今を必死に生きるしかないのだ


 モモカがその事実を知ったのは今年初の夏日になった日だった。
 木の葉の里は既に梅雨明けしていた。からりと晴れた夏の陽射しは火影公室の中程までに差し込み、モモカの膝までを照らす。窓を背に座り太陽光の熱と光を背負った綱手はいつものように机の上で手を組んでモモカの報告を聞いていた。
 新たに得た暁についての情報と、イタチと鬼鮫に遭遇したことを話し終えると、モモカは綱手の方からも何か言いたそうな空気を察した。彼女は気遣わしげな目でモモカを見つめる。
「私からもお前に報告することがある」
 綱手が手を組み直した。夏の日がくっきりとした陰影を机に落としている。
「ナルト達第七班――寝込んでいるカカシに代わってヤマトという男をリーダーにし、さらにサスケの代わりに入ったサイという男を加え新たに編成した第七班だが――彼らがサソリの情報を元に天地橋に赴き薬師カブトと接触した。その後大蛇丸のアジトに向かい大蛇丸、そしてサスケと会ったんだがな――ああ、まあ、奴らには逃げられた――しかし――……」
 綱手は言葉を切った。嵐の前の静けさのような、熱情をはらんだ瞳だ。

「そのアジトで、鳥吉の次男坊……お前のチームメイトだったイクルが居たそうだ」
 綱手の言葉にモモカは目を見開いた。
 立ち尽くしたままで何も言えずに、息をすることさえ忘れて里長の顔を凝視する。
 生きて、いたのだ。
 本当に生きていたのだ。殺したと思っていた。確かにモモカの雷切が彼の胸を貫いた。けれど、彼はまだ生きて、この世界のどこかに存在しているのだ。
 モモカは膝を付く。身体に力が入らなくて、冷静になろうと深呼吸をしたら内臓という内臓が口から出そうだった。震える手で胸を押さえる。イクルが生きているという事実が、モモカの胸を貫き、しばらく動けないでいた。窓の外で鳴く蝉の声ばかりが、やけに煩く響く。
「そ、それで……イクルは――」
 どうにか呼吸を落ち着けてモモカは聞いた。綱手が厳しい顔をして首を振る。
「大蛇丸と共に去ったようだ」
「去った……?!」
 モモカは必死の形相で考えを巡らせた。そもそも何故大蛇丸のアジトにいたのだ? モモカが殺したと思ったあの後、大蛇丸に拾われたのか。捕虜として働かされているのだろうか。そうだとしたら、何故逃げたのだ。
 唖然として黙り込んだモモカを綱手は窺うように覗き見る。
「大丈夫か」
「何が――はい――」
 モモカは訳も分からずに返事する。綱手の視線は初めてモモカと対峙した時のような、心の内を探るような鋭さがあった。
「最悪な状況も、想定しておけ」
 綱手の言葉にモモカは息を飲む。彼女の言わんとすることが嫌でも分かった。最悪な状況とは、つまり、イクルが大蛇丸の側について、里の敵となるということだ。
「そんな……まさかイクルが……」
 モモカはイクルの顔を思い出す。中性的でいかにも良家の子息といった出で立ちで、その物腰は柔らかだけれどモモカやトウキの前で見せる勝気な顔は好戦的でもある。勝気に笑って見せるあの顔が、モモカは大好きだった。
「もちろん事情もあるんだろう。ただ、可能性の一つとして考えておいた方がいい。もし本当に奴が向こうに付いた時に、必要以上に狼狽えない為にも」
 綱手の声にはモモカへの配慮と心配が滲んでいたが、有無を言わさない力強さもあった。モモカは立ち上がり正面から綱手の意志の固い瞳を見つめる。そうか――綱手は、かつての仲間に裏切られたのだ――大蛇丸という男に――……。そのショックと絶望は、モモカには計り知れない。そして何より、今の彼女は他のどんなものよりも里を最優先しなければならない位置にいた。
「……とりあえず、生きていることが分かっただけでもよかったじゃないか」
 肩を落とすモモカに、急に優しい声音になって綱手が語り掛ける。モモカは静かに頷いた。
「想定は必要だが、必要以上に悪い想像を抱くこともない。詳しい話は実際にその場に居合わせた第七班の面々から聞いた方が早いだろう」

