頬が薄っすら赤く


 人混みの中を、モモカはカカシに手を引かれて歩く。提灯の明りがぼんやりと街道を照らし、夢の中のようなふわふわとした感覚だった。しかしモモカの手を引くカカシの掌の温かさに、これが幻ではなくて確かな現実なのだとモモカは冷静になってきた頭で考える。触れた手からカカシの思考は読み取れない。つまりカカシは同化で思考を読まれないように心を閉ざしているということだ。
 既に店じまいをした屋台も多く、帰路に就く人も多い中を、二人はどこかぎこちなく無言で歩いていた。
「……時間大丈夫?」
 カカシが徐に尋ねる。大通りを過ぎて、里の西側と東側、そして北側に分岐する道に差しかったところだった。ここを左に曲がればモモカの家で、まっすぐ歩けばカカシの家の方向だ。モモカは黙って頷いた。
「えーと、ご家族に連絡は?」
 今さら保護者みたいに心配するような口ぶりのカカシに、モモカはまだ子ども扱いかと肩を張る。
「暗部に入隊してからは官舎に入っているので……私も子供じゃないですし、大丈夫ですよ」
 モモカの返答にそっか、と短く頷いてカカシはモモカの腕から手を離した。そして真っ直ぐ歩き出し、モモカを振り返る。
「俺の家でいい?」
 その言葉にモモカの心も途端に華やいで、頬を緩めて頷いた。
「でもあの、彼女とかは?」
 追いついて唐突に聞いたモモカに、カカシは驚き、そしてじとっとした目を向ける。
「……いると思ってるの?」
「思ってないですけど」
 即答するモモカにカカシは「遠慮がないのも相変わらずか」と独り言ちて苦笑した。
 カカシの暮らすアパートの下まで辿り着いて、カカシは躊躇するように立ち止まる。モモカがその顔を見上げると、カカシは後頭部に手を添えて困惑したような何とも言えない表情をしていた。
「あー……、あの、一つ言っておくけど」
 今度は鼻の頭を掻いて、モモカの目を見つめる。
「その、君とはどうにもならないからね」
 モモカはカカシが言おうとしていることにピンときて次の言葉を静かに待った。
「もちろん、モモカのことは今も昔も大切だ。全力で守りたいと思うし、幸せを心から願っている。その気持ちに一切の偽りはない。けれど、君とはその――つまり――、男女の仲にはならない。誤解してほしくないのは君がどうことうという問題じゃなくてこれは俺の問題な訳だが――」
 珍しく弁解するような口調のカカシに、モモカは穏やかに微笑んだ。
「分かっています。大丈夫、何かを期待しているわけじゃないから」
 モモカの柔らかな表情に、カカシは眉を下げる。
 正直、モモカはちっとも悲しくはなかった。カカシとまた会えた。笑顔を交わしあえた。そしてトウキとイクルが生きているかもしれない――これ以上ない未来への光を手にして、それ以外のことは些細なことに思えた。モモカはずっと昔からカカシが好きで、カカシに対して見返りを求める気持ちなどなくて――……。つまるところ、モモカの気持ちと二人の距離感は振り出しに戻ったようなものなのだ。
「でも今日は甘えさせてくれるんでしょ?」
 モモカはカカシの長い指を掴んで悪戯っぽく笑った。カカシの身体が強張るのが分かって、すぐにその手を離す。触れていたいけど、あまり困らせてはいけない。
「なんて、冗談――」
 照れ笑いでアパートの階段を上ろうとしたモモカの手を、しかしカカシはすぐに握った。驚いて振り返るといつもの飄々とした顔で、明後日の方を見ている。
「じゃ、今日だけ特別な」
 握ったモモカの手を引いてカカシは階段を上る。
 この男は――本当に心臓に悪い――……。自分から触れておいて、カカシの体温に、心を掴んで離さないその声に、モモカは赤面してしまった。

 二年ぶりに足を踏み入れたカカシの部屋はほとんど変わっていなかった。
「お湯を張るから、先にお風呂に入っておいで」
 モモカはドギマギして、黙って頷く。ここに来て、何だかとても緊張していた。
