取りこぼしてきた一つ一つを拾い上げるような
夜が明けても世界は変わらず、モモカが元の場所に戻っていることはなかった。
そう都合よくはいかないものだ。里に戻ったモモカは腹をくくり、すぐにボロ長屋の整備に取り掛かった。里の主力になりつつあるカカシをわがままに付き合わせてしまった罪悪感もあり、三日は作業に打ち込んだ。当のカカシは、里に戻るなり姿を消した。モモカ一人の監視にかまけていられるほど暇な忍ではないのだ。
引き続く監視の視線はそこはかとなく感じていたが、カカシのものではない。暗部の別の者に交代したのだろう。仙術を使えば監視の人物の姿形を知ることもその距離も感知するくらい訳ないのだが、あえてそこまでする気は起きなかった。不用意に里に警戒心を与えてまで、探るほどの興味は湧かなかったのもある。
四日目の朝、カカシは再び姿を現した。この日も爽やかな晴天で、この里は泣くことを忘れたみたいだ。
「……えらい作業が進んだみたいだね」
長屋を一目見てカカシは感嘆の息を漏らした。周囲の雑草は綺麗さっぱり刈り取られ、それどころか観賞用の花さえ植えられて整備された庭園のようだ。長屋には、まさか伝う蔦などなく、建物自体の古さは否めないものの丁寧に塗り替えられた外壁はよく眺めてみないと新築にも見えた。肝心の室内は隅から隅まで拭き上げられ、通り過ぎ去る風は初夏に相応しい爽やかさを伴っている。惜しむらくは、見違えた住居に見合うだけの家具がまだ搬入されていないことか。
とはいえ、素直に感心の表情を見えるカカシに悪い気はせず、モモカは得意げに鼻の穴を膨らませた。
「さて、後は主要な家具が必要だけど、それは追々、実際に入居する子たちが決まってからの方がいいかなと思うから……とりあえずは一段落かな」
まだまだ手の加えようはいくらでもあるが、ひとまず最低限の義理は果たせたとモモカは思っていた。
「ふうん……」
モモカの言葉に納得してカカシは頷く。具体的な入居者や人数が決まらないままではこれ以上は進めるべきではない。長屋を西から東まで一通り覗いて、カカシはモモカの寝泊まりする部屋まで戻ってきた。
「で?」
両手をポケットに入れたままでカカシがモモカに尋ねた。
「三代目への報告は午後の予定だけど」
その立ち姿は馴染みのあるもので、モモカは嬉しくなった。
「えっとね、一応自分の姿は確認しておこうと思うんだ」
考えていたことをモモカは告げた。カカシは表情の読めない目をして頷く。
「まあ普通そうだよね。遅すぎるくらいだけど」
淡々と話すカカシの顔をモモカはしげしげと眺めた。
「……もしかして君はもう、見たの?」
「俺はまだだけど」
「俺は、か」
モモカはつい苦笑する。信憑性はともかくとして、モモカは未来の世界から来たかもしれないと主張しているのだ。この時代では六歳だというなら、その存在を確かめるのは当たり前のことだ。
とっくのとうに、火影の命により誰かが幼きモモカの姿を確認したのだろう。この時のモモカは特殊な能力の片鱗も見せぬ凡庸で能天気な子供なのだから、見るだけ骨折り損だろうに。
ペイン襲撃の折に潰れてしまったモモカの生家は記憶と寸分も違わず存在していた。いや、よく晴れた五月の気候のせいか記憶よりもやや鮮やかに映る気がする。
七丁目の住宅地に、他の家々と同じような佇まいで建つ一軒家。裏庭から玄関まで囲う木製の柵は塗装されたばかりなのか真新しく日光を反射させていた。
生まれ育った家を見上げるモモカをカカシは抜かりなく観察している。
「行かないの?」
「行くけど……」
モモカは奇妙なものを見るような心地でカカシを振り向いた。カカシの銀髪は皐月の新緑によく映えていた。
「いや、だって結構怖いもんだよ、もう一人の自分がいるかもしれないって」
「忍だろ? 分身体だってもう一人の自分じゃないか」
カカシは事も無げに返す。
「そういうものかなあ……」
年齢が逆転しているとものの考え方も入れ替わるのだろうか。のん気な発言をするのは専らモモカの方だったのにと、少しだけ若いカカシが恨めしくなる。
