冷たい大地に
真っ暗な岩場に、突然坑道のような穴が現れる。ぽっかりと口を開いたそれは奥が見えず、こんな心境だからか地獄へ続く道にも思えた。
モモカの肩に止まったホオジロが小さくチチチっと鳴いた。誰かが来るイクルからの合図だ。モモカは少し離れた位置にいる姿の見えないトウキの気配を探る。ホオジロは丑の方角に嘴を向けて二回その場で跳ねた。モモカはその方向を注視し、やがて現れたのは二人組の男女だった。
闇の中にぼんやりとしか見えなかったシルエットが段々とはっきりしてくる。男は音忍であることを示す額当てを付け、女の方は赤い髪を背中に垂らし、まだかなり若そうだ。モモカは女に見覚えがあると思った。以前訪れたアジトにも出入りしていた女だ。彼女は音忍というより大蛇丸の実験体の一つに見えたが、他の者と違い比較的自由な行動が許されているみたいだ。話し声が聞こえてきた。
「暁の連中は行動が目立ってきたな」
男の方が言う。
「聞けば相手は木の葉の忍だって言うが……暁から逃げられるほどの手練れなど数える程しかいないはずだ」
男の言葉に、どうでもいいように女は首を振った。
「ったくこの忙しいってのに、あの人も人使いが荒い……。ま、もう現場には暁も木の葉もいなかったってさっさと大蛇丸様に報告して、今日はもうやめだ」
女の言葉に、モモカは手に汗を握る。いるのだ、ここに大蛇丸が。もしくは直接大蛇丸に繋がり、連絡を取れる人物が。
「……ん?」
女は怪訝な顔をして振り返る。その視線の先は、トウキが潜んでいる岩場だ。女は小声で何かを男に耳打ちした。まずい。ばれたか。もしかしたら女は感知タイプの忍なのかもしれない。女は洞窟の中に入っていった。男だけが残り、トウキの方に近寄る。男はいくつかの印を結び、大きく息を吸い込んだ。ぴたっと動きを止めたかと思うと、一気に火遁の炎を吐き出す。あの辺り一体の岩場が炎に包まれて、しかしトウキが出てくる気配はない。
良かった。モモカは胸を撫でおろす。この男はきっと、トウキの居場所は感知出来ていない。感知タイプなのはさっきの女だけなのだ。
「当てずっぽうでは、無駄にチャクラを削るだけよ」
きた。モモカは全身の毛穴が逆立つのを感じた。アジトである洞穴の奥の闇がゆらりと揺れる。ぶわりと、嫌な汗が滲んだ。自分の内に潜む恐怖という感情を、無理やり引きずり出すような凶悪なチャクラだ。
ぬるりと、闇から滲むように出てきたのは、大蛇丸その人だった。実に五年ぶりに見たその姿は以前と変わらずに禍々しく、邪悪で、あらゆる生物に備え付けられている防衛本能が警戒音を発するような空気を纏っている。モモカは同化の能力を絶ちたい気持ちを必死に抑えた。同化の能力を絶てば発狂するほどの殺気は感じなくなるが、全力で相手の出方を窺うことはできない。同化の濃度を少し薄める程度に留めて、モモカは大蛇丸の監視を続けた。
「ふふ、巧妙に隠れたこと」
大蛇丸が口の端を歪めて囁く。大丈夫、大丈夫なはずだ、とモモカは懸命にざわつく心を落ち着かせた。モモカとトウキは今、完全に生き物としての気配を消していた。これは単なる尾行術ではなく、里秘伝の忍具にイクルの考案した術をかけたものだ。噛むことで、気配を消すことの出来る潜入調査用の忍札がある。古くから木の葉の忍が愛用したものだ。それにイクルがチャクラを限りなく零に近い所まで抑える術式をかけ、感知を不可能にしている。しかし欠点もあって、まず気配を消す者は札を噛んでいないといけない。それから、動いてしまってはどうしてもチャクラの流れの淀みができるから、チャクラを隠す術式は意味をなさない。だがじっと制止している分にはまず見つかることはないはずだ。
大蛇丸が、真っ暗な夜空を見上げる。星が二つ三つ輝くだけの闇。そこを旋回する動物。イクルの忍鳥だ。イクルは上空からの監視の為動く必要があるから、気配を隠すための忍札を噛んではいない。モモカは焦ったが、辛抱してじっと耐える。きっとここで飛び出しては、奴の思うつぼだ。
「鳥の坊や……まあ、ね。あの子は使い道があるわ」
大蛇丸が笑うような声音で言った。きっとモモカとトウキに向けている。おびき出そうとしているのだ。大蛇丸は印を結び、上空で旋回する忍鳥を睨んだ。次の瞬間、悠々と飛行していたその鳥は耳を塞ぎたくなるような叫喚を発し、落下する。その体が地面に叩きつけられた瞬間、今度は大地が揺れた。かなり大規模な土遁の術だ。大蛇丸の配下であるはずの音忍の男でさえも飲み込まれていた。分かっていたことだが、大蛇丸に自分の手の者に慈悲を向ける心など微塵もない。あまりの揺れにモモカもこれ以上制止し続けていられないと思った。
「出てきたね」
大蛇丸のものとは違う男の声が聴こえて、モモカは自分の居場所が見付かったことを悟る。この声は――あの男だ――薬師カブトだ――!
