女なのだという自覚を
朝の里内を火影塔に向かい、カカシは教え子たちの成長に思いを馳せた。つい数時間前まで一緒にいた彼らの姿は、初めて会った時から見違えるように実力を付けた頼もしいものだった。それぞれが最高の師の元で修行を積み、カカシの予想を上回る様は嬉しくもあり寂しくもある。けれどどれだけ力を手にしても、ぶれることなく二人は真っ直ぐにサスケを見据えている。彼らなら、カカシが取りこぼしてきたものもきっと掴んでいられるだろう。
空を見上げれば曇天で、湿った空気は間もなく雨が降ることを告げていた。まだ梅雨には早いが、遠くの暗雲を見れば俄雨程度のものではないと分かった。
朝一番の静かな火影塔に着いたカカシは資料室で忍者名簿と任務を照らし合わせながら小隊リストを作成する。知らない忍も多くいた。名簿上の情報から任務に相応しい組み合わせを作り上げていくしかない。上忍ともなるとこんな厄介な仕事も出てくるのは正直なところ煩わしいが、話したこともない彼らの命と任務達成度に関わることだから無論手は抜けなかった。試行錯誤して出来上がったそれを提出しに行く頃には、雨が降り出していた。雨粒は糸のように細く、爽やかな始まりの季節に水を差すような降り方だった。
「ご苦労」
五代目火影である綱手はカカシからリストを受け取るとざっと目を通す。彼女の背後の窓には細かい雨が打ち付けて水滴がいくつも付着していた。時折手を止める箇所がありつつも何も言わないということは文句がないということだ。カカシは実戦だけでなく、好き嫌いは別として資料作成も得意なところであった。結局のところ、何でも卒なくこなしてしまうのだ。
「分かった、これで受け取ろう」
引き出しから印鑑を取り出して綱手はリストに判を押す。
「演習はどうだった」
綱手の質問にカカシはにっこりと笑った。
「はは、取られちゃいました。文句なく合格です」
「なにっ? お前から鈴を――?」
綱手は半ば机から乗り出すように聞き返す。「イチャイチャタクティクスの結末を聞かされそうになって」とカカシが言うと、一瞬綱手は眉を寄せてどういうことか考えたが、すぐにぷっと吹き出した。
「なるほどそういうことか……それなら両手も、写輪眼も封じられるな。さすが意外性ナンバーワン忍者だ」
可笑しそうに綱手は笑う。確かに意外な策が決定打になったのはもちろんだが、それだけではない。よく考えてみれば対処の仕方はいくらでもあった。それを考える間もなく彼らの身のこなしが速かったこと、そしてカカシの体力が削られていたからこそ、鈴を取られたのだ。つくづく、その成長を誇らしく思う。
「明日からは共に任務に当たってもらうからな……あのじゃじゃ馬どもを上手くコントロールしてくれよ」
「善処します」
面白そうに笑っていた綱手が、ふと思い出したようにカカシを見つめる。
「そういえば話は変わるが、モモカだがな」
綱手の口から出た思いがけない名前にカカシは首を傾げて彼女を見つめ返す。
「明日から特別任務に当たってもらうことになった。時々里に帰ってくることもあるだろうが、なかなか会えなくなるぞ」
何故綱手がカカシにそんなことを言うのか、カカシは薄々感付いていた。カカシとモモカの仲を勘ぐっているのだ。
「……そうですか。どんな任務です」
極秘任務であるなら一介の忍に火影が答えることはないが、綱手とカカシの間柄ならすんなり話してくれるだろうと思って尋ねる。
「まあ簡単に言えば諜報活動だな。潜入及び調査を、私が直接指名した忍とツーマンセルで行ってもらう。夫婦の振りをした方がやりやすい場合も多々あるからな」
カカシの反応を見ながら話す綱手にカカシは合点した。夫婦の振りをするとなると当然同じ宿に泊まり同じ床に入ることもある。それを危惧しているのだろうが、カカシはつまらない心配をしてくれるなと、少し呆れた。しかし相手の男は誰だろう。綱手の直接指名した忍であるなら暗部の者だろうか。モモカの足を引っ張ってくれるなよとは思う。むしろそちらの方が心配だ。
「行かせていいか?」
「……はい?」
カカシは信じられない気持ちで綱手を見つめる。
「それを決めるのは私じゃなくて火影様でしょう」
当たり前のことを言えば、綱手は「ふうん?」とつまらなそうな相槌を打った。
「なあカカシよ……任務の経歴を見るとモモカに色任務の経験が全くない訳でもなさそうなんだが、あいつは生娘なのか?」
綱手の問いかけにカカシは困惑する。
