何より悲しかったのは、
カカシにキスした理由を聞けないままで、一カ月が過ぎようとしていた。この一カ月、カカシに遭遇したのは二回だ。一回は商店街にある定食屋で家族と食事をしている時に、外の通りを歩いているのを見た。もう一回は向こうが他の上忍と喋っているところを火影塔で見かけた。いずれも間が悪く、話しかけたところでどんな顔をしたらいいか分からないモモカは話かけず仕舞いだった。その二回とも、カカシと目が合うことはなかった。
悶々とした気持ちをどこにもぶつけることが出来ずに、ある時はキスした唇の感触を思い出し一人で歓喜に叫び出したい気持ちに駆られたり、またある時はカカシの読めない心中を考えて暗鬱とした気分になったりもした。それなのでこの一カ月というもの、モモカの注意力は非常に散漫だった。大事にはならないが任務でも小さなミスが続く。
「大丈夫かよ」
トウキが呟く。この日はハヤテ率いる第十五班に不知火ゲンマを加えての任務だった。普段火影の護衛にあたることの多いゲンマを加えての任務は珍しい。彼との任務は初めてのことだった。ゲンマが歓楽街にある賭博場に潜入し、ちょっとした騒ぎを起こす。その隙にハヤテとイクルが店の奥の要人から情報を抜き出す手筈になっていた。トウキとモモカは外の見張り兼、忍でない一般のボディーガードの処理だ。
「イクルも心配してたぜ」
「う、ごめん」
ここ最近の落ち着かない様子を指摘されて、モモカはいたたまれない気持ちで項垂れる。トウキが賭博場の入っているビルに目を光らせたままで小さくため息を吐いた。
「カカシ関連か」
ずばり言い当てられて、モモカはたじろぐ。しかし同じくらい驚いた様子のトウキに、今の問いかけが当てずっぽうだったのだと知る。
「まじか。まだあいつのこと好きなのかよ」
呆れた表情にほんのわずかの賞賛の色を乗せて、トウキが驚きの声を上げた。
「……まだ、っていっても五年くらいだけど」
「いや十分すげーわ」
観念して口を尖らせるモモカをトウキは素直に称えた。そうか。五年一人の人間を好きでいるということはすごいことなのか。しかし好きでいるとはいっても常日頃カカシのことを考えているわけではないし、特にこの二年は顔を合わせることもなかったので時たまどうしているかなとぼんやり思い出す程度だった。モモカのそれは一心に傾ける恋愛とは程遠いのかもしれない。
任務はつつがなく終わり、火影へ報告と入手した情報の提出へ行く。報告はゲンマとハヤテの二人で行い、モモカ達三人は火影塔内の待機所で待っていた。報告を終えたハヤテ達と今日はこの後焼肉に行く予定になっていたが、モモカ達が予想していたよりもだいぶ報告に時間がかかっているようだ。
「先に行って食ってるか」
トウキが痺れを切らした頃、ハヤテとゲンマが待機所に現れた。
「遅かったですね」
暗に何の話をしていたかをイクルが問う。ハヤテとゲンマはちらと視線を交わした後、ため息を吐いた。
「新しい任務の命がありまして」
「新しい任務?」
怪訝な表情をさせるトウキの肩をゲンマが小突く。
「とりあえず食べに行こうぜ。詳しい話は食いながらだな」
焼き肉店に入ると一同はさりげなく客層、店員の顔ぶれを確認し、“同業者”がいないことを確認する。結論から言うと、次の任務というのは中忍試験の試験監督ならびにその補佐というものであった。
「そういやもうそんな時期か」
トウキがビールをぐっとあおいで言う。目の前の網には一枚目の肉が乗ったばかりだ。大人二人に加えてトウキはビールを飲んでいるが、モモカとイクルはいつものようにソフトドリンクだ。
「ついこの間お前らが中忍になったばかりの気がするが……時間の流れってのは早いもんだな。もう四年か」