どこから出てきたのか、カブトはモモカの背後を取り、木の葉のいけ好かない忍達を屠る予感にほくそ笑んでいた。モモカはほぼ本能のままに身体を動かす。いざとなれば判断までが速いのが、昔からモモカの長所だ。あと二発、などと出し惜しみはしていられなかった。
バチバチとモモカの左手に雷遁の濃密なチャクラが集約する。モモカは地を蹴りカブトに突撃した。
「……くっ!」
カブトは上体を逸らす。その動きはモモカの左手よりも僅かに速く、カブトは勝利の気配にうすら笑った。
「カブト!!」
大蛇丸の怒声が飛び、カブトはハッとする。避けたはずのモモカの左手の向こうに、もう一つ激しい光源が見えた。
(右手でも雷切を撃てるのか)
(あと撃てて二発と高を括っていたが、まさか同時に出すとは)
(避けられるか――?!)
(間に合わなければ――)
(死――……)
モモカの右手は確かにカブトに触れた。カブトから死の瞬間に感じる強烈な知覚情報が流れ込んでくる。しかし、その一刹那後には仕留め損なったことをモモカは感じ取った。カブトの感覚は死にゆく者のそれとは違ったからだ。
カブトを通り過ぎると最速の突きの勢いを殺すように両脚を広げ、地面に低く這うようにモモカは失速する。そのまま円を描くようにカブトに向き合うと確かにモモカの雷切は当たって彼は血みどろになっていた。カブトの左肩から肘先まで、ずるりと皮が向けて肉が剥き出しになっている。しかしあれだけの感触でいまだに腕が付いているのが不思議だったが、モモカはすぐにその理由が分かった。雷切の衝撃で舞った土埃が晴れると、カブトの足元に死体が転がっているのが見えたのだ。先ほどの音忍の男だ。モモカの雷切を諸に受けてズタズタの肉塊になっている。カブトは咄嗟にこの男を口寄せし、いわば盾にしてモモカの雷切の軌道を逸らしたのだ。
「僕としたことが、危ない所だった」
カブトの声音はあくまで穏やかなのだが、モモカを見据える瞳はこの上ない殺意に満ちていた。かけた眼鏡の右のレンズは自らの血でべっとりと濡れ、もはや視界はないだろう。左のレンズから覗く目が、モモカを殺したくて堪らないと訴えている。
「うずまきはねえ……もういるからいらないんだけど」
大蛇丸の声が聴こえて、モモカはトウキの方の気配を探った。目の前のカブトから目を離すことは出来ないけれど、トウキが大蛇丸に向けて忍術を放ったのが分かった。大蛇丸はそれを難なく躱す。
「あまり僕を舐めるなよ」
モモカの気がトウキと大蛇丸に向かっているのを察してか、カブトが唸った。彼は損傷の酷い自身の左腕に右手をかざしている。血みどろでよく見えないけれど、医療忍術で回復を図っているらしい。あれだけの大怪我で繊細なチャクラコントロールと集中力を要求される医療忍術を扱うその実力には、正直舌を巻いた。
衝撃音がして、モモカはとうとうトウキの方を見た。大蛇丸の懐から蛇が何匹も伸びて、地面に倒れるトウキに絡みついている。
「ま、でもチャクラの保有量はなかなかだし、材料には使えるわ」
大蛇丸が蛇を絡みつかせたままでトウキに近付き、死人みたいに真っ白な腕を伸ばす。助けに行かなくては――モモカは地を蹴ろうとして、膝がかくんと崩れるのを感じた。雷切を同時に二発撃って、確実にがたが来ていた。
「よそ見してる余裕なんてねえだろうが!!」