「さあ、存じ上げません」
綱手が探るようにカカシを見た。
「ふむ……」
何か思案する様子の綱手に、カカシは途端に不安な気持ちが膨らむのを感じる。夫婦の振りをすると言ったが、もしかして思った以上に過酷な任務になるのではないだろうか。一体モモカに何をさせるつもりなのだろう。相手の男が誰なのか、ますます気にかかった。
「……あの、綱手様」
しかし口を開いたカカシの言葉はノックの音に飲み込まれた。部屋を訪ねてきた者がいたのだ。「入れ」と綱手が返事をする。
「失礼します」
部屋に入ってきたのは今まさに話題に上がっていたモモカその人で、思わずカカシは目を逸らす。きっと綱手がタイミングよく呼んだに違いないとカカシは苦々しく思った。
「お呼びでしょうか」
カカシに一拍だけ目を留めたモモカはすぐに綱手に向き直り尋ねる。
「昨日話していた件だがな、お前にも同行してもらうことにした」
綱手の言葉に、モモカはパッと顔を明るくさせた。
「本当ですか、ありがとうございます」
余りにも嬉しそうに言うものだからカカシは面白くない。どんな任務内容か、モモカ本人は把握しているのだろうか。把握したうえでのその表情なのだろうか。
「時にモモカ、お前色任務の経験はそれなりにあるのか? 閨事は?」
単刀直入に綱手は聞いた。カカシはたじろぎ、ここにいていいものなのかと窓の外に目を向ける。
「ええ、何度もあります」
モモカはすんなりと答えた。カカシは窓の外の雨に目を向けたまま表情を変えることはなかったが、内心穏やかではなかった。いつの間に。いや、一緒に任務をしたことなどないし、彼女の全てをまさか知っているわけではない。第一カカシに口を挟む資格などない。彼女だって一人前のくノ一なのだから経験があってもおかしくない。おかしくないのだが、いつの間に、という惨めったらしい執着が心を支配した。やけに雨音が響く。雨は決して激しくはないが、鬱陶しいくらいに細かく降り注いでいた。
「……本当はないのだろう?」
じっとモモカの顔を見つめていた綱手が尋ねる。
「あれ、どうして分かったんですか」
悪びれもせずに答えるモモカの言葉に、カカシは窓から目を離してまじまじとその顔を見た。
「ふん、勘だ」
「勘ですか」
鼻を鳴らす綱手にモモカは苦笑する。じわ、とカカシの胸に安堵の気持ちが広がった。
「どうして嘘を付いた?」
綱手の穏やかな問いかけにモモカは真っ直ぐな瞳で見つめ返す。
「その方が任務の幅が広がるからです。最初は、チームメイトのトウキとイクルがそう言ったからでしたが……経験がなければそのことを考慮された任務しか割り当てられなくなる。慣れていると言えば、どんな任務でもこなせる」
綱手はモモカの言い分を静かに聞いていた。カカシもじっと耳を傾ける。今でこそモモカは強かに成長しそんな欺きも当たり前にしそうだが、忍になって間もないあの頃のこの子達がそこまで考えていたとは恐れ入る。
「二人は、最悪の事態にはさせないから里には閨事は慣れていると言えと。そして、私自身も閨房の術に頼らずとも、切り抜けられるだけの強さはあるだろうと――そう言いました。事実、今まで閨に入る前に全ての任務は達成していましたし、私達の力でねじ伏せられないような相手では色仕掛など元より通じませんから」
モモカの言うことは、一理ある。つまるところ、モモカは――いや、トウキとイクルも含めてモモカ達は――自分達の選択肢を極力広げるために、色任務も拒むことなく、経験があると偽ってきたのだ。
「なるほどなあ」
モモカの説明を聞いた綱手は呆れた様子で椅子に背を預ける。天井を睨み、そして再びモモカに向き直るその瞳には里を背負った力強いものがあった。
「いいか、モモカ。任務は許可したがな――あいつには嘘を付くな」
雨音がことさらに強く響く。
「あいつはなあ、守るものがあるほど強くなれるが――しかし、その守るもののために無茶をし過ぎるところがある。それが女子供であればなおさらだ。お前が真実を伝えなければ招くミスだってあるはずだ」
綱手の目をモモカもまた真っ直ぐに見つめ返した。そして頷き、彼女は膝を付く。
「私は自分の意志で同行します。しかし、自来也様の刃となって戦う覚悟です。誰も死なせない。もちろん、私も死なない」
綱手は肩の力を抜いて微笑んだ。その微笑みにはモモカを頼もしく思う気持ちと第一線に自らが赴けない歯がゆさとが同時に垣間見えた。普段、綱手が耐え忍ばせている想いだ。