 モモカはまずサクラを訪ねた。彼女は同じ火影塔内の医務室にいたためすぐに捉まった。いのと、もう一人見知らぬ少年が一緒だった。いのはたまたまその場に居合わせただけの様だ。
「あ……モモカさん」
 モモカを見るなりサクラは不安げな瞳を向ける。
「イクルについて聞きたいんだ」
 モモカは時間が惜しいとばかりに切り出した。サクラも聞かれることを想定していたのだろう、短く頷いて話し出す。
「……はい。天地橋からほど近い大蛇丸のアジトに私たちは潜入しました。そこは地下に入り組んだような造りになっていて、その一室にイクルさんはいたそうです」
 サクラの説明にモモカはじっと耳を傾けていた。
「見つけたのはナルトとここにいるサイです。私とヤマト隊長、ナルトとサイでペアになって捜索している最中のことなので私は直接は見ていないんですけど……」
 サクラは後ろのサイという少年に視線を向ける。黒髪の整った顔立ちの少年だった。真っ直ぐに見据えるモモカに狼狽えることもなく、無表情で見返してきた。
「君がサイ……よろしく」
 モモカは握手を差し出す。サイはじっとその手を見つめ、ややあって握り返した。
「初めまして」
(この人が根でも有名なモモカさん)
(危険人物ということだ)
(鳥吉のチームメイトだった)
 わずか一瞬で手と手は離れる。
「詳しく教えてくれるかな」
 モモカは努めて穏やかに尋ねた。彼が根の者であり、ダンゾウの部下で、さらにモモカを警戒していることが、モモカにもまた警戒心を与えた。
「はい。サクラの言った通りアジトを捜索中の一室で彼と会いました。僕はすぐには誰だか分からなかったのですがナルト君が気がついて、それで僕も分かりました。それからナルト君が何でこんな所にいるのか、何故里には帰らないのかと聞きました。そうしたら彼はまだやるべきことがあると答えました。やるべきことが何かは教えてくれませんでしたが。それに、第一自分は大蛇丸の捕虜だからそう簡単には帰れない、とも。それじゃあ一緒に帰ろうというナルト君には応じず、彼はその場から消えました。僕たちはその後大蛇丸、薬師カブト、サスケ君と戦闘をし、彼らはアジトから去りました。帰る前にもう一度アジト内部を捜索しましたが既にイクルさんの姿はなかったです」
 モモカは口を挟むことなく、淡々と説明するサイの言葉を聞いていた。いくつかの疑問はある。サイの口ぶりは、彼がイクルについて何かしらの前情報を持っていそうな気配があった。
 モモカは焦れる胸中を表情には出さずに、しかし大胆にもサイの肩に腕を乗せた。サイが驚きの表情でモモカを見る。
「そう……部屋の様子はどんなだった?」
「普通の個室のようでした。捕虜というよりかは、配下として一室が与えられているような」
 サイは急に距離を詰めたモモカに戸惑いながらもすらすらと答えた。サクラがモモカを気遣って「ちょっと」とサイを窘める。いのは唐突に際に距離を詰めたモモカを怪訝な顔をして見ていた。触れたサイからその情景のイメージが伝わってくる。地下の薄暗い一室。蝋燭の仄かな明りに照らされるイクルの顔。モモカの知っているイクルよりも背はずっと伸びて、けれどその顔は紛れもなく、何年も一緒に戦って苦楽を共にしてきたイクルのものだ。色素の薄い髪。陶器のような肌にすっと通った鼻筋。眉はきりりと角度が付いて、手は筋張っている。イクルは暗い湖のような瞳でサイとナルトを見つめている。
 涙が、出そうだった。
 モモカはサイの肩を抱き寄せるようにさらに距離を詰めた。
「それで、どうして君はイクルのことを知っていたの?」
 モモカの質問にサイもサクラもいのも不快感を示すように眉をひそめる。
「ナルトが気付いて、それで君もイクルが分かったってことだけど、元々知っていたから分かったんだよね? 誰から、何を聞かされていたの」
「……鳥吉はこの里では忍鳥育成の要になっている有名な商家ですから」
 モモカの目を臆することなく見つめ返してサイは答えたが、モモカには思考が直に伝わってきた。
(僕を疑っている)
(ダンゾウ様から仰せつかっていることを)