ゲンマの言葉にしかしモモカはまだ四年しか経っていないのか、とも思った。中忍に昇格してからこの四年、モモカ達は着実に任務をこなし常に里の期待に応えてきた。あるいは期待以上の成果を残してきた。順風満帆なことこのうえないのだが、欲を言えば単調な日々でもあった。
「ハヤテ先生とゲンマさんは試験官ですよね。そして僕らはその補佐。いづれにしても中忍試験に携わるという事は二カ月くらいは通常任務はないのですか」
イクルの質問にハヤテは肩をすくめた。
「まあそうなるでしょうね」
「なんかつまんなそうだな」
トウキが不満を溢す。追加のビールと肉をゲンマが注文した。
「そう言うなって。中忍試験の補佐役での立ち回り方を上も見てる」
手際よく肉を返しながらゲンマがにやりとした。モモカ達は顔を見合わせる。
「特別上忍に上がることを打診されているんだろう?お前らの実力なら文句なしだと思うが――いわばそのプレ試験といったところか」
ゲンマがひょいひょいと皆の皿に次々に焼けた肉を置いていく。ハヤテが言うべきか迷った表情を散々した後で、口を開いた。
「君達の働きには里も多いに期待しているところです。日ごとに目まぐるしく変化する世界情勢に、君達の活躍の場はいくらでも用意されている。もっとも、君達が望めば、ですが」
含みのある言葉は何を指しているのだろう。モモカは首を捻る。
「今更先に進むことを望まない、なんてことがあると思うのか」
トウキが静かに聞いた。
「そりゃあ」
ハヤテがだいぶ赤くなった顔でグラスに僅かに残ったビールを飲み干す。
「後悔ばかりの世界ですからね。いつ誰が忍を辞めたいと言い出すかなんて、予想できない。誰にでもその可能性はあるし権利もある」
ここでハヤテが咳き込んだ。あの悪夢の合同任務以降時折出る、肺から異物を吐き出すような耳障りな咳だ。さっとモモカが差し出した水を二口飲んで、ハヤテは息を整える。
「特に君達は、忍として生きていく上での苦しい思いも十分に味わったのだから」
ハヤテがあの合同任務のことを言っているのだと分かり、寸刻の沈黙が訪れる。
「特別上忍ともなれば任務の過酷さは輪をかけます。今ならまだ、中忍として留まるという選択肢もありますから」
間髪入れずに、トウキが口を開いた。
「覚悟なんてとうに決まっている」
イクルも肩をすくめた。
「少なくとも、ここにいるのは紛れもなく僕たちの意志で、僕たち自身が選択した結果ですから」
モモカは頬張っていた肉を飲み込む。
「とりあえず、何をするにしても負けなければ――後悔しないだけの強さがあればいいんでしょう」
口々に減らず口を叩く第十五班の中忍達にハヤテは少したじろいだ。にやりと笑ったのはゲンマだ。
「頼もしい限りじゃないか」
その言葉に何か物申したげなハヤテは大きく息を吸い、しかし観念したかのように吐き出し、微笑んだ。
「……君達の頼もしさなら、十二分に承知のうえです。……そのうえで里が今君達に期待するところを述べます」
ハヤテは少し息を吸う。
「イクル、医療忍者に進む気はありませんか?」
ハヤテの言葉に、イクルは喉に食べ物を詰まらせたような奇妙な表情をした。
「……医療忍者ですか」
「ええ。医療忍者には膨大な知識と繊細なチャクラコントロールが求められます。いつの時代も慢性的な人手不足であるに関わらず、その育成に時間がかかることから思うような人員の確保が出来ていません。イクルの知識、チャクラコントロール、的確な判断力……どれをもってしても適任と言えます」
ハヤテの言葉にイクルは右斜め上を見上げて、少し考える振りをした。モモカから見ても、イクルの気持ちが固まって動かないことは一目瞭然であった。