「よく言ってくれた。お前に命じることは三つだ。自来也を信じろ。自来也を死なせるな。そして、お前もまた死ぬな。それが脅かされるなら任務は二の次でいい」
まるで火影らしからぬことを言い放つ綱手を見上げ、モモカは深く頭を下げる。カカシも驚きの表情で綱手を見つめた。任務は二の次でいいだなんて、そんなことを命じる火影なんて初めて見た。いや今はむしろそれよりも――……。
「任務の相方って自来也様だったんですか」
心配して損したとばかりにカカシは胸を撫でおろす。そんなカカシを、先程までの真剣な眼差しとは打って変わって意地悪い笑みを浮かべて綱手が射竦めた。
「そうだが、言ってなかったか? ん? どうしたカカシ?」
ニヤニヤとしたその顔をカカシは恨みがましい目で睨む。謀られた。きっとやきもきするカカシの様子を見て楽しんでいたに違いない。火影になったというのに、相変わらずの性格だ。モモカは話の流れが分からずに二人を不思議そうに眺めていた。
「いえ……しかし自来也様に同行ということは、調査対象は暁ですか」
「そういうことだ。しかしあいつとこのモモカだ。心配はいらん」
先ほどまでの神妙な雰囲気はどこへやら、ケロッとした顔で言う里長が今は憎たらしかった。
「さあ、私からは伝えることは伝えた。各々明日からの任務に備えてくれ」
面白いものが見られたとばかりに口の端を歪める綱手に、何かを言い返す気力はなかった。
火影塔を出ようとする二人の目の前には依然として雨が降り注いでいた。
「モモカ、こっち」
カカシは裏口の方へ手招きする。事務員の通用口にもなっている裏口の方には傘が常備してあって、自由に持ち出していいことになっていることを思い出したのだ。しかしいざ通用口に行ってみると、傘は一本しかなかった。この急な雨に持っていく者も多かったのだろう。
「一本だけですね」
モモカが当たり前のようにその傘を持ち広げ、そしてカカシの頭上に差し出すものだから、カカシは苦笑してその柄を掴む。
「さすがに俺が持つよ」
「そんな……」
「俺の方が背が高いし、ね」
モモカは遠慮したが、カカシのいつもの飄々とした顔に負けてしまって手早く傘を奪い取られる。この顔に、モモカは昔から弱いのだ。
「じゃあ、お願いします」
おずおずとカカシの差す傘の下に入り、二人は雨の里を並んで歩き出した。
「演習はどうだったんですか」
やはり気になるのはそこで、尋ねたモモカにカカシは笑う。取られちゃった、と告げるとモモカも綱手同様大層驚いてみせた。そしてナルト達の作戦を説明すると素直に感心していた。
「なるほど、その手があったのか」
悔しさを滲ませてモモカは呟く。
ナルトとサクラの成長を嬉しそうに話すカカシに、モモカはまた嫉妬の感情が渦巻くのを感じた。しかし前ほどのどうしようもない湿っぽさはない。それはきっと自分自身も明日から、大事な――それは単に里にとってだけでなくモモカ自身にとっても――とても大事な――世界の謎に挑むための、そして仲間を取り戻すための旅立ちが待っているからだろう。
雨に燻る里内を一つの傘の下並んで歩きながら、前にもこんな光景があったなとモモカはぼんやりと考えた。あれはもう何年も前だ。まだ下忍に承認されて間もない頃。初めてカカシに、想いを告げた時も、こんな雨に濡れた里だった。あの時も、あっさりフラれてしまったのだ。
「火影様と、何を話していたんですか」
モモカはもちろん綱手とカカシとの間の異様な空気感に気付いていて、ようやく今になって尋ねる。そのまま素通りしてもよかったのだが、どこか懐かしいこの雨に何となく、聞きたくなったのだ。
「あー……んー」
要領を得ないカカシの返事で、教える気はないのだなとモモカは悟る。
「ナイショ」
傘を持っていない方の手で頭を掻くカカシをモモカは見上げた。適当にはぐらかしたり誤魔化すでなく、内緒なら内緒だとはっきり言ってくれたことが昔と大きく違う所であり、そんな些細なことが嬉しかった。
「まあ、そうだな」
カカシは前に目を向けたままで独り言のように呟く。
「余計な心配だろうけど気を付けて」
カカシ同様モモカも正面の灰色に濡れる景色に目線を向けて頷いた。ほんの少しだけれど、昔よりかはカカシのことが分かる。どうやら言いたいことはまだありそうだ。
「まああと、あれだ」
軒先から垂れる雫がモモカの右肩にかかりそうなことに気が付いてカカシは少し左に寄った。カカシの左肩はさっきからずっとしっとりと濡れている。