(鳥吉のイクルという者も危険視していることを)
 モモカは氷のような微笑みでサイを射竦める。
「そう。それじゃあその鳥吉について、ダンゾウ様からはどんな任務を命じられているのかな」
 サイの動揺が伝わってきた。
(なぜ知っているのだろう)
(僕の任務じゃない)
(しかし必要があればイクルさんも消さなければならない)
(鳥吉と根との会合がある)
(両者の取り決めの内容までは一配下の僕は知らない)
「モモカさん、何を――」
 たまらずサクラが口を挟む。尋問するようなモモカの様子に不信感を覚え、サイを庇おうとしていた。
「残念ですが、僕はダンゾウ様についてはお話できません」
 サイは静かに言った。モモカは彼の舌に刻まれた呪印を、同化を通して見る。しかし心の中の漣をこれだけ表面に出さないのだから根というのは大したものだ。
「そうか、それは本当に残念だ」
 モモカは取ってつけたように言い、ようやくサイから離れた。サクラといのが窺うような目で見つめている。これ以上、サイからは何も出てこないだろう。
「ナルトは?」
 モモカの問いにサクラはすぐには答えず、身を竦めるようにしてじっとモモカを見ていた。
「ナルトはカカシさんと修行している。恐らくヤマト隊長も一緒だ」
 代わりにサイが答える。
「ありがとう」
 礼を述べて立ち去ろうとするモモカを、サクラが呼び止めた。
「――モモカさん、確かにサイは口も悪いし人の気持ちもあまり考えられないし怪しいかもしれないけれど……一緒にサスケ君を連れ戻すために戦ってくれたんです。命をかけて、必死に戦ってくれた。だから、あんまり疑うようなことを言うのは……」
 サクラは恐る恐る、しかしはっきりとした口調でモモカに訴える。モモカは振り返り、サクラに向けて微笑んだ。
「そう。私も一緒だよ。仲間を取り返すために必死なんだ」
 
 火影塔を出たモモカは仙人モードで気配を探る。ナルトの気配は無数にあった。恐らく影分身だろう。そのほとんどは里の外れにある演習場にいるが、一体だけ近い所にいるものがあった。モモカはまずそちらへ向かう。
 それは奈良家の軒先だった。アスマと彼の教え子であるシカマルの気配はあったが、ナルトの気配は既にない。モモカは縁側で将棋を指す師弟を目にした。日は高くなり、ますます気温は上がっていたが、日陰になった縁側は風も良く通り心地よさそうだ。
「今度はお前か」
 アスマがモモカに気付いて苦笑する。ナルトはやはりいなかった。
「ナルトが来てませんでしたか」
 モモカの問いにアスマは真剣な顔つきになる。
「さっきまでいたがもう戻ったよ。来てたのは影分身だ――……イクルのことだろう?」
 アスマも、イクルの目撃情報があったことは聞き及んでいるらしい。将棋盤を挟んで座るシカマルがもの問いたげな顔でアスマとモモカを見上げた。
「……ナルトは修行中と聞きましたが何の用だったんですか」
 駒の並んだ将棋盤を見るともなしに眺めながらモモカは聞く。シカマルの方が優勢のようだった。
「ああ、性質変化の修行をしているらしくてな。同じ風の性質変化を持っている俺にコツを聞きに来たんだ」
 煙草に火を付けてアスマが言う。
「風……ですか……突進力がある。接近戦向きだ」
 モモカは遠い目をして独り言のように呟いた。
「……トウキが……欲しがっていた」
「トウキが?」
 小さな声をアスマは聞き逃すことはなかった。しばらくモモカはどこかを見つめるように黙っていたが、目を伏せて頷く。
「はい。接近戦に強い風か、火……最低でも雷がいいと。彼の性質変化は土でしたから。守りには向くけれど、火力には欠けると」
 アスマは空を仰いで生意気な顔を思い出した。咥え煙草の煙が雲と馴染むことなく流れる。
「あいつらしいな」
 アスマは表情をやわらげて、モモカも少しだけ口元を緩めた。
「何よりあなたに憧れていましたから」
 モモカの言葉にアスマは夏空から目を戻す。
「次会ったら、百年早えって言っとけ」
