確かにあの気配を
三代目火影を含めた戦死者の葬儀は、戦いから二日後に行われた。ここ最近の天気とは打って変わって、朝からしとしとと細かな雨が降り続いている。戦闘の爪痕が残る建物も葬儀に参列した人々も物見やぐらに生えたままになっている樹々さえも濡れそぼって、天からの雫は夏の熱も戦いの後の興奮をも吸い取る。この里を支える大樹を失った人々の怒りを鎮め、悲しみを包み込んでいるかのような雨だった。
モモカ達は葬儀の前に、第三演習場の慰霊碑に足を運んだ。葬儀の前にハヤテの所へ行くべきだと思った。夕顔の花束を手にしたモモカ達は、先客がいることに気が付く。カカシと、もう一人黒髪の綺麗な女性だ。見たことがある女性だった。
「夕顔さん……」
イクルが呟く。喪服に身を包んでいるが確かにそれはハヤテの恋人の卯月夕顔その人であった。カカシと夕顔はこんな雨の中で傘も差さずに慰霊碑の前に立っている。あえて雨に打たれているのかもしれなかった。雨音もあって、何を話しているかは聞こえてこない。だけど二人の纏う雰囲気はこの上なく寂しさを感じさせた。二人とも、大切なものを奪われてきたのだ。
モモカ達はすぐに話しかけることは出来なかった。ハヤテを失った悲しみを分かち合うことができるとは思っていなかったからだ。モモカ達は、ハヤテの死に責任を感じていたし大きな後悔の念を抱いていた。もしあの時ハヤテを一人で行かせていなければ。その前にもっと早く薬師カブトの正体に気付いていたら。そもそも、あの合同任務の際にハヤテが敵の毒霧を喰らわなければ……彼の身体能力はもっと伸びて、砂の忍なんかには負けなかったかもしれないのだ。
モモカは雨靄の中のカカシの横顔を見つめる。カカシの顔は奪われた者の悲しみよりも、奪ってきた者の罪の意識が滲んでいるように見えた。自分を責めて詰って否定して、それでも歩みを止めることを許されない咎人の顔なのだ。モモカは今この瞬間、どうしてカカシの笑顔がいつも切なく感じるのか理解した。カカシはモモカが出会う時よりずっと前から、自分を赦すことを許していないのだ。カカシは手の届く範囲の者は全力で守る。守るべき存在のことはどんなことでも受け入れる――それが自分に向けた特別な愛情以外ならば、何でも。だけど、差し伸ばされた救いの手を掴んだりはしない。全てを肯定する愛情を受け入れない。この人の自ら進む未来は、贖罪の孤独な道なのだ。
モモカは雨に濡れる二人に近付いた。足元のたっぷり水分を含んだ草がモモカの履物を濡らす。モモカは差していた傘を二人の頭上に掲げる。二人はゆっくりと振り向いた。
確かに、カカシに拒絶されることは恐い。避けられることは悲しい。でもモモカが勇気を持って差し出したその手で、彼が、彼らが少しでも雨に濡れないのならそれでいいとも思えた。
「……花、あなただったのね」
夕顔がモモカの抱く花束に目をやって呟いた。
「はい」
モモカは静かに頷く。
「仏花に向いた花じゃないわ」
囁くように、夕顔は言った。黒目がちな瞳には多くの複雑な感情が渦巻いているようだった。
「……はい。でもハヤテ先生の大好きな花ですから」
懸命に微笑むモモカの声は震えていた。頬に熱いものが流れる。今日が雨で良かったのかもしれない。流れる全ての雫は雨のせいにできる。夕顔さえも唇を震わせて、泣いているように見えた。
トウキとイクルもモモカの隣まで来て、夕顔に深々と頭を下げる。トウキの肩は震えていた。イクルは拳を強く握り締めすぎていて、真っ白になっていた。
「良い部下だって自慢してたわ」
夕顔は顔を上げる。哀しく美しい顔が雨に打たれ、朧に浮かび上がる。
「……あなた達は強く生きて」
儚い声は、祈りのようだった。モモカ達は立ち去る夕顔の後ろ姿をいつまでも見つめていた。
