その事後調査に砂に行ったんだけれど……サソリという傀儡師の依頼人リストの中にね……あったんだよ、“クリキントン”っていう名が。……――ねえ、これはトウキと無関係だと、そう思う?」
イクルはじっと目の前の地面を見つめていた。
「……分からない。何の関係もないかもしれないし……。でも、トウキが簡単に死ぬとも、僕は思えない」
二人はしばし沈黙した。各々が今までの苦しい孤独な歳月と、無鉄砲で豪快なトウキの笑顔を思い出していた。
「とりあえず、今日中には国境の宿場町に行こう。そこで兄さんの手配したブローカーから、預けていた僕の忍鳥を受け取る予定だ」
「……お兄さんは、大丈夫なのかな……もしそこまで私達の為に動いていたことを知られたら……」
ふいに心配になってモモカは尋ねる。イクルが強い表情で白み始めた遠くの空を睨みつけた。
「兄さんを危険になんか晒させない。誰にも、傷付けさせやしない」
イクルの目には確固たる意志が滲んでいる。モモカはそんなイクルが嬉しくて微笑む。
「それより、モモカの方こそ良かったの? 今更だけど……こんな、里を抜けて、ともすれば裏切り者扱いされることに加担して」
イクルがバツが悪そうに聞いた。モモカはまさか、と笑う。
「何言っているの。私だって、里の枠組みに嵌ったままじゃ行動しづらいと思っていたところなんだ。何よりイクルのことを信じているから……不安はないよ」
「けれどカカシさんは心配するだろう?」
イクルの気遣わしげな瞳にモモカは黙った。イクルはその反応に怪訝な顔をする。
「……喧嘩でもしたの?」
モモカは激しく頭を振った。
「違うよ。そもそも喧嘩になるような仲でもなかったんだ。カカシさんが心配なのは私よりも……里の安全だよ……。いいの、当たり前のことなんだから」
突き放したような口ぶりに、イクルは不可解なものを見るような目でモモカを見る。まさか、モモカがカカシに対してそんな風に言うだなんて、余程のことがあったのだろうか。
「……てっきり僕は、君らはもうとっくに良い仲に……付き合っているだろうなと思っていたけど……」
「だから、そんな仲になっていないし、なりようもない」
ムキになって声を大きくさせるモモカに、イクルがそれ以上追及することはなかった。
イクルの立てた目標通り、明くる日の夕方には宿場町に到着する。すっかり日は暮れていたが、彼はその足で街外れの仲介業者を訪れた。一見するとただの商店に見える建物の外でモモカは待ち、幾分も絶たないうちにイクルは出てきた。手には大きな巻物を抱えている。預けていた彼の忍鳥達だろう。イクルは疲れた顔に嬉しさを滲ませていた。
その後は宿を取り、監禁と尋問とで疲れの溜まり切っていたイクルは気絶するかのように眠りにつく。モモカはさして疲れてはいないはずだが、里抜けという行動に精神的な疲労が蓄積していることを自覚していた。そして何より、カカシのことを思い出すとことさらに胸は重く惨めな気持ちになった。
もういいと、何度も自分に思い込ませることでモモカは自身の中のカカシの亡霊を追い払おうとしていた。モモカが忍として生きるその道には、ずっとカカシという偉大な忍者の差す光が満ちていた。時に激しくモモカの胸を貫き、時に柔らかく包み込むように傷を癒す。
しかしカカシの中の、モモカの存在のなんと小さなことか。もちろん好かれてはいる。守るべき大切な存在だとも、思われているだろう。けれどカカシにとって守るべき大切な存在はあまりに多く、モモカはカカシにとっての“ただ一人”にはなり得ないのだ。
(そうか――私は――特別になりたかったのか――……)
