夜の匂いに涙が


 カカシ率いる第七班が木の葉を発って一週間後の、静かな昼過ぎのことだ。この一週間のうちにモモカは一つのCランク任務と二つのBランク任務をこなしていた。この日もモモカは単独任務の帰りで、予定より早く終わって家路に着くところであった。明日は非番で、休日をどう過ごそうかと考えを巡らせているモモカの意識は、一瞬にして通りの向こうを歩く少年に向けられる。うずまきナルトだった。
 もう帰って来たのか。一人でいるところ見ると解散した後か。モモカは早足でナルトに近付いた。
「おかえり」
 思いがけない方向からモモカに話しかけられて一瞬きょとんとした顔をしたナルトは、しかしすぐに笑顔になる。
「へへ、ただいまだってばよ」
 ナルトの笑顔は眩しく、達成感に満ち溢れていた。驚くべきことに、この一週間の間に随分大人びた表情をするようになった気さえもする。
「もう戻ってきてたんだね」
「うん、ちょうど今朝里に帰ってきたところ!」
 カカシは家で休んでいるのだろうか、とモモカは考えた。
「任務はどうだった?」
 里を発つ前よりも大分汚れたナルトの服を観察しながらモモカは尋ねる。ナルトの幼気な少年の顔が一転して力強いものになったので、おやとモモカは思う。
「それが聞いてくれってばよ!タズナのじいちゃんは実はガトーっていう悪い奴に命を狙われてて、そのガトーの雇った霧の抜け忍の再不斬と白っていう奴らがすげえ強くて……何とか勝てたけど二人は二人で利用されてて……でも波の国からガトーを退けることができたんだ」
 少年の輝きを湛えた瞳に大人の忍の色を少しだけ滲ませて、ナルトは一息に喋った。思いがけない言葉の数々に、モモカは面食らう。
 新人下忍の初めての国外任務で抜け忍を相手にしただって?ガトーっていうのはあの世界屈指の海運会社の?再不斬もどこかで聞いたことがある。モモカはイクルと違って忍の情報には疎いが、その記憶が正しければ霧の抜け忍である桃地再不斬とは忍刀七人衆にも名を連ねるほどの男だ。任務の規格外さで言えば、モモカ達だって下忍に承認される前にイタチと遭遇したり、正式に下忍になってからも合同任務で水の国の抜け忍に同期を全員殺されながらも生き残ったり、はたまた中忍試験ではあの大蛇丸から逃げおおせたりしているので人のことは言えない。しかし自分達のことは棚に上げて、目の前のひよっこ忍者をモモカはまじまじと見つめた。
「再不斬って…あの桃地再不斬……?そう……その白っていう忍は知らないけれど……よく無事で……それで、倒したの?」
「うん、カカシ先生が」
 何か辛いことを思い出しているのか、ナルトは遠くを見るような眼差しで空を仰いだ。モモカは反則だと思いつつも、ナルトの頭に手を乗せる。少し集中すれば、たやすくナルトの思考とその心の中のイメージが見えた。
 下忍では到底敵いっこない圧倒的な強敵――鋭い目付きの再不斬と――再不斬の仲間のかなり若そうであるが手練れの忍――未熟ながらも写輪眼を開花するサスケ――身を挺して依頼人を庇うサクラ――九尾の力が漏れ出すナルト――雷切で若い忍の胸を貫くカカシ――……。
 それ以上、見ていられなかった。
「……がんばったね」
 モモカは声が震えないように細心の注意を払ってナルトの頭から手をどけた。ナルトからすればモモカが心の内を見たとはまさか露も思わず、ただ慰めてもらったように見えるのだろう、彼は素直に短く頷く。
 モモカの胸の内はざわざわと蠢く黒い煙に覆われていた。モモカはこの二年の間に、すでにカカシの過去を知っていた。それは人づてに聞いたり、あるいはふとした時に同化の力で知ったもので直接カカシから聞いたものではない。それでもカカシの父はたけサクモが自殺で亡くなっていること、第三次忍界大戦の折にチームメイトを失い彼から写輪眼を貰い受けたこと、残るもう一人のチームメイトも敵の罠によりカカシ自身の手で殺めたこと。そして師である四代目火影でさえも、九尾襲撃事件の際に命を落としていること。ざっくりとではあるがそれくらいのことは既に聞き及んでいる。
