偉大な愛に身を委ね
その瞬間、見開かれたカカシの瞳は過去を捉えていた。これまで何度も目の当たりにした、ここではないどこか遠くを見つめるその瞳に、やってしまった、とモモカは後悔する。
(何故その名を)
(オビト)
(何故)
(こんな時に)
(オビト)
カカシの雷切によってかろうじて切り裂かれなかった蔦の一本が、大きくしなる。蔦はカカシの脇腹を掠めた。本来であれば、速すぎる突きの弱点にもなりうるカウンター攻撃は、写輪眼で見切ることが出来た。しかしその瞬間、カカシは現在ではなく過去を見つめていて、意識は切り倒すべき植物ではなく、己の罪へと向いていた。その隙を見事に突かれ、鮮血が飛び散る。
モモカ。二秒後に上に飛んで。そして瞬身の術で西南西の岩陰へ。
先ほどのカカシの声が脳内で反芻する。岩陰に潜めば植物の目を逃れられる。カカシもカウンター攻撃を受けこそしたが、あの程度であればすぐに身を潜められる――モモカが飛び出していかずとも、問題ない――。
冷静な状況判断とは裏腹に、飛び出せと、そして彼に手を差し伸べるのだと、モモカの魂が叫んだ。
モモカは瞬身の術で姿を消すと、次の瞬間にはカカシのすぐ背後に現れていた。その左手にはけたたましい音と光と濃密なチャクラが集まっている。
カカシのぼんやりとした暗い瞳の焦点はモモカの雷切によって、現在に戻ってきた。雷切の光がカカシの瞳を虹色に染め上げる。岩陰に潜むはずのモモカがすぐ後ろにいて、その手には雷切の光を纏っている。カカシは驚きと、同じくらい悔しさの滲んだ表情を苦しそうに歪めた。
モモカの雷切が残りの蔦を裁断し、それと同時に二人は西南西の岩陰に駆け出した。
大きな硬い岩肌に背を付け、視線と思惑を交わし合い、互いの怪我の程を探る。カカシの脇腹には血が滲んでいた。深さは分からない。視線は弱ってなどなく、鋭さがある。瞬時にお互いの体力と状況を把握すると、カカシがくいと顎で南の方を指した。本体を切り倒したわけではないからうかうかしていたらまた新たな蔦がやってくる――辺り見える範囲の蔦を切り落とした今のうちにこの場を離れるのだ。そしてカカシは二方向を、今度は指で指し示し、「ある程度距離を空けて」と短く言った。
反対する理由は何もなく、モモカは頷いた。二人固まって移動することの利点は、互いに背を預け、フォローし合えることにある。その一方で、全滅しかねないリスクもあった。ある程度、付かず離れずの距離を保って走れば、一度にやられることは防げる。最悪、攻撃を受けた一人をもう一人が引きずって逃げればいいのだ。
モモカもカカシも、単独での方が動きやすく、相手が広範囲に複数の攻撃を持つ植物ではそれは尚のことだった。少しの戦闘でそこまでカカシは判断し、等しく同じことをまたモモカも感じ取っていた。
まずカカシが岩陰から飛び出し、一拍後にモモカが飛び出した。鈴の音が聴こえる距離を保って同じ方向に駆ける。濃い霧で互いの姿は視認できない。モモカは仙術によってカカシの気配を、カカシはモモカの髪に結び付けた鈴の音だけを頼りにお互いの位置を把握していた。
雨が大地を打ち付ける絶え間ない水音の中で凛と鈴の音が響く。時折、背後の霧の中で蔦の影が蠢くような気がした。モモカはカカシの気配を離さないように集中しながら、辺りを懸命に探った。木の葉まではこのスピードで走り続けて丸二日はかかる。モモカもカカシもずぶ濡れで、カカシは傷を負っている。植物が追ってこなくなるまで振り切れればよいのだが――……。
矢の様に立て続けに飛んでくる蔦を、モモカは小刀で切り落とす。極力小さな動きで、なおかつチャクラを発さない物理攻撃で仕留めることが求められた。
切る。切る。切る。切り落とす。速度は落とさずに、絡みつく植物の蔦をひたすら切り落としていく。カカシの方も、同じような状況なのは分かっていた。
濃い緑の匂いと湿った地面の匂いが充満する土砂降りの中、不意に全く別種類の匂いを感じた。何かを燃やしているような、焦げ臭い匂い。一瞬、先ほどの自来也の火遁の残り香かとも思ったが、また別の火に由来する匂いだということは明らかだった。