葬儀の翌日、木の葉隠の里には夏の日常が戻ってきた。忍達の健闘あってか人的被害は驚くほどに少なかったが、建物の損害が大きい。皆泣いてばかりいられなかったのだ。あるいは、復興に向けてやるべきことが山ほどあった。しかしやるべきことがあるからこそ、人々は前を向いていられた。
「それたぶん、ダンゾウ様だよ」
瓦礫の山を退かしながらイクルが言った。モモカはそれを大きな手押し車に乗せる。
「ダンゾウサマ?」
手押し車の向こうからトウキも顔を出して聞き返した。瓦礫の処理に追われながらモモカは先日の木の葉崩しの最中、落下した地下での出来事を二人に話していた。イクルが難しい顔で頷く。
「ほら、前に根という組織について話たでしょう?そのトップが、ダンゾウ様。三代目火影様の同期の忍なんだけれど穏健派の三代目とは正反対で、合理的かつ武闘派で……まあいわゆる過激派ってやつだね」
イクルの説明にモモカはそんなに偉い人だったのか、と少し驚いた。
「なあ……モモカの話だとそいつ木の葉崩しの戦いには参加してないんだろう……その根の連中も」
トウキが険しい目付きになっている。
「うん……。見た訳じゃないけどあの地下道には多くの手練れの気配があった……それが根の人達なら、たぶん、あの戦いの最中地上には出ていないと思う。それに、あのチラッと見えた協定書も気になるし……」
モモカは記憶を頼りに思い出す。イクルは弱気な声を出した。
「僕の家は……各所と怪しい取り交わしをしているからね……根のことは僕も分からないけれど……」
イクルはいわば鳥吉という家の実験体だ。どんな協定が取り交わされているのだろう。モモカは急に不安な気持ちが大きくなってきた。
「また行ければ、と思ったんだけど、騒動後に同じ場所に行っても出入り口は塞がれてたんだよね」
木の葉崩しのまさに翌日のことだ。翌日にモモカが落下した場所、それから地上に出た場所に行っても地下への道は終ぞ見当たらなかった。
「そりゃあ、色々忍術とか駆使して隠してるんだろうよ。出入口の場所も定期的に変えてるかもな」
トウキの言葉に「その可能性は高いね」とイクルも頷く。バサバサと頭上を飛び交う鳥にモモカは空を見上げた。イクルのものではない。今日はやたら、忍鳥の往来が多かった。確かに夏の暑さなのだが、吹く風にはどことなく秋の気配が感じられた。
午前中の仕事を終え、昼休憩に上がった時のことだ。
先輩の中忍が慌ただしくモモカ達の前に現れた。
「お前らこんなとこにいたのか!」
飛び込んできた先輩にモモカは構えるも、その顔を見るにどうも差し迫ったものには見えない。
「どうしたんです」
イクルが聞いた。先輩は「大変だぞ」と頭を振る。
「木の葉崩しの全貌が明らかになった。大蛇丸が風影を殺害し化けていたんだ!ずっと風影の振りをしてだましていたらしい。それで、砂は木の葉に全面降伏の意を表している!」
嬉しそうに報告するその言葉に、モモカ達の時が、一瞬止まった。頭上では、相変わらず忍鳥達が飛び交っている。そういえば、見慣れぬあの鳥は砂漠地帯に生息するものだったかもしれない。
「……え?」
モモカは驚くほど間抜けな声を出していた。
「木の葉側もこれを受諾する考えだ。酷い被害が出たし争っている場合ではないしな――今は国力の回復が最優先だ。それで、今ちょうど砂の使者が来ていて降伏を宣言している。直に同盟が結び直されるぞ。これでひとまず平和が――」
先輩は、最後まで言い終えずに口を紡ぐ。普段は寛容で、朗らかで、ともすればのんびりしているとも形容できるモモカの瞳に凄まじい怒りの炎を見たからだ。
モモカ達は走り出した。特に合図を出したわけでもなく、三人同時に地を蹴っていた。向かった場所は里の中枢機関が集まる火影塔だ。辿り着くと、お祝いムードの人々が火影塔を囲んでいる。忍だけじゃなく一般人も多かった。皆安堵の表情だ。どうして、どうして笑っていられる――?