 たった今、ナルトから読み取った白という少年を貫くイメージは、かつてカカシがチームメイトを殺めた状況と残酷過ぎるほどに酷似していたのだ。
「……ねえちゃん?」
 呼びかける声に我に返ると心配そうに見上げるナルトと目が合う。黙りこくったモモカを不審に思ってかナルトが顔を覗き込んだ。
「どうかしたのか」
「……ううん、なんでもない」
 モモカは思考を切り離して頭を振る。
「……うーんそっか、それじゃあナルトも大活躍だったんだね」
 笑顔を見せるモモカに、少し安堵したのかナルトも釣られて屈託なく笑った。
「おう!俺の忍道の第一歩だってばよ!」
「あはは頼もしい。未来の火影候補だもんね」
 いしし、と悪戯っ子の顔でナルトは笑う。こうして見ると本当にまだまだ子供なのだが、どことなく彼の表情が変わったような気がするのは決してモモカの気のせいではなく、命を懸けた死闘とやるせない死を目の当たりにしたからなのだろう。
「そうその通りだってばよ!サスケの野郎は死にかけるし、カカシ先生は熱だすし……」
 聞き捨てならない言葉にモモカは笑みを引っ込めた。
「熱?」
「うん、シャリンガンとかいうの使うと疲れるらしいってばよ。それでも向こう出た時は元気だったんだけど……里に帰ってきたらまた熱がぶり返して、そのおかげで三日間は任務なしだってばよ」
 実際にカカシが写輪眼を使っているのをモモカが目にしたのはあの合同任務の時の一度だけだ。その時は使用時間が短かったからだろうか、そんな疲弊した様子は見受けられなかった。(最もその時モモカ自身も他人を気にする余裕などなかったのだが)しかし確かに考えてみれば移植された写輪眼はカカシの身体にとって異物であり、うちは一族が扱うよりも数倍もの集中力とチャクラが必要になるのは当たり前のことだ。それに加えて、敵とは言え不慮に若い忍を殺してしまったのだ。百戦錬磨のカカシだって、思うところがないわけではないはずだ。
「俺ってば早く次の任務したいけど……皆が休んでる間にも修行してどんどん強くなるってばよ」
 わくわくした顔でそう告げるナルトの表情は眩しいな、とモモカは思った。今朝帰って来たばかりだというのに有り余るこのナルトの体力はきっと、うずまき一族由来のものだろう。
「あはは、益々頼もしい。じゃあ皆は家で休んでるのかな――カカシ先生も」
 それとなく探りを入れるとナルトは大きく頷く。
「うん、皆今日は家に帰って体を休めてるってばよ」
 情けねえよな!と笑うナルトの顔は、やっぱりまだまだ悪戯小僧のそれだった。

 ナルトと別れたモモカはその足で真っ直ぐにカカシの家に向かう。しかし直前で思い直して、スーパーに立ち寄った。そこで発熱していても飲みやすいスポーツドリンクとゼリー、それからリンゴを購入する。モモカは風邪を引いた時に母親が食べさせてくれたリンゴのすりおろしのことを思い出していた。
 買い物が終わってカカシのアパートの目に辿り着いても、またそこでモモカは躊躇してしまった。アパートの前を無意味にぐるぐると三往復し、ついに意を決して階段を上る。迷惑になりそうならすぐに帰ろう。最悪食べ物だけドアに引っ掛けておいたっていいのだ。無事なことが確認できればそれでいい。その姿を一目見られれば安心できるだろう。
 先日訪れたカカシの部屋の呼び鈴を鳴らす。この間は皆いたけれど今日は一人ということもあって緊張感が違った。カカシは出ない。もう一度鳴らすも、物音一つしなかった。留守だろうか。今朝帰って来たばかりで、熱も出ているらしいのに一体どこへ。モモカの不安な気持ちは膨れ上がる。
