蝉の声は、相変わらず喧しかった
夏は、あらゆる生と死が交錯する季節だ。
虫の音が煩く響き、胸焼けするほどの草いきれが暴力的な程の生の苛烈さを持って押し寄せる。その一方で、どんなに強い存在であろうと、誰だってあっけなく死ぬ。生あるものは、皆平等に、どこまでも無慈悲に、何の配慮もなく、死んでしまう。目も眩むような太陽光と湿気を帯びた熱い空気が全てを飲み込むのだ。真っ白に、人の感じる罪の意識や使命など浅はかなものだと嘲笑うかのように、白日の下に晒す。その光が強烈であればあるほどに影は濃く、はっきりとした陰影がより生と死を際立たせた。
猿飛アスマの訃報をモモカが知らされたのも、夏真っ盛りの日だった。
よく晴れた日で、真っ青な空に白い入道雲がよく映えていた。暁について新たに入手した情報の報告に戻ってきた、真夏の早朝のことだ。火影塔の四階、外部に張り出した手すり付きの露台で、まだ太陽の暑さが鳴りを潜める時間帯。アスマの死を告げる綱手の声は決して大きくはなかったけれど、煩く鳴く蝉の声にかき消されることはなかった。足元に目を落とす里長の顔には幾つもの死を見てきた者の深い苦渋の色が滲んでいる。夏の鮮やかな陽射しが無情に彼女の悔恨を照らし出した。
「アスマさんが……」
モモカは晴天を仰いだ。
目も眩むような青。コントラストの強い大きな雲。この季節だけの命が共鳴するかのように鳴く耳障りな音。
そういえば、ハヤテが死んだのも、生命がひしめき合うようなこんな暑い季節だった。だからだろうか、モモカの中で夏は死を連想させた。こんなにもあおあおとした生命がひしめき合う中で、余りにもあっけなく、人は死んでしまう。
「飛段に……角都……」
下手人の名を口にしてモモカは唇を強く噛む。
知っていたのに。一度相まみえているのに。あの時殺していれば。モモカに彼らを殺すだけの力があったのなら、アスマは生きて里に帰ってきたのだ。
「いらぬことを考えるなよ」
綱手が語気を強めて言った。モモカはぼんやりとその顔を見つめる。依然として自分の爪先を見つめたまま、彼女の方こそ、後悔を噛みしめているような表情だ。
「……紅さんは」
アスマと想い合っていたくノ一の顔を思い出してモモカは尋ねた。
「シカマルから話した。奴が自分の口から言いたいと申し出た。今はまだ……現実を受け入れるには時間が足りない」
「そう、ですか」
モモカは無表情に頷く。師を死なせてしまったことを自ら告げるなど何て酷なことだろうと思ったけれど、シカマルなりの罪滅ぼしなのかもしれない。
モモカがじっと考え込んでいると、徐に綱手が顔を上げた。
「一緒に来てくれるか」
モモカは頷く。どこへかは分からなかったけれど、黙って綱手の後に付いていった。
人気の少ない朝の里を通り抜けて綱手が向かったのは里の外に通じる東門だ。門の向こうに、歩いていく三つの人影があった。
「待て」
綱手が彼らに声をかける。振り向く彼らは、シカマル、チョウジ、いの――アスマ班の子達だった。
「どこへ行く気だ?」
厳しい顔で問いただす綱手に、モモカは彼女が自分を同行させた理由が分かった。いのとチョウジは緊迫した顔でこちらを見ていたが、シカマルは珍しく煙草をふかして落ち着き払った瞳を里長に向けている。
「任務命令は継続中っすよね……まだ十八の小隊は散らばって動いている。俺たちは新しく隊を編成してこれから任務に向かうとこっすよ」
険しい綱手の視線に物怖じすることなくシカマルが言った。
「身勝手な行動は許さん! 敵が戻ると言ったポイントにはちゃんとした小隊を送る」
綱手は百戦錬磨の瞳でシカマル達を射抜く。
「シカマル……お前はこちらで再編成した小隊に組み込む。そしてしっかりとした作戦を立ててから行かせる」
綱手の言葉にいのとチョウジは声を呑んでいたが、シカマルは落ち着いた表情で綱手の顔を見つめ返していた。
「後で増援送ってくれればいいっすよ。いのとチョウジと俺の線ですでに作戦も立ててありますから」
「いい加減にしろ!!」
綱手が声を大きくした。怒声の後にはやたらと蝉の声が響く。強い死を感じさせる儚い生命の声だ。綱手は一人一人の目をしっかり見た。
「アスマは死んだ。今のお前らは三人きりだ……。小隊は四人一組が基本だ! 隊長のいない前らに……」
「アスマは俺たちと共にいる」
綱手の言葉なんてまるで堪えていないかのようにシカマルが言う。モモカはハッとした。モモカも知っていた。感じていた。死んだ人は目に見えないけれど、常に傍にいて、見守っていてくれることを、確かにモモカも知っている。いつだって、ハヤテがモモカ達を見ているように、アスマもまた彼らを見ていることをきっと、シカマル達は無意識に理解しているのだ。