「あの、すみません、同盟が結び直されたって本当ですか」
イクルが近くの人に話しかける。汗だくのイクル達にびっくりしていたが、嬉しそうな表情で答えてくれた。
「ああ、今まさに同盟が結ばれた!もう無駄な死者が出なくて済むんだ。三代目火影様が作ってくれた平和の架け橋だ」
綻ぶような笑顔に、モモカは絶望した。平和の――架け橋だと?平和とは、何だ。あれだけ憎しみを作り出しておいて平和など、どの口が言えるのか。
「なあ、その砂の使者団は今どこに――」
「トウキ、止めろ」
通行人の肩を掴んで揺さぶる勢いのトウキを制止する声がした。アスマだった。複雑な顔で、トウキの腕を掴んでいる。アスマの後ろには紅とガイもいた。まるでモモカ達が来るのを待ち構えていたみたいだ。アスマはゆっくり首を振る。
「もう同盟は結ばれた。思うところがあるだろうがな、これは決定事項だ。お前らに出来ることはない。砂の奴らももう里を出る頃だ」
トウキはアスマの腕を強く振りほどいた。あれだけ心の底では認めて尊敬していたアスマのことを、親の仇でも見るような目で睨みつけている。モモカが門の方に向かって走り出した。トウキとイクルも続いていく。
「あっお前ら待て――!」
アスマは捕まえようと腕を伸ばしたが彼らの身のこなしの方が一歩速かった。
モモカが東門に辿り着いた時、門正面の沿道にも多くの人々が集まっていた。里を発つ砂の使者団の見送りのためだ。砂の忍を恨めしい目で睨む老婆、平和が戻ってほっとした顔をする男性、珍しい活気に訳も分からず浮かれる子供達。全てが滑稽に見えた。
砂の使者は全部で五名だ。モモカはその中に、あの男の姿を見た。ハヤテを殺した砂の上忍――バキだ。彼らは里を振り返り、見送りに来ていた木の葉の上層部と握手を交わしている。三代目火影の相談役だった重鎮達、そしてまさに先日会ったばかりのダンゾウという男。
「あの!すみません!」
突然のモモカの呼びかけに砂の使者、木の葉の上層部、沿道に見に来ていた人々皆が振り返る。モモカは呼吸を整える間もなくバキを真っ直ぐ見据えて次の言葉を続けた。
「あなたが、ハヤテ先生を殺したのですか!」
モモカの言葉に、その場に緊張の糸が張り詰めた。誰も迂闊に声を出せずに、視線だけで動揺を伝え合う。皆が飲み込んで平和の裏に押し込んで隠した憎しみを、今一人のくノ一がほじくり返しているのだ。バキは少し驚いた表情をした後に、モモカから目を逸らすことなく頷いた。
「……そうだ」
飛び出そうとするモモカを押さえつける腕があった。
「モモカ!やめるんだ!」
ガイだ。トウキはアスマに、イクルは紅によって同様にがっちり掴まれていた。さすがに上忍に押さえ込まれてはびくともしなかった。同化の力でガイの心の内が伝わってくる。
(つらいよな)
(苦しいよな)
(憎いよな)
(この子に俺は何もしてやれない)
(でも今は駄目なんだ)
(この子の痛みを少しでも代わってやれたら)
(ごめんな、ごめん。耐えてくれ――)
ガイの心の叫びが流れ込んできて、なおのことモモカは苦しかった。全て悪いのは大蛇丸だということは承知している。この同盟が平和につながることくらいモモカもトウキもイクルも、皆分かっている。分かっているけれど、ハヤテを殺されたこの憎しみの昇華の仕方だけは分からなかった。
「俺を刺して気が済むならそうしてくれて構わない」