裏庭に回って様子を窺うと、リビングルームの掃き出し窓が開けられ網戸になっていた。この季節は空調も使わず、窓から入る風がちょうどいいのだ、と日の差し込む板張りの室内を見てモモカは思い出す。渋い茶色の床板は日のよく当たる窓辺だけ色褪せ白けていたはずだが、ここからでは分からなかった。他人の家の匂いとともに室内からは絶え間なく生活音が聞こえる。
ラジオから流れる機械的な音声、皿洗いの水音、時折挟まる話声。それらは全て、一瞬にしてモモカを過去へと引き戻した。
懐かしい。ただ懐かしい。そうだ、アカデミーに通い始めた頃、モモカの世界はまだこんな平和で暖かな光に満たされていたのだ。人の死も、誰かの命を奪うことも、二度と戻らぬ大切なものを失う虚無感も、身を焦がすような憎しみも、自身の無力を恨むことも、この日常が平和であることすらも知らなかった頃。
モモカは柵を乗り越え裏庭に侵入すると、小さな石を拾い上げてリビングルームの掃き出し窓に向かって投げた。小石は的確に窓のサッシ部分に当たりコツンと硬質な音が響く。モモカは生い茂る生垣に身を隠して気配を消した。父がこまめに剪定していたドウダンツツジは形を整えられる直前なのか伸び放題になっていて身を潜めるのにもってこいだった。カカシもモモカに倣い緑に紛れて息を潜めている。
「あら?」
網戸を開けてモモカの母が顔を出した。突然の物音にきょろきょろと外を眺めている。
「お母さん……若い……」
モモカは若き日の母をしげしげと眺めて呟いた。やがて母の脇からひょっこりと子供が顔を覗かせた。ひょろひょろとした棒のような手脚にぱっと見には男の子だか女の子だか判断が付かないような体。文字通り頭でっかちな体系に、さらに短い髪型と地味な顔立ちと日焼けした肌に、余計に男女の区別が付かない。幼い子供の頃の、モモカだ。
「本当に……私だ……」
六歳のモモカはこの世の理不尽や残酷さとはまるで関係のない無知で無邪気な顔で、母同様に庭に目を凝らしていた。本当に自分が存在していたことに、二十一歳のモモカは戸惑う。
いよいよ、ここが過去の世界であることが現実味を帯びてきた。
「気のせいかしらね」と母がお勝手に戻った後も、小さなモモカは外を見回していた。やがて彼女には大きすぎるつっかけサンダルを履くと庭先に出てくる。
「……あれが、これになるのか」
感心しているのかけなしているのか判断のつかない声音で隣のカカシが言った。
モモカは手だけでカカシの言葉を制す。柵の外をぼんやり眺めていた六歳のモモカが、不意に二人の隠れる生垣に視線を寄こしたからだ。彼女はまるでそこに誰かがいることに気が付いているみたいに、一心にこちら見つめている。黒目がちの瞳は無邪気だがそれ故に、野生の獣を思わせた。二人は緊張し、息を潜めてより気配を殺した。
「モモカ、ちょっと手伝ってちょうだい」
家の中から呼びかける母の声に、助かったと二十一歳のモモカは胸を撫でおろす。
六歳のモモカが室内に引っ込むと、二人は音もなくモモカの生家を後にした。
「あれだけ気配を消していて気付いたとは思えないけど……恐ろしく勘の良い奴だったな」
カカシの言葉にモモカは唸る。その通りだと思った。六歳のモモカはアカデミーに入学したばかりで、チャクラだって満足に扱えないし察知するなど言わずもがなだ。この頃のモモカが既に他人の考えていることを読める“同化”の力を自覚していたかは定かではないが、勘の良さは既に目を見張るものがあったのは確かだ。有り体に言えば、不気味だった。
「私さあ、大蛇丸に気味の悪いガキだって言われたことがあってさ」
唐突に出てきた凶悪犯罪者の名に、カカシは思わず歩みを止める。
「は? 大蛇丸?」
カカシは呆気に取られて目をぱちくりさせている。それが彼を年相応の青年に見せた。
「その時は失礼だなって思ったんだけど……何か今、その意味がよく分かった気がするよ」
カカシは何も答えずにモモカを見つめている。しかし大蛇丸と一体どんな形でモモカが対峙したのか、どんな経緯でその言葉を受けたのか、聞くことはなかった。
「それで、次は?」
