その時は、


 一週間が過ぎて、ようやくイクルの尋問はひとまずの終わりを迎えた。これ以上絞り出せる情報はないと、山中一族が判断したのだ。とはいえ明かされていない部分も多く、まだ完全な解放にはほど遠い。
 イクルの身柄が木の葉の収容所から彼の自宅――つまり鳥吉の屋敷に移ることを聞かされたモモカはいよいよ状況が悪くなってきたことを感じた。鳥吉と根――ダンゾウの間では秘密裏に取り決めが交わされているのだ。鳥吉は、家の為ならイクルの命もいとわない。
 移送される日、モモカは収容所を出たイクルを遠目に見た。これ以上近付くことは許されていない。相変わらず拘束衣を着せられ、さらにやつれているように見えた。元々線の細いタイプだったけれど、目の辺りは窪んで影が出来、身体も筋張った印象を与えた。
 イクルは遠目に見ているモモカに気付いて、微笑む。その顔がまた痛ましくて、モモカは一体、何のためにここにいるのだろうと自身の存在意義が分からなくなった。

 それからさらに五日が経ち、急に湿度が下がって秋めいた日のことだった。
 まだ完治はしていないものの退院し、官舎で待機していたモモカは綱手に呼び出される。緊急連絡用の無線を使って呼び出されたから、何か異常事態があったのだ。モモカはまだ痛む傷を抱えて、出来る限りの速さで火影塔に赴く。
 火影公室に入ると、お通夜のような雰囲気だった。
 綱手はいつもの椅子に座り、シズネと他二人火影の付人が沈痛な面持ちで立ちすくんでいる。公室には忍以外にガマの姿もあった。小さなガマだけれど年老いていて、かなりの妖術――いや仙術のレベルだということが分かった。そしてその状況を見て、何が起こったのかモモカは一瞬にして悟ってしまった。

「自来也様が……殉死なさいました……」
 その言葉を発したのが誰だったか定かではない程、モモカの心は凍り付き時間が止まってしまった。信じたくなかった。恐れていたことが起きてしまった。どうしてあの時、無理にでも自来也に付いていかなかったのだろう。イクルに気を取られて忘れていた。世界は、一瞬の迷いなど待ってくれない程に、簡単に人の命を奪うのだということを。判断を違えてしまえば悔やんでも悔やみきれない地獄を見るだけだと、分かっていたはずなのに。
 火影室内では自来也がガマに託して残したというメッセージと雨隠で捕えた捕虜の対処についての会話が交わされる。耳から入り頭でその言葉を理解しつつも、モモカの心はこの部屋にはなかった。悲痛な表情を浮かべながらも、自来也の遺したそれらを頼りに未来を切り開こうとする里の忍達の声はどこか遠い場所で反響しているようだった。
「……このメッセージに心当たりはないか」
 綱手の問いかけにモモカは頭を振る。数字の羅列には何の意味もないように感じた。自来也が死んでしまった今、この未来に何を求めればいいのだ。
 モモカはぼんやりと綱手を見つめる。彼女の表情は仲間を失った苦しみに抗おうと必死だった。モモカはその時、綱手が仲間に対するもの以上の想いを自来也に抱いていたことに気が付いた。紅の時のように抱きしめて寄り添いたかったけれど、それは出来なかった。深い悲しみの底にいながらも大勢の命を背負った彼女は今、懸命に上を向いているのだ。未来を見据えているのだ。下ばかり見て、過去を悔やんで、イクル一人救えないモモカが慰められるような相手では、到底なかった。

 モモカはその夜、官舎にも実家にも帰る気になれずに悲しみに暮れて里を歩いた。あてもなく、人気のない夜の里を徘徊していると今頃になって涙が溢れてくる。自来也と過ごしたのはここ数ヶ月で、決して思い出は多くはなかった。それでも自来也という偉大な忍はモモカの中に確実にいくつもの厳しい教えと温もりを残していた。真っ暗闇のヒョウタン公園に辿り着き、錆びたブランコに腰掛ける。トウキとイクルと三人で、何度も作戦会議をした場所だ。皆がいなくなってしまう。誰も彼も、モモカを残して手の届かぬ場所へ行ってしまう。