 試しにドアノブを握ると、不用心なことに鍵が開いているではないか。
「カカシさん……?」
 少しだけ開けた隙間から遠慮がちに呼びかけるもやはり返事はない。
「……おじゃましますね」
 そっとドアを開けてモモカは足を踏み入れた。先日訪れたばかりの部屋だが静まり返っていて別の部屋のようにも思える。玄関にはカカシのものと思われるサンダルがハの字になって散らばっていた。カカシはいるのだ。モモカはいよいよ不安な気持ちが大きくなって突当りのリビングルームに歩を進める。
 リビングルームに入ると倒れているカカシが目に入った。ベッドに上がろうとする途中みたいな様子で、床に座り上半身だけをベッドに投げ出している。
「カカシさん」
 素早くモモカは駆け寄った。カカシの身体に触れると、熱い。酷い高熱である。しかし意外にもカカシに意識はあった。二度の呼び鈴と、部屋に入ってきたモモカの気配でさすがに気が付いたのだろう。薄目を開けて、荒い息で苦しそうに身体を上下させている。
「大丈夫ですか」
「……悪い、喉が、カラカラで……水……持ってきてくれるか……」
「はい、すぐに」
 モモカは流し台に向き、しかしすぐにスポーツドリンクを買ってきたことを思い出して袋から取り出す。買ってきて良かった。いやそれよりも、アパートの前でうろうろしていた無駄な時間が今になって悔やまれた。もっと早く来ればよかった。キャップを外して口元に添えてやると、カカシは弱々しく喉を鳴らして飲み込んだ。少しづつ、何口かに分けて飲ませてやると幾分楽になったのか少しだけ眉間に寄せていた皺が和らいだ。
「ベッドに乗せますね」
 カカシの脇の下に腕を入れて持ち上げると、カカシはふらつきながらもベッドに這いつくばった。そして返事をする間もなく、寝息が聞こえてきた。身体がとても熱い。かなりの高温だ。苦しくないように口布を外してやり、ベストも丁寧に脱がせてやる。掛布団をかけた後は洗面所から手ごろなタオルを拝借して水で絞り、額に乗せてやる。そっと熱い額に触れると、カカシが悪夢を見ていることが分かった。同化の力で、ぼんやりとではあるが見ることが出来る。
 悪いと思いつつも集中して夢の内容を覗き見る。今回の任務で白という若い忍を殺した場面だ。何度も何度も繰り返している。白という少年はやがて、一回り小柄な少女に変わる。聡明な顔をした少女だ。普段は快活であろうその表情は苦痛に歪み、口から血が滴っている。
(リン……)
 夢の中のカカシが絶望に満ちた声で呼びかける。そのリンという少女の胸を貫く自分の腕から、生温かい血の流れを感じる。止めることが出来ない。仲間の死を止めることが出来ない。重ねる罪を止めることが出来ない。場面は変わり、巨大な岩に右半身を下敷きにされた少年が現れる。
(オビト……)

「だめだ」
 モモカはカカシからパッと手を離し、ベッドの縁に額を当てて俯いた。カカシは相変わらず苦しそうに悪夢にうなされている。
 これ以上は、やっぱり、見てはだめだ。すでに人づてに聞いているカカシの過去ではあるけれど、やっぱり勝手に見るなんてダメなのだ。ちゃんと、カカシの口から聞こう。何年先になるか分からないけれど、あるいは一生カカシがこの傷を見せることはないかもしれないけれど。この美しくて偉大な忍者を敬うきもちがあればこそ、カカシ自身からカカシの言葉で聞くことが、誠実というものなのだ。
 荒い息のカカシに今度は心を閉ざして触れる。同化の力で心の内を読まないためだ。
(苦しそう……)
 同化の力を使って夢を覗き見することは出来ても、それ以上モモカに出来ることは何もない。夢の中に入って救うことが出来ればいいのに。早くも熱くなった濡れタオルをもう一度水で絞り直してやるとカカシの息は少し落ち着いた。少しでも苦しさが消えてくれたらいいと心の底から思う。