「弔い合戦でもするつもりか! お前らしくもない……。犬死にしたいのか!」
語気を強めて、しかし諭すように綱手は言う。弔い合戦。モモカはその言葉を脳内で反芻する。そうかもしれない。でも、きっと、そうじゃない。彼らにしか出来ないことがあるのだ。
シカマルは咥えていた煙草を指で挟み、ひと際深く煙を吐いた。
「俺達だってバカじゃないっすよ。死にに行くつもりなんて毛頭ないっすから」
当初と変わらぬ落ち着いた声でシカマルは話す。彼は一旦言葉を切って再び煙草を咥えた。
「ただ……、このまま逃げて筋を通さねえまま生きていくような……そういうめんどくせー生き方もしたくねーんすよ」
シカマルの顔には決意が滲んでいた。シカマルだけじゃない。横に立ついのとチョウジもまた同様だった。その瞳を見れば、彼らがアスマの仇に命をくれてやる気は更々ないことも、負ける気も、もちろん逃げる気などないことは、モモカにも分かった。綱手は眉間に皺を寄せたままの険しい顔でシカマル達をじっと見据えている。
「行ったらいい」
綱手が何か言うより早く、モモカが口を挟んだ。驚いた顔で綱手が振り向く。
「モモカ! お前にはこいつらを煽るためじゃなく……冷静に止めてもらうために付いてきてもらったんだぞ!」
綱手がモモカを睨んだ。モモカは真っ直ぐその瞳を見返し、そして少し面食らうシカマル達の方に視線を向ける。
「行ったらいいよ。いつでも仇が討てるとは限らない。目と鼻の先に殺したいほど憎い相手がいても、怒りも無念も飲み込まなきゃいけない時だってあるんだ」
淡々と話すモモカは、ハヤテのことを思い出していた。そして彼を殺した、今は同盟国である砂の上忍バキのことを。
「私も一緒に行くよ」
突然のモモカの申し出に、誰もが呆気に取られた。
「飛段と角都には一度会っているし、力になれる」
「お前には別の任務があるだろう! 自らの使命を放棄する気か」
綱手の指摘に自来也の顔を思い出して、モモカは思わず口を紡ぐ。
「成長しろ……。忍には死がついてまわる。時には受け入れ難い死もある。それを乗り越えねば未来はない……」
地面を見つめる綱手は、遠い過去の大切な誰かを見ているようだった。彼女もきっと、余りに多くを失ってきたのだろう。
「この形見の煙草……これをふかしってとアスマ先生が近くにいるような、俺らを守ってくれているような……そんな感じがするんすよ」
シカマルは猶も譲らない。綱手は里を守らねばならぬ長として、そして多くを失ってきた一人の大人として、信念を持って彼らを諭すように見つめた。
「現実を見ろ。お前らは三人だ……」
「小隊は四人いればいいんですよね」
しかし綱手の説得に声をあげる者があった。
「……カカシ、お前」
「カカシ先生!!」
綱手は目を見開き振り向き、チョウジは嬉しそうな声を出す。カカシが門柱に背をもたれさせて腕を組み立っていた。モモカもまた驚きと共に気分が持ち上がったが、しかし一瞬後にはすぐに、もやりと、心に黒い雲が広がる。
「第十班には隊長として俺が同行します。それでどうですかね」
「お前……!」
カカシの提案に綱手は苦い顔をした。
「止めたところでこいつら行っちゃいますよ。だったら俺が付いていけば監視役にもなりますし……無茶はさせませんから」
カカシが綱手に近付いて耳打ちする。モモカは飄々としたカカシと、眉を寄せる綱手とを複雑な面持ちで見つめていた。
「分かった……好きにしろ」
観念したかのように掠れた声で綱手は言い放つ。「どうも」とカカシは微笑み、チョウジといのはほっとして喜んだ。
もやもやとした暗雲が立ち込める胸中に、モモカは何と言ったらいいか分からなかった。醜く淀んだ感情を持て余して、黙ってカカシを見送ることなど出来ずに、彼の上衣の裾をそっと掴む。
服を遠慮がちに引っ張られてカカシはモモカを振り向いた。
自分達の時は、そんな配慮をしてくれなかった。上長に物申したり、敵討ちに同行したり、ここまで心を砕いてくれなかった。最も近い言葉で括るなら嫉妬という感情が渦巻いて、しかしどれもこの場で口にするには余りに身勝手すぎる。
「……気を付けて。強敵です」
結局モモカは当たり障りのないことを言ってカカシの服から手を離した。
「その強敵のところに、今まさに同行しようとしてたのはモモカだろ」
カカシは呆れたように言う。モモカは暗い瞳で頷いた。俯くモモカの頭に、不意にカカシの大きな手が乗せられる。モモカは驚いて彼を見上げた。
