朝焼けに輝く里は酷く懐かしい匂いがした


 目を開けると、満天の星空が広がっていた。
 暑くもなく、寒くもない夜の中。湿った匂いも乾いた匂いもしない。風が吹くわけでもなく、しかし時が止まっているわけでもない。
 寝転ぶモモカの両頬をくすぐったく撫でる草や鳴く虫の音、柔らかに包む暗闇の中には、色とりどりの命が息づいていた。
 心地よい気候と虫の音に、ここはきっと、夏の始まりだろうとモモカは思った。
 そしてこれだけ星が輝いているのだから、きっと今宵は新月なのだろう。夜が優しいのが、何よりの証拠だ。月は人々を力強く導くけれど、その一方で全てを暴く暴虐性も持ち合わせている。月の出ない夜を気味悪がって忌み嫌う人も多くいるがモモカにとっては違った。じんわりと広がる闇は暖かく、孤独ではなく自由だ。夜は何より優しく寄り添ってくれることを、モモカは知っていた。

 ここは一体どこだろう? モモカはむくりと起き上がる。
 だだっ広い平原だ。向かって右手の遠くに木々の影が見える他は何もない。朝になればもっと見えてくるものもあるかもしれないが見渡す限りの平原で、そしてやはり月はどこにも見えない朔日だ。
 モモカは確かに第四次忍界大戦の最中にいたはずだった。最前線から少し西に移動した雷の国の外れで、必死に祈っていたはずだった。最後に見た景色は眩い光の世界で、無限月読に飲み込まれる人々を感じながら、人々と大地を繋ぐ糸を紡いでいたのだ。
 そうだ、紡いでいたのだ。俄かにモモカはあの感覚を思い出す。
 なぜ、急に見知らぬ場所に移動してしまったのか。すぐ近くにいたルツツ達はどこへ行ったのか。冬の終わりのはずだったのに、なぜ夏の始まりの匂いがするのか。
 突然見ず知らずの場所に自分だけが移動してしまった異常な事態だが、不思議と焦燥感はなかった。ということは、モモカの本能が差し迫った危険がないと判断しているのだ。