 部屋を見回せば帰ってきてそのままらしいカカシの荷物が散乱していた。どうやら帰ってきてそのまま気絶するように眠っていたらしい。荷物を片付け、中に入っていた弁当のごみは捨て、少し迷った後に着替えは一式洗濯機に入れた。あれだけの熱だ。出過ぎた真似という事はないだろう。モモカはこの時にはもう、今夜は付きっ切りでカカシを看病すること決めていた。

 西日が部屋に差し込んでオレンジに照らす頃にカカシは気が付いた。一瞬自分の身の上に何が起こったか分からないような戸惑いの表情を見せたが、すぐに理解したようで小さくため息を吐いた。
「……悪い」
 酷く気怠そうにカカシが口を開く。先ほどよりかはましだが、まだまだ熱がありそうだ。
「いえ、そんな。薬は飲みました?」
 モモカは平素と変わらぬ軽い口調で問いかけた。横たわったままでカカシはゆるゆると首を振る。
「じゃあ飲んでおかないとですね。でもその前に何か胃に入れておかないと……少しでも、何か食べられそうですか」
「……うーん……」
 唸るようにカカシは声を出した。何も食べられる気がしなさそうだ。
「すりおろしリンゴは?」
 冷蔵庫からすでにすりおろしてあるそれの入った皿を取り出すと、少しカカシの顔が明るくなった。
「あ、それなら……」
 もぞもぞと起き出そうとするカカシを慌てて手伝ってやる。上体だけを起こしたカカシはまだ大分しんどそうだが、リンゴのすりおろしはすんなりと喉を通るらしく一皿分しっかり食べきった。
「鍵はそのままでいいから適当なとこで帰ってね……ありがと……」
 薬を飲むなり再びカカシは横になり、数分もしないうちに眠りに付いていた。薬が効いているのか熟睡出来ているみたいだ。寝ている間にも濡れタオルを何度か変えてやり、音を立てないように冷蔵庫を確認する。生活感のない中身だったが、お米の他に基本的な調味料と卵なんかはあるから、起きてお腹を空かせてもお粥やおじやくらいは作れそうだった。部屋にはクッションがあるから、寝る時にはそれを枕に借りるとしよう。
「……せめて今日は、しっかり休んで」
 祈るようにモモカは呟き、部屋の電気を消した。


 カカシが目を覚ますと、電子音が聴こえた。耳に馴染んだこの音は、洗濯機が脱水までの全ての工程が終了したことを告げる音だ。いつもならばどれくらい寝ていたか感覚で分かるものなのだが、今は一体何時なのか分からなかった。とにかくたくさん寝たことだけは分かるが、時間の見当が全く付かない。窓から射す日はだいぶ高く、朝と呼ぶには遅く昼と呼ぶにはまだ早い時間なのだろうと思った。
 脱衣所の方から人の気配と、洗濯機から衣類を取り出す物音が聞こえてモモカがまだこの部屋にいて洗濯機を回してくれたことをカカシは悟る。
(だいぶ世話になってしまった)
 しかしおかげで、体調は昨日よりかなり回復していた。具合の悪い時の他人の優しさほど身に染みるものはない。洗濯籠をベランダに運ぶ途中、モモカが目を覚ましたカカシに目を止める。
「あ、起こしちゃいましたか。おはようございます」
「……ん、おはよ」
 むくりと起き上がったカカシを、途端に奇妙な気恥ずかしさが襲った。だいぶ年下の、それも女性の後輩に随分弱ったところを見せてしまった。そして自分の部屋で目を覚ましたのに最初に挨拶を交わすのが彼女だという事にむずがゆい違和感を覚える。
「体調はどうですか」
 洗濯籠を一旦床に置いてモモカが穏やかに尋ねる。
「まだ怠いけど、おかげさまでかなり良くなりました」
 何故だか余所余所しい敬語で、カカシが答えた。
「あの、それ……なんかごめんね」
 気まずそうにカカシが洗濯物を指差す。