「医療忍者に全く興味がないわけではないですけれど」
その前置きで悟ったらしく、ハヤテも前のめりになっていた体を戻す。
「僕の使命は鳥吉、そしてこの里を繁栄に導く礎となることです。医療忍者は尊い仕事ではあるけれど、その道を選択してしまうとそれ以外の道が絶たれてしまう。僕は、鳥吉の者として、この里に、役に立たなければいけない」
医療忍者の選択肢の少なさは、モモカにとって想像のつきにくいところではあるが、それでもその能力の全てを医療に全振りしてしまうであろうことはそこはかとなく知っていた。
「……わかりました」
安心と落胆が半々ずつのような複雑な面持ちでハヤテが頷く。
「次にモモカですが」
思いがけず自分の名前が呼ばれてモモカは身構えた。
「率直に言います。モモカには暗部への入隊が打診されています」
「え?!」
モモカより早く声をあげたのはトウキだった。
「モモカの戦闘能力及び、その……隠密行動に適した特殊能力を買われてのことです」
ハヤテは気遣わしげにゲンマを盗み見て言った。能力のことを知らないゲンマはピンときていないようだが、なるほど確かに、モモカの同化能力は暗部に打ってつけだろう。
「それこそモモカ、あなた次第です」
「暗部というのは里の闇に徹する職業で決して生易しいものではないからな」
ゲンマも苦々し気に呟く。
「暗部出の忍は出世するなんてジンクスもあるが……ありゃ半分本当で半分嘘さ」
どういうことだ、とトウキもすっかり酔いの覚めた様子で身を乗り出した。
「暗部に入った者の半数は殉死する。一割は辞めて二割は行方知れず、残った二割の忍が上忍となる。つまり、生き残り、なおかつ、表立って活躍できる者のみが必然的に上忍に上がるから暗部イコール出世するという図式が成り立つ」
ゲンマの言葉に身を乗り出していたトウキは力を抜いて鼻で笑う。
「つまりそれこそ強ければ生き残る……ただそれだけの話だろう?」
「ただそれだけって、それがどれほど難しいことか」
ハヤテの語尾がつい荒くなったのに、彼にとって大切な女性が暗部に属しているというのが理由の一つであるということは否定できなかった。
「それからトウキ、君は」
ハヤテがトウキに向き直ったので、彼は来た、とやや鼻の穴を膨らませてその言葉に耳を傾ける。しかしかけられた言葉はイクルやモモカのようにはっきりした道筋が示されたわけではなかった。
「君は、このままの道を進むように、とのことです。特別上忍、そしてゆくゆくは上忍と順当にステップアップしていき、なるべくその身を削ることのないよう、自信の力と能力を最大限に生かすように、と」
それを告げるハヤテ自身、事の全容が見えていないようで訝し気だった。それだけにモモカ達の表情をよく観察してその真意を掴もうとしているみたいだった。しかしモモカ達にはその意図することがすぐに分かった。トウキは、うずまき一族だ。
類まれなる生命力を持つうずまき一族。有効に活用すれば里にとってこれ以上ない戦力となる。だからこそ有事に備え、なるべく“無駄死に”をするな。そういうことなのだろう。
当のトウキは果たして何を思っているのか、焼き網のただ一点を見つめていた。
「それが里の見解ですか」
誰よりも冷たい声を放ったのはイクルだった。トウキが怒るよりも早く、イクルの怒りが膨れ上がっていた。トウキは複雑な面持ちで顔を上げてイクルを見る。
「どういうことだ」
ゲンマが怪訝な顔で尋ねた。話の本質が見えてこない特別上忍二人は何か情報を掴もうと、モモカ達の顔色を窺った。
「都合の良いところだけ搾取しようとして、そんなの、飼い殺しだ」
イクルの淡々とし落ち着いた口調がより彼の怒りを際立たせる。
