心の根源で朗らかに笑う師を


 ハヤテが死んだ。

 モモカは自分の叫び声で目が覚める。
 最初、なぜ飛び起きたのか分からなかった。叫び声がしたからだと気が付いた。
 次いで、誰が叫んでいるのか分からなかった。自分の叫び声だと気が付いた。
 そしたら次は、何故自分は叫んだのだろうかと思った。

 汗をびっしょりかいて、モモカは布団を握りしめる。鼓動は早鐘のように胸の内から突き破らんばかりに鳴って、呼吸がし辛かった。肩で息をして整えるうちに頭が覚醒してくる。まだ夜深い時間だというのに煌々と照る満月で窓の外は明るく、気味が悪かった。今の感覚を逃すまいと必死に追いかける。

 ハヤテが、死んだのだ。
 モモカは確信して震える手で割れそうな程にズキズキと痛む額を押さえた。モモカが先刻感じたのは、確かに死だった。死ぬ間際の、人間の苦しみと懺悔。存在がこの世から消えることの寂しさ。虚無感。
 何故そう思ったのか分からない。でも確かにハヤテは死んだのだ。死の苦しみを受けたのだ。それは最早ハヤテとほぼ同化して得た感覚だった。そうか、同化して――……。
 モモカはベッドから這いずるようにして出た。じっとりと暑い夏の夜に、汗が冷えて酷く寒かった。目を閉じて探れば、痛い程に研ぎ澄まされた感覚がすぐに人の気配を掴む。一階の寝室で寝ている両親のものだ。生きている。感覚が研ぎ澄まされていれば、親しい者ほど離れていてもよく分かる。その人の得た感覚が強烈であるほどに。
 ハヤテは、死んだのだ。
 モモカは泣きそうになるのを必死で堪えて窓から飛び出す。モモカはハヤテの死ぬ間際の苦しみを同化の力で悟ったのだった。ハヤテが今どこにいるかまでは分からない。誰と対峙しているのかも分からない。それでも確かに、ハヤテの死が流れ込んできた。モモカは発狂して再び叫び出してしまうのを押さえて、ひたすらに走った。こんな時に頼れるのは苦楽を共にしたチームメイトしかいなかった。
 掘っ立て小屋みたいなトウキの家に着いて、モモカは玄関を力任せに叩きそうになるのを寸でのところで思いとどまる。トウキの部屋の位置は分かっているから裏から回り込んで窓から侵入した。ぐっすり眠るトウキは、モモカの揺さぶりにすぐに飛び起きた。
「――モモカ?どうしたこんな夜中に――……」
 モモカの顔色を見て緊急事態だと悟ったトウキは声を潜めながらも問いかける。
「トウキっどうしようハヤテ先生が――ハヤテ先生が死んだ――殺された――!」
 荒い呼吸で訴えかけるモモカにトウキの纏う空気が瞬時にぴりついた。そして同時に、モモカ自身もハヤテが殺されたのだと理解する。事故死じゃない。病気でもない。あの苦しみは、間違いなく他者の手にかけられたものだ。
「ハヤテが――……?何でだ――誰にっ?!」
 肩を揺さぶるトウキに、モモカは激しく首を振る。
「分からない――分からないの――……でも、感じたの!同化の力で!ハヤテ先生は死んだ!!」
 錯乱寸前のモモカを、トウキはまじまじと見つめて力強く抱き留めた。こんなモモカを見るのは久しぶり――あの悪夢の合同任務以来だった。
「大丈夫――大丈夫だモモカ。イクルと合流して一緒に探そう――」
 モモカは声に出さずに何度も頷いた。トウキの体温と強い生命の鼓動に些か冷静さが戻ってくる。取り乱したらいけない。本当のことが見えなくなる。