「後悔ばっかりの俺だけど……もう後悔したくないんだよ」
カカシはモモカの左手の傷跡に視線を向けた。モモカが二年半前に自分で刺した傷だ。
「お前らのこともそうだ。あの時のことも……。でも過去があるから今この選択があるし、少しずつでも、前に進めているんだ。どっかの泣き虫が、俺にそうさせているんだよ」
モモカはまじまじとカカシの顔を見つめる。いつもの何を考えているか分からない表情だけど、彼は悔いているのだ。ハヤテを殺されたモモカ達に寄り添えなかったことを。その結果モモカが傷を負い、間接的とはいえ今や三人バラバラになってしまったことを。同じことを繰り返すまいと、彼は抗い戦い続けているのだ。
カカシの手はモモカから離れ、にっこりと微笑む。
「大丈夫、誰も死なせやしないよ」
カカシの言葉はいつだってモモカの心を照らす。胸に広がる黒い雲は、あっという間に消え失せて晴れ渡った。カカシの持つ力は、戦いの強さだけじゃない。写輪眼の瞳術だけじゃない。モモカの心の暗い影を見抜いて、照らすことの出来る、尊い力を持っているのだ。モモカは頷き、偉大な忍の背中を見送った。
そしてモモカもまたすぐに里を発たなければならなかったが、その前に紅を訪れた。会った所でどんな顔で何を話せばいいか分からないけれど、アスマを失った彼女に会わずして里を発つことは出来ないと思った。
彼女は自宅にいた。呼び鈴を鳴らして、しばらく経ってから顔を出した。その表情は虚ろで、モモカを目に映すと俯く。モモカは深い悲しみを覚悟していたにも関わらず、狭い団地の玄関先で、何も言えずに紅と二人立ち尽くした。
いっそのこと、泣いてくれた方が良かったかもしれない。気休めの言葉なんて、言えるはずもなくて、モモカは黙って彼女を抱き締めた。モモカがハヤテを失った時に、あるいはトウキとイクルを失って里に帰ってきた時に紅がそうしてくれたように、彼女の体を強く抱きしめた。紅の体はこんなに細かっただろうか。肩回りはこんなに華奢だっただろうか。モモカの記憶にある紅は心身ともに強くぶれない信念を持ったくノ一だった。しかし今や壊れそうな顔で、その瞳には苦痛以外の何も映してはいない。紅が涙を流さないのは我慢をしているからではなく、きっと泣きつきしたのだ。泣きつくして涙が枯れるほどの激しい哀しみを、モモカも知っていた。壊れたような彼女の表情は見ていられないしその悲しみに触れるのも苦しかった。けれどモモカは同化を絶つことなく、彼女の感情に触れた。
悲しみ、怒り、憎しみ、喪失感。あらゆる負の感情が激流のように流れ込んでくる。アスマのいなくなった世界は無意味で、その感情の全てでさえも何の意味も成さないのだと紅の心が言っていた。愛する者を失った女は、こんなにも脆く、弱い。立って、息をしているのが不思議なくらいだった。
しかしモモカは激しい感情の流れの中に、一筋の光を見出した。不思議に思ってその出処を探る。それは、間違いなく紅自身の中にあった。
モモカは抱きしめる腕を緩めて正面から紅の顔を見た。
「……紅さん……もしかして……」
紅は虚ろだった目をモモカに向ける。段々とその焦点が合ってきて、彼女は懸命に微笑んだ。その頬に一筋、雫が伝う。涙は枯れたと思っても、尽きない。そうだ、尽きることなどないのだ。その雫の輝きはまさしく、モモカが紅の中に見出した光のようだった。
紅の中には、確かにもう一つの命があった。
その命が、深い悲しみに暮れる紅に生きる力を授けていた。へその緒を通して栄養を与えられなければ死んでしまう儚い命が、彼女に未来への光を見せていた。愛する者を失った女は、脆く、弱い。
しかし、守るべきものが出来た女は、こんなにも、美しく、強いのだ。
里を発ったモモカは東の空に浮かぶ月を見上げてカカシの無事を祈った。もしもカカシが殺されるようなことがあれば、きっと自分は正気じゃいられない。
モモカは傷つき、疲れ果て、全てを投げ出しかけても、なおも生きようとする紅の涙の輝きを網膜に焼き付けた。そして、トウキとイクルのことを想った。
「二人とも……こんな時に、一体どこで……今何をしてるんだよ……」
モモカは苦々し気に一人呟く。結局、二人はアスマと再会出来なかった。二人が生きていたとして、もうアスマと言葉を交わせることはないのだ。日中の熱を吸い込んだ大地の匂いをモモカは吸い込む。蝉の声は、相変わらず喧しかった。
二人に会った時に言いたいことだけが、どんどん積もっていく。皆が、死んでいく。直接言葉を伝えることが出来ない人ばかりが増えていくのだ。