「飼い殺し?」
ハヤテが聞き返す。
「イクル、いいんだ」
「いいわけないだろう」
珍しくなだめ役にまわるトウキに憤慨するイクル。モモカは締めの冷麺を追加注文した。
「でも、トウキは黙って従うようなタマじゃないでしょ?」
ね?と当たり前のように笑うモモカにトウキとイクルはきょとんとした後に、肩の力を抜いて笑った。ピリッとした空気が瞬時に解れた。
「そりゃ、おまえ、その通りだ」
「まあトウキが大人しくしてるわけないよね……まして“その身を削ることがないように”だなんて」
可笑しそうに笑う三人の中忍達に、ハヤテとゲンマは訳が分からず顔を見合わせていた。
「おいおい、置いてくなよ。つまり里からのトウキへの命はどういう意図があるんだ?」
トウキはいつもの不敵な笑みを見せる。
「教えてやんねーよ」
…
中忍試験開始の半月前になり、ようやくモモカはカカシと顔を合わせた。この日は中忍試験受験チームの推薦が行われることになっていた。試験監督および内容も大方決まり、モモカ達もこの頃は何かと準備に追われていた。
火影中央棟の中の一室、多目的に使われる広い部屋には中忍試験に携わる中忍以上の忍達と、下忍を担当する特別上忍以上の忍が集まっている。その中には今年下忍になったナルト達第七班を率いるカカシの姿も当然あった。大勢の忍達の中、部屋の奥正面に座る三代目火影が中忍試験の受験資格および概要を説明する。中忍試験の受験資格は八任務以上こなしていることで、下忍になって三か月もたてばどの班もその条件はクリアしていた。しかし通常は少なくてもその倍以上こなしてから受験するものだった。
若い班から推薦の有無を聞いていく慣わしになっているみたいで、三代目はカカシにまず尋ねる。問われたカカシは一歩前に出て、真剣な顔つきで答えた。
「カカシ率いる第七班。うちはサスケ、うずまきナルト、春野サクラ……以上三名、はたけカカシの名をもって中忍試験受験に推薦します」
場がざわついた。ついこの間下忍になったばかりの新人が推薦されたのだ。モモカ達も顔を見合わせた。そして更にざわめきは大きくなる。続く猿飛アスマ、夕日紅も担当班である新人の下忍を推薦したのだ。当の上忍達は広がる動揺をものともせず、どこ吹く風で前だけを見据えていた。
「……ふむ……全員とは珍しい……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
呟く三代目の言葉を遮ったのはアカデミーで教師をしている中忍だ。うみのイルカという青年で、モモカ達も何度か教わったことがある。
イルカは言葉を選びながらも、三代目にたった今推薦された下忍九名が中忍試験に臨むには早過ぎると訴えた。
「あいつらにはもっと場数を踏ませてから……上忍の方々の推薦理由が分かりかねます」
モモカの隣で妥当な意見だ、とばかりにトウキが肩をすくめる。モモカも概ね同意見だが、任務成績上でしか彼らを知らず実際の任務での様子を見た訳ではないので何とも言えなかった。
「私が中忍になったのはナルトよりも六つも年下の頃です」
カカシの言葉にトウキが「へーへー、すごいこって」と小さくぼやいたのでイクルが反対隣りから肘で小突く。ふざけているような雰囲気ではなくなってきたのだ。
「ナルトはアナタとは違う!」
イルカ先生は声を荒げて、カカシもまた冗談とも本気とも取れないことをいつもの捉えどころのない表情で言うものだから、益々ヒートアップしていった。途中、諫めるように紅が口を挟むも、カカシは淡々と続ける。
「あなたの言うことも分かります。腹も立つでしょう……しかし」
イルカを見据えるカカシの目は驚くほどに冷たく、意志が固く、思わずその場にいる誰もが息を飲んだ。