カカシは今日、モモカのしたいことにとことん付き合ってくれるつもりらしい。モモカは人気を避けるように川沿いの道に逸れると、土手を下った河原で立ち止まる。ここからもう少し南に下ると、いつかカカシと弁当を食べた河川敷に辿り着くのだ。
モモカは膝を付き両手を地面に付けた。カカシは何も言わずに見守っている。青々とした野芝の柔らかい感触を楽しみながら大地に意識を集中させてすぐに、モモカの顔に隈取が現れた。静かに見守っていたカカシが息を飲む。
「……それは、先生の……!」
先生は四代目火影であるミナトのことを指すのだろう。自来也の教え子であるミナトもまた仙術の使い手であることをモモカはつい数日前に知ったのだが、カカシは見たことがあったらしい。
「……つくづく只者じゃないね」
改めて警戒を強めてカカシが呟く。
容易に里中の者の気配を探ったモモカは、里の東側の一等地に立つ屋敷を目指した。
木の葉の創設期に忍鳥育成の基盤を作り上げ財を成した豪商の屋敷は、モモカのいた世界とそう違ったところが見えない。きっと手入れが行き届いているから、経年による劣化が少ないのだ。
「鳥吉、か」
巨大な屋敷を見上げてカカシが呟いた。木の葉有数の屋敷に忍び込もうとするモモカの行動を止めるような気配はない。
一般家庭のモモカの家よりも遥かに人の目は多いが、緊張感はモモカの家に侵入した時よりもなかった。忍ではない使用人の目をかいくぐることくらい訳なく、妙な勘の良さを発揮する自分と対峙するよりもずっと気楽なものだ。
二階の北側の廊下で空調の吹き出し口からモモカは空調ダクトに上がった。さすがにダクト内部は狭すぎるので、ステンレス製の板を一枚外して天井裏に侵入するとそこから目当ての部屋の上まで這うように移動する。カカシは文句ひとつ言わずに付いてきた。
ほぼ屋敷の中央に位置するこの部屋は広く、会合などにもしばしば使われる。通風孔からそっと下を覗くと光沢のある長机と、それを囲むやはり光沢のある椅子が配置してあるのが見えた。どれも仕立ての良い家具だ。そして椅子のうち二つに座る人影が見えた。どちらも子供である。色素の薄い髪をしたより小さい方の子供は――イクルだ。元々中世的な顔をしていたが小さな体に乗っかる顔は愛らしく、人形のようだ。素朴な風貌のモモカを見た後だから余計にイクルの品のある見目麗しい可愛らしさが際立った。その首筋がまっさらで何の傷もなく滑らかなことにモモカの胸がずきりと痛む。十五年後の彼の首には、木の葉に捕らえられた際に負った火傷の痕があるのだ。
もう一人の人影は六つ歳の離れたイクルの兄だ。和気あいあいと喋る彼らは、どこにでもいる仲睦まじい兄弟に見えた。
「アカデミーの最初のテストで満点だったって、母さんも喜んでたぞ」
変声期特有の掠れた声でイクルの兄が笑う。
「簡単だよ、あんなの」
つっけんどんに幼いイクルは答えたが、隠しきれない嬉しさが滲み出ていた。
「アカデミーって結構のん気な奴らの集まりだよ。忍の勉強をしていない兄さんが受けたって、きっと満点さ」
何でもないような口調の中にも、幼いイクルには既に鳥吉の家の者としての確かな誇りと驕りが見え隠れしている。
「どうだかな……忍の世界は過酷なのは間違いないよ。まあ、イクルは当家から出る初めての忍になるだろうし皆期待しているさ。その分プレッシャーもあるだろうが――」
「ないよ」
食い気味にイクルは答えた。
「僕、平気だよ。プレッシャーなんてないし、むしろもっと色んなことが出来るし、早く色々任されたいんだ。ゆくゆくは家長になる兄さんのことを手伝うためにも――」
興奮気味に喋る幼い弟に、兄は笑う。確かに、イクルの顔はプレッシャーよりも背伸びした使命感に満ちていた。
「あはは、うん。分かってるよ。頼もしい限りだ」
馬鹿にされたわけではないが、笑われたことを恥じらうように目を伏せるとイクルは懐を探る。
「ほら、言いつけを守ってちゃんとこのお守りも肌身離さず持っているし――」
小さな白い手の中に見えたものに、天井裏のモモカは息が止まった。
真っ黒な正方形の物質は、紛れもなく、あの金属だ。チャクラの相互の伝達を可能にするそれは、あと数年後には、イクルの心臓の程近いところに埋められるのだ。