 鼻を鳴らすアスマの顔は優しかった。目撃されたのはイクルだけで、トウキの消息は依然として分からない。けれどイクルだけじゃなくきっとトウキも生きているのだと、モモカを励ましてくれているようだった。
「嫌ですよ、自分で言ってください」
 モモカの減らず口に、アスマは酷く懐かしい気持ちになって頭を掻く。こいつらはきっと大丈夫だろう、どうか大丈夫でいてくれと、変わらぬ絆の強さにそっと願った。

 アスマの元から里の外れまで走って十分だ。その演習場には気配で察知した通り、無数のナルトが居た。ここに来てようやく、ナルトが影分身を用いて経験値を増やす手法を取っていると気が付く。モモカも過去にしたことのある修行方法だ。最も、チャクラを分散させる影分身で修行などモモカは一体が限界だった。ナルトの数は目を疑う程に多く、確認できるだけでも三桁――いや、下手したら四桁はいそうだった。うずまきの血の持つチャクラの潜在量には舌を巻くばかりだ。
 モモカが様子を窺っていると本を読みながらカカシが近付いてきた。
「よっ」
 軽い挨拶をしたカカシにモモカは会釈する。久しぶりに会うと、どうしてもどぎまぎしてしまう。
「ナルトに聞きたいことが――」
「イクルのことだろう」
 カカシもやはり、言い当てた。
「どれでも好きな奴に聞くといい」
 無数のナルトを眺めてカカシは言う。この暑さもものともせずに、大勢のナルトは木の葉を切り裂くことに熱中していた。奥にはナルトの影分身じゃない姿もいることにモモカは気付く。彼が恐らくヤマト隊長だろう。見たことのある男だ。確か暗部の者で、かなりの実力者だったはずだ。彼もカカシと話すモモカが気になるようで、猫のような目でこちらを観察していた。
 カカシは近くにいるナルトを呼び止める。「いいとこだったのに!」と文句を言いながらナルトは駆け寄ってきたが、モモカをその目に認めると目的を察したらしく神妙な顔を見せた。
「ねーちゃん、ごめん俺……イクルのにーちゃんも、連れて帰れなかった」
 ナルトの第一声にモモカは面食らう。何故彼が謝るのか理解できなかった。心底悔しそうに俯くナルトをまじまじと見つめて、彼が皆から愛される理由が分かった気がした。
「……ナルトが謝ることじゃないよ」
 モモカは心の底からの気持ちを口にする。ナルトが顔を上げた。
「ナルトがサスケを諦めないように、私も諦めていない。イクルが生きているって分かっただけでも大前進なんだ。ありがとう」
 モモカは微笑む。ナルトは力強い瞳で頷いた。そしてどうしてだか、誰よりも嬉しそうなのはカカシだった。
「その時の状況を聞かせて」
 ナルトは非常に説明が下手くそだったが、要約するとサクラとサイから聞いたこととほぼ同じ内容だった。ナルトの肩に触れてナルトの目から見たイクルを覗く。サイよりも近い距離だった。必死にイクルを里に帰そうとするナルトの想いが痛い程に伝わってきて、不覚にも泣いてしまいそうだった。
「ナルト、本当にありがとう……」
 モモカはすっかり青年らしくなったナルトの逞しい方からそっと手を離す。

 修行に戻っていくナルトの背を眺めて、モモカは一つの決意を胸に秘めていた。しきりに鳴く蝉の声が、今を必死に生きろと訴えているようだ。
「何を考えている?」
 本を読んだままでカカシが尋ねる。モモカはカカシを控えめに見上げ、言うべきか躊躇った。カカシを巻き込みたくないという気持ちが半分、言ったら止められるかもしれないという危惧が半分だった。
「こら」
 黙り込むモモカの頭を、カカシが小説でポンと軽く叩く。自分を知り尽くしたこの男に嘘は通用しないだろうとモモカは観念した。
「さっきサイを同化で覗いた時に、イクルについての良くない思考が見えました。サイ本人もその詳細は知らされていないみたいですが……。本日、根のダンゾウ様と鳥吉の者との会合があるようです」
 モモカの言葉にカカシは表情を変えることはなかった。大勢のナルト達が懸命に小さな葉っぱにチャクラを込めるのを眺めている。
「忍び込むつもりか」
 静かにカカシが尋ねた。モモカもナルトに目を向けて、夏の陽射しに目を細める。