 二人は満月の夜に飛び出し、二手に別れた。トウキはイクルを起こしに、モモカは火影塔に向かう。ハヤテの居場所が分からないのだから闇雲に探し回っても仕方がない。ハヤテは何かの任務に当たると言っていた。その任務の行先さえ分かればいいのだ。
「モモカ?」
 火影塔に辿り着く前に、自分を呼び止める声がしてモモカは立ち止まった。ゲンマだった。夜中に駆けていくモモカを何事かと不審な目で見ている。彼自身も任務の帰りらしく忍装束とベストを身に纏っていた。
「どうしたこんな時間にそんな慌てて――」
「ハヤテ先生は?!」
 ゲンマが言い終わらぬうちに問いかけるモモカに、ゲンマは面食らう。よく見たらモモカは寝間着姿だ。
「ハヤテは別の任務で場所は分からねえけど……確かあの薬師カブトを尾行する命を受けて――」
 モモカの脳天に衝撃が走った。
 薬師カブトを、追っている?一人で?そんな、一言も聞いていない。そんな危険なことを一人で――気付けなかった――彼は昨日、取るに足らない任務だって――たった一人で行かせてしまった――。
「……モモカ?何があった?大丈夫か」
 ゲンマの問いかけには応えず、モモカは目を閉じた。大きく息を吸う。夜の匂いだ。日中の熱を吸い込んだ湿った土の匂い。満月の明りに照らされて生命力に満ちた大地の匂い。肺すらも震えていた。夜になれば何倍も同化の力が研ぎ澄まされる。集中しろ。集中するんだ――……。
 モモカは目を閉じたままで膝を付き、両手を地面にべったりと付けた。大地の脈動がドクドクと流れ込んでくる。血管が膨張して鼓膜から大地の血潮が突き破って出てこようとするのを必死に抑えた。気が狂いそうになるほどの生命の喘ぎの中から、数多もの途方もない命の中から、よく見知ったそれを見付けてモモカは目を見開く。次の瞬間には地を蹴って夜に駆け出していた。
「おい、モモカ?!」
 背後からゲンマの追ってくる気配がする。心配の声がする。しかしそれに構う余裕など今のモモカには微塵も残っていなかった。そこに近付けば近づくほど濃くなる死の気配に、風に運ばれる血の匂いに全身の毛が逆立っていた。もうあんな想いはいやだと思ったはずなのに。誰も失わないように強くなると誓ったはずなのに――――。



 モモカを追って桔梗城に着いたゲンマは絶句した。

 濃密で吐き気を催す血の臭いは何度嗅いでも慣れることはない。戦場ではない。大戦中でもない。平和なはずのこの里で、どうして苦楽を共にしてきた戦友の亡骸を見ることになるのだろう。ここがまだ大戦真っただ中のかつての戦場ならばまだすんなりと受け入れられたのかもしれない。忘れてはいけなかった。平和になったように見えたこの里も、結局は忍という戦闘集団の隠れ里で、争いの火種はそこかしこに転がっているのだ。忍という生き物は常に死と隣り合わせなのだ。無情な程に思い知らされる。
 唐突にハヤテの無惨な死体を目の当たりにしたゲンマが取り乱さずに済んだのは、凄惨なかつての大戦の経験があったことと、そして彼の教え子がこの場にいたからに他ならなかった。彼女は立ちすくんだままでハヤテの死体を見下ろし、その向こうには大きな満月が昇っている。自分よりもか弱く守るべき存在がいればこそ、理性を捨てずに踏みとどまれた。
「モモカ……」
 ハヤテの亡骸を見下ろすモモカの名を呼んで、しかしゲンマは息を飲む。てっきりモモカの顔は涙に濡れているか、もしくは茫然自失としているかだと思ったのだ。
 正面から満月の煌々とした光を受けて、包み隠さずそこに浮かび上がっていたのはか弱い少女のものではなく、まさしく修羅の顔だった。
 悲しみも憎しみも怒りでもあるし、しかしそのどれでもないとゲンマは思った。
 彼女は無垢にも見える真っ黒な瞳でつぶさに師の死骸を観察している。呆然としている訳ではない。ハヤテの受けた傷のその深さ、数、威力を、彼女は其の目に焼き付けていた。敵はどこからどんな風に切りつけたのか。どんな技を使ったのか。どんな痛みを最期に感じてハヤテは逝ったのか。倒すべき相手は誰なのか。
 まじまじと死骸を観察する少女であるはずの瞳の奥では、既に相手を葬り去る算段が立てられているのだ。
 凄まじい負の気を感じて、ゲンマは振り返る。
 トウキとイクルがまた、修羅の顔で立っていた。
「イクル忍鳥を飛ばせ、皆に知らせるんだ」
 彼らが何か言うより早くゲンマは言う。少しでも遅れを取れば彼らの負の気に飲み込まれそうな気がしたのだ。イクルは言われた通りに忍鳥を飛ばした。そして二人はモモカの隣に立ち、ハヤテを見下ろす。驚くべきことに、彼らもモモカ同様泣き言一つ言わずに、叫び声も慟哭もなしに、ただただ師の死を見つめていた。ゲンマには彼らにかける言葉がなかった。まだ取り乱して泣き叫んでくれた方がどれだけましだっただろうか。
 報せを受け取った忍達が到着した頃、既に東の空は白み始めていた。忍達は数時間前までは元気にしていたハヤテの死体に狼狽えた。そして何より、彼の教え子たちのただならぬ気配に畏怖の念を覚えた。今は桔梗城の天守閣の天辺に立ち、何かの痕跡を見つめている。低い位置で猶も怪しく輝く満月を背負って、何を思うか底が知れなかった。
 その纏うチャクラはどこまでも静寂だ。恐ろしい程の静かな水面のようで、しかし底知れぬ深淵が確かにあった。憎しみを何倍にも濃縮した殺意が静かなチャクラの中に渦巻いている。
「あいつら何であんなに冷静に――……ああ、あの合同任務の生き残りか――」
 誰かが呟いた。
 違う、とゲンマは声に出さずに否定した。確かに奴らは地獄を味わっている。でも地獄を見たのなら、ゲンマだって、他の忍だってそうだ。かつての大戦も、九尾の襲撃事件も経験した。けれどその地獄を見た後で、修羅になれる奴とそうでない奴がいるのだ。彼らは間違いなく、前者だった。