また一つ蔦を切り落とした後でモモカは後ろを振り返り、真っ暗な東の空を見つめ、また別の蔦を切って、頭を振った。
(火をくべるよ、きっと。あいつの元へ戻れるように)
誰かの、いつかの言葉が脳内で木霊する。
それが誰なのか、いつ言われたのか、モモカは薄々気が付いていた。思い出したという方が正しいかもしれない。彼は、確かに言った。約束したのだ。
そして今まさに、何かをくべる煙たい匂いがして、モモカの動悸は速まる。
近くに、いるのだろうか。今もモモカを、そして十六歳のカカシをどこかで見ているのだろうか。それならば、果てのない絶望と止むことのない雨の中で、それでも、闇に引きずり込まれまいと、懸命に歯を食いしばって、傷をいくつもつくる、たった十六歳のこの子を、どんな想いで見ているのか。ざまあないと嘲笑っているのか。傷だらけの様子に、心安らいでいるのか。それとも少しでも、労わる気持ちが、そこにはあるのだろうか。
「モモカ!!」
愛しいあの子が、また自分の名を呼ぶ。
ちりっと走る痛みに、モモカの意識は急に引き戻された。視認できたのは数十本の蠢く蔦だ。ああ、囲まれている。どこか他人事の様にぼんやりと考え、近くの二三本を切り落とした。決して自暴自棄になっているわけではなく、帰ることを諦めたわけでもない。むしろ、この世界で死ぬことはないと、どこか高を括っていたところがあった。だから現実感や危機感が薄く、今こうして危険に囲まれてしまっている。
飛んでくる蔦をモモカは次々と切り落とす。死んでなるものか。こんなところで倒れてなるものか。私は帰るのだ。愛しいあの人が待つあの場所へ、帰るのだ。決して諦めたりなどしない――……。
力いっぱい小刀を振り払い、着地した足が雨に滑る。次の一歩を踏み出すことなど、いくつもの修羅場を潜り抜けてきたモモカには造作もないことだった。モモカが初めて自らの無力さと、無残に仲間が殺される憎しみを思い知った日のことを思い出す。あの時も、モモカは足を滑らせていた。追うことの出来ない敵を睨みつけるばかりで、仲間の無念を果たせない己を呪っていたモモカを、あの人は掬い上げ、そして、虹色の光に染め上げたのだ。
あの時から、モモカの戦いは始まったのかもしれない。それは仲間の無念を晴らすための戦いだった。これ以上誰も失わないための戦いだった。それと同時に、今までたくさん傷ついてきたあの人の穏やかに笑う未来を、勝ち取るための戦いでもあった。
「モモカ!!」
もう一度、自分を呼ぶ声がして、目も眩むような閃光が走り抜ける。あの時と同じだ。モモカは涙が出そうだった。十六歳のカカシの放った雷切の光はモモカの胸を貫き、虹色に染め上げる。
同じだ。同じなのだ。カカシは、カカシだった。
別の人間だと思っていたけれど、十六歳のカカシはモモカの大好きな、あのカカシの紛れもない過去で、彼の苦しみ傷つきながら歩んできたこれまでがあったからこその、今なのだ。それは当たり前のことではなく、定められた運命などでもなく、紛れもなく、カカシ自身が選び取ってきた結果なのだ。
鮮血が再び飛び散る。絡みつく数多の蔦もものともせず雷切で全てを切り裂いたカカシだったが、やがて止まったその瞬間に蔦が襲い掛かる。真昼のような明るさを作り出す雷切は、止まってしまえば恰好の餌食であった。
モモカは地を蹴り、カカシを抱えるとふわりといくつもの蔦を避けて宙を舞った。
モモカはまた、金色の糸が輝くのを見た。植物の蔦よりもしなやかに、軽く、ふわりと光を発しながら漂う。金糸に導かれて、祝詞の中の舞い手のように、カカシを抱えて地面に音もなく着地する。
「自分のために誰かが傷つくのは、我慢ならない人だったね」
痛みに顔をしかめるカカシを抱え直してモモカは呟いた。カカシは、誰かが傷つきそうな時には迷わず自分が盾になる。そういう男なのだ。そして彼は間違いなくカカシなのだから、モモカを守ろうと傷を負ったこの状況は、容易く想像できたはずなのに。みすみす、傷を負わせてしまった。