「それが一番の近道ですから。……下手はしません。今夜にもまた里を発たなければいけないし……少し、情報を集めるだけです」
 生温かい風が草いきれを運んで、その生命力の強さに眩暈がしそうだった。もう一度仲間に会いたい。その為なら多少の危険だって冒せる。そう思うことは、悪いことだろうか。
「止めないでください」
 モモカは決意の滲んだ声で言った。
「止めないさ」
 カカシが否定したのが少し意外で、モモカは彼を見上げる。
「でも、一人で行かせたりもしない」
「……え?」
 モモカは間抜けな声で聞き返した。カカシはいつもの掴みどころのない表情だ。この男は本気で言っているのだろうか。木の葉の誇れるあのはたけカカシが里内部の上層部のところへ侵入など――巻き込んでしまう、どころではない。
「なに、モモカは上手いことやれるだろうが俺も――いやまだ俺の方が、だ。二人でなら、なおさらだ」
 事も無げにそう告げるカカシの顔をモモカはまじまじと見つめた。彼は失敗する気は微塵もないようだった。
「二人だとより成功率は上がる……だろう?」
 確かにカカシが同行してくれるならばどれだけ有難いか。
「でもナルトの修行は……」
「ちょっとくらい俺が居なくたってヘーキヘーキ」
 口ごもるモモカに軽く言ってのけて、カカシは瞬身の術でヤマトの元へ移動する。二、三話して、ヤマトが何か文句を言ったのが見えて、カカシは飄々とした顔のままで再びモモカの隣に戻ってきた。
「じゃ、行こっか」
 まるで食事に行くかのような気楽さで言うカカシに呆気に取られてしまう。ちらりと演習場を振り返ればヤマトが恨みがましい目でこちらを見ていて、モモカは慌ててカカシの後を追いかけた。

 サイから得た情報だと会合は鳥吉の家で行われるとのことだ。
「カカシさん、これを」
 鳥吉の屋敷に向かう道中、モモカはカカシに札を差し出した。
「これは?」
「気配を限りなく零に近づけるための忍札です。里に昔からある潜入調査用の忍札にイクルがさらに術式を加えたもので、噛んでいる間はほとんど気配もチャクラも察知出来ません。しかしその間は制止していなければならないという制約はありますが」
 カカシは忍札を一瞥すると受け取り日光にかざして観察する。
「これまた便利なものを作るね。今回のような潜入調査には打ってつけだ」
 過去のイクルを褒められて、モモカまでも誇らしい気持ちになった。しかしカカシとしては、年端も行かない少年少女達がこんな代物を器用に作り上げてしまう才能とバイタリティに感心すると同時に、それをさせてしまう大人に不甲斐なさも覚えていた。彼らは、彼らだけで知恵を絞って生き抜くしかなかったのだ。元々規則なんてものを歯牙にもかけないきらいはあったが――あの頃の彼らに頼る大人はそれ程までにいなかったのか。
 カカシは忍犬を三頭口寄せした。サングラスをかけたアキノ、小型のビスケ、モヒカンみたいな前髪のシバだ。
「なんだ、里の中で何を探ろうってんだ」
「まあそれは後でおいおいね……皆は周囲を見張っといて」
 カカシは三頭に手際よく指示を出して忍犬達は散らばる。砕けた口調から、忍犬達との信頼関係の強さが窺えた。
 モモカとカカシは鳥吉の屋敷に侵入する。何度か来たことのある家だ。けれど里に帰って来てからは一度しか訪れていない。里に戻ってすぐに、イクルを死なせてしまった(と当時は思っていた)ことを謝りに来た時だ。それ以前もこの家に来た時は正門からお手伝いさんが出迎えてくれて、いつも同じ通路を通って真っ直ぐにイクルの部屋に案内されるものだから、その全貌はほとんど知らない。
 モモカはあらかじめ仙人モードで探った気配を頼りに二階の大きな客間に入った。くんくん、とカカシが匂いを嗅いで危険を確かめる。足を踏み入れた彼は、客間の中央に置かれた一枚物の板で出来た立派な机の上に書類が置かれているのを指で示した。
