余所余所しかったはずの景色もどこか優しい色を帯びて
モモカの夢の中で、カカシは俯いていた。
真っ暗の中で、梅の木と、カカシだけがぼんやりと浮かんでいる。梅の木はやはり満開で、不自然なほどに花弁が舞い散っていた。立ち込める甘い匂いは咽かえるほどだ。
その服は見慣れている通常服ではなく、暗部の装束である。袖のない真っ黒な装束から覗く肩は白く、筋肉質であるが酷く艶めかしい。梅の花弁の白と、カカシの肌の白さだけが酷く網膜に残る映像である。
膝を付いた状態で俯くカカシの表情は無に等しかった。
モモカはこれがすぐに夢であると、気が付いた。不躾にカカシに近付くものの、カカシは気にも留めない。焦点の定まらない瞳で、ただぼんやりと目の前の闇を見つめている。
その姿はどこか、懺悔しているようにも見えた。
「大丈夫ですか?」
呼びかけるも、カカシからは何の反応も返ってこない。
モモカはカカシの銀髪に手を伸ばした。幼い子供にそうするように、優しく優しくその髪を撫で梳いてやる。カカシがようやく顔を上げてモモカを見上げた。しかし、その眼はやはりモモカを捉えてはいない。
モモカはカカシの肩に腕を回し、抱きしめた。痛々しいその姿を見ていられなくて慰めたい気持ちと、これは夢なのだから思う存分触れるという下心と、両方あった。
やがてカカシもモモカの体に腕を回す。大きく、骨ばった手だ。温かいと思っていたのだが、ひんやりと冷たかった。
次第にカカシの腕にも力が籠められ、やがてモモカはきつく抱きしめられていた。ドキドキする自身の鼓動と、服越しに伝わるカカシの鼓動とが一体化するような感覚になる。
どれくらいそうしていただろうか。カカシの冷たい指先がすっかり温まった頃、抱きしめる腕の力が緩まった。
カカシはモモカの肩を両手で持ち、体から離す。カカシとモモカの、目と目が合った。
カカシの瞳は、いつも通りの優しい瞳に戻っていた。しっかりとモモカを捉えている。いつも通りの優しい瞳ではあるが、どこか熱っぽさも含んでいた。
モモカの瞳の輪郭をなぞるように、じっとりと見つめるカカシは、紛れもなく大人の男である。そしてカカシの前では、自分はどうしようもなく女であるのだと、モモカははっきりと感じた。
カカシが人差し指を引っ掛け、口布を外す。初めて見たカカシの唇は薄いが形が良く、やはり色素が薄い。モモカの胸の鼓動は今や、早鐘を打つようだ。
カカシがモモカの肩を掴んだままで、顔を寄せ、そして口付けた。
その唇は熱くも冷たくもなく、しかし柔らかい。
そっと触れるだけの唇が離れた後は、再びカカシと目が合った。先ほどよりもかなりの至近距離だ。長い睫毛の一本一本までもが詳細に見える。カカシの眼は熱を孕み、モモカを捉える。やがて視線が外れ、モモカの唇を見つめたかと思うと再び唇が触れた。
今度は長く、そして強く唇が押し付けられた。肩を掴んでいた手は、モモカの側頭部に添えられている。右耳から後頭部までをすっぽり覆ってしまうほど大きな手だ。
唇が離れる。しかしまたすぐ口付ける。啄むように、唇で唇を挟まれる。
どうしたらよいか分からないモモカはただただカカシのなすがまま、身を委ねていた。カカシの左手はモモカの頭を押さえ、髪の生え際を逆立てるように撫でつける。その感覚に背筋ゾクリとしたものが走る。
カカシは口付けたままで唇を開いた。そしてモモカの口内へ舌を侵入させる。にゅるりとした感覚に、またもゾクリと背筋に何かが走った。他人の舌とは、こんなにも熱いのか――――。
目が覚めると、既に日は傾きかけていた。カカシはいつの間にかいなくなっている。
外気温が下がってきており、頬がひんやりと冷たくなっているが、頬とは裏腹に身体の中枢は熱かった。背中は薄っすら汗ばんでいるほどだ。
夢の中同様、胸の鼓動は速い。
何という夢を見てしまったのだろうか。
モモカは一気に覚醒して体を起こす。
カカシとキスをする夢を―――、それも、あんな欲にまみれたようなキスをしてしまった。
決して現実ではない。現実ではないが、今もその感覚がまざまざと思い出される。カカシの大きな手。その体温。熱の籠った眼差し。触れた唇の感触。全てがリアルだった。カカシが居なくなっていてよかった。今まさにこんな夢を見た後で、どんな顔で会えば良いのか分からない。