「ごめんね」
何で謝るんだ。カカシの反論は雨音にかき消された。再び襲い掛かってくる蔦を、モモカはカカシを抱えたままでひらひらと避ける。まるで風に舞う羽のようだった。
金糸と戯れるように、大地に逆らわず、舞う。しかし意識を向こうの世界に向けすぎると戻ってこれなくなる。こちらとあちら。自己の内面と外側。精神と肉体。魂と大地。それらの間のちょうど真ん中を、どちらかに偏り過ぎないようにモモカは舞ながら駆け抜けた。
やはり今が、自分の能力のピークなのだと感じた。
蔦を躱しながらしばらく駆け、平原を抜け、湿地帯を過ぎ、雑木林の入り口のところに小屋が建っているのを発見する。人気はなく、忘れ去られたような小さな小屋にモモカは素早く滑り込んだ。
丸太づくりの小屋の中は埃っぽく、使用されている気配は全くなかった。蜘蛛の巣だらけの錆びた鍬が立てかけられているのを見ると、農家の納屋に使われていたものかもしれない。ところどころ柱や壁の木が朽ちているが、雨風の侵入がないことは大変有難かった。びしょ濡れのモモカとカカシは埃の厚い床にあっという間に水たまりを作った。
カカシを壁にもたれさせるように座らせてやると彼は苦しそうに表情を歪めた。受けた傷の痛みと、モモカに運んでもらった己の無力さに耐えている顔だ。
「ちょっと、脱がすよ」
言うなりモモカはカカシのベスト、上位を脱がしていく。ぐったりと脱力しているカカシだが緩慢な動きで従った。水分を吸い込めるだけ吸い込んで重くなった衣類を剥ぎ取ると、三箇所の傷が確認できた。最初に受けた右脇腹の傷が最も深い。左肩、左上腕部にそれぞれ受けた傷からも出血している。流れ出た血が、床に溜まった水溜まりに到達し徐々に混じりながら拡散していった。
持ち合わせの救急キットで消毒をし、薬を塗る。脇腹の傷などは縫えたらもっといいのだろうが、麻酔のない状況で苦痛を与えてまで縫う必要はないと判断し、保護シートを貼って包帯で固定した。こんな時、簡単な応急処置しか出来ないことが歯がゆい。モモカは一人での任務が多く、誰かと一緒の時は大抵イクルがいた。医療に明るい仲間がいることの貴重さを改めて痛感した。
包帯を巻き終えると、モモカは懐から火打石を取り出す。濡れないように奥深くへしまっていたから着火は出来そうだが、いかんせん燃やすものがなかった。納屋の中には錆びた農具といくつかの麻袋と木箱があり、その全てが湿っている。比較的乾いていそうな袋をかき集めて火を付けるも、今にも消えそうだ。色々納屋内の漁る中で毛布を見つけたのは収穫だった。例に漏れず埃っぽいが、木箱の中にいれられていたおかげでいくらかましだ。
「火遁は使うなよ」
ぐったりしながらカカシが言った。まさに痺れを切らして火遁を使うまいかと血迷っていたモモカはぎくりとする。火遁を使えば容易に大きな炎を得られるが、チャクラを感知できるあの植物に見つかってしまう。そうなれば暖を取るどころではないだろう。
モモカは自分を落ち着かせるように深く息を吸うと腰を下ろし、胡坐をかいた格好で目を閉じた。自分たちの潜む納屋の骨格が瞼の裏の暗闇に浮かぶ。次いで、降りしきる雨と生命の恵みに大地の喜びを感じた。そして地を辿り、そう遠くない場所で蠢く植物の蔦達。この植物は単に肉を喰らうだけではなく、生命の持つチャクラすらもエネルギー源としている。だから、動くもの、チャクラをはっするものに敏感なのだ。質の高いチャクラを発する忍はご馳走に違いない。
雨は、止む。
モモカは究極まで研ぎ澄まされた感覚で知った。すぐではないが、雨は止むだろう。カカシからは病人の匂いがした。熱が出ている。この傷に、さらには冷たい雨に晒され続けたのだから無理もなかった。
モモカは目を開けるとカカシに向き直った。熱でぼんやりとしたカカシの瞳と目が合う。
「少し休んでから、ここを出るよ。数時間で雨が止むから」