小さな愛らしい手の中、異質に黒光りする金属片を叩き落としたい衝動を、モモカは何とか堪えた。
「ああ、それか――正式に忍になったら、何か秘術を教えてくれるようなことを父さんが言っていたやつだよな? しかし忍でもない父さんが忍術を扱えるはずはないが――」
「きっと、秘術の手ほどきは知り合いの忍の人に頼むんじゃないかな」
不思議そうに首を捻る兄とは裏腹に、イクルの声は期待に弾んでいた。
「父さんは偉い忍の人たちともたくさん繋がりがあるし、この間だって里の重役の人が尋ねてきてたし――」
「大丈夫?」
横から、空調の音に紛れさせてカカシがモモカに聞いた。カカシの表情は平素と変わらぬが、カカシの声掛けによってモモカは並々ならぬ気を発していたことに気が付いた。
モモカは怒りを鎮めるように深く息を吸い頷く。
「大丈夫――もういい、出よう」
二人は音もなく天井裏を移動し、外気の取り込み口から外に出た。
モモカは初夏の空を仰ぐ。気持ち程度の薄く白い雲が点在するのみで、やはりこの里に雨が降る気配はなさそうだ。
「この間のスリの子と、今の鳥吉の子がチームメイトか」
カカシの言葉にモモカはゆっくりと瞬きする。真白い日差しに目がくらんで数秒、カカシの輪郭がぼやけた。
「なんで分かるの?」
モモカの素朴な疑問にカカシは肩をすくめる。
「なんでって、歳の頃が同じだろう。……それに二人を残して同期は皆死んだってこの間言ってたから」
確かに自分で言ったことなのだが、カカシの言葉にモモカは少し気持ちを切り替えることができた。トウキが苦しい生活を強いられていることも、イクルが大人たちの道具にされることも、モモカにとっては許しがたく未来を捻じ曲げたくなるが、それでもモモカの未来に二人は生きているのだ。様々な苦難はあれど、全部乗り越えて、笑い合う未来が待っているのだ。
「次は師にでも会いにいくのか」
モモカは今度こそびっくりしてカカシを見つめる。
「……わあ、よく分かったね。さすが写輪眼の天才忍者……」
「ふふ、今は写輪眼は使ってないだろ」
可笑しそうに笑うカカシの顔を、先ほどとは別の驚きを持ってモモカは見つめた。カカシの背後の新緑が、途端に瑞々しさを増す。臆面もなく自分を見つめるモモカに、カカシは怪訝そうに眉を寄せた。
「……何?」
「あ、いや、笑ったと思って」
モモカも思わず頬を綻ばせて答えた。この世界に来てから、初めてカカシの笑った顔を見たのだ。笑えば年相応の少年に見える。モモカの阿呆な言動でも、十六歳のカカシが笑ってくれるのなら価値があることのように思えた。
カカシがすっと無表情に戻ったから、笑顔を指摘してしまったことをモモカは悔やんだ。
ハヤテは里の南側の第六演習場にいた。チームメイトらしき忍達と顔を突き合わせて手元の書類を熱心に読んでいる。彼らの後方の木立に身を潜めてモモカは若き日の師をしっかりと観察した。
ハヤテの目の下は影になっていて、隈はどうも生まれつきらしい。しかし肌は瑞々しく艶があり、生き生きとしたエネルギーが感じられる。
「……ハヤテ先生」
今は亡き師の、未来ある少年の姿には胸が詰まった。
「今年中忍試験を受けるみたいだな」
特に何の感慨もなくカカシが言った。ハヤテ達が手にしている書類は確かに中忍試験の案内だ。
「……君の知ってる人?」
「いや」
カカシは首を振る。
「見かけたことはあるが、接点はない」
この頃はまだ、言葉を交わすような間柄ではなかったのか。いつ知り合うようになるのだろう。
不意に、ハヤテがこちらを振り返った。六歳のモモカのように何かを感じ取ったわけではなく、ただ手元の書類を読み進めるのに影の位置が気になっただけみたいだ。そのおかげで白っぽい日差しにさらされたハヤテの顔を正面から見ることが出来た。元来溌溂とした雰囲気とはかけ離れた男ではあるが、若さ故の生命力はありありと見て取れる。生き生きとした肌も日に照る瞳も眩しく輝いている。もちろん、毒に肺を侵されて咳き込んだりなどしていない。