しばらく茫然として、ようやく薄いひざ掛けが掛けられていることに気が付いた。きっと、カカシが掛けてくれたのだろう。その優しさが、さらにモモカの中の感情を燻らせた。
ひざ掛けをそっと胸に寄せる。
カカシの、匂いがした。おかしくなりそうだ。
カカシの顔を思い浮かべた。優しい瞳。優しくて強い瞳。優しいけれどどこか哀しい瞳。
何度も何度も夢の内容を反芻し、それと同じくらい普段のカカシの顔も思い浮かべ、その匂いに顔を埋める。
すっかり日が沈み、辺りが暗くなってきた頃に、ようやくモモカは気が付いた。
自分は、カカシに恋をしているのだ。
一人の男として、カカシのことがどうしようもなく好きなのだった。
家に帰り、いつも通り風呂に入り夕食を取る。
余程ぼーっとしていたらしく、母親に具合が悪いのかと尋ねられるほどだった。何でもないと取り繕いはするものの、気が付くとカカシのことを考えてしまっている。
布団に入ってからもしばらく目が冴えていた。鼻まで掛布団を上げ、暗い天井を睨み付ける。優しい暗闇がじわじわとにじり寄ってくるような感覚だ。
この気持ちは胸に秘めておこう。
モモカはそう決意した。恋心を自覚したものの、モモカには正直どうしたら良いか分からない。同年代の女子達ほどの、恋愛に関する明確な希望があるわけでもない。
そもそも、カカシがモモカを相手にするわけがなかった。それだけは確信できる。モモカが気持ちを打ち明けたとして、その後のことは容易に想像できた。きっとカカシは少しだけ驚いて、その後に困ったように微笑む。そしてモモカに言うのだ。ありがとう、とごめんね、と。
分かり切っているのだ。カカシは大人で、モモカはまだどうしようもなく子供で。カカシには背負うものがたくさんある。モモカの知らない悲壮な過去も、里を担う未来も、モモカの入る隙なんてないのだ。分かっているから、振られる想像に、傷つくものか。
そう自分に言い聞かせるものの、切ない気持ちに変わりはなかった。
掛布団を目の上まで引き上げ、無理やりに眠りについた。
翌日は、打って変わって朝から雨だった。
昨日のように穏やかで暖かい日もあれば今日のように寒さが厳しい日もある。三寒四温とは、よく言ったものだ。
本日の任務は、またお使いのような荷物の配送が一件だけで、何の不備もなく難なく終わった。昼前には里に戻り、報告を終えるとすぐさま着替えて雨に濡れた体を温めるべく三人でラーメン屋に入る。トウキは豚骨を、イクルは塩を、そしてモモカは醤油味を頼んだ。
なんてことはない、いつも通りの日常だ。
今日は同化の能力を使うこともなかったためか、モモカのお腹もラーメン一杯で十分満足した。そしてこの後は家に帰る、それだけだ。
それなのに、今日またしてもカカシに会ってしまうとは、一体何の悪戯だろうか。
雨に霞む商店街を、近道しようと脇道にそれたところだった。
そこは丁度軒沿いに走る用水路があり、雨によって水嵩の増したその水路の向こうにカカシは居た。向こうも、近道と、恐らくは雨を避けるためだろう、この裏道を、軒の下を用水路に沿って歩いているところだった。
こんな雨だというのに、今日も本を読みながら歩いている。
昨日の今日でどんな顔をして良いか分からず声をかけるのを躊躇ったが、すぐにカカシの方が気が付いた。
「よっ」
何でもないように挨拶をするカカシにホッとしたがそれもおかしな話だ。
昨日のことはモモカの夢の中の話で、カカシは知る由もないのだから。モモカが勝手に気まずくなっているだけだ。
挨拶を交わし、二人は用水路を挟んで並行して歩き出した。
「昨日……ひざ掛け、カカシさんですよね」
モモカは前を向いたままで尋ねる。
カカシのことを好きだと気付いてしまった以上、どうも気恥ずかしくて顔が真っ直ぐ見られない。
「ん?ああ、そうだよ」
「ありがとうございました。すみません、まだ洗濯が終わっていなくて」
洗濯したらお返しします、と最後の方はごにょごにょと口の中だけで呟いた。何をこんなにも緊張してしまうのだろう。この滑舌の悪さで聞き取れただろうか。
「あー、いいのよ別に、そんな」
カカシはちゃんと聞き取ってくれたようだ。
「任務で支給されるやつだし、そのまま使って」
にこ、と気さくな顔で笑いかけた。
あ、やっぱりこの人が好きだ。
「あの……、はい」