「いえこちらこそ勝手にどうかと思ったんですけど、ついでだし」
「あとやっとくから置いといて」
 カカシの申し出にきょとんとした後にモモカはくすりと笑った。知らない間に、こんな大人びた表情をするようになっていたのか。
「もうここまでやりましたし。それに何より病人にそんなことさせませんよ」
「いや病人て」
「干しとく間に、体温測っといてください」
 モモカから渡された体温計を、カカシは素直に脇に挟んだ。正直、まだまだ体の節々が痛むし怠さもあるので有難いことに変わりはない。
 体温計が鳴るまでの間、ベランダで洗濯物を干すモモカの横顔をカカシはぼうっと眺めた。少女だった。二年前は間違いなく少女だったのだ。しかし今や彼女は成長し、大人の姿形をしている。凛として、一本芯の通った強さがあって、内側からにじみ出る自信と慈愛は大人の女のそれだ。ただ時折、ふとした瞬間に見せるあどけなさは相変わらずで、大人の女性としての美しさと少女の愛らしさが同居するこの瞬間はあとわずかの時間しかないのだろうと思う。
 体温計が鳴り、思考を目の前の表示に戻す。七度八分。思ったよりもまだ高い。洗濯物を干し終えたモモカが体温計を確認し「やっぱりまだこんなに熱があるじゃないですか」と言った。
「なんか食うものある?」
「食べれるならお粥かおじやか作りますけど。もしそれもきついならゼリーもありますよ」
 モモカの言葉にカカシは途端に空腹を思い出す。
「えっと、じゃあ、おじやをお願いしてもいいですか」
 他人行儀にお願いするカカシに、モモカは可笑しそうに笑った。
「了解です。すぐ作るから待っていてください」
「あ、じゃあシャワーだけ浴びてこようかな」
 波の国を出てからお風呂に入っていなかったので、カカシは自分の汗の匂いが非常に気になっていた。それも年若い女性に看病してもらっている手前、臭いとは思われたくなかった。
 頭の重さもあるので動くのが酷く億劫ではあったが、やはりシャワーを浴びた後はだいぶすっきりした心地になってこの分だと明日には日常に戻れそうだ。おまけに脱衣所からリビングに戻ると出汁の良い匂いがして、非常に食欲をそそった。モモカの作ってくれた卵おじやは沸騰直前でくつくつと温められて、準備万端のようだ。
「すみません、勝手に卵使いました」
「いやいやそんな」
 机に座るとすぐにモモカが器によそってくれた。疲れた体に染み渡る優しい味がした。昨日は丸一日何も食べていなかったからか食が進む。
「うまかったよ。ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
 床にごろんと横たわり、器を下げるモモカの後ろ姿をカカシはぼんやりと眺めた。悪いなあ、ここまでさせて申し訳ないなあ、片付けはせめて自分で、と思いつつも今日は特別と割り切ってとことん甘えようかとも思い始めていた。
「お薬、今日の分も飲んでおいてくださいね」
 カカシがうとうとしかかったところですかさずモモカがクスリと水を渡す。カカシは促されるままにそれを飲んだ。
「もう少し寝るわ」
 カカシはもぞもぞとベッドに戻る。そこでシーツが綺麗になっていることに気が付いた。シャワーを浴びている間にモモカが替えてくれたのだ。綺麗になった体で綺麗な寝具で寝られるのは嬉しかった。よく気が付いて気の回る子だ。しかしすでに重い瞼にお礼を言うことが出来ず、カカシは再び眠りに付いた。

 片付けを終えて自分も昼食を取り終えたモモカは、眠気が襲ってくるのを感じた。昨夜はどこか気が張り詰めていてあまり眠れなかったから無理もない。穏やかな休日の昼下がりの雰囲気が、より一層眠気を誘う。三回目の濡れタオルの交換の時にとうとうそのままカカシのベッドに頭を預けて、昼寝をしてしまった。