“お主は真っ直ぐに、何の空言もなしに人の心を見ることが出来るじゃあないか”
 自来也の言葉を反芻する。
“心の灯る火があるだろう?”
 モモカは胸の当たりを押さえた。心に灯る火。今は苦しみしか感じない。この苦しみがそうなのだろうか。心に灯る火が、モモカをこんなにも苦しくさせているのだろうか。
“自分自身でその選択を正解に持っていくしかないんだ”
「正解……」
 しかし自来也の声は、いつの間にかトウキのものに変わっていた。
“お前らとなら、裏切りや憎しみの果てにも、正解を見付けられる。無理やりにでも、正解に持ってけると思うぜ”
 二年半前に、トウキを失う直前に彼の口から聞いた言葉だ。
「正解に……持っていく……」
 そして荒っぽいトウキの笑顔は勝気なイクルの笑みに変わる。
“そう言われたら頑張らないわけにはいかないね”

 モモカは徐に顔を上げた。誰もいない夜の公園で、闇に蠢く木立ちの中に、何かを感じた。
 そうだ、イクルは確かにあの時言ったのだ。トウキの言葉に対して、そう言ったのだ。あんなにも嬉しそうな顔で。
 モモカは闇をじっと見つめ、そして心に灯る火を見つめた。いつだって感じていたはずだ。愛しい仲間たちの信頼を。未来に向けて力の限り走る彼らの足音を。何にだって屈することのない笑い声を。今それが聴こえないなら――取り戻せばいいのだ――。