バキは淡々とモモカに告げる。モモカは獣のような眼でバキをねめあげた。ガイに押さえつけられたままでクナイを強く握り締める。
「小娘、馬鹿なことをするな」
冷たい声音にモモカは震える瞳でそちらを見上げた。ダンゾウだ。上忍によって押さえつけられた哀れな中忍達を、人間のものとは思えない温度のない瞳で見下ろしていた。
「今貴様が砂の忍に手を出せば外交問題になることが分からんのか。ようやく結び付けた平和を壊す気か」
モモカは信じられない気持ちでダンゾウを見つめ返す。そんなことも百も承知だ。だから上忍達が必死でモモカ達を押さえつけていることも、理解できないほど馬鹿でも子供でもない。
「あんた……何もしなかったくせに……戦わなかったくせに!今更偉そうに!!」
モモカはダンゾウに向かって叫んだ。もしダンゾウが根の戦力を少しでも割いていたらまた違ったかもしれない。ハヤテは死なずに済んだかもしれない――。モモカは脱力して俯く。モモカを押さえるガイの苦しみと自分の苦しみがごちゃ混ぜになって頭が割れそうだった。
違う。こんな他力本願じゃ何も守れない。ハヤテが死んだのはハヤテが目の前にいる砂の忍よりも弱かったからだ。ハヤテを守れなかったのは、自分に力がないからなのだ――。
「ゆるせない」
モモカが消えそうな声で呟き、ガイがあっと思った時には既にその腕の中にモモカはいなかった。木の葉一ともされる体術の使い手からすり抜けるモモカの眼は、研ぎ澄まされた獣の光を放っていた。思わずガイが手を伸ばすことを躊躇してしまう程だった。
クナイを振りかざし、瞬身の術でバキの背後を取る。
「モモカ!!」
誰かが叫ぶ声がした。
その場にいた人たちは最悪な状況を覚悟する。肉が切れる音がして鮮血が飛び散った。
次の瞬間、そこにいたのは自らの左手にクナイを突き刺したモモカだった。
「ふーっ、ふーっ……!」
肩で息をして、自らの殺意を鎮めようと懸命に抗うモモカがそこにはいた。バキは自分が無傷だったことに驚き目を見開いて、蹲る目の前のくノ一を凝視する。
彼女は地面に這いつくばり、必死で殺意を抑え込み、憎しみを飲み込み、鋭利なクナイで自分の左手を地面に串刺しにしていたのだ。バキが何か口を開くより早く、木の葉の忍達がモモカを押さえにかかった。
「これはお見苦しい所を……失礼した」
ダンゾウが言い、砂の使者たちを出口へ促す。
「ふざけるな!!」
砂の使者たちが門の外に出てすぐに、泣き叫ぶ声がした。若い男の声だ。
トウキが押さえるアスマの手から逃れようと滅茶苦茶に身体を振り回していた。
「これが平和の形なのか!たくさん死んだんだぞ!火影だって殺された!なあ、これが里の……火の意志なのかよ!!」
アスマがトウキの腕を捻り地面に押さえつけた。押さえつけた腕からトウキの震えが伝わってくる。こんな役目は金輪際御免だとアスマは思った。
紅に掴まれたイクルは暴れこそしなかったものの、虚ろな瞳で砂の使者を睨みつけて唇を強く噛んでいた。あまりにも強く噛むものだから、口の端から一筋血が流れていた。血はイクルの喉元を伝い上衣を赤黒く染めていたが彼は全く気付いていない。
「うわあ……ああああ!!!」
モモカが声の限りに泣き叫んだ。ハヤテの死後、決して泣くことのなかった彼らの涙に、上忍達は何も言葉をかけてやることが出来ずにただ力強く抱きしめた。
(ごめんな)
(ごめんな)
(上の世代の作り出した憎しみを背負わせて、本当にごめんな)