 慌ただしく現場の検分が行われ、ようやくハヤテの死体が安置所に運ばれたころにはすっかり日が昇りきっていた。
 里内にいる特別上忍以上の忍が緊急招集され、三代目火影の口よりハヤテの死が告げられる。モモカ達は中忍であるが第一発見者でありなおかつハヤテの部下であることからその場に随伴していた。ハヤテの死が告げられた瞬間どよめきが起こり、そして部下である三人の忍に憐みの視線が集まる。彼らは一切の動揺も取り乱しもなしに真っ直ぐ前を見据えていた。
「そんな……ハヤテ程の実力者が……」
「あいつは薬師カブトの尾行に当たっていたはずだ」
「じゃあ薬師カブトがハヤテを?」
「分からない。無数の切り傷があったそうだ」
 憶測が飛び交う中で、火影が手を上げて制止する。静けさが訪れイクルが一歩前に出て進言した。
「桔梗城の天守閣の上に、月光ハヤテ以外のもう一人分の血痕がありました。そして血液混じりの砂も」
 砂、の単語にざわめきが起こる。皆の脳裏に悪夢のような経験が蘇る。裏切り裏切られてきた忍の歴史だ。
「これが砂の忍によるものなのかは今のところ判断が付きません。それから月光ハヤテを手に駆けた下手人と同一だと断定するのも早計です。この天守閣の上で殺害された人物が誰なのかは分かっていません。今現在、木の葉の里で行方不明者も出ていない」
 淡々と事実だけを述べるイクルに、再び静寂が訪れた。嫌な静けさだった。

 その日の午後、ひっそりとハヤテの葬儀が執り行われた。第三演習場の慰霊碑にまた一つ、刻まれる名前が増えた。葬儀の間も、真っ白な骨だけになったハヤテが埋められる時でさえ、彼の部下である第十五班の中忍達は一滴も涙を溢さなかった。
 薄情だな、と誰かが口さがないことを呟いた。そうではないと、特別上忍以上の忍なら皆が分かっていた。どうして彼らに苦痛がないと言える?誰よりも深い苦しみの中で、彼らは前を見るしかなかった。泣いたって叫んだって誰もハヤテを返してはくれない。あるのはただハヤテが死んだという事実だけだ。顔を上げて前を見て、次に為すべきことを考えなくてはいけないのだ。
 ゲンマは空を仰ぐ、今日も暑い。雲一つない快晴だ。大戦中であれば日常茶飯事であった仲間の死が、今はこんなにも重く伸し掛かる。顔を戻せば前を見据える少年少女の姿が目に映る。何の混じりけもない色の瞳で未来を射抜いている。天は彼らに、泣くことさえ許さないのか。
 葬儀に、卯月夕顔が姿を現すことは終ぞなかった。