 モモカはそれをのぞき込んで眉を顰める。協定書、と書かれていた。木の葉崩しの時に不意にダンゾウの地下室に入ってしまった時に目にしたものを思い出す。昔からダンゾウと、鳥吉の間には何かしらの不穏な繋がりがあるに違いなかった。
「こりゃあ……だいぶ真っ黒だな」
 カカシが小さな声で呟いた。細心の注意を払ってモモカは書類を手に取る。
 鳥吉がイクルの身体に埋め込んだ金属とそれが及ぼす作用に関する記述。その成果をダンゾウに報告する代わりに根から対価として受け取る機密情報のこと。金属の仕入れ元の大蛇丸との決裂について――。流し読み程度に見ただけでも、腸が煮えくり返るような内容だった。やはり、イクルはこの家の実験体だったのだ。そしてその実験報告を対価に根との関係を有利に進める、いわば彼は交渉材料だった。モモカはイクルの顔を思い浮かべる。最後の方は、金属の入った左胸に痛みを訴えていた。チャクラを共鳴させる金属なんて、元来人間にいれて良い代物ではないはずなのだ。頭が良くて先を見据えて、時には斜に構えて大人を小馬鹿にするような節さえあったイクル。でも彼は誰よりも優しくて、この家の為に心を砕いていたことをモモカは知っている。何たる仕打ちだろう。一体イクルが何をしたというのだ。
 窓の外、遠くから遠吠えが聴こえた。カカシの忍犬のものだ。三頭のうちのどれかモモカには皆目見当が付かなかったが、カカシが瞬時に反応する。
「モモカ、間もなくダンゾウが来る」
 カカシが言ったのと同時にモモカは部屋の外に人気を感じた。緊張が走った。
 モモカは書類を寸分違わず元の位置に戻し、カカシは音もなく天井板を外す。カカシがひょいと天井裏に飛び乗り、手を差し出した。その手を取るのと部屋のドアノブが回ったのは同時だった。これ以上ない程に神経を研ぎ澄ませてモモカも天井裏に上がり、音と気配を殺して天井板を戻す。
 天井裏は、思いの外狭かった。
 そしてモモカは愚かにも尻ポケットに入った忍札を取り出すことが出来なかった。
「ささ、ダンゾウ様こちらです――」
 男の声がする。イクルの父親であり現鳥吉当主のものだ。
 ついにダンゾウが来た――。しかしモモカはそれどころではなかった。
 パイプと空調ダクトが何重にも走る狭い天井裏でモモカは仰向けになり、その上から覆いかぶさるようにカカシが乗っかっていのだ。
 そしてカカシの咥えた気配を消すための忍札を――当然そのためカカシは口布を外している――モモカもまた、咥えている。つまり八寸ほどの一枚の札の端と端をカカシとモモカはそれぞれ噛んで共有している状態だった。
 正直なところ、ついに物事の核心に近付いた緊張よりも、カカシと密着して、なおかつ顔と顔がこんなにも近いこの状況にモモカは錯乱しそうだった。暗い天井裏でカカシに組み敷かれたような体勢のまま、しかし忍札の効能を活かすためにはその体を微塵たりとも動かすことは出来ない。胸を突き破らんばかりにモモカの心臓は煩く鳴って、鼓動の音で居場所がバレてしまうのではないかと心配するほどだった。自分の顔は真っ赤になっているはずで、カカシが目線はモモカから外してくれたのがせめてもの救いだ。

「きちんと警備は付けておるんでしょうな」
 下からダンゾウの声がした。部屋に感じる気配は全部で四つだ。ダンゾウと、イクルの父親と、イクルの兄。あと一人はモモカの知らない気配だったが、恐らくダンゾウの付人だろう。
「もちろんです」
 鳥吉当主が商売人の愛想の良さで答える。
「私の所であれば余計な心配をしなくて済むものを――」
「ええ、ええ。そうでしょうな。しかし私たちは自分で自分で身を守る術を持たない。ですので、忍の本拠地に赴くのは気が引けるのでね」
 不満を漏らすダンゾウの言葉を遮るように喋るイクルの父の声には些かの苛付きが滲んでいた。ダンゾウが鼻を鳴らす。
「まあいい――本題だ」
 椅子を引く音と乾いた紙が擦れる音がした。しばらく沈黙が続く。
「ふむ……概ね了承できる、が」
 ダンゾウが低い声で唸った。