(だけどこれ以上憎しみを作り出したくないんだ)
(これからの子達には、平和を残してあげたいんだ)
ガイの悲痛な願いがモモカを抱きしめる腕から直に伝わってくる。モモカはいつまでたっても無力だった。何度も己の非力さに涙してきたはずなのに、守れたものなんて何もないような気さえする。
涙に濡れたモモカの視界に、晩夏の空がやけに高く見えた。
モモカ達三人は、火影塔の一室に軟禁された。未遂に終わったものの同盟国である砂の使者に襲い掛かったのだ。その上里の上層部にも立てつき、ともすれば反逆とも取られる、忍にあるまじき行為だった。
十畳ほどの部屋は取調室として使われる部屋で、長机が一つと椅子が四脚の他には何もない。ドアには鍵がかけられ外には忍が一人見張りに付いている。唯一の窓にも格子が嵌められて、月明かりが漏れ入っていた。こんな格子など、中忍クラスであれば脱走くらい訳ないことなのだが里もモモカ達に抜け出す気がないことを分かった上でこの部屋に入れていた。形式上の謹慎だ。
モモカは泣き疲れてぼうっとした頭で窓の外の夜空を見るともなしに眺めていた。クナイで貫いた左手には紅が包帯を巻いてくれた。思い切り刺したので傷は貫通していたがどうにか医療忍術で皮膚はくっついた。ズキズキと傷口が痛むが、どうでもよかった。
トウキとイクルも虚ろな瞳で俯き床の一点を見つめている。ただ自分達の無力を痛感し、何もする気が起きなかった。時間だけが無意味に過ぎていき、世界は何事もなかったかのように回る。
月が天辺を通り過ぎて、窓の外に覗く頃、見張りの交代する気配がした。三度目の交代だ。三時間ほどで交代しているらしい。
「聞いたわよ」
交代したばかりの見張りが躊躇いがちに声をかけてきた。みたらしアンコの声だ。誰も何も答えずにいたが、アンコは大きく息を吸い、続けた。
「あんたらのこと、ちょっとは見直したわ」
モモカは動かずに、視線だけを徐に上げる。月明かりがイクルの血の気のない頬に格子状の影を作っているのが見えた。イクルもトウキも身じろぎ一つしない。
「……あたしさあ、下忍になった時の担当上忍が、大蛇丸だったのよね」
ドアの向こう側にずりずりと擦れる音がして、アンコがドアにもたれて座り込んだであろうことが分かった。
「当時すでに三忍と呼ばれてそりゃもうすごい忍でさ、完璧な存在だったのよ。あたしはそんな人の部下になれて鼻高々だったし、少しでも近づきたい、肩を並べたい、認められたいって必死になって追いかけたわ。奴の邪悪性には薄々気付いてはいたんだけどね……でもやっぱり、尊敬するこの人が間違ってるわけない、って思っちゃうわけよ。世間知らずなガキはさ」
アンコの声は穏やかで落ち着いていたけれど、どうしてかモモカには泣いているように感じる。アンコの独り言のような呟きは、懺悔でもあった。
「でも本当は……何よりも苦しかったのはさ、あいつが里を捨てたこととか、悪の道に走ったこととかよりも、きっと……あっさり捨てられちゃったことだったのよね。一番悲しかったのは」
こつんと鈍い音が響く。アンコがドアに後頭部をもたれかけたのだろう。
「あはは、ホント馬鹿みたいよね。あたしそんな自分も許せなくって。里を裏切ったやつなのに、そんな大蛇丸に捨てられたことに傷ついてる自分が情けなくって」