 二年ぶりの再会だというのにカカシと一緒にカカシの住む部屋に帰ってきて、カカシの部屋のお風呂に浸かる。自分は一体何をしているのだろうとモモカは困惑した。前にも一人で訪ねたことはあった。でもその時はカカシが体調不良で、看病のために仕方なくで――いや、しかし、あの時に、カカシはモモカにキスをしたのだった。その後に出来心だったと言われてしまったことが、随分昔のことに感じた。お湯に浸かってあの頃のことを思い出すと、のぼせそうだった。
 風呂から出るとカカシの用意してくれていた服に袖を通す。カカシの服だ。大きくて、袖口を三回折り返す。カカシの匂いがして、モモカは頬が熱を持ったのを感じた。
「はは、やっぱり大きいな」
 そんなモモカを見て、カカシは軽く笑った。一人動揺しているモモカとは違い大人の余裕が見えて、少し悔しく思う。
「適当にくつろいでいて」とカカシも風呂に入ったが、到底リラックスできそうにはなかった。キョロキョロと部屋の中を見回し、ベッドサイドの写真に目を留める。写真立てに飾られた写真は二つだ。片方は第七班の教え子達との写真。もう片方は子供の頃のカカシが写っている。不機嫌そうな顔で、かつての師と、チームメイトが一緒だ。モモカはその写真を手に取った。
 もうここに写っている人は、皆いないのだ。カカシを残して皆死んでしまった。
 その事実を知った時の幼い自分は単純に辛いことだと思った。しかし今なら分かる――あの苦しみは辛いなんて言葉で片付けられるものではない――真っ暗闇の絶望だ――。カカシはそれでも、モモカの心に光を差した。自分自身は絶望と苦しみの暗闇の中にずっといるのに、同じ苦しみを味わうモモカに、未来への希望を指し示してみせたのだ。
 脱衣所のドアが開く気配がして、カカシが出てきたのが分かった。タオルで濡れた髪を拭きながら、写真を手に考え耽るモモカを見た。そして微笑んだ。
「ありがとう。生きて帰って来てくれて」
 優しいその言葉に、またモモカは鼻の奥がツンとした。つくづく、この人の前だと泣き虫になってしまうのだと思い知る。潤んだ瞳を馬鹿にするでもなく、カカシは頭を撫でてくれた。

 二人はベッドの縁の背をもたれて、窓の方を向いて並んで座る。窓から射す月明かりだけの部屋で、モモカは色んなことを話した。里を出てから訪れた異国の街のこと。そこで見たもの、聞いたもの、食べたもの。感じたこと。出会った人々。遭遇した凶悪な敵。大切な二人をどのようにして失ったのか。そこから全ての希望を失ったモモカが、どうにか生き残って辿り着いた山間の村のこと。そこでの自然と寄り添った生活。自然への信仰と当たり前に他人の心が見える――その村では心言と呼ばれていた――力と、赤き心。白い狐。クラマ山に入ってからの一年間の修行の日々。
 たくさん喋って、言葉にするとまた悲しい気持ちになると思っていたけど不思議とそうではなかった。カカシに話すことで、凍り付いて固くなっていた心が解れていく気がした。話を邪魔しないカカシの相槌はモモカに心の安らぎを与えた。そして穏やかなカカシの気配は落ち着きと自信を取り戻させてくれる。
 全てを話し終える頃には夜も深まって窓から射す月明かりがカカシの足首の辺りにかかっていた。その白い踝が幻想的に照らされているのをモモカはぼんやりと見つめる。
「それじゃあモモカは仙術の使い手になったのか。すごいな」
 カカシに褒められて、モモカはくすぐったい気持ちで目を細める。
「……ねえ、カカシさんの話も聞きたいです」
 隣のカカシを見上げてモモカは言った。銀髪が優しい夜に浮かび上がって美しい。
「俺の話?」
「うん……最近の話だけじゃなくて、昔のことから、ずっと」
 モモカは右手を伸ばして、床に投げ出されているカカシの左手に触れてそっと包む。
「もちろん、言いたくないことは無理に言わなくていいですけど……」
 カカシはモモカの手を振り払うことはなかった。
「いいよ。昔のことから、今までのことをずっと話そうか」