「口出し無用!あいつらはもうあなたの生徒じゃない……今は、私の部下です」
強い口調に、文字通り口出しできる者はいなかった。久しぶりに垣間見たカカシの忍としての強さと冷淡さ、そして上司としてのプライドに、モモカの心中は複雑だ。忍としてのプライドを高く持ち部下にもそれを望むカカシは悔しいくらいにかっこよかった。それと同時に部下として認められているナルト達に嫉妬を覚えたのも確かだった。
「五年ぶりだってよ」
渡された資料を読む手を止めてモモカは顔を上げた。資料は両面八ページにも及び、大量の文字の他には一次試験の教室配置図、二次試験の見回り経路などの細かな図も記載されている。
「何が?」
「ルーキーが中忍試験受験するの」
もう飽きたのか、それとも既に読み終えたのか、頭の後ろで腕を組んでトウキが答えた。
「つまりお前ら以来ってことだ。しかし三チームともだなんてな」
ゲンマが資料には目を通したままで続ける。その横でイクルが既に読み終えていたはずの資料に手書きのメモを加えていた。
モモカ達第十五班とゲンマは火影塔内の休憩室で同じ机に座り試験の詳細について書かれた資料を読んでいるところだった。三十分後に予行演習が行われるからしっかり頭に入れておくように、と言われている。
「そんなに珍しいんですか」
「まあ普通は見送りますね」
モモカの問いにハヤテも資料に何かを書き込みながら答える。モモカは自分達も一年目で試験を受験したことを思ったが、そもそも下忍になったのが半年遅かったので厳密にルーキーかと言われると違うかもしれない。すっかり資料を読み終えたらしいゲンマが顔を上げて首を鳴らした。
「いないことはないが最近は特に珍しいな……お前らが普通じゃなかっただけで。しかし今回のルーキー達は今のところ突出した活躍もない上に三チーム全て出てきたもんだから、上忍の意地の張り合いだなんて揶揄してる奴もいた」
ゲンマの説明にモモカは眉をわずかに寄せた。
「意地の張り合い……」
先ほどのカカシの顔を思い出す。のほほんとしたいつもの雰囲気ではなく、厳しい忍の顔だ。意地の張り合いだなんて、そんなつまらないもののために推薦しているようには到底見えなかった。あの厳しい顔はプライベートのカカシとは全く違う。
ましてやこの間のような――口布を外して近づいた時のあの蕩けるような熱い瞳と雰囲気とは――まるで真逆だ。口布の下に隠された唇は美しい。その瞳は熱い。モモカはずっとずっと、気高く、強く、美しいたった一人のカカシという男に囚われているのだ――…。
「――おい?」
呼びかける声に気が付いて、モモカはハッと顔を上げた。怪訝な顔でゲンマが覗き込んでいる。他の者は皆資料を片付け始めていた。モモカが考え耽っている間にそろそろ移動しようか、という空気になっていたみたいだ。
「あ、なんでもないです」
モモカもバラバラになっていた資料を重ね鞄に詰める。気遣わしげな視線がイクルから向けられたが、彼は何も言わずに休憩室を出た。イクルにハヤテ、トウキと続き、少し遅れてゲンマ、そして最後にモモカが休憩室から出る。出てすぐのところで、徐にゲンマが振り返った。
「あー……」
何か言いたそうなゲンマをモモカは伺うように見上げた。
「飯、食い行くか。今夜」
ゲンマが短く言った。モモカが先を歩くチームメイト達を見遣ると、ゲンマは後頭部を掻きながら付け加える。
「……や、二人で。何か元気ねえみたいだし。愚痴くらい聞くぜ」
モモカは不思議な心地でゲンマを見つめた。彼がハヤテと仲が良いのはもちろん承知している。しかしモモカ個人にとってもこんなに親し気な先輩だっただろうか。
「おーい、置いてくよ」