 眠りに入ってすぐに、モモカは夢を見た。変てこな夢だった。登場人物は主にカカシを含めた第七班だ。サスケは絶えずカカシに向けて手裏剣を投げている。躱すことは訳ないが、サスケの後ろで応援しているサクラが時折特大のハートの雨を降らせて来るのが厄介だ。かと思うと爆発音がして、ナルトが火影岩を爆破して遊んでいた。ああ、これはカカシの夢なのだ、とモモカは感付いた。なんだ、夢を共有できるのではないか。
 夢の中のカカシは困り果てて、影分身をする。カカシの分身体のうちの一体はナルトを追いかける。ぐんぐん距離を詰めて、ナルトを捕まえるべく手を伸ばす。伸ばした腕はそのままナルトの胸を貫いた。血飛沫が上がり、温かい液体が腕を伝う。ナルトの首がぐりんと回ってカカシを振り向いた。
「待って、だめ」
 モモカは大急ぎでカカシの腕に捕まる。
「オマエノセイダ」
 ナルトのものではない地響きのような低音でナルトらしき死体が喋った。
「カカシさん、違うよ。これは違う」
 モモカは勢いでカカシに抱き着く。
「過去に囚われてちゃだめだ。今を見て。今のナルト達を」
 光が失われていくカカシの瞳に焦り、思わずモモカはその頬を両手で掴み、あろうことか左右に引っ張った。これにはさすがに夢の中のカカシも虚を衝かれて、モモカに焦点を合わせた。
「ナルトは、こんなこと言わないでしょう」
 カカシは呆気に取られた顔でモモカを見つめ、そして笑い出した。
「ふふ、ははは。うん、そうだな」
 カカシは右手をモモカの頬に添える。モモカは期待に胸を弾ませた。ああこれは経験がある。カカシの左手はモモカの後頭部を包んだ。一度見たことのある光景だ。このままカカシの顔が、唇が近付いてくるのだ。なんだ、そうか。夢も共有できるんじゃないか――……。

 ハッとしてモモカは起き上がる。
 やかんの沸騰を告げる音に慌てて飛び上がり、コンロの火を消した。ガスを付けたままで居眠りしてしまうだなんて、危うく他人様の家を火事の危険に晒すところだった。
 やかんの中の熱湯をポットに移し、ティーバッグを入れる。隣のコンロにはうどんの汁の入った鍋が置かれている。
「ごめんな」
 カカシの言葉にモモカは飛び上がった。カカシは瞼を閉じたままで呟いていた。
「……え?」
 聞き返すと、カカシはゆっくりと目を開けて、深く息を吸う。
「……んー、よく寝たわ」
 さっきのは寝言だったのだろうか。
「私もちょっと、うたたねしちゃってました。もうこんな時間」
 窓からは強烈な西日が射しこんでいる。だいぶ日が伸びてきたが、向こうの空は既に濃紺に染まり星が輝き始めていた。
「……良い匂い。寝てただけなのにお腹減ったな」
 カカシが横たわったままで顔だけこちらに向ける。
「煮込みうどんです。麺入れれば、すぐできますよ」
 カカシはぼんやりとした瞳でモモカを見つめている。寝起きで寝ぼけているのか、あるいはまた熱が上がってきたのかもしれない。モモカは先ほどまで見ていた夢の内容を思い出そうとしたが、すっかり記憶から消え失せてそれは敵わなかった。なにか大事なことに気が付いた気がしたのだけれど。
「じゃ、食べる。モモカは明日仕事は?」
「あ、明日は任務が入っています。うどん私もいただいたら帰ります」
「二日間もありがとね。今度何かご馳走するよ」
 二人でうどんをすすっている最中もどこかカカシはぼんやりしていて口数は少なかった。夜になってまた熱が上がったみたいだ。食後に薬を飲ませ、食器を洗っているうちにまたカカシは眠っていた。余程ぎりぎりの体力で写輪眼を使っていたのだろう。強敵二人を相手に下忍三人と一般人一人を守りながらの戦いでは無理もない。食器を洗い終え、洗濯物を畳み、静かに帰ろうかと思ったところでカカシが目を覚ました。カカシは起き上がり、リビングルームのドアを開ける。