「今回の面会時間は三十分です」
 シズネが早足で歩きながら告げる。再三の面会希望がようやく叶えられたモモカは、前回と同じカカシ、シズネ、フーと共に鳥吉の屋敷に向かっていた。ペインの件で皆が多忙のはずだが、皆が快く――、というわけではないが、了承してくれた。
 鳥吉の屋敷内に幽閉されているイクルに会う際も、モモカは一人では会えないばかりか、物理的な接触を禁じられていた。綱手は最後まで反対していたがモモカとイクルが結託して反旗を翻さないための上層部の意向だった。
 屋敷の二階の客間に通され、モモカはイクルと再び相まみえた。包帯は既に取れて首から右頬にかけての赤い火傷痕が痛ましい。拘束衣こそ着用していないものの、白い象牙のような材質の首輪をしていて、それが彼を監視する装置なのだとモモカには察しがついた。
「やあ」
 家に戻ってきたからかこの間よりもイクルの肌艶は良くなっていて、モモカは心底ほっとする。
「……来るのがこんなに遅くなってごめんね」
 モモカが言うとイクルは目を細めた。
「この間からモモカは謝ってばかりだ」
 モモカとイクルは畳二枚分の距離を開けて、間に机を挟んで座る。モモカはまず自来也が亡くなったことをイクルに告げた。イクルは光のない瞳にさらに影を落として頷く。
「ああ、聞いたよ。それからアスマさんのことも」
 イクルは一つ息を吐いた。
「人は、どんどん死んでいく」
 イクルの言葉に、モモカも暗い目で床を見つめる。
「簡単に死んでしまって――結局アスマさんとトウキは会えずじまいだ」
 イクルの発言に、シズネは彼を睨みつけた。
「簡単にだなんて――そんなこと言わないで。自来也様もアスマも簡単に死んだわけじゃない。里の仲間に多くのものを残していったんだ」
 イクルは顎を上げて冷たい瞳でシズネを見据える。
「おや……失礼。何しろ自由がなくて、死に様なんて知りようがなかったもので……アスマさんは最期に、僕らに何て言ったのかな?」
 その言い方でシズネは更に怒りを膨らませた。一触即発の雰囲気にしかし、モモカはイクルの言葉が引っかかっていた。アスマの最期の言葉は何だっただろうか。
 我慢ならないといった様子でシズネが立ち上がったところで、部屋にノックの音が響く。すぐにドアを開けて入ってきたのはイクルの兄だ。
「イクル、失礼をしていないだろうな」
 彼は凄みを利かせてイクルを窘める。彼は立っているシズネには柔らかい表情を作り、座るように促すと机の上にお茶菓子を置いた。
「何か粗相があったのなら申し訳ない……どうぞお召し上がりください」
 机の上には三人分の煎茶。高級な茶葉だろう。そして茶菓子は白餡の饅頭、紅葉の形の練り切り、栗きんとんと季節感ある上品なものだ。モモカはじっと皿に盛られた愛らしい菓子を見つめる。ややあって、顔を上げてイクルの暗い瞳に問いかけるような視線を向けた。
「……自来也様が亡くなる前に……私に……自分のした選択を、自分自身で正解に持っていくしかないって言ったんだ。……正解ってなんだと思う?」
 モモカの怯えるような声にイクルは興味がなさそうに首を傾げる。
「……さあ、偉大な忍の考えていることは犯罪者の僕にはさっぱり」
 またイクルが挑発するような視線をシズネとフーに向けた。二人は眉を寄せただけで挑発に応じることはなかった。
「まああえて言うのなら正解なんてあってないようなものじゃないか。勝って生き残った人が正解だ。強い者こそが正義になる。生きてさえいればそれでいい。死んだら終わりだ。生き残るためならば、くだらない情や想いに囚われているばかりではだめだろう。木の葉の忍――だけが世界の全てじゃないんだ」
 イクルの嘲笑にシズネは拳をきつく握り締めている。反逆とも取れる言葉を険しい顔で聞くフーは、ダンゾウにどのように報告するだろうか。カカシも僅かに身じろいだ。モモカだけは微動だにしなかった。
「どうして……そう思うの?」
 情けない声でモモカは尋ねる。
「だって他人は簡単に裏切るし、保身に走る。そういうものだ」
 鼻で笑うイクルをまじまじと見つめて、モモカはいつかの光景を思い出していた。忍鳥の背で、三人ぼっちで強敵のもとに飛んで行ったあの日の風が、モモカに吹いた気がする。目の前のイクルは――あの――勝気な顔で笑っている。
「さあ、皆さんどうぞ召し上がって」
 手のひらで机の上を示してイクルは言った。その仕草がシズネ達には今はことさらに皮肉ったらしく写っていることだろう。モモカは茶を啜り、先が二又になっているフォークで栗きんとんを控えめに刺して一口で口の中に放り込んだ。カカシがそれに倣うように紅葉の形の練り切りを食べる。
 しばらく沈黙が続いた。栗きんとんを咀嚼し終えて、茶を二口飲んで、それからようやくモモカは再び口を開く。
「……怪我はもういいの?」
「大丈夫だよ。自来也様の攻撃は本当に強力で――たまに火傷の痕は痛むけどね――でも手足は自由に動くし、胸も痛くない」
 イクルは自分の左胸を指して微笑んだ。
「……よかった」
 モモカは俯く。
 その姿は懺悔するようにも見えると、シズネは内心思っていた。正直なところ、かつてのチームメイトとはいえモモカを傷付けるようなことを言い里の忍達を侮辱するこのイクルという青年がシズネは憎く、どうしても好きにはなれなかった。辛い経験が彼をそうさせたのかもしれないが、辛い目に遭っても前を向いて力強く歩いている人達はたくさんいるのだ。不満と里への嘲りばかりのイクルに構っている暇はない。モモカにも早く立ち直ってほしかった。
 面会時間が過ぎて立ち去る間際、イクルがシズネに声をかけた。
「モモカを暗部に推薦したのはあなたですか」
 イクルの問いかけにシズネは眉を顰める。
「……それが何か」
 シズネの答えにイクルはいけ好かない嘲笑を見せた。
「愚かな判断だ。確かにモモカの能力は暗部向きだけれど、モモカの心根は暗部向きじゃあない」
 イクルの指摘にシズネはカッとなる。そしてそれは、図星でもあるからだとシズネは自覚した。心のどこかで、真っ直ぐで本来思いやりに溢れた少女を暗部に入れて人を殺させていることを、悔いているのだ。
「……君に言われる筋合いはありません」
 シズネは唇を噛みしめた。イクルの人を見透かして馬鹿にするような笑みがずっと付いてまわるようだった。