廊下のずっと先の方でイクルが声をかけてきたので、モモカは慌てて頷いた。
ゲンマと合流したのはまだ日の沈む前の明るい時間帯だった。この頃はすっかり日も伸びて、街行く人々はどこか浮足立っているようにも見える。
「何か食いたいもんとかあるか?」
飲食店が立ち並ぶ通りを、人の間を縫うようにして歩きながらゲンマは聞いた。
「いえ、なんでもいけます」
ゲンマの少し後ろを付いていきながらモモカは答える。
「はは、お前は本当に何でもよく食べるからな――そうだな、焼き鳥とかは?」
「大好物です」
ゲンマの提案にモモカはにかっと笑った。「よし」と頷くとゲンマはメインストリートを左に逸れ、さらにそこから細い路地に入る。こんなところに店があるのか、モモカがそう思ったのも束の間、細い路地には軒先に暖色系の照明を垂らした雰囲気の良さそうな店が点在していた。そのうちの一つにゲンマは迷いなく入る。どうやら馴染の店らしい。L字型になったカウンター席しかない店だが、席はゆとりを持って設けられ、暖かみのある照明がリラックスした雰囲気を作り出している。モモカの抱く焼き鳥屋のイメージよりかはだいぶモダンで小洒落た店であった。
「ここな、焼き鳥が絶品なのはもちろんだが、それ以外も何食べてもうまいんだわ」
ゲンマの言う通り、メニューには出し巻き卵や冷奴、漬物等の定番のものから見たことないような創作料理まで多岐に渡っていた。
「飲むか?」
ゲンマがくい、とお猪口を傾ける仕草をしてみせた。
「うーん……」
モモカは迷う。未成年だからもちろん普段から進んで飲酒はしない。飲むのは、トウキとイクルが一緒の時だけだ。特に自分にルールを課しているわけじゃないけれど、何となくそうしていた。
「明日も仕事ですしやめときます」
ゲンマさんは気にせず飲んでください、とモモカはウーロン茶を頼んだ。ゲンマは自分のお酒と、モモカの意見も聞きながらも手際よく料理を注文する。
「それで、最近元気ないのは?」
ある程度リラックスしたところで、ごく自然にゲンマは尋ねた。いくつかの料理を堪能し、取り留めのない世間話を交わした後で最適なタイミングだ。きっとゲンマはものぐさなその見た目の雰囲気に反して、深く人を観察することのできる人なのだ。
「そんなに元気ないように見えますか」
モモカの照れ笑いに、ゲンマは「んー」と曖昧な返事をする。
「なんとなくな」
「あはは、そうですか」
モモカは朗らかに笑った。ゲンマはそんなモモカをじっと見つめる。あまりに真剣な顔に何ですか、と聞くそのギリギリ手前でゲンマは目を逸らし、ふと笑った。
「気のせいならいいんだがよ」
ゲンマはメインの焼き鳥を頼む。それは無遠慮な詮索をしない大人の気遣いだったし、暗に「必要ならいつでも聞くぞ」という申し出でもあった。それ以降は特段詮索することもなく、和気あいあいとした時間が流れた。美味しい食事と気さくな会話が素直に楽しい時間だった。
店を出るとすっかり外は暗くなっている。お酒を飲んでいないけれど温かい店内に顔が少し火照っていたので夜風が気持ち良かった。
「ありがとうございます。ご馳走様でした」
二人分のお会計を済ませて店を出てきたゲンマにモモカはお辞儀する。いいよ、というようにゲンマはひらひらと手を振った。
並んで飲み屋街を歩きながらも、そういえばカカシにご馳走すると言われてそれきりになっていたなとモモカはぼんやりと思った。提灯や看板の暖かい照明に、二人でゆっくり食事出来たらとても素敵だと考えて、少し気分が浮上する。隣を歩くゲンマも心なしかふわふわした足取りで、二人は夢見心地で灯りの中を歩いた。
「あー?」