アンコの震える声に今まで微動だにしなかったトウキが立ち上がった。彼はドアの前に立つと冷たいドア越しにアンコに触れるようにそっと手を添える。
「……馬鹿なんかじゃねえよ」
ぼんやりとトウキを眺めながら、そんな彼をモモカは尊く思った。トウキもきっと、守るものがあるほど強くなれる男なのだ。
「……ありがと」
珍しく素直なアンコの声と、彼女が鼻をすする音が聞こえる。
「師をいつまでも尊敬して大切に想い続けられるってのも、あたしにとっては羨ましいよ。だからこそあんたらは今苦しいんだろうけど……。信じるものがあれば、それがぶれなきゃ人はどこまでも強くなれるから」
モモカの頬に涙が一筋流れ、月光に反射する。もう涙なんて枯れる程泣き尽くしたと思っていたというのに、まだまだモモカの内から熱いもが溢れてくるのだ。どうして涙が出るのだろう。一体何が悲しいのだろう。いつから自分はこんなに泣き虫になってしまったのだろうか。
「あんたら、甘いものは好き?」
唐突に、明るい声でアンコが尋ねた。
「明日朝一番に甘栗甘にさ、おつかい頼んでるんだ。あたし一押しの団子。一緒に食べよ」
誰も答えなかったが、アンコはそれ以上何か言うことはなかった。明日の約束を取り付けるのは、きっと彼女なりの優しさだ。
それからまた二度見張りの交代があって、朝日も昇って、早朝にモモカ達は外に出た。鍵を開けたのはゲンマだった。
「頭は冷えて、ちゃんと反省したか」
ドアを開けるなり彼は言う。そして彼は深くため息を吐いた。
「……ってのは、一応上からの言伝」
モモカ達はひたすらに無表情で無気力で、ゲンマは項垂れる。
「俺からは……というより皆からだけど。……お前らのこと心配してる。それと、大人として情けねえが……お前らの行動に、救われたって奴もいるぜ」
ゲンマは火影塔の外まで三人を見送ってくれた。外の眩しさに顔を顰める。
「あいつのために怒ってくれてありがとう」
ゲンマは絞り出すように言った。その顔は酷く傷ついて見えた。モモカ達だけじゃない。皆、傷ついているのだ。ゲンマはあいつのために、と言ったがモモカは最早誰のためにあんなに怒りと憎しみに支配されたのかも分からなかった。
三人は無言で歩く。早朝の陽射しが疲れ果てて虚ろなモモカ達の顔に降り注ぐ。まだ幼さの残る彼らの顔には、憎しみとやるせなさの果ての後悔がありありと刻まれていた。
今日もまた、夏の暑さがやってくる。しかし真夏のそれとは確実に違う、湿度のない乾いた風だ。湿っぽさのない、次の季節の到来を告げるような匂い。甘い香り。
モモカは俄かに立ち止まり顔を上げる。
甘い香り。秋の訪れを感じさせる気配。嗅いだことのある匂い。
立ち止まったモモカに、トウキとイクルが振り返る。これは一体何だっただろうか。確かに過去に感じた匂い。無念な記憶。純粋にただ強くなりたいと願ったあの頃。
段々とモモカの目の焦点が定まってきて、トウキとイクルはいよいよ怪訝な顔でモモカを見つめる。
「……金木犀の、かおり」
モモカは何かを見付けようとするかのようにただ一点を凝視していた。
「ああ……もうそんな季節か」
トウキが返事をする。秋の匂い。甘い香り。里から離れた闇の中、悔しさを噛みしめたあの頃の自分達。金木犀の香りを嗅ぐたびに、思い起こされる赤い瞳。
モモカは確信を持ってもう一度その匂いを嗅ぐ。秋の訪れを告げる甘い匂いの奥に、確かにあの気配を感じた。
「奴だ……。うちはイタチが……近くにいる」