靄がかかったようにしか


 モモカ達は午前中の里を駆けていく。木の葉崩しから間もないといえど長閑で平和な里だ。その中に感じ取った一筋の不穏な気配。一族殺しの男。金木犀の香り。
「モモカ、奴の距離は」
 駆けながらイクルが尋ねる。イクルもトウキもモモカの察知能力には全幅の信頼を置いている。どれだけ絶望の最中にあって打ちのめされた後でも、敵の気配にすぐさま臨戦態勢を取れてしまうのはどうしようもない忍の性だった。
「恐らくそう遠くはない――。誰かと戦闘中だ」
 モモカは同化の力を研ぎ澄まして答える。確かに感じるイタチの気配。そこに対峙するのは複数の気。誰だか分からないけれど、もう間に合わなくて自分の無力さを嘆くなどという、滑稽な後悔はしたくなかった。
 人々が普段の活動を始める里内において、異質なのは駆け抜けるモモカ達だったかもしれない。しかしこの人々の生活の裏には間違いなく血生臭い戦いの歴史があるのだ。力づくで勝ち取ってきた平穏だ。
 やがて川が見えてきた。里と外とを隔てる運河だ。そこに存在する人影を視認するより早く、禍々しい気配をモモカは強く感じ取った。
「――いる!イタチだ!あと誰か分からないけれど酷く獰猛な気配――それから木の葉の忍はアスマさん、紅さん、カカシさん――ガイさんも、今また増援に――!」
 モモカの言葉により一層の緊張が走る。トウキもイクルもうちはイタチの実力は身を持って知っていた。
 そしてとうとう目で確認できたその姿に、三人は息を飲む。かつて対峙したことのあったイタチだが、モモカ達が記憶していたそれよりもずっと禍々しく、度し難い凶悪な殺気を放っていたのだ。
 対峙しているのはモモカが感知した通りアスマ、紅、カカシ、ガイの上忍四人だ。カカシは意識がないらしくガイに支えられている。カカシのくったりとした姿にモモカは途端に血の気を失った。
「待て!!」
 三人は上忍達よりも一歩前に、イタチともう一人同じ衣を身に纏った背の高い男の前に立った。三人は自然と、視線は上げずに敵の足元を見る。何度もシミュレーションしてきた写輪眼対策だった。
「お前ら」
 アスマが驚きの声をあげる。つい昨日、やるせない忍の世界の理に打ちひしがれていた子供たちが、上忍である自分達を守るかのように敵との間に降り立ったのだ。
「やめろ、手を出すな」
 アスマは続けて言った。到底中忍の手に負える相手ではない。モモカはちらりとカカシを見た。意識を失っているみたいだ。イタチの幻術にかかったのだろうか。
「なんです?この里はこんなガキまで――身の程知らずにも程がある」
 イタチじゃない方の男が言った。上背があり、獰猛な気配で、まるで野生の獣と対峙しているかのような印象をモモカは受ける。
「気を付けろ。真ん中の小娘は奇妙な読心術を使う。理屈は分からないが、安直に触れると情報を抜きとられる」
 五年ぶりに聞いたイタチの声はあの頃よりも低くなっていた。イタチの言葉に眉を顰めたのは相方の獣のような男だけでなく、モモカ達の後ろの木の葉の上忍達もである。
「読心術……?」
 ガイの疑問の声が、モモカの背中から刺して心を締め付ける。
「カカシさんに何をした!」
 半ば上忍達の疑惑の視線を振り払うようにモモカはイタチに問うた。イタチはしばらく何も答えずに、モモカ達を観察する。イタチの気配はこんなにも禍々しかっただろうか。こんなにも人間離れしていただろうか。到底敵いっこない強さだ。どうすればこの場を無事に逃げられる――……。
「……変わったな」
 ようやく発せられたイタチの声にハッとしてモモカは身体が硬直するのを感じた。目を合わせることは出来ないけれど、イタチがあの全てを射抜くような眼で自分を見ていることが嫌という程に分かった。
「あれから色々なものを失ったか」
 イタチの問いかけに、モモカは己の心の醜い部分を露出しているような疚しい感覚に陥った。あんなにもう一度戦って勝ちたいと思った相手なのに、一生かかってもイタチには勝てないような気になる。