ハヤテはすぐに書類に視線を戻して表情は見えなくなる。はらりと、黒々とした髪が額を覆って初夏の風が吹き抜けた。
第六演習場を後にしたモモカはその足で里を北に上った。迷いない足取りで進みながらも、脳裏には若く健康なハヤテの姿が張り付いて離れなかった。モモカが守れなかった者は数多くいるが、その中でも若いハヤテの姿は生々しかった。彼が健康なままで長生きしてくれることを願わずにはいられない。それは、不可能なのだろうか。本当は、自分がこの過去の世界に来たのは、救えなかった命を救うためではないのかとすらモモカは考え始めていた。
相変わらずカカシは黙ってただ後を付いてくる。もしかしたら神妙な空気を纏うモモカを気遣ってくれているのかもしれない。
里の中心を通り過ぎ、さらに東に逸れた地区でモモカは足を止めた。立派な石造りの柵で囲まれた広大なこの区画にはある一族が住んでいる。
里内外に名高い、うちは一族だ。
荒々しい彫刻の施された門は間口が大きく、門番などが立っているわけではない。出入りを制限されるものでもないが、それでも、今になって見れば一区画に押しやられた一族の扱いは異質だった。
モモカは躊躇なくうちは一族の住まう区画に足を踏み入れる。ここで初めて、黙って付いてきたカカシが躊躇うような素振りを見せたが、やはり何も言わずにモモカに続いた。
目的の男がどこにいるか見当は付いていたが、モモカはあえて区画内をぐるっと一回りするように遠回りして歩いた。草花が生き生きとする季節に呼応するように、人々の暮らしも輝いて見えた。活気のある商店。ささやかな人々の営み。子供たちの元気な声。
普通の人たちだ。里の他の人と――いや、国外の他の人とすらなんら変わらぬ、普通の人たちだった。ここには慎ましく生きる人々の平穏で穏やかな日常があるだけだ。
時折、見慣れぬモモカ達を物珍しそうに見る視線も受けた。その視線が余所者としての自他の境界線を物語っている。その潜在意識は一族の絆がどれだけ深いかの証でもある。しかし敵対心があるわけではない。それはある種、里の片隅に追いやられた彼らの、防衛本能である。
それが――、あと五年後には皆殺されるのだ。一族きっての天賦の才を持ち、それ故に底のない業を背負った少年の手によって。
活気のある商店街から住宅地に移り、やがて人気は少なくなり、閑静な神社に辿り着く。南賀ノ神社――つい先日、元の世界でも大蛇丸達とともに訪れたばかりの場所だ。
拝殿に続く短い参道は五月の日差しを反射している。照り返しが柔らかいのはきっと、植えられた樹々の木陰のおかげだろう。参道以外は地面が露出していて、晴天続きのせいかどこか埃ぽかった。葉陰の模様が彩られた参道の突き当りに、うちは一族の秘密が眠る場所で、社に向かって手を合わせる小さな姿があった。イタチだ。五年後に、強い絆で繋がった一族を皆殺しにする男だ。
手を合わせ終えたイタチは隣で大人しく待っていた幼子の手を取った。五年後、イタチが唯一殺すことの出来なかった弟――サスケ。
焦れることなく遅い足取りに合わせて歩くイタチの顔は家族への愛で満ち溢れていた。まだ下忍になったばかりの頃だろう。任務と修行に忙しいはずだが、休日に幼い弟を散歩に連れて出る程の余裕はあるみたいだ。
彼は神社の入り口に立つ見慣れぬ二人組を目にすると立ち止まる。緊張を伴った視線でモモカとカカシをつぶさに観察すると同時にサスケを自身の背後に隠した。
「……何か御用でしょうか」
まだ声変わり前の声だ。モモカから見ればまだほんの子供なのに、彼は素早く視線を四方に散らしてサスケを抱えて逃げ切れるだけの退路を探っていた。瞬時にモモカとカカシの実力を判断して、戦っても到底勝ち目がないと理解したのだろう。それは立派な忍としての習性で、そのイタチの才能が、全てを知った今のモモカには悲しかった。
「怖がらないで大丈夫だよ」
モモカは優しく話しかけたが、これはかえって逆効果だった。
「怖がってなんか」
むっと口を尖らせたイタチはサスケそっくりで、子供っぽい一面がモモカには新鮮で意外だった。冷静で合理的な考えのイタチしかモモカは知らなかったが、どうやら負けん気の強さはサスケに匹敵するみたいだ。