「イクルが里に連れ戻された時にこの屋敷で匿うというのは反対だ。大蛇丸の元にいるのが確かなら、里に帰ってきた時点で尋問にかけられ情報を取られる。あれの頭の中には情報の漏洩を防ぐための防衛術が何重にもかけられているとはいえ――木の葉の尋問部隊にかかれば秘術のことも明るみになるぞ。出来ることなら先に根が身柄を確保して、こちらで預かるのが最善だ。それが出来ぬなら火影達に情報が知られる前に殺すしかない」
 がたん、と椅子をひっくり返したような大きな音が響く。
「ちょっと待ってください――弟を殺すのですか」
 その声は若く、イクルの兄だろうということが分かった。
「口を挟むんじゃない」
 凄みの聞いた声で父親が制する。
「場数を踏ませようと、重要な会合にも近頃同席させているのだが、何分経験が少ない若造なもので、申し訳ない」
 一転して取り繕った穏やかな声音で彼はダンゾウに向けて言う。
「よろしいでしょう、先に根がイクルを確保してくれるならばそちらに任せましょう。しかし木の葉の正規部隊が先にイクルを見付けたらその時は――」
「まあ、なるべく早く情報源を消した方が鳥吉の為でしょうな」
「その時も根にお願いすることにしよう。しかし、それも敵わずに秘術の情報が漏れてしまったら?」
「ある程度、里との対立は覚悟するしかあるまい」
 沈黙が続いた。モモカはカカシと密着していることはすっかり忘れて、怒りで頭が沸騰しそうだった。今すぐ部屋に飛び降りて、ダンゾウもイクルの父親も殴り飛ばしたくて仕方がなかった。
「気がかりなのはあの小娘だ――同じ班員だった――」
「同じ班員――モモカさんかな」
「そうだ。あの小娘には何かきな臭い所がある。まさか貴方のご子息が秘術に関して喋るなどあるはずもないだろうが――油断してはならない。里に戻って来ても、接触させてはならん」
「分かりました……気を付けよう」
 それからしばらく紙と筆記具の擦れる音がして、協定は結ばれた。この家の次男であるはずのイクルの命なんて物としか考えない、愚かで反吐の出るような取り決めが交わされたのだ。
「下まで送りましょう」
 ダンゾウたちの気配は部屋から出ていく。しかし一人室内に残った気配があった。
「イクル……」
 痛切な呟きはイクルの兄のものだ。
「おい、見送りだ。早く来ないか」
 廊下から父親の声が聴こえて、彼は机を蹴飛ばした。
「……今、行きます……」
 掠れた声で弱々しく返事をして、彼も部屋から出ていく。それから数分もしないうちにまた遠吠えが聴こえて、ダンゾウが屋敷から去ったのだと分かった。
 部屋にも誰も戻ってくる気配がなく、モモカは肩の力を抜く。力を抜いても、怒りはちっとも抜けなかった。イクルに異物を埋め込み、交渉の材料とし、果ては殺そうとしているこの家も、それに便乗するダンゾウも、全員許せなかった。
 はらりとモモカの顔の横に忍札が落ちる。モモカが札から口を離して、カカシもまた離したからだ。
 怒りに支配されていたモモカは、カカシと目が合いドキリとする。
 その目は見たことがあった。キスをする一瞬前の、あの瞳だ。カカシの目線がモモカの目から口元に移動して予感は確信に変わった。カカシの顔が近付いてモモカはぎゅっと目を閉じる。
 しかし鼻と鼻が触れる程に近付いたところでカカシは止まった。おや、とモモカが思っているうちに唇がむに、と押さえられる。目を開けるとカカシが顔と顔の間に左手を挟み、その親指をモモカの唇に押し付けていた。
「はあ、あぶない――」
 あぶない? カカシの言葉にモモカは混乱する。
 カカシは起き上がりモモカから体を離すと口布を戻し、狭い天井裏で器用に身体を曲げていた。
「さ、バレないうちにずらかるぞ」
「……は、はい」
 余りにも何事もなかったかのようにカカシが言うものだからモモカはより一層当惑する。天井裏を移動してこっそり外に出るとすぐに忍犬が駆け寄ってきた。彼らに成功したことを告げ、おやつを与えるとカカシは口寄せを解除する。二人きりになって殊更に気まずかったが、カカシは何も言わなかった。

 二人は帰宅時間の人波に乗って里を歩いた。
「火影様に、一応報告しとくぞ」