その欲望を自覚してしまえば、自分という人間がより浅ましく思えた。口では見返りを求めていないなどと言いつつも、その実モモカはカカシの特別になりたかったし、カカシの歩む未来に、その傍らに立つのは自分でありたかった。カカシは誰か一人の手を取ることはないと分かり切っていたはずなのに――。カカシがモモカに見せた打算的なものは、里を想うが故のものだ。モモカだって計算高く、強かに、いくつもの任務をこなしてきた。それと同じだ。自分に対してだけは、打算的な気持ちでいてほしくないと、カカシに求めてしまうのはモモカの我儘なのだ。
「あんまり眠れなかった?」
翌朝イクルが尋ねる。今やモモカは暗部でも活躍するほどの手練れになっていて、内面の疲れや心配事を表に出すようなことはないが、それでもイクルはその表情の陰りに気付いたみたいだ。彼には敵わないな、とモモカは苦笑する。
「色々考え事してて。疲れは取れたから、大丈夫だよ」
何でもないようにモモカは笑ってみせた。
宿場町を発ったモモカとイクルは町から約五里の距離にある森林へ来ていた。ここに、一年ちょっとの間にイクルが溜めていた情報が隠されているのだ。
岩場に埋め込まれるように隠されていたいくつもの巻物を抱えてイクルはしたり顔をした。
「これだけの情報だ。しかるべきところに売ればそれなりの額になる」
モモカは腰に手をあてて息を吐く。
「でも、イクルはそれをとっておきの切り札として持っているだけだし、当面は自分自身が暁を追う材料とするんでしょ?」
イクルは目を細め、顎を上げて笑んだ。
「そうだね」
彼は遠くの澄んだ空を眺めて、胸を焦がすあの衝動に色めき立つどこかの娘達と――まるで同じ目をしてみせる。
「……僕は、一人じゃだめだ。だめだった」
イクルの呟きにモモカも頷く。
「今こうしてモモカと一緒にいて、いくらかましにはなったけれど、それでまだなお足りない」
モモカは眉を下げて笑顔を形作った。イクルの表情は痛ましく、そして聖母のようでもある。それら全ては奇跡のようだ。
「……トウキがいなきゃ、きっと僕らは駄目なんだ」
イクルがモモカを見る。モモカもまた、同じ温度を持ってイクルを見返した。
まだ足りない。二人には、足りない。トウキという熱く激しい煌めきを持った男が居なければ、いくら二人が自由を手にしようとも本当の愛と情と絆には遥か届かないのだ。
「それで……心当たりは?」
モモカが静かに尋ねる。あのイクルがまさか、何の根拠もなしに行動しているなど到底思っていなかった。
「……水の国に、行こうと思う」
「水の国……」
苦い思い出のあるその地をモモカは反芻した。イクルは膝に顔を埋める。
「……うん。僕がトウキの足を切り落とし……そこに金属を埋めた後に川に流したって言ったよね……。その川の下流の行き着く先の、海に出てなお更に海流の先を調べたら、そこは水の国だったんだ」
モモカは片足になったトウキが冷たい水の流れのままに漂っている様を思い浮べた。当時のイクルにとってどれだけ苦しい決断だっただろう。どれだけ異国の水は冷たく傷ついてぼろぼろになったトウキの体を凍えさせただろう。でもトウキを助けるためにはそうするしか、当時のイクルに選択肢はなかったのだ。
火の国の端まで来ても、木の葉からの追手が二人を捕まえに来るような気配はなかった。暁やペインの対策でそれどころではないし、そもそもモモカ達の向かう先など検討も付かないのだろう。海岸沿いの街から見る外洋は荒々しく、見慣れぬモモカ達を拒絶しているようだった。
二人は目深く外套のフードを被り、水の国行きの旅客券と入国許可証を握りしめる。閉鎖的な水の国には許可証がないと入ることは出来ないが、どこにだって裏のルートというものは存在するのだ。闇業者から入手した許可証は高額であったが、モモカ達がへまをしない限りバレることはない。
果てない灰色の空と灰色の海。冷たい潮風が吹きすさぶなか、モモカとイクルは波に軋む木造船に乗り込んだ。その目には唯一無二の仲間を取り戻す決意が滲み、胸の内には消えることのない火が灯っている。うねる波は轟き、かつての同期の仇である忍達が住まう地へ向けて、二人を乗せた船は出航した。