どぎまぎしてモモカは答える。顔が熱い。
こんな調子では、カカシに気付かれてしまう。モモカがカカシのことが好きなんだと。
降り続ける雨は既に作った水溜りに落下してその水面を歪める。視界は悪く里の色は全体的に灰色だ。隣をこっそり見上げれば銀髪が雨に濡れて輝いている。美しい。雨が似合う、と思う。
そういえばカカシに初めて会ったのもちょうど一年前の、春の雨の中だった。
「任務も順調にこなして、頑張ってるみたいだね」
カカシが褒めてくれたのに、最早頷くことしかできない。この気持ちをバレないようにしなければいけないのに。
「ん?」
どうしたのかと、首を傾げてカカシが顔を覗き込んだ。用水路で隔てているため距離はあるが、真っ直ぐ合う目と目に、一気に鼓動が速くなる。ああ、好きだ。
「カカシさん……」
声が震える。好きな気持ちを、隠さなければ。
「私、カカシさんのことが好きです」
言ってしまった。
カカシの足が止まる。モモカも倣って歩みを止めた。
「えーっと」
カカシがまじまじとモモカの顔を見る。
言ってしまったけれど不思議と後悔はなかった。仕方ない。好きな気持ちが抑えられなかったのだ。成るようになれ。
果たして彼はどうやってはぐらかすのか。まだ心臓はバクバクしているが、困り顔のカカシを今度は目を逸らさずに真っ直ぐに見上げた。
「それはつまり……、そういう意味で、だよね?」
モモカはコクリと頷く。内心は、カカシが適当にごまかしてしまわないことが少し意外だった。
「ごめんね、気持ちは嬉しいけれど」
分かっていた。
モモカは猶も視線を逸らさずに次の言葉を待つ。
「俺自身そういう気持ちになれないし、何より歳もけっこう離れているし……君の気持ちには応えられないよ」
申し訳ないけれど、と続けるカカシにモモカは素直に頷いた。
分かっていたのだ。
気持ちを伝えたとして、カカシがモモカを相手にしないことも、困った顔をすることも、謝ることも。分かり切っていたことだ。
だからか、強がりでも何でもなく、悲しくはなかった。
「ええと、そういうことなんだけど……大丈夫?」
あまりにもモモカが素直に頷くからか、かえってカカシの方がおどおどとして顔色を窺っていた。
「はい」
ここでようやくモモカはカカシから視線を外した。
依然として降り続ける雨のせいで、靄がかかったような街並みがどこか余所余所しい。
「何も別に、カカシさんを困らせたくて言ったわけじゃないです……。カカシさんに好きになってもらうとか、期待してたわけでもありません」
モモカの呟きは雨音にかき消されそうな小ささだが、ハッキリとカカシの耳に届いた。
「ただ……」
小さく可愛らしい唇の動きに思わずカカシの目は釘付けになる。
「……ただ?」
いかんいかん、とゆっくり瞬きをしてカカシは唇から目を離し、先を促す。
「ただ、好きだと思ったら勢い余って口にしてしまっただけです」
へへへ、と屈託ない顔で笑うモモカに、カカシは呆気にとられる。
「はあ……」
最近の子は、よく分からない。
だけど感情の暗さだとか生きていく上での苦しみだとかを全く感じさせないその眩しい笑顔に、淡いトキメキを覚えたのも確かだった。
モモカは気恥ずかしそうに頭をかいている。
「なので、えーっと、そんなわけで」
モモカ自身も収集が付かなくなって、次に続く言葉を探していた。
しかし次も何もない。カカシが好きだという気持ち以上に、モモカにこれより先はなかった。ただカカシが好きなだけなのだから。元より何か進展を望んでいた訳ではないのだ。
そう思うとどこかスッキリした心地になった。カカシもきっと、これからも変わらない。
「なので、えーっと、では、また今度」
最期は尻切れトンボのようになり、モモカはそそくさとその場を後にした。
家に帰るまでの道中はどこかふわふわしていた。
これは自分の初恋なんだと、改めて自覚すると余所余所しかったはずの景色もどこか優しい色を帯びているように見える。
その一方で、芽生えたばかりの恋がさっそく散ったことに、やはり切なさもあった。
雨の音だけの里で、周りの時は止まり自分だけ人より時が進んだかのような錯覚に陥る。
失恋というものを経験して、モモカはすっかり大人の仲間入りを果たした気になっていたのだ。
後に残されたカカシだけ、子供には敵わん、と苦笑して独り言ちていた。