 前回同様にイクルの屋敷を出てシズネとフーはすぐにモモカ達と別れた。各々の上長への報告もあるが、皆忙しいのだ。しかし同じく多忙なはずのカカシはまたしてもモモカとすぐに離れようとはしなかった。
「ナルトの修行はいいんですか」
 モモカが尋ねる。その顔はぼんやりとして、心ここにあらずという感じだ。
「ナルトは今、仙術の修行をしている。俺の出る幕じゃないよ」
 カカシはモモカの表情を観察しながら言った。探るような目をしている、と思うのはモモカの考え過ぎだろうか。
「……仙術ですか。自来也様の弟子ですもんね」
「モモカだってそうだろう」
 モモカは立ち止まってカカシを見上げた。
「仙術だけのことじゃないぞ。モモカだって、自来也様の弟子だ。あの人の教えを胸に抱いてその意思を継いでいるはずだ」
 カカシは咎めるように言う。モモカは戸惑った。
「……そんな、ことは……断言できません」
 モモカはカカシから目を逸らす。カカシは厳しい忍の目でモモカから目を離すことはない。
「トウキは生きているのかな」
 カカシの問い詰めるような呟きにモモカはハッと身体を強張らせた。この天才忍者はやはり気付いたのだ。イクルの言葉の持つ含みに。
「どう……して……」
 なおもカカシの目を見ることは出来ずにモモカは弱々しい声を出す。
「イクルはさっき――アスマの死の話になった時――アスマとトウキは会えずじまいだと言った。シズネを挑発して上手く意識を逸らせていたが……まるでトウキが生きているような口ぶりじゃあないか」
 その目を見ずとも、追及するような視線が自分に向けられていることをモモカはひしひしと感じた。モモカは何も答えることが出来ずに俯いたまま黙っていた。カカシは追及を続ける。
「イクルは昔からそこら辺の忍は足元に及ばないような頭脳を持っていた。あいつのことだ、きっとそこかしこにヒントを散りばめていたんだろう? 俺たちには分からないキーワードで。モモカだけが気付けるような」
 カカシの言葉は真実だった。モモカは口の中がカラカラに乾いて張り付くのを感じて生唾を飲み込む。
 かつてトウキが言った、お前らとなら正解に持っていけるという言葉。そして今日イクルは言った。
“勝って生き残った人が正解だ”
 つまり三人で生き残る道があるということだ。
“他人は簡単に裏切るし、保身に走る。そういうものだ”
 イクルのその台詞もかつてトウキが言ったことだった。これには続きがある。あの時にトウキは、お前らとなら裏切りや憎しみの果てにも正解を見付けられる、そう告げたのだ。
“アスマさんは最期に、僕らに何て言ったのかな?”
 アスマが最後に――里を出る前のモモカ達に――言ったことなら覚えている。「一度里から離れてみるのもいいかもな、お前らみたいなのは」そう言ってのけた。
“くだらない情や想いに囚われているばかりではだめだろう。木の葉の忍――だけが世界の全てじゃないんだ”
 イクルは木の葉の外に寝返ることを言ったわけじゃない。木の葉の――“忍”だけが仲間じゃないということを示唆していた。そしてそれを裏付けるかのように忍ではない彼の兄がお茶菓子を運んできた。 その茶菓子の中に紛れている栗きんとん。かつてモモカ達が里外で使っていた名前。そういえばモモカ達が当時里外に出る手引きをしていた不動産屋の親父だって、忍ではない。
「……モモカ、何を隠している」
 考え詰めていたモモカは強くなったカカシの口調にとうとうその目を見る。真剣で厳しい顔がモモカを射抜いていた。いくつもの修羅場を抜けてきた忍の顔だ。
 それでもまだモモカが何も答えられずにいると、カカシは徐にモモカの顎を掴んだ。乱暴に引き寄せるとカカシは口布をするりと外しモモカに口付ける。
 突然のことにモモカが緊張で身体を硬直させているとカカシの舌が侵入してきた。モモカの知らない大人のキスだった。混乱で固まるモモカの口内を器用に舌で探り、モモカがあっと思った時にはカカシの唇は離れていた。
 カカシはモモカの顎を掴んだままで、口を開けて中に含んでいたものを取り出す。
「これは何だ」
 カカシが自分の口内から奪ったものに、モモカは青ざめた。それは先ほど食べた栗きんとんの中に隠されていたイクルからのメッセージだった。一人になってから確認しようと口内に隠していたことを、カカシは見抜いていたのだ。
「か、返して」
 激しい口付けの余韻で息を乱しながらもモモカは手を伸ばしたが、カカシはそれを高く掲げて届かないようにした。触れるカカシからは、キスをされた時も、今も、何も伝わってはこない。今日も彼は心を見せることを拒んでいる。