 カカシは穏やかに語り始めた。物心ついた時には母は亡くなっていたこと、尊敬する父のこと。几帳面で真面目な父が任務よりも仲間の命を優先し、そのことで中傷され命を絶ったこと。上忍になって初めての任務で自分は任務を優先しようとして、チームメイトを死なせてしまったこと。その際に写輪眼を譲り受けたこと。もう一人のチームメイトもその後の任務中に殺してしまったこと。暗部に入ってからの仕事のこと。たくさん殺してきた人々のこと。九尾の襲撃事件のこと。何も出来ずに、全てを背負った師を死なせてしまったこと。それからどこか生き急ぐように生きていたけれど、下忍の部下を持って毎日に彩が出来たこと。一年前にモモカ達からの連絡が途絶えて、何度か捜索に出ていたこと――……。
 今まで人づてに聞いていた話もあるけれど、こうしてカカシの口から直接聞いたのは初めてだった。彼がその壮絶な過去を包み隠さずモモカに喋ってくれたことを心の底から嬉しく思う。
 モモカとカカシは手を繋いだままで、それからも本当に色々なことを話した。好きな色、得意な忍術、最近よく食べるラーメン、ナルトの笑える話。この部屋に入って来た当初の緊張した気持ちなんてすっかりなくなって、モモカはくだらない話で心安らぐ時間を過ごす。幸せだ。そしてこれが幸せだと感じることが出来るのは、カカシがモモカに未来への希望を抱かせてくれたからなのだ。

 いつの間にかモモカはうとうとして、気が付くと横になっていた。
 あまり寝ていないような気がする。体感的には十分くらいだろうか。薄っすら目を開けて、モモカはカカシのベッドに寝かされていることに気が付いた。そしてさらに驚いたことには、横を向いて寝るモモカの背中側から包み込むようにして、カカシが密着していたことだ。要は横向きに抱きかかえられた状態なのだ。急に覚醒して、モモカは身じろぎ一つせずに何が起こっているのか把握しようとした。モモカの背後のカカシは起きている気配がする。思考は相変わらず読めないから、心は閉ざした状態のままみたいだ。モモカは夢も覗けるから、寝ていても注意を怠っていないのだろう。今日はとことん甘えさせてくれるということだから、こんな抱きかかえるような体勢で寝かしてくれたのだろうか。モモカは何となく寝たふりをした。
 モモカを背後から抱くその大きな手で、カカシはモモカの髪を撫でている。背中に密着する体温と優しい手つきに心臓がドキドキして、起きていることがバレるかもしれないとモモカは思った。しかしモモカだって暗部の端くれだから、どうにかバレないように狸寝入りを続ける。カカシの手はやがてモモカの腕に伸びて、その左手首を撫でた。すっぽりカカシの腕の中に包まれたままで、薄く目を開けばカカシの長く白い指先がモモカのミサンガ、そして傷跡と順に触るのがぼんやりと見える。労わるような、でもどこか物狂おしいような手つきにモモカの心臓は煩く鳴っていた。左の手の甲を撫でるカカシの指先が、滑るように移動する。その長く綺麗な指でモモカの薬指の根元を優しく摘まんだ。何度も何度も、確かめるようにその場所を触って、カカシがモモカの首筋に顔を埋める。一気に汗をかいて、モモカは自分の匂いが非常に気になった。カカシが小さく息を吐く。
「モモカも……いつかお嫁に行くんだよな」
 囁くような独り言と、首筋に感じる吐息にモモカの脳はオーバーヒート寸前だ。
「あんなに小さかったのに……笑っちゃうよな……」
 最後の方は消え入りそうな声で言って、そのままにカカシは寝息を立て始めた。すうすうと規則正しい寝息に、モモカは深く息を吐く。まだ胸がドキドキしていた。カカシの腕がモモカの体を包んで、鼻先はモモカのうなじの辺りに埋めている。何度か深呼吸をして、間違いなくカカシが寝ていることを確認し、意を決してモモカは寝返りを打った。カカシの寝顔がすぐ目の前にあってまじまじと見つめる。色素の薄い長い睫毛。すっと通った鼻筋。薄いけれど綺麗な形の唇。左瞼から頬にかけての傷跡。全てが美しいと感じた。そしてこの男のことがたまらなく好きなのだと、モモカ改めて思ったのだった。