今までの穏やかな声音とは打って変わりカブトが怒声をあげる。そのままモモカに突進してきた。どうやら回復は二の次にして、どうしてもモモカを殺したいらしい。カブトの手に刀のように覆うチャクラを確認して、モモカは必死で足を動かした。同化の感覚を最大限に研ぎ澄ましてどうにか避けたものの、カブトの手刀はそれこそ鋭い刃のような切れ味だ。モモカのすぐ後ろの大きな岩盤がすっぱりと切れる。当たったらただではすまないのは言うまでもない。視界の隅に、イクルの忍鳥が矢のように飛ぶのが見えた。イクルを背に乗せた鷹は大蛇丸とトウキの間に舞い、水遁の忍術を繰り出す――呆気なく大蛇丸の蛇がその波を切り裂いた――カブトが再度モモカに向かってくる――どうにかこの場を切り抜けなければ――……。
「ひゃっはー!見つけたぜ!」
歓喜の声、そして吐き気を催すような男の気配に、モモカは絶望した。
アジトの向こう側、小高くなった岩の上に立つのは、まさか、先刻逃げてきたばかりの男――飛段だった。闇の中に立つ飛段は、おどろおどろしいチャクラを拡散するかのように、不思議と発光して見えた。イクルの言っていた通り、モモカが切り落としたはずの右手はくっついている。
カブトさえも足を止めて飛段に注意が逸れたおかげで、その攻撃が当たらなかったのがせめてもの救いだった。しかし状況は最悪だ。大蛇丸とカブトに加えて、あの悪魔のような男を相手にしなければいけないなんて。
「なんだよボロボロじゃねえか!大蛇丸一派ってのも大したことねえなあ?!」
飛段がカブトの血に濡れた左半身を見て言った。それから体力を使い果たしたモモカ、地面に倒れるトウキ、大蛇丸の忍術を受けて蹲るイクルを順に見る。再度カブトに目線を戻したところで、囂々としたチャクラの圧を感じた。あっと飛段が思った時には、既に目と鼻の先にモモカがいた。
(これは――さっきの目くらまし――)
(いや違う、一点集中型の恐ろしく強力な突きだ)
飛段が雷切の本質に気付いた時にはもう遅い。
モモカの目は血走り、これを撃ったが最後正真正銘チャクラを使い果たして動けなくなることはもちろん承知の上だった。しかしここで先手を取らなければ、もうこの場を脱する機会などないと、そんな確信にも似た予感がしていた。
モモカの左手に、確かに肉を貫く感触がある。
「……モモカ……」
掠れた声と、慣れ親しんだ気配にモモカは目を見開いた。
嘘だ。こんなことがあるはずがない。あっていいわけがない。
しかしどれだけモモカが否定してみても、目の前の現実は何も変わらなかった。目の前の――モモカの雷切に胸を貫かれるイクルが――口から血を吐いて立っているこの地獄の光景は、なくなることはない。
どく。どくり。どく。イクルの胸に刺さったままのモモカの左腕に、今にも止まりそうなイクルの心臓の脈動が伝わる。
だばり。どばどば。低い外気温とは対照的な熱いイクルのまだ生きた血が次から次へとあふれ出てモモカの左腕を伝い、地面に黒い大きな水溜りを作った。
どうしてイクルの胸を、自分の腕が貫通しているのだろう。
薬師カブトが邪悪な笑い声を上げているのが、どこか遠くで聴こえた。一枚膜を張ったかのように全ての音が遠く感じる。匂いも、人の気配も、冬の夜の寒さも、何もかも鈍くなっていた。ただひたすらに感じるのは、イクルの心臓の響きと、血の生温かさだけだ。
ああ、イクル自身を口寄せしたのか――モモカは他人事のように考える――大蛇丸かカブトのどちらかがイクルに何かしらの術式をかけ――そして雷切を放つモモカの正面に口寄せした――だからモモカの雷切がイクルを貫いているのだ――モモカが――殺したのだ――仲間を守るための力で――モモカがイクルを殺したのだ――……。