「一応言っておくと、自来也様も男だからな」
モモカは灰色の景色から再びカカシに視線を戻した。雨の里を背景に銀髪が浮かび上がって美しい。
「……はあ」
モモカの気の抜けた返事に、とうとうカカシがこちらを向いた。想像していたよりもずっと真面目な目をしていて、モモカはドキリとする。ずっと追いかけてきた男が、今はこんなにも近くにいる。カカシもまた、トウキやイクルのように自分のことを隙だらけだとそう言うのだろうか――しかしカカシが何を言おうとしていたのかは分からなかった。
モモカは背伸びをして、口布の上からカカシに口付けていた。
口布越しでも柔らかさの感じる唇からそっと離れ、ひどく驚いた顔をしたカカシと目が合う。差している傘は最早二人の頭上から大きく外れて、二人とも細かな雨粒を浴びていた。
「……つい、出来心、です」
ここで勝気な微笑みの一つでもお見舞いしたいところではあったが、遅れて自分の心臓が煩く鳴り始め、カカシの目を見ていられずに視線を外してしまう。
衝動的に口付けたものの、これ以上どうしていいか分からずにモモカは走って逃げようとした。しかしその腕をカカシが掴む。やはりいつものように心を閉ざしていてその胸の内は読めないが、それに構っていられる程の余裕など今のモモカにはなかった。
「風邪ひくよ、雨に濡れたら」
カカシが優しく言うものだから、おっかなびっくり顔を上げて振り向く。大好きな男が呆れた目で、だけど確実に優しさを滲ませて自分を見ていた。心臓が煩くて破裂しそうだ。
「……あの、自分でしといてそんな赤面しないでくれる?」
カカシの指摘に頬の熱さに気付き、自分の顔は真っ赤になっているのだろうと思い至る。モモカは余計に恥ずかしくなった。
「いや、だって……その……すみません」
消え入りそうな声で謝るモモカにカカシは「ははっ」と軽く笑った。珍しい笑い方だ。まるで無垢な少年のような。馬鹿にされているのだろうか――しかし再び見上げたカカシの顔は大人の落ち着いた余裕と少年のあっけらかんとした明るさが混在していてよく分からなかった。
「せめて家まで送らせて」
カカシの申し出にモモカは黙って頷く。こんなことでいいのだろうか。こんなに近付くことを許されて、その優しさに浮かれていいのだろうか。
「今日は官舎? 実家?」
「あ……実家、です」
「分かった」
いいのだろうな――。灰色の景色を眺めて熱を持った頭でぼんやりとモモカは考える。カカシが笑うのなら、きっとそれでいいのだ。
先ほどよりもさらに距離の空いた体同士をどうにか一つの傘の下に収めて、ぎこちなく二人は歩く。ぎこちないと感じていたのはもしかしたらモモカの方だけかもしれない。ずっとドキドキして、何でキスをしてしまったのだろうという後悔と、カカシがそれを嫌がるわけではなさそうだったことに対する漠然とした喜びとでいっぱいいっぱいだった。まともに歩けていたのが不思議なくらいだ。
それでも家に着いてしまえば実にあっという間の時間で、ここに来てモモカはカカシから離れるのを惜しく思った。名残惜しくカカシを見上げると彼は優しく微笑んでいてまた心臓を鷲掴みにされる。錆びた門扉を開ける音で気付いたのか母親が傘を持って玄関から出てきた。それがまた恥ずかしかった。
「あらっ先生わざわざ送ってくれたんですか――どうもいつも娘がお世話になってます」
母親の挨拶に「だから先生じゃないってば」と否定する気力はすっかりなくしていた。
「どうぞ上がって暖かいお茶でも飲んでいってくださいな。服も乾かしますわ」
母親の余計な申し出に愛想よくカカシは笑い会釈する。
「いえ、ついでに送っただけですので――ここで失礼します」
「すみませんねえ、本当。ほら、モモカそこまで見送って」
母親に傘を渡されモモカは言われるがままにカカシの為に今入ってきた門扉を開けてやる。
「じゃ、明日から頑張ろうな、お互い」
「はい」
モモカが気の利いたことの一つも言えないままに、カカシは帰って行った。しかしその胸の中には暖かいもので満たされていた。
頑張れ、ではなくてお互い頑張ろう、と言ってくれたことがこの上なく嬉しかったのだ。初めて失恋したあの時と同じような雨の景色だ。灰色にけぶる里の風景。けれどあの頃よりも確実に、カカシとの距離は近付いている。その幻のような現実に対する胸の高鳴りが、モモカに自分は女なのだという自覚を与えた。