 目を覚ますと、既に日は高く昇っていた。隣にカカシの姿はなく、台所からじゅうじゅう何かを焼く音と良い匂いがする。
 モモカはむくりと起き上がり、昨夜のことを思い出して一人ぼうっとした。
「おはよう」
 カカシが皿を手に持って現れ、モモカに声をかける。目玉焼きとウインナーを焼いたものが乗っていた。
「そろそろ起こそうと思っていたとこだ」
 カカシは小さなちゃぶ台の上に皿を置いて「もう少しで朝食ができるよ」と再び台所に向かう。モモカは洗面台を借りて顔を洗い、台所のカカシの横に立った。
「何か手伝うことありますか」
「ん、じゃあコップを出してお茶を入れといてくれる?」
 冷蔵庫から漬物を取り出して器によそいながらカカシが言う。何だか一緒に暮らしているみたいだ、とモモカはコップを取り出しながら赤面した。
 二人で向かい合って遅い朝食を食べる。
「美味しいです」
「焼いただけだよ」
 カカシは呆れて言ったが、彼の手料理にモモカは終始ニコニコとしていた。
 それから洗濯をするというカカシを手伝い、泊めてもらった手前何かしなければ、とさらに申し出て風呂掃除をした。そうして家を出た頃にはもう昼時になっていた。
「俺は昨日までの任務の報告に行くよ」
 平日昼間の穏やかな里を中心地に向かって二人は肩を並べて歩く。
「私はとりあえず官舎に戻ります」
 今日は休みだと昨夜綱手から言われていたものの、どことなく落ち着かなくてモモカは言った。
「あ、お二人さんこれはこれは」
 並んで歩く二人に嬉々とした声がかけられる。アスマだ。通りの反対側から声をかけてニヤニヤしながらこちらに近寄ってきた。紅とシズネも一緒だ。
「これから昼飯食いに行くとこなんだが一緒にどうだ?」
 アスマの提案にカカシは首を振る。
「朝飯遅かったから全然お腹空いてないのよね。火影様に報告にも行かなきゃだし」
 カカシの言葉に、アスマはより一層笑みを深めた。その目は半月型になっているほどだ。
「おいおい、見せつけてくれるじゃないか。堂々と仲良く出勤か」
 アスマの揶揄いに、モモカはじんわりと頬が熱くなるのを感じた。
「ちょっと、止めなさいよ」
 追いついた紅がアスマを諭す。
「なあ、いつからそんな良い仲なんだよ、ん?」
 紅の小言は気にも留めずにアスマは肘でカカシを小突いた。
「いやそんなアスマが勘ぐっているような仲じゃないし」
 飄々とした顔でカカシが答えた。
「またまたぁ、恥ずかしがるなって」
 なおもニヤニヤとして、アスマが今度はモモカの方を見る。「こんなこと言ってるぞ」と言うアスマの顔は本当に楽しそうで、思わずモモカも苦笑した。
「あはは、そうですね。私の片思いですから」
 モモカの思いがけない言葉に「えっ」と驚いたのはアスマだけではなくシズネもだ。里に帰って来てからのモモカしか知らないシズネとしては、そんな俗的な単語がモモカの口から出てくることが驚きだった。
「もう三回くらいフラれてるんですよね」
 頭を掻きながら屈託なく笑うモモカを、上忍達はまじまじと見つめる。
「マジかよ。何がダメなんだ」
「そうですね……、何がダメなんですか」
 アスマの疑問に便乗して、モモカもカカシを見上げて尋ねた。モモカの顔は悪戯っ子の笑顔で、カカシはたじろいだ。
「……どろん」
 葉隠れの術でカカシは消える。
「あっ逃げやがった」
「アスマねえ、うざい絡み方し過ぎよ」
 紅がため息を吐いてモモカの顔をのぞき込んだ。
「本当にもう、子供みたいな絡み方でごめんなさいね――」
 しかし紅は口を紡ぐ。さっきまで余裕そうにカカシを揶揄っていたモモカの頬が薄っすら赤くなっていたからだ。
「あ、私も行かないと……それじゃ、失礼します」
 これ以上何も詮索されないようにそそくさ立ち去るモモカの後ろ姿に、紅は笑みを溢す。あんなに取り繕っていても彼女はまだ年端も行かない女の子で、その顔は一心にカカシに恋するもので、紅には微笑ましく映った。



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