唐突にゲンマがバツの悪そうな声を出して立ち止まる。何事かとその視線の先を追えば、見知った人影があった。夕日紅だ。彼女は一軒の店から出てきたところだ。そして今しがた出てきた店の中を腕を組んで見ている。やがてその店から連れが出てきた。モモカの心臓が跳ねた。それははたけカカシその人だった。
カカシは靴を履き直しながら紅と何か話し、時折笑いも出ていた。背の高い二人はとても見栄えが良く切り取った一枚の絵のようだ。二人で飲みに来たのだろうその光景にモモカは酷く動揺した。
モモカから二人に何かしらの気を向けていたと自覚したのは、二人が一斉にこちらを振り向いてからだった。何かしらの負の気配を察知したであろう顔に、忍にあるまじき狼狽え方だったとモモカは自省する。紅は向けられた気配が見知った顔であることを認め、肩の力を抜いていた。
「偶然っすね」
ゲンマの方から声をかける。紅が「全くね」と返し、カカシはモモカとゲンマと順に見て、すっと視線を外した。
「珍しい組み合わせね」
「ああ、まあ今日はたまたま」
紅がまじまじとモモカ達を見つめ、ゲンマは頭を掻く。
「センセイ方こそ、二人だなんて珍しいな」
ゲンマが言うと、紅は首を振り店の中に視線を戻した。ガラリと引き戸を開けて出てきたのは猿飛アスマだ。
「悪い悪い、トイレ混んでてよう……お?」
アスマは誰よりも酔っぱらった顔をしていたが、ゲンマとモモカをその目に認めて途端に破顔する。
「なーんだ、あんたらもこの辺で飲んでたのか」
大きな声で話しかけるアスマに「あ、やっぱいたか」とゲンマが隣で呟いた。モモカはカカシと紅が二人きりでなかったことに、自分でも呆れるくらいほっとしていた。
「しかし珍しい組み合わせだなあ、さてはデートかあ?」
いかにも酔っ払いの言い草にゲンマはげんなりした顔をさせた。「ちょっと絡み酒やめなさいよ」と紅も苦言を呈する。カカシは何も口を挟まず、我関せずで特に何の感想もないみたいだった。しかしゲンマの返答はモモカの意図しないもので、カカシに意識を向けていたモモカはゲンマを見上げる。
「だったら悪いか」
上忍三人もこの答えには一瞬言葉を詰まらせていた。
「おま……まじか、なんだ本当にそうなら俺だって野暮なことは――」
「なーんてな」
驚いた顔のアスマに、ゲンマはべっと舌を出してにやりと笑う。アスマは途端に悪態を吐いた。
「けっ、揶揄いやがって」
得意げな顔でゲンマは鼻を鳴らす。
「そちらこそ、デートじゃなかったんだな」
にやにやしながら笑うゲンマにアスマは顔を顰める。
「んなわけあるか」
「どうだかねえ」
「酔っ払いが二人に増えたわ……」
「ははは」
大人達の和気あいあいとした会話に、依然としてモモカは付いていけずにいた。カカシが女性と二人きりでいるのを見た時の激しい動揺と、実は二人でなかった安心と、こんなにも感情が振り回されていることへの恥ずかしさが一度に襲って、それどころではなかった。会話の最中に何度もカカシの方を見たが、彼がモモカの方を向く気配は一向にない。
「じゃ、あんま若い子連れまわすなよ」
「肝に命じとくわ」
「酔って転んだりしないように気を付けて」
「ゲンマに限って大丈夫でしょ」
ゲンマとアスマは軽口を叩き合い、紅はゲンマを心配し、カカシは軽く笑い、お互いに別れを告げる。モモカはかろうじて会釈をすることしかできなかった。
帰路に就き、家の近くまで送ってもらってゲンマと別れた後も、モモカの心の中には嫌なざわめきがずっとあった。りーりーという夏の虫の音に、何年も前にカカシと見た花火を不意に思い出す。鼻の奥がツンとして切ない夜の匂いがした。
何より悲しかったのは、先程の会話の最中に一度もカカシがモモカを見なかったことだった。