 イタチはあの瞳力で見抜いているのだ。モモカの失ったものを。モモカの弱さを。今この場から逃げ出さんと策略する卑しさを。
 モモカは緊張で力を込めていた腕をぶらんと脱力させる。隣のトウキが驚いて「モモカ!」と注意を促したが、もう到底力は入りそうになかった。
「どうすれば……強くなれる?」
 モモカは俯き消え入りそうな声で呟く。敵にこんな質問を投げかける自分が心底情けなかった。イタチがモモカをじっと見つめる気配がして、やがて彼は口を開く。
「家族は?」
 イタチの静かな問いかけに両親、それと兄姉の顔が思い浮かぶ。
「……いるよ」
 モモカは泣きそうな声で返した。
「親しい友は?」
 イタチは続ける。
「……ここに、いるよ」
 モモカは慣れ親しんだトウキとイクルの気配を殊更に強く感じながら答えた。
「最愛の人は?」
 淡々と質問を繰り返すイタチの声に、モモカは頭の奥の人物を見つめる。すらりと伸びた手足。眩い銀髪。モモカに忍の美しさ、尊さを教えた男。
「まだ生きて、ここにいるよ!!」
 モモカは図らずとも大きな声を出した。
「……まだ足りないのだ。お前は。憎しみが。全てを焼けつくすような怒りが」
 イタチが静かな声で告げる。全てを失って、それからまた自分に挑んで来いと言っているようなその台詞に、モモカはやるせない怒りを感じた。イタチをこんなにしたのは誰だ。忍の闇を背負わせたのは、この世界の何なのだ。
「全てを失えばあなたみたいに強くなれると?」
「そうだ」
 にべもなくイタチが答える。
 この世の理不尽に途方もない怒りを感じ何故だか突如として心の靄は晴れて、モモカは無謀にも顔を上げた。
 イタチとはっきりと目が合う。五年ぶりの対面だ。先ほどまでの震えあがるような恐怖は可笑しいくらいになくなっていた。イタチに幻術をかけるような気配は、今のところない。
 ぬらぬらと赤く光る瞳はモモカという一人の人間を見定めるかのように妖しい輝きを放っていた。モモカは大きく息を吸う。夏の終わりの香りがした。刺々しく青臭い草の匂い。金木犀の甘い匂い。水辺の円熟した泥臭い匂い。この歳までモモカを育み慈しんできた、里のかおりだ。
「嘘ばっかり。あなたにはまだ、最愛の弟がいるじゃないか」
 モモカは睨み付けて言った。イタチが目を細める。トウキとイクルが、後ろの上忍達が、イタチの連れの男でさえも、固唾を飲んで成り行きを見守った。モモカは五年前、何も知らぬ下忍未満の子供だった頃にイタチと対峙した。その時に同化の力で確かに見たのだ。イタチの中の愛くるしいサスケの姿を。狂おしい程、ただ一人の弟へ向けた愛を。
「……一つ忠告しておく」
 イタチが片腕を上げた。幻術をかけるつもりだ、とモモカは直感した。
「あまりペラペラと喋ると寿命を縮めることになるぞ。それが自分のことでも他人のことでも」
 イタチは言い残し、連れの男と共に唐突に去る。モモカの想定していたような幻術はなく、音もなく姿を消した。まるでその辺の忍が使っているような瞬身術で、この場を立ち去ったのだ。
 イタチの気配が消えるとモモカはその場に片膝を付いて荒い呼吸をする。張り詰めていた緊張の糸を解き、脳に酸素を満たすと途端に疲労が襲った。自分を支えてくれるトウキとイクルの力強い鼓動を感じながら、そういえば昨日の昼から何も口にしていなかったことを思い出す。どんなに辛くても世界は回る。腹は空く。当たり前に毎日が過ぎる。だけど注意して見ようとすれば、そこかしこに真理があるような気がした。


 それから一行は木の葉病院へ移動した。意識を失ったカカシを治療し、負傷したアスマと紅の手当てをし、空腹のモモカ達は栄養剤をもらう。
 それからカカシを彼の家に運びベッドに寝かせてやる。思い思いにベッドの周囲に座り、紅が上層部に報告に行ったところでガイが狙いすましたかのように口を開いた。
「過去にイタチと戦ったことがあるのか」