「……モモカ、俺のとこに来い」
 有無を言わさぬ声でカカシは言った。その言葉の意味が分からずにモモカは動きを止める。
「……え?」
「俺のとこで、一緒に暮らそう」
 冗談みたいなことを、カカシは真剣な顔で言った。モモカは自分の唇が震えるのを感じた。
「今になって……なんでそんなことを……」
 発する声さえも震えている。モモカは悲しくて、悔しかった。カカシの心が分からない。何も見えない。残酷な現実ばかりが、突きつけられる。
「今まで散々俺は駄目だって……そう言ってたじゃない……」
 カカシは表情を変えることなく震えるモモカをじっと見下ろしている。
「私が、里に危害を加える恐れがあると……そう思うから? やけになって里に歯向かうようなことがあると、思っているから?」
 モモカの声には段々と怒りが滲んできた。同時にぼろぼろと涙が溢れてきた。カカシは眉を顰めて涙を流すモモカを見る。
「私を繋ぎ止めておくために、そんなことを言うの?」
「……そうだ」
 カカシは悪びれもせずに答えた。モモカは弾かれたように彼を突き飛ばす。
「ふざけないで!! 私の気持ちを……そんな打算的なものに使わないで!! 私は、私の心を、誰にも利用されたりなんかしない!!」
 モモカはカカシの掌からイクルからのメッセージをひったくった。カカシはもう無抵抗で、簡単にそれを手放す。
 モモカはカカシに背を向けて逃げるように走り出した。カカシが追いかけてくるような気配はないけれど、振り返らずに走り続けた。悔しくて悔しくて、涙を止めることが出来ない。もう何度、カカシに失恋しただろう。あと何度、傷つけばいいのだろう。幼い時からずっと恋してきたカカシ。モモカに忍の美しさと強さを植え付けたカカシ。けれど彼はモモカの恋心に応えることはなく、ただその背中ばかりを追ってきた。なのに今になって彼は、モモカを受け入れるようなことを言う――里を守る為の手段として――……。モモカはそれでもカカシを嫌いになれない自分のことを呪って走り続けた。涙だけが溢れ続けた。
 いつまでも、馬鹿正直な子供のままでいてはいけない。それじゃあ何も変わらない。誰も守れない。一つも前に進めない。与えられた道ではなく、モモカは自分で選び取った道を進む局面に来ているのだ。それがたとえ、愛するひとと離れ離れになる道だろうとも。




 その翌日、モモカは木の葉隠の里から姿を消した。

 カカシは早朝から官舎を訪ね、実家にも足を運んだが、それでも居なかったから、そういうことなのだろう。
 モモカが去ったことをカカシが理解した半日後になって、ようやく鳥吉とその周辺が騒がしくなってきた。イクルもまた、忽然と姿を消したのだ。追跡のための首輪はいくつもの複雑な術式がかけられ簡単には外れないはずなのだが、イクルの幽閉されている部屋に打ち捨てられてあったそうだ。失踪の発覚が遅れた原因でもある。