イクルの向こうに、大きな鎌を構える飛段が見えた。イクルごとモモカを切るつもりらしい。モモカは全く体を動かすことが出来なかった。ただただスローモーションのように自分がその胸を貫くイクルが前に倒れるのと、その向こうの飛段が大きく鎌を振りかぶる様子を眺めていた。イクルの手が動く。ぐりんとイクルの目が回り白目を向いて、しかし彼は最後の力を振り絞って印を結んだ。
モモカの腹に衝撃が走る。大きな何かがモモカに突撃して飛ばした。イクルに貫通していた左腕も彼の身体からずるりと抜けて、内臓やら肉やらを引き裂く感覚があった。獣の匂いと羽音にどうやらイクルの忍鳥がモモカに突撃してそのまま数十メートル飛行しているのが分かったが、最早指の一本も動かせないモモカには何も出来ない。
なすがままに運ばれて地面に放り出されたモモカの上に何かが覆いかぶさる。よく知った気配だ。倒れていたはずのトウキだ。トウキは無我夢中でモモカの口を強く押さえる。モモカにはトウキが何故そんなことをするのか分からなかったが、このままモモカのことを殺してくれたらいいと思う。モモカがイクルを殺して、トウキがモモカを殺せば、それでおあいこになるような気がした。
酸素が薄くなって朦朧とする意識の中に、苦いものを感じる。トウキの手がモモカの口の中に突っ込まれていた。身体は動かせなくなっても反射でえずきそうになるところを、無理やりに何かが押し込まれる。
ようやく酸素を吸い込めたと思ったら、上に覆いかぶさっていたトウキがいなくなって代わりに土塗れの草がモモカを埋めていた。チャクラを使い果たしたモモカの身体は依然として動かないが、それ以上に自由が奪われている。両手首および両足首を固定されていた。土遁の何かしらの術だ。
モモカは全てを理解した。敵に向かっていくトウキの気配を感じる。イクルを奪われたことの怒りと憎しみで突進していくトウキの魂の叫びが聴こえる。
トウキとイクルは、モモカを土の下に隠して生かすつもりなのだ。
モモカは気が狂いそうになって暴れた。暴れたと思っただけで、全く身体は動いていなかった。何も動かない。何も変わらない。遠くに聴こえるいくつかの打撃音。カブトの笑い声と飛段の怒声。いくつもの蛇がモモカを探し回って地を這いずる音。
やめて。お願いだからやめてくれ。
モモカは必死になって祈った。
これ以上奪わないでくれ。これ以上誰も死なないでくれ。自分を一人ぼっちにしないでくれ。そこに、頼むから一緒に行かせてくれ。
モモカはトウキの叫び声を感じた。実際にはトウキは叫び声をあげていないが確かに聴いた。きっとモモカが苦しまないように、声をあげるのを懸命に耐えたのだろう。しかしモモカは同化の力で確かに聴いた。感じた。
慣れ親しんだ気配であれば、離れていても感じる――分かる――これは前にも一度感じ取ったものだ――あれは一年前にハヤテが殺された時と同じ種類の魂の叫び――人が死ぬ瞬間に出す強烈でありながらも刹那的な煌めき――そして訪れる無――……。
トウキが死んだ。
モモカは確かな死の感覚に叫んだ。どういうわけか声は出なかった。イクルかトウキが仕掛けた何かしらの術がモモカが出す全ての音を消し去っている。
その後もぶつかり合う金属音とチャクラの気配がして、大蛇丸とカブトが飛段相手に戦っているらしかったが、そんなことはもうどうでもよかった。モモカには全てが別の世界の出来事に思えた。
何故、こんなことになったのだろう。何を間違えたというのか。焦ってアジトの探索に来たから? 暁にちょっかいを出したから? この任務を受けたから? 里の上層部にたてついたから? モモカがハヤテを殺された憎しみを殺して忍に徹することが出来なかったから? あるいは、いつかイタチが言っていたように憎しみが足りないから?