 質問にモモカ達は答えられず押し黙る。イタチと遭遇したのは違法に里の外に出て闇業者の任務を請け負っていた時のことで、今まで秘密にしていた。
「……里に背くことは、してないつもりです」
 ようやく口を開いたイクルに、ガイは重くため息を吐く。
「分かった。そう言うなら詳しくは聞かん」
 きっぱりと断言するガイの言葉が、今は酷く身に染みて有難かった。彼はイタチの口にしたモモカの読心術についても、一切聞くことはなかった。
 やがて報告を終えた紅がまた戻ってきて、皆はイタチの目的について話し合った。イタチと同行していた忍は元霧隠の男で忍刀七人衆にも名を連ねた干柿鬼鮫ということを、モモカ達はここで知った。そしてS級犯罪者の二人が属する組織を、暁というらしいことをカカシが言っていたというのだ。
 モモカ達は暁の名を聞いた時に思い当たる節があったが、それを上忍達に悟られないよう顔色一つ変えずに聞いていた。暁は、モモカがダンゾウの所で見た協定書の中にあった名だ。モモカは上忍達の話を聞きながらも犯罪組織とダンゾウとの結びつきを、憎しみも怒りも手放したうえで忌憚なく想定した。良いことよりも、悪い仮説の方が遥かに多かった。
 部屋の窓を叩く音に皆が顔を向ける。木の葉御用達の忍鳥が窓ガラスを叩いていた。小ぶりなサイズの忍鳥は専ら任務の伝達に使われるもので、こんな時に任務かと皆がげんなりとした顔をする。
「どうやらお前らみたいだな」
 窓を開けると忍鳥は真っ直ぐモモカ達の所へ飛んできて、アスマが言った。忍鳥の足に括り付けられた書を解けば、任務有、火影塔に参集せよとの旨が書かれていた。モモカ達は立ち上がる。
「一度里から離れてみるのもいいかもな、お前らみたいなのは」
 アスマが何気ない会話の続きのような雰囲気で言った。
「ちょっと」
 紅がアスマを咎める。
「そんな、反逆の幇助みたいなことを安直に言うべきじゃないわ」
 窓の外を気にする紅の注意にアスマは軽く笑った。
「なあに、そんな犯罪めいたことじゃない。里から離れるのは、正規の方法でもいくらでもある。俺だって、一時期里を離れて好き勝手してた時期があるしな」
 アスマは頭の後ろで腕を組んで椅子の背に大きくもたれる。
「離れてみて初めて理解できることだってあるもんさ」
 アスマの言葉に何と返したら良いか分からずモモカはチームメイト二人を見た。二人とも複雑な顔をして黙っている。
 カカシの部屋のドアノブに手をかけ、ふとモモカは思い立った。そしてイクルとトウキも同じことを思っていると感じ取った。同化の力がなくたって、二人とも同じ気持ちだということは分かる。何となく視線を交わし合って、三人は上忍達を振り向いた。
「あのっ、昨日は……ありがとうございました」
 頭を下げるモモカ達を上忍達は意外そうな顔で見ている。
「私達を、止めてくれて……」
 きちんと昨日のお礼を言っておかないと後悔するような気がした。今日笑い合っていた人と明日と同じように言葉を交わせるとは限らない、そんな世界なのだ。
 上忍達はお互い顔を見合わせ、ふと微笑んだ。
「礼なんてよしてくれ」
 ガイが項垂れる。
「ま、ガキの面倒見るのが大人の仕事だからな」
 アスマはひらひらっと手を振った。
「ガキじゃねえっての」
 むくれるトウキに、紅は少し安心したかのように頬を緩める。
「あと数年は子供でしょう」
 お決まりのやり取りに、モモカ達の心も幾分か解れた。カカシの部屋を後にする子供たちの背はいつの間にか大きくなっていることに今更ながらにアスマは気付く。未来に足が竦みながらも決して歩みを止めない彼らを、アスマは誇りに思った。

 火影塔に呼び出されたモモカ達が言い渡されたのはAランク任務であった。
 Aランク任務を中忍だけで行うなど通常ありえない。モモカ達も今人手が足りていないのは承知しているが、常であるならば上忍に振り分けられる任務だ。