 カカシは綱手に呼び出され、モモカの消息について問われた。
「心当たりは本当にないか? 前日にイクルと会っていただろう」
「自来也様のこともあってひどく塞ぎこんでいるようでしたが……分かりません」
 カカシの答えたことは嘘ではない。結局のところ、モモカのことなんて一つも分からないのだ。綱手は深いため息を吐く。傍らには神妙な面持ちのシズネとサクラが控えていた。
「……すみません、私がもう少し目を光らせていれば」
 シズネの謝罪に綱手は首を振る。
「どうしようもないさ。しかし二人一緒に失踪したとなると……これはもう、確信的に里抜けをしたと言わざるをえないだろう」
 綱手の言葉に息を飲んだのはサクラだ。
「そんな……モモカさんが……」
 サクラは唇を噛んだ。里を去るサスケを止められなかった二年半前の苦い記憶を思い出していたのかもしれない。
 火影公室の外から慌ただしい足音が聞こえてきて、扉が叩かれる。返事を待たずして、いのが飛び込んできた。
「綱手様! モモカさんが里抜けしたって本当ですか――!」
 いのは部屋に入るなり問いただしたが、公室内に揃った面々を見て気後れしたように口を結ぶ。
「……ああ、そうだ。イクルも一緒に消息が不明だ」
 綱手の返答にいのは目を瞬いた。
「そんな、本当に――……」
 いのは少し考え込んでいるような素振りを見せ、すぐにカカシを見た。
「それじゃあすぐにでも追いかけましょう。カカシ先生の忍犬ならきっと鼻も利くし――」
「いの、もういいんだよ」
 カカシは静かに告げた。いのが耳を疑うかのようにカカシを凝視する。
「いいって――どうして――? よくないですよ、追いかけないと――」
「モモカはもう朝早い時間にはいなかった。アイツの足だ。きっともう、追いつけない」
 淡々とカカシは言った。いのは助けを求めるようにサクラを見て、サクラは困惑の表情でいのを見つめ返す。
「そんな――簡単に諦めていいんですか――モモカさんはカカシ先生にとって特別な人なんじゃないの――?」
 いのの声は震えていた。カカシは答えない。
「……病室のあの花、あれ……カカシ先生ですよね? ミセバヤの花――……。そんなに大切なら、どうしてちゃんと気持ちを伝えて、引き留めないんですか」
「いの!」
 思わずサクラが口を挟んだ。サスケを引き留められなかったサクラとしては、カカシに向けたいのの言葉は余りに酷だと思った。どんなに願っても、望んでも、繋ぎ止められない人は、いるのだ。
「いいよ、サクラ。本当のことだ。俺は引き留めたりしていない。あの子達はあの子達の選択をしただけだ。道が違うことを、止めたりはできない」
 穏やかにカカシが言う。いのは火影の手前ということも忘れて眉を吊り上げた。
「どうして! 先生はいつもそうなの! もっと必死にならないの! 離れ離れになって――モモカさん達が何を目的としているかは分からないけれど――里から離れて――危険な目に遭って、死ぬかもしれないのよ!」
 いのは涙ぐんですらいた。優しい子だ、とカカシは思う。
「モモカは死なないよ。あの子自身が、そう言ったからね」
 遠くを見つめるようにカカシは言った。そんなあやふやなものを拠り所にするカカシは珍しいと、痛切な心持でシズネはカカシを見つめる。
「でも……それでも! それじゃあ! 死なないにしてもたとえば五体満足じゃなくなったりして、不幸な目に遭ったらどうするの? 身も心もぼろぼろになってしまったら――?!」
 いのは最早なりふり構っていなかった。サクラはハラハラと成り行きを見守っていたが、一つ瞬きをしたカカシの力強い瞳を見てドキリとする。

「その時は、俺が一生面倒見るよ」
 何の躊躇いもなく宣言するカカシに、問い詰めたいのでさえもポカンとしていた。

 担当上忍の見たことのない一人の女を想う姿に、確固たる覚悟に、サクラも穴の開くほど彼を見つめる。背後にいる綱手が笑った気配がして、サクラは我に返った。振り返るとシズネもサクラ同様驚きの表情をしていたけれど、綱手の口元はやはり、少し綻んでいた。
「……まだ意図が分からないからな。モモカ達をすぐには指名手配にはしない」
 綱手は真っ直ぐな瞳で未来を見ていた。
「もちろん里に危害を加えるようであれば容赦はしないが――あいつは里の仲間だ。むざむざ手放したくはないさ……」
 綱手はここ最近の疲れが全て消えたようなどこか吹っ切れた顔をしている。
「けど誰よりも、お前が諦めるんじゃあないぞ」
 綱手はしたり顔でカカシに言った。カカシは穏やかに頷く。
「言われなくても」



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