「はい、お願いします――私はもうそろそろ行かなければならないので」
 カカシの申し出にモモカは頷く。日は長くまだ太陽が昇っているが、余り自来也を待たせてはいけない。
「秘術のことは?」
 カカシが声のトーンを変えずに聞いた。
「……私からは言えません」
「じゃ、モモカも知らないってことにしとくぞ」
 モモカは立ち止まってカカシを見上げる。
「いいんですか」
 カカシも立ち止まった。里に背くような行為になりかねないのに、カカシはどこ吹く風だ。
「いいさ。モモカがそうしたいなら……。それにな、秘術が何なのか俺は知らないが、モモカがその鳥吉の秘術について知っているということを、今は誰も知らない。ダンゾウも鳥吉の当主も。それを上に報告することでモモカが秘術について知っていることが向こうにも悟られてしまう可能性もある。モモカがそうであるように、情報を盗む術を持っている忍は少なくないんだ。本人にその気がなくたって、情報を持っている者が増えるのはそれだけ情報漏洩のリスクが上がるからな」
「ありがとうございます」
 カカシの説明はまさしくモモカが危惧していたことだった。モモカが鳥吉秘伝の忍鳥と感覚を共有する術を知っていることは、なるべく伏せておきたい。
 二人は再び歩き出し、里の目抜き通りまで出た。南に下れば、里外に出る門がある。
「お付き合いしてもらって……本当にありがとうざいました」
 モモカはカカシに頭を下げた。
「ん、気を付けてな」
 カカシが手を上げる。しかしモモカは動かずにカカシをじっと見つめた。
「あの、さっきのは――何ですか」
 どきどきと自分の鼓動が激しくなるのを感じながらモモカは尋ねる。カカシは頭を掻いて、困った顔をしてしまった。モモカは目を逸らしたくなるのを必死に堪えて、余りにカカシを真剣に見つめ過ぎたせいで背景の人々がぼやけて見えた。
「……なあ、モモカが思うほど俺は良い奴じゃないぞ」
 カカシが困り顔のままで地面を見つめて言う。
「良い奴……えっ?」
 モモカは回らなくなった頭で懸命に言葉の意味を考えた。カカシは小さく息を吐く。
「俺はモモカが理想を描いているような余裕のある大人じゃないし、理性的になれないこともある――……要はつまらん、その辺にいるような一人の男だ」
 モモカは必死になってその言葉を咀嚼した。
「……出来心ってこと?」
 思い当たる言葉はそれしかなくて、モモカは躊躇いがちに聞く。
「……あー、まあ、そうだな……」
 ますますカカシは困った顔をして、でもモモカを傷付けまいとしていることが分かった。分かったから、モモカは素直に頷いた。
「分かった……」
 頷くモモカをカカシが心配そうに覗き込む。泣くのは、我慢できた。変わりに目一杯笑って見せて、覗き込むカカシの鼻を摘まんでやった。
「あ、いて」
「ふふん、じゃあ私も出来心、するかもね」
 勝気に笑うモモカにカカシは呆気に取られる。
「出来心するってなんだよ」
「……さあ」
 呆れ気味だけどカカシも少し笑ってくれたのが、モモカには救いだった。
「じゃあ、本当にもうそろそろ行きますね」
 モモカはくるりと体を反転させて門に向かう。
「モモカ、イクルを根には渡さないからな。絶対だ」
 カカシの力強い声に、モモカはもう一度振り向いた。
「ありがとう……」
「ありがとうじゃない、当たり前だ」
 カカシの微笑みは、いつだってモモカの心に暖かな火を灯してくれる。
「無茶するなよ」
 モモカは頷き、カカシに手を振った。始まったばかりの夏の中、大きく駆け出す。再び里の守護の届かぬ外にモモカは踏み出していった。
 次に戻ってきた時に、全てが同じとは限らない。大切なものがこの腕から零れてしまわないように、一歩ずつ進んでいくしかないのだ。巡る季節は待ってはくれない。大蛇丸も暁もダンゾウも、この世界のものは何でも、誰も、ひとが死ぬことを慮ってはくれないのだろう。
 今を必死に生きるしかないのだ。



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