やがて戦闘の気配さえもなくなり、モモカの周囲には何もいなくなった。モモカは依然として動けず、日が昇り、落ち、また日が昇るというのを繰り返し見た。その間にモモカは眠ることなく、自分の犯した罪と背負った業をずっと、何巡も考えていた。もしかしたら本当は寝ていた瞬間もあったかもしれない。けれど夢と思考の境も曖昧で、今自分がまだ生きているのか死んでいるのかさえも怪しかった。
三度日が落ちるのを見て、再び朝が訪れた後に、モモカは自分の腕が動くことに気が付く。鉛のように重く、筋肉という筋肉が痛み関節が軋んだが、身体を強制的に拘束するものは消えていた。動かした手首の下に土が盛り上がって、その中に札が見えている。モモカを拘束していた術式だ。一定時間が経つと解除される時限性の術式みたいだ。他の手足も動かそうとする。酷く震えて力が入らない。モモカの身体の中のチャクラは空っぽなのだ。三日を挟んで若干の回復はしているものの、起き上がるのさえままならなかった。
時間をかけて、荒い呼吸でどうにかモモカは上体を起こす。モモカを埋めていた草から顔を出すと、三日前と何ら変わらない風景が見えた。乾いた風が舞う岩だらけの荒れた土地。誰の死体もなくて、本当にここで戦闘があったのか、あの出来事は幻だったのではないかという気にさえなってくる。
しかしトウキの砕いた岩やカブトの切った岩盤は確かにあって、モモカの体中にカブトのものだかイクルのものだか分からない血が乾いてかぴかぴにこびり付いていた。何より三日前と違うのはアジトの入口である洞窟が埋められていてことだ。暁が埋めたのか、それとも大蛇丸自身がそうしたのかは分からない。彼らの戦闘の行方も、消息も、もう何の興味もなかった。ここでぼーっとしていればいつ敵が戻ってきて危険にさらされるかもしれないなんてことも、今のモモカにとって重要なことではない。
イクルとトウキが、死んだ。
イクルはモモカ自身の手で、手にかけた。
トウキはモモカを生き残らせるために、死なせた。
あんなに大切な仲間だったはずなのに、二人ともモモカが殺したのだ。
モモカはまた倒れるように横たわった。冬の冷たい風がモモカの後頭部を撫でる。涙は出ない。たぶん、モモカの涙はもう枯れたのだ。このまま横たわったままでいればいつか大地に吸収されて眠るように死ねるだろうか。土に還り、自然と一体となって、モモカも逝けるだろうか。ハヤテが風に乗って存在するように。トウキが地中で蠢く細胞のひとつひとつに宿っているように。イクルが冷たい水の底でじっと佇んでいるように。そんな存在にモモカもなれるだろうか。
瞼を閉じることすら酷く億劫で、モモカはぼんやりと視界が朧になっていくのを感じた。もう終わりにするのだ。胸を裂くような苦しみも、身を焦がすような憎しみも、尽きることのない哀しみも、もう、いい。このまま死ねば、全てを感じなくなる。ただ土に還り、微生物がそれを分解して、何も感じない細胞の一つに戻るだけだ。
夢を見た。
トウキもイクルも、ハヤテでさえも生きていた。
夢の中でトウキは火影になっている。昔から連綿と続く悪習を断ち切り、どんどん革新的で平和な里にしている。相談役はイクルだ。鳥吉の者として、実験体なんかじゃなく、家のなくてはならない一員として、当主になった兄を支え、また火影であるトウキを支え、その才能を存分に生かしている。
ハヤテは夕顔と結婚して幸せな家庭を築いていた。
モモカと言えば、自由気ままに里内外を走り回り、思うがままに生きている。この手で仲間を守り、笑い合い、平和な毎日だ。
ふと隣を見上げれば穏やかに微笑むカカシがいた。カカシはモモカの手を優しく取る。その手はモモカの全てを許してくれた。モモカの罪だけじゃなく、カカシ自身のことでさえも、何もかもを許していた。
「もういいんだよ」
カカシが優しく囁く。
「復讐も、憎しみも、犯した罪も、全てを忘れていいんだよ」