「そっか、ごめん」
徐に近づくモモカに警戒心を強めてイタチは構える。兄の緊張を敏感に感じ取ってか、不安そうな顔でサスケがモモカを見上げていた。
「危害を加えたりはしないよ。ただ一目会いたかっただけなんだ」
「……俺に?」
神経質に確認するイタチの警戒心は、本来褒められるべきものだ。モモカはイタチの正面で膝を付き視線を合わせた。
「そう、君と、サスケに」
想像だにしていなかった弟の名が挙がり、イタチは体を強張らせる。それでも、いつでも攻撃にかかれるその姿勢には頭が下がる思いがした。
「大切なんだね、弟が」
微笑むモモカをイタチは凝視する。完全に恐怖の対象となってしまったようだ。何が何でも守るという意志をひしひしと感じ取って、モモカは幼いイタチとの距離を詰めるのを止めた。これ以上怖がらせたくはないし、忍として完成されたイタチの崇高な忠誠心を見たくもなかった。
「この里は好き?」
代わりにモモカは尋ねた。警戒心を引っ込めもせず、イタチはすぐに頷いた。
「……生まれ育った里ですから」
まるで死刑宣告を受ける受刑者のようにイタチはモモカを凝視している。そのくせ、解答には一片の淀みもなかった。
「そう、じゃあ――君にとっての玉は――……」
言いかけて、モモカは止めた。子供に投げかけるような質問ではない。
モモカの質問の意図が分からぬイタチはモモカを注視したままだ。
「突然、ごめんね」
モモカは立ち上がると踵を返して鳥居をくぐった。カカシはやはり何も言わずに付いてくる。
神社を立ち去った後もずっと、乾いた日差しを通して警戒したままのイタチの気配は伝わってきた。
「子供が子供じゃいられなかった時代なんだね」
うちは一族の区画を後にしてしばらく歩いてからモモカは口を開いた。
「そりゃそうだろう」
当たり前の事実を述べるモモカを胡散臭そうにカカシは見やる。
「――うちはイタチ、恐ろしく優秀な忍でゆくゆくは暗部入りも視野に入れているそうだ」
カカシは知っている情報を口にした。イタチが暗部入りを果たすのはそう遠くない未来のことだ。
黙って頷くモモカの横顔にカカシは察したらしい。
「あいつも……か」
それは「あいつも死ぬのか」ということを指すことくらい、同化を使わないでも分かった。
「すぐではないよ」
モモカは曖昧な返事をする。カカシはさらに確信を得たようだった。つまり、すぐではないが、少なくとも十五年以内にあのうちはの天才少年が死ぬということだ。
五月の澄んだ日差しが里の風景を若苗色にぼやけさせた。すっかり花の散った桜の木の緑さえも、どこか淡く息を潜めている。
「なあ、俺はいつ死ぬんだ?」
何気ないカカシの問いかけにモモカは立ち止まる。目に映る緑と空の境界が曖昧になった。通り抜ける風ははるか遠い昔に吹いたばかりの爽やかさだ。
自分はそのうち死ぬのだろうということを疑っていない――あるいは――望んでさえいそうな問いかけに、モモカはわずかな怒りを覚えた。
「死なないよ」
モモカの回答が意外だったのか、カカシは数度瞬きした後に俯く。
「……そうか」
モモカはもう一段階怒りが膨らんだのを感じた。
「そんな残念そうな顔しないでよ」
カカシは驚いた顔を上げる。モモカに指摘されるまで自覚がなかったのだ。そして、そう思ったことが、あながち間違いではなかったのだ。
「……そんなこと……ないけど」
俯く横顔に、今は年下のこの男に意地の悪いことを言ってしまったことをモモカは後悔した。それなのに、イタチにしたように、素直にカカシに謝ることはできなかった。
幼き日の自分、トウキ、イクル。二度と取り戻せない師。初めて敗北した相手。かつての里長。そして、モモカの生きる道を照らしたはたけカカシという男。
皆がモモカの知らない一面を持っていて、一人一人の人生は連なり生い茂る葉のように数限りがない。けれどそれぞれの確かな重みと青臭い生々しさには眩暈がしそうだ。
故人や、尊敬する忍の知らぬ一面に会うことはまるで、モモカが今まで取りこぼしてきた一つ一つを拾い上げるような作業だった。