カカシは少し眉を寄せたが、素直に頷いた。言葉の根拠を問うほどの元気がないところを見ると、体力的にも限界のようだった。
モモカは一瞬ひやりとする。もしかしたら、あの植物は毒を有していたのではないか。
常時より浅く速い呼吸で上下するカカシの胸に手を添える。服を脱いで露出した滑らかな白い肌はしっとりと濡れているが、熱い。それでいて小刻みに震えていて、寒気に襲われているのだろうと分かった。
大丈夫だ。毒は、ない。
モモカは自分でも驚くほどに、カカシの内側が分かった。彼の呼気や、体中を巡る血液のどこにも毒の気配はなかった。何故そこまで分かるかも分からない。説明できないが、自分の感覚は正しいのだと信じることができた。
なれば、やはりこの雨の中無理にカカシを運ぶよりも、雨が止むまで休ませてから移動することが最善に思えた。
「薬、飲める?」
錠剤を二粒差し出してモモカは尋ねる。解熱剤と栄養剤だ。カカシが頷いたので口に含ませてやり、飲料水を飲ませる。非常にゆっくりとした喉の動きでどうにか飲み込んでくれた。口の端から零れ落ちた水を袖で拭いてあげようとしたが、モモカの服の方がびっしょりと濡れていたので指先で拭う。
「……毛布、俺はいいからあんたが使って」
熱が出ている怪我人のくせに、カカシは言った。モモカの体も冷え切っていることを心配する余裕などないはずだろう。
モモカは頭を振る。そしてカカシの下衣に手をかけた。
「冷えるから、下も脱いで」
カカシは驚いて形だけの抵抗を見せたが、すぐに大人しく、されるがままに脱がされる。濡れた衣類を身に着けたままだと体温は奪われていく一方だということは、カカシも分かっているのだ。すっかり脱がされた彼は裸体を隠すように毛布を引き寄せ、自然と包まる形になった。
そしてカカシの服を全てはぎ取ったモモカは、自らもまた脱ぎ始める。カカシが気まずそうに顔を背けている。具合の悪い彼は背を向けるほどの余力もないようだ。一糸まとわぬ姿になったモモカは、二人分の服を絞って水けを切る。そして全裸のままで今にも消えそうな火にかざすように服を広げた。雨が小降りになってここを出る頃には、少しでも乾いてくれたらいいと思う。
モモカはカカシに視線を戻す。小刻みに震える肩に、とうとう決心する。
素っ裸のモモカが毛布の中に入ってきた時、さすがのカカシもぎょっと面食らって体を強張らせた。
「……ちょっと……、よくやるよ、ホントにさ……」
喋り辛そうに呼吸しながら、カカシは身じろぐ。
「不快だろうけど、この状況だと人肌で温めるのが一番だからさ」
モモカの言葉にカカシは短く息を吐く。二人の肩と肩、臀部と臀部がぴったり触れて、その箇所に妙に意識が集中した。
「……俺はいいよ……、でも、あんたはさ……」
優しい体温が、生々しい肌の感触を訴えかけてくるようだ。
(好きな男が、いるんだろう)
カカシの心の声が聴こえる。自らの為に誰かが被る傷に人一倍敏感な彼は、自分を助けようとするモモカの行動が後々にモモカ自身を傷付けてしまう可能性を恐れていた。
「いいんだよ」
思わずモモカは口にしていた。思考を読んで先回りして答えることの気味悪さは自覚していたけれど、カカシには伝えなければいけないことが沢山あると思った。
当のカカシは、具合の悪さからかモモカが思考を読んでいることなど思い至らないらしく、顔を少し上げてモモカを見つめた。熱に浮かされた瞳がモモカに問いかける。
(何故、俺を責めない)
(何故、俺を許す)
(何故、俺の全てを受け入れる)
カカシの頭頂部から高熱故の汗の匂いと、官能的なカカシ自身の匂いがした。いとも簡単にモモカを魅了し引きずり込む匂いだ。
「……なあ、未来の俺はさ――……」
いよいよカカシの呼吸は荒くなってきた。薬が効いてきているのか、思考力も落ちているようだ。
「うん?」
モモカは努めて優しさを込めて聞き返す。
「……未来の俺は……」
(ちゃんと罰せられているか?)
(大切なものを、守れているか?)
(この苦しみを、忘れてはいないか?)