モモカは不思議な心地でカカシを見上げた。ふわふわとして暖かく、カカシに全てを委ねればとても楽になれるのだ。
もういいの? ともう一度聞けば、カカシは頷く。そうか、いいのか。復讐も、憎しみも、犯した罪も。自分の無力さも、後悔も。そうして生きる孤独な贖罪の道も――誰の手も取らない未来も――それでも歩みを止めない未来も――……。
「違う」
モモカは震える声で、けれど力強く否定した。心配そうな瞳でカカシが見つめている。モモカだけを見ている優しい瞳。どれだけ望んだことだろうか。でも、違うのだ。
「何もかもを失う過去があって、その贖罪に自分の人生をかけて。そのために自分に向けられた愛情を受け取ることができないひと。けれど悲しさや苦しさがあるからこそ、あなたはこんなにも強く、美しい。誰よりも優しく、仲間を大切に想っている――だからこそ――そんな人だからこそ、私は好きになったの」
カカシはまた微笑んで、頷いた。少しだけ哀しそうな色をした瞳は、モモカが恋をしたその人のものだ。好きになったのは、どうしようもなく悲しくて、孤独で、どんな雄大な自然よりも美しい人だった。
モモカは目を覚まし、頬が涙に濡れているのに気が付く。どうやらまだ、涙は枯れていなかったらしい。朝焼けが眩しくて、また次の朝がやって来たのだと知る。涙で滲む視界に、きらりと輝くものがあった。左手首のミサンガだ。血で濡れてどす黒くなっているが、中に光を反射する金色の繊維が見えた。赤い糸と、青い糸と、黄色い糸。もらった時は、赤はトウキで、青はイクルで、そして黄色は自分だろうと漠然と思っていた。その黄色の紐の中に光を反射する何かが織り込まれているみたいだ。どんな思いでカカシはこれを編んでくれたのだろう。熱い涙が乾いた地面を濡らす。モモカはカカシに抱きしめられた時に見た夕焼けに染まる里を思い出した。
あの人は、まだ生きている。
まだ必死に今を生きて、何一つ投げ出さずに、あの孤独な道を歩いているのだ。朝焼けを受けて反射するミサンガの金色の光がモモカに力を与えた。死んではだめだ。投げ出したらだめだ。逃げたらだめだ。愛情を受け取ろうとしないあの人に、出来ることは、モモカも必死で生きることだけなのだ。渡せるものは何もない。ただ生きて、生き残ることが愛するあの人への、最大限の愛情だ。
「うぐ……」
モモカは口の中に張り付いたものを引っ張り出す。血と唾液でぐしゃぐしゃになった忍札だ。トウキがモモカの気配を隠すために詰め込んだものだった。
明日を睨みつけるようにモモカは身体を起こした。這いずるように草と土の塊から出て、一歩を踏み出す。
「はあ……はあ……」
力の入らない震える足で、モモカは歩いた。行く先は分からない。少しでもこの場所を離れて、生き残ることしか頭になかった。冬の到来を告げる冷たい風がより一層に体力を奪う。息も絶え絶えに、何度もよろけて転びそうになりながらも、それでもモモカは歩いた。他人が見れば何と惨めで憐れな足取りだろう。
そう言えば、前にも似たような経験があった。まだ下忍だった頃に、合同任務で同期を全員殺された時のことだ。あの時も絶望のどん底で、自分の無力さが恨めしくて、憎かった。けれどあの時は、トウキとイクルがいた。同じ痛みを背負う彼らがいたから、歩き続けることができた。それに里に着く前に、カカシの手配した木の葉の忍が迎えに来たのだ。
今はどうだ。生まれ育った地を何百里も離れた荒れた土地で、迎えに来る人もなくて、一人ぼっちで歩いている。全てを失ってもなお、まだ、みすぼらしく歩いている。
気力だけで歩いていたモモカの手足はとうとう動かなくなり、冷たい大地に倒れた。大切なものを失くして、これから先の厳しい冬を超えることが出来るだろうか。里に帰れたとて、まだ未来に希望を見ることが出来るだろうか。
果たして、仲間を殺したモモカを、カカシはどんな目で見るのだろうか。