「……あ、そんな勝手に帰るから大丈夫ですよ」
「ま、玄関までだけど」
 カカシは重そうな瞼でドアを開けて待っていてくれた。
「じゃあ、帰りますね。余った卵おじや冷凍してあるのでよければ温め直して食べてください」
「何から何までありがとね」
 靴を履きながらも、この部屋を離れるのが名残惜しかった。けれど今度お礼に何かご馳走してくれると、カカシが言った。ご馳走してくれるものは何でもいいのだが、カカシと会う口実が出来たことが単純に嬉しかった。
 靴を履き終えて玄関を出ると夜の匂いがした。日はすっかり沈み、じー、と鳴く虫が夏の訪れを告げている。それじゃあ、とカカシを振り向くとカカシは左腕で玄関の枠にもたれかかってじっとモモカを見つめていた。その熱っぽい瞳は過去に何処かで、それも現実ではないどこかで見たことのあるものだった。
 カカシは右手の人差し指で口布をずらす。薄く、だけど綺麗な形の唇が露わになる。カカシの顔が近付いて、カカシの唇とモモカの唇がそっと触れた。
 カカシの顔が離れて、二人はしばらく見つめ合う。キスをされたのだと、モモカが気が付くのに間抜けな程に時間がかかった。
「……え」
 ようやく発した自分の声は可笑しいくらいに動揺していた。
 なんで。どうして。どんな意図で。なんのために。聞きたいことは山ほどあって、しかし何も問いかけることが出来ないうちに、カカシは再び口布を上げて、階段の方を見つめた。モモカも釣られて階段の方を見れば話し声と昇ってくる足音が聞こえた。それも聞き覚えのある声だ。やがて第七班の下忍達が三人連れだって姿を現した。
「うしし、カカシ先生喜ぶってばよ」
「もう、あんたはいつも突然なんだから」
「ふん……カカシも上忍だし放っておいても大丈夫だろ」
 がやがやと階段を上ってきた三人の可愛らしい下忍達はモモカとカカシを認め「あ」と声を出す。その両手には袋が下げられていて、カカシの見舞いに来たことが窺えた。
「ねーちゃんも来てたのか!」
 ナルトがにかっと笑う。
「なんだ、元気そうだな」
 サスケの素直じゃない言葉にカカシは後頭部を掻く。いつもの飄々としたカカシ先生の顔に戻っていた。
「まーお前ら何よ、連れ立って俺の見舞い?泣けるねえ……ってそれカップ麺ばかりじゃない」
 ナルトの持つ袋の中身を見てカカシが呆れた顔をしてみせる。
「私は止めろって言ったんですけど……」
 サクラが苦笑する。
「モモカさんも来てくれたところですか」
 サクラの質問に答えたのはカカシだった。
「いや、モモカはちょっと前に。ゼリーとか買ってきてくれて……お前らなあ、フツー病人にカップ麺は持ってこないのよ」
「一括りにするな、ナルトだけだ」
「あはは、そうよねサスケ君」
「なんでだってばよ!ラーメン食べたら元気になるだろ――」
 賑やかになってきた廊下で、いたたまれない気持ちになってモモカは後退る。
「あ、えと、私帰りますね。お大事に」
 逃げるように背を向けて、不自然じゃない程度に足早に階段を駆け下りる。一度も振り向かずにカカシのアパートを後にして、早足で歩くモモカはヒョウタン公園のところでやっと立ち止まった。
 そっと唇に指を当てて、自分の心臓の音を聞く。
 カカシとキスをした。それもカカシの方からだ。夢でも何でもなく、正真正銘カカシとキスをしたのだ。
 虫の音が木霊して初夏の夜を彩る。湿度がないおかげで過ごしやすいこの気候も、あと数週間もすればうだるような暑さになるのだ。爽やかな風が通り抜け、夜の匂いに涙が出そうになる。
 カカシがキスした意味が理解できるほど、モモカはまだ大人になりきれていなかった。



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