カカシから伝わってきたのは、真っ黒に塗り潰された道だった。
自分自身を許すことの出来ないカカシの絶望の根は、モモカの想像を遥か超えて深い。カカシの贖罪の旅は、果てしなく長いのだ。
気が付けば、モモカの頬を涙が伝っていた。熱に侵されたカカシが零れる涙に気が付かなったのは良かった。
奇跡だったのだ。
モモカの訴えにカカシが耳を傾けてくれたのは、差し伸べた手を取ってくれたのは、愛情を受取ってくれたのは、奇跡だったのだ。深い絶望の奈落の底にいるカカシが未来の希望に目を向けることは、とても尊く、ここからは遥か遠く、奇跡が重なってもたらされたことだった。
「ねえ、……カカシ」
モモカはついにカカシをその名で呼んだ。
「未来のカカシは、とても強く、美しい忍で、誰よりも仲間を大切にしているよ」
モモカは初めて出会ったカカシの姿を思い浮かべる。雨に映える美しい銀髪もスラリと長い手足も、どこか寂しげな瞳も、困ったように笑う顔も、すべてが愛おしかった。
「カカシはね、ちっぽけな子供を強烈な光で一瞬に染めて、その生き方さえも変えることができる、そんな人なんだよ」
しばらくカカシは返事をしなかった。いよいよ寝たのかと思った頃、彼は「へっ」と小さく笑みを漏らした。
「誰だよ……それ」
カカシが毛布の中で動いて、肌の触れる箇所が変わる。それに伴い熱が移動する。
「君だよ、カカシ。君はたくさんの人を救い、愛して、そしてまた、たくさんの人から愛されているんだ」
カカシは嘲笑う気力すら抜け落ちたのか、朧に埃っぽい床を見つめる。
「それが本当なら羨ましい限りだ……」
呟く声は小さく掠れていた。
(羨ましいよ、そんな未来があるのなら)
幼子のようなあどけない顔で、カカシはゆっくり瞬く。
(あんたみたいな真っ直ぐな人間に、一心に愛情を注がれる誰かが……)
ここまでカカシが心の内をさらけ出すのは、心身ともに衰弱しているからだろう。回復した彼が今口にしている言葉を果たして覚えているかは怪しいが、もし覚えていたのなら居たたまれなさでいっぱいになるに違いない。
「俺には誰もいない」
なおもカカシは弱音を吐き出す。きっと、この時間は、彼にとって大切なものなのだとモモカは感じた。カカシの人生の中のほんのわずかな時間だけれど、自身でも気付かぬ心の内をモモカによって照らし出され、そして弱音を吐くというこの時間が、長い贖罪の道をこの先も歩み続けていくためには、きっと必要だったのだ。
(あんたに会えるかも、分からない)
ほとんど消え入りそうな声は、最早口から出たのか同化で感じたのかも分からなかった。
「会えるよ」
モモカは力強く断言した。
不安げに揺れるカカシの瞳は、一筋の光にすがるようにモモカを見つめた。
「……本当に?」
(本当にそれは、)
「それはモモカなの?」
「本当だよ。大丈夫、きっと会えるよ」
辛抱強く子供に言い聞かせる母親のような強く優しい声に、カカシは弱々しく目を見開く。
カカシの目を真っ直ぐに見つめてモモカは微笑む。二人は埃っぽい毛布に包まれ、裸のままで、お互いの魂を確かめ合っていた。
「すぐかは分からないけれど──……必ず会えるよ、あなたを大切に想う人に。それはいろんな世界の、気が遠くなるような人々の中から見つけ出すような途方のない旅に思えるけれど──けれど、必ず会えるの。そして、どんな世界であっても、あなたを見つけ出すのはきっと──あなたを──カカシのことを大好きな私に違いないから」
カカシは見開いていた目の力をふと緩める。彼が心から安らげる時間というのは、驚くほどにない。カカシの口元がわずかに微笑んでいたのを見て、モモカは安堵した。
モモカはカカシの額にかかる銀髪を労るように、慈しむようにかき上げた。しっとりと濡れた髪をどければ意外に幼い額が露わになる。髪をかき上げられる心地良さにカカシの表情は穏やかだ。
モモカはカカシの頬を両手で優しく包み込み、顔を近付けると滑らかで真白い額に口付けた。モモカの髪に結び付けられた小さな鈴が鳴る。
雨音と鈴の音が響く中、カカシは偉大な愛に身を委ね目を閉じた。先程までは疎ましく感じていた雨音が心地よく感じるのは、守られた室内にいるからだろうか。
やがて静かな寝息で上下し始める胸を見て、モモカは理解した。
同じ時間軸にいるとは限らない、この子の未来が元の世界とは限らないけれど。
だけれど、きっと、私は何度巡っても彼を見つけて、愛する。
私はきっと、この世界のカカシに愛を預けにきたのだ。
「私のこころを……あなたへの愛を……預けるから、きっと返しに来てね」