 夕方になってもゲンマは墓標の前から動けないでいた。感傷に浸りたかったのかもしれない。あるいは、卯月夕顔が姿を現すのを待っていたのかもしれない。誰か、感情のままに泣き叫んでくれる人を見つめていたかったのかもしれない。
 カサリ、乾いた土を踏みしめる音がしてゲンマは顔を上げる。待ち望んでいた人ではなく、はたけカカシだった。そう言えば、彼はここの常連だ。
「まいったなぁ」
 俯きゲンマは弱気に呟く。
「死はいつも身近にあってとうの昔に慣れたはずだったのに、やっぱり慣れないもんだな」
 ゲンマの懺悔のような言葉に、カカシは相槌を打つでもなくただ傍にいて聞いていた。
「……仲間の死が、こんなにも重い」
 墓標にそっと手を添える。暑い夏の黄昏時に、こんなにも冷たく無機質だ。硬くざらついた石は、ここに生は何もないのだと告げていた。
 ほのかに甘い香りが漂う。ゲンマが顔を上げる前に、墓標の上の手に暖かいものが触れた。生きている人間の体温だった。ゆっくりと顔を上げる。
 モモカが、ゲンマの手の上に自らの右手を重ねていた。左手には墓標に添えるためだろう花束が抱えられている。甘い匂いはモモカの持つ夕顔の花束から香っていた。モモカの目は力強い生命力に溢れている。
「私は生きている」
 モモカが静かに告げた。
「そしてもう、誰も死なせない」
「……どうやって」
 言い返す自分自身に、ゲンマは激しい嫌悪感を覚える。こんな年下の、強く前を見ている子に弱音を吐き出すなんて。しかし今だけは許して欲しいと、信じてもいない神に祈った。
「私が死なせない」
 モモカは墓標にそっと花束を置き、いくつかの花弁がゲンマの足元に散る。モモカは空いたもう片方の手もゲンマの手に重ねて強く握った。温かかった。何よりも強い生の煌めきを感じた。モモカの生命力が、眩い光がゲンマの冷たい心に流れ込んでくる。
「もしどうしようもない時は、私を呼んで。心の底から呼んで。どこにいたって必ず駆けつけて、助けるから」
 モモカは目を閉じて、ことさらに強く手を握った。まるでゲンマの命の灯を感じ記憶し、そして彼女の細胞一つ一つに刻み込んでいるみたいだった。ゲンマの頬に熱いものが伝う。
 ようやく泣けた。泣きたかったのだ。きっと誰よりも泣きたいのは、小さなこの子のはずなのに。ぽん、と肩に手が乗せられる。カカシだ。カカシの手もやっぱり熱くて、迸る生命力に溢れていた。肩越しに振り返ればカカシが穏やかに、だけど酷く哀しい目で微笑んでいた。大事なもの全てを失った者の瞳だ。哀しく優しい瞳。それでも彼は今日を生きて笑っている。皆生きている。必死に今を生きようとしている。
 感情の溢れるままに泣いて、ゲンマは顔を上げた。モモカもまた穏やかに微笑んでいた。明日に吹く風は彼女の朗らかな笑いのような明るさに満ちていたらいいと思う。彼女はゲンマの手から重ねる手を離し、墓標に向き合った。華奢な背に背負った細長いものを墓前に供える。それはハヤテが生前使っていた刀だった。手を合わせ目を閉じる横顔は今この瞬間、世界で一番美しかった。やがて目を開けた彼女はもう一度ゲンマに笑いかけ、カカシをちらりと見て、何となく二人は頷き合った。彼らの間だけで通じる何かがあったに違いない。
 モモカは夕日に向かって立ち去った。彼女の向かう先が、きっと未来なのだ。
「……すごいな」
 これ以上言葉が思い浮かばなくて、凡庸なことをゲンマは口走る。カカシが静かに頷いた。あの若さであんなに偉大な忍は、久しぶりに見たかもしれない。苦しみも辛さも憎しみも全てを包み込んで笑える忍がいるのだ。明日を生きる強さを持って皆を導くことのできる忍がいるのだ。そういう忍をゲンマもカカシも何人か知っていた。
「誰かに似てるよなあ」
 甘い夕顔の香りに心地よさを感じながらぼんやりとゲンマは考える。誰だっただろうか。朗らかに、全ての苦しみを抱いて笑うひと。
「……閃光」
 ぽそりとカカシの呟いた言葉はともすれば風にかき消されそうな程儚かった。
「え?……ああ、まあ眩しい光みたいだよな」
 その意味を測り切れずにゲンマは相槌を打つ。

 カカシは朱に染まる空を仰いで、心の根源で朗らかに笑う師を想った。



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