 任務内容は、音忍の監視および大蛇丸とその部下、特に幹部クラスの動向の調査だ。まずは草隠との国境にある街に行く。その街では大蛇丸の配下である忍の目撃情報があった。その忍に接触し、アジトの情報を得る。そして各アジトに出入りする者の動向を追う――かいつまめばこんな内容だ。しかも、出立は今夜だというからまた急な話だ。
 モモカ達は任務を言い渡された後に、久しぶりにヒョウタン公園で作戦会議を開いた。
「Aランクと言いつつも……場合によっちゃSランクとも取れねえかこの任務」
 トウキが頭を抱えて苦言を呈す。必ずしも戦闘の必要があるわけではないが、敵に悟られずに情報を抜き取る諜報活動、バレた時に素早く相手を始末する暗殺術、そしてことによっては敵だらけの見知らぬ土地で大勢を相手にした戦闘をすることになる。それを考えるとモモカもトウキと同意見だった。トウキとモモカは意見を求めるようにイクルを見る。彼は難しい顔をして唸っていた。
「これは……もしかしたら僕らは……体よく追い払われたのかもしれないね……」
 イクルは揺れる瞳でモモカとトウキを見つめる。
「……どういうことだ」
 トウキが顔を歪めて聞き返した。
「僕らの犯した罪は二つ。同盟国の砂の忍の暗殺未遂および上層部への反逆行為。そして過去に里を抜けて違法な任務を請け負っていた疑惑がある。……まあそれに関しては疑惑じゃなくて事実なんだけれど。これだけでも里にとっては危険人物だ。そして砂忍に殺されたハヤテ先生の部下とくれば……砂に恨みを持った僕らを里に置いて変な気を起こされるよりかは、里から遠ざけてその憎しみのエネルギーを大蛇丸に向けさせて方が、有効に使える」
 イクルは説明し、諦めのため息を吐いた。
「なあ、正直この任務の成功率ってどのくらいだと思う?一般的な目で見て」
 トウキが神妙な面持ちで聞く。任務の成功率についてはアカデミーの授業で習った。八割以上まで持っていくのが定石だ。
「いいとこ二割くらいじゃないかな」
 モモカは静かに呟く。
「なかなか鋭いとこつくね。僕もそんなところだと思う。もし僕らが失敗しても危険因子である中忍が死ぬだけ……成功するならするで、してやったりだ」
 イクルはこめかみを押さえて地面を睨んだ。つまり、里にとってモモカ達の存在など、そういうものなのだ。
「お前の家は何も言わないのか?お前の身体は、唯一無二のものだろう。鳥吉にとって」
 明け透けにトウキは言う。イクルの身体には特殊な金属が埋め込まれていて、鳥吉が里内で大きな力を手にするための秘密兵器でもあった。それを果たして鳥吉がむざむざ手放すのかということを疑問に思っているみたいだ。イクルは頭を振る。
「分からないね。どうだろう……里との間により有利な条件が示されればあるいは……。本当の所、僕自身はほとんど何も知らされていないんだ。大事なことなんて」
 イクルの目にはこれまで散々突きつけられてきた現実の厳しい風が吹きすさんでいた。イクルはきっと、モモカが想像するよりもずっと、忍の世界の闇を見てきたのだろう。
「イタチの言っていたことって、もしかしたら本当に忠告なのかも」
 モモカは午前中のイタチの言葉を思い返して言った。
「……ペラペラ喋ると寿命を縮めるぞってやつか。なあ、奴がそういう忠告するってことは、モモカが同化で見たイタチのサスケへの愛情に何か裏があるんじゃねえか。それこそ里が隠したがっている何かが……」
 トウキが頭を捻る。皆考えたが、それ以上のことは分からなかった。
「でも……やるしかないよね」
 モモカは呟く。トウキもイクルも分かり切っていた。自分達は忍で、誰かの道具でしかない。属する組織に反することなどあってはならないのだ。任務を遂行することが、いわば自分達の存在意義なのだから。
 星の輝き始めた空を見上げたが晴れのはずなのに月がない。今夜は新月だ。きっと長い任務になるだろう。モモカはカカシの笑顔を思い浮かべようとしたが、何故だが不明瞭でぼんやりと靄がかかったようにしか思い出せなかった。



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