「大丈夫?」

 かけられた声に、モモカは目を見開く。
 振り向くと、月明かりもない夜の闇の中で朧に浮かび上がる人影が立っていた。暗部であることを示す面、露出した肩に彫られた入れ墨と、そしてその男の何より目を引いたのはその夜に映える美しい銀髪だった。
 知っている。モモカはこの男を知っている。
「……カカシ、さん」
 モモカの声が震えた。
 しかし思わず口を付いて出た言葉に、カカシらしき人物は警戒心を露わにした。面を被って表情も見えないが、モモカの他に類を見ない察知能力が彼の緊張を敏感に感じ取った。
「……誰だ? なぜ俺を知っている?」
 モモカは唖然として、目の前の銀髪の男をまじまじと見つめる。この銀髪の男はカカシではない――? しかしモモカは疑問をすぐさま否定した。いや、カカシだ。感じ取ることの出来る気配が、紛れもなくカカシだとモモカに告げていた。しかしそれならばこの違和感はどういうことだろう?
「どこの里の者だ」
 カカシらしき男は尋ねた。問いただしたと言った方が正確かもしれない。その口調には有無を言わさぬ圧が滲み出ていた。モモカはそんな圧を出しながらもカカシの声には大層張りがあり、みずみずしいことに気が付いた。
「……え?」
 質問の意味も目の前のカカシらしき男の得体も分からずにモモカは聞き返す。
「忍だろう、その恰好」
 カカシらしき男が近づいてきた。状況が飲み込めないながらも、モモカは下手な発言をしないよう細心の注意を払った。しかし近づけば近づくほどに男の気配はカカシそのもので、モモカはより一層困惑する。
「……忍? 一文字だけ? なんだそのシンボルは……」
 呆れた声を出す男の目線がモモカの額当てに向いていた。面で表情は窺い知れないが、忍連合軍の額当てを胡散臭そうに眺めている。
 モモカは訳の分からぬ状況を把握しようと立ち上がる。立ち上がり、更に困惑した。なんとカカシとしか思えぬ気配の男は、モモカと同じくらいの背丈しかなかったのだ。
「大方、潜伏任務か――もしくはどこぞの抜け忍が迷子になったってところか」
 ため息混じりに言ったが、彼から警戒心が薄れたわけではないことをモモカは感じていた。
 少年だ。
 モモカは理解した。
 目の前のカカシは、モモカの知っている成熟した大人のカカシではなく、少年だった。モモカと同じ背丈であることを勘案すると少年というのは少し乱暴かもしれない。しかし成長に伴い急激に伸びた背に体格が付いて行っていない思春期特有のひょろりとした体つきを見れば、大人と呼ぶには若すぎることは確かだった。
「……ええと、潜伏任務とかそういう類のものではないし、怪しいものでもないんだけれど」
 モモカは慎重に言葉を選びながら答えた。
「ふうん? とりあえず出身と名を聞こうか。それと、何故俺のことを知っているのかも」
 淡々と、事務的にカカシは聞く。モモカそのものには、あまり興味はなさそうだった。モモカは迷った末、正直に答えることにした。
「モモカと言います。出身は木の葉。なぜあなたを知っているかは……その、ええと……カカシさんは、私のことを知らない、かな?」
 逆に質問で返すモモカに、しばしの沈黙が訪れた。カカシは暗部の面を外すと、真正面からモモカを見つめた。
 モモカは思わず息を飲む。僅かな星明りだけの朧の宵闇の中で、面を外した男の顔が大層美しかったからだ。夜にこそ輝く銀髪、眠そうな瞼の奥の鋭い眼光、整った顔立ち。薄い形の良い唇の下の小さな黒子が唯一、美しいこの男が生身の人間であると主張していた。そして生々しい左目の傷跡と、赤く浮かび上がる写輪眼。
 目と目が合って、この男は間違いなくカカシだと、モモカは確信した。しかし、モモカの知っているカカシよりも遥かに年若いことも確かだった。歳の頃は十五、六くらいだろうか。
「……――悪いが、覚えはないな」
 目を細めてカカシは答える。その表情もまた、モモカはよく知っていた。
「誰かの復讐か? 木の葉の出身というなら何故その珍妙な額当てをしているんだ」
 その口調からは復讐されていることへの慣れと諦めが伺えた。
「……復讐なんか、じゃないよ。この額当ては説明が難しんだけど……」
 モモカもまた、美しい若きカカシの顔をまじまじと見つめて続ける。なぜ、目の前のカカシはこんなにも若く、そして何も知らないのだろう。考えられる可能性はいくつかある。最も高い可能性としてはモモカもまた無限月読の世界に飲まれてしまったことだ。それから、これはあまり考えにくいが、カカシの身に何かが起きて一回りも時間を巻き戻した姿になってしまったということ。最も低い可能性としては、モモカだけが過去の世界に来てしまったことだ。しかし世界広しと言えど、過去に移動する忍術など聞いたこともなかった。
「ねえ、君はいくつなの?」
 モモカの唐突な質問に、カカシは眉をしかめる。そして再び面を付けてその表情は見えなくなってしまった。しまった、これじゃ若い子をナンパしているみたいだ、とモモカは反省した。
「いや、あの、答えたくないならいいんだけど……、もしかしたら私、敵の幻術にかけられたかもしれなくて、あはは」
 乾いた笑いとともにモモカは言い訳する。それと同時に一つの疑問が浮かんだ。ここがもし無限月読の幸せな夢の中であるならば、カカシのこの辛辣な態度はどういうことか。確かに、昔のカカシに会ってみたいと考えたことは少なからずともあるが、無限月読の中ならばもっとモモカにとって都合よく、優しく接してくれてもいいはずだ。
 モモカはふと、こちらを窺いながら近づいてくる気配に気が付いた。
「怪しい者じゃないよ、本当に。ただ自分でもどういうことになっているか全く分かってないんだけど」
 急にカカシの後方を見ながら声を張って喋り始めるモモカに、カカシは訝し気に振り向く。そこには誰もいないが、よくよく集中すると闇に溶ける草むらに潜む気配があった。
「……お前ら、待ってろって言ったでしょ」
 カカシの呼びかけに、音もなく草むらから三人の忍が現れる。いずれも暗部の面を被っていることから、フォーマンセルを組んで行動している暗部の小隊なのだと推察できた。
「気配を隠した我々を、その距離から、隊長よりも速く気が付く――相当の手練れです」
 一番背の高い男が言った。声からしてカカシよりも年上だろう。
「……ま、確かにな」
 カカシは再度モモカに向き直る。
「木の葉の忍って言うならどこの所属だ? 階級は? 幻術にかけられたかもしれないというが、誰と戦っていた?」
 カカシが質問を重ねた。モモカは頬を掻いた。
「所属は……うーん、分からないや。階級っていうなら一応上忍ではあるけど……戦っていた相手は、なんていうか、世界の敵と言いますか」
 全く要領を得ないモモカの回答に、再びの沈黙が訪れる。余計に怪しまれた自覚は十分にあった。
「……幻術にかけられているのもあながち本当かもしれませんね。あるいは、ただの頭がおかしい奴か」
 沈黙を破る声音は幼かった。発したのは小隊の中で一番背の低い忍だ。その気配もまた、知っているものであることにモモカは気が付く。
「……あ、」
 面を被って顔は見えないが、あの背の低い年端も行かない忍は、ヤマトだ。いや、テンゾウか。あるいは、カカシがそう呼んでいただけでテンゾウすらも偽名かもしれない。
「知り合いか?」
 モモカの視線に気づいてカカシは尋ねる。
「え、あーいや……小さいなって思って」
 誤魔化すために放ったモモカの言葉に、小さなヤマトからは陰の気配が感じられた。
「こんな小さい子供なのに暗部だなんて優秀なんだなあって」
 苦しい言い訳だった。
「知りませんね、そんな奴」
 声変わり前のヤマトの声は幼いが棘がある。感情は、モモカの知っている大人のヤマトよりも無に近い。
「……どうします?」
 小隊のうちの、カカシと同じくらいの背の忍が聞いた。
「うーん、害があるならここで尋問してそれなりの対処をすべきだが、これ以上、聞き出せそうもないし。問題は火の国の内部で怪しい奴がうろついてるってだけで、わざわざ里に連れ帰るのも、なあ。……放っておくか」
 カカシの言葉で、ここが火の国であることをモモカは知る。
「ねえ、具体的にここはどこら辺なの? 自分が今どこにいるのかも把握できてなくて……良かったら、里に一緒に付いて行ってもいい?」
 突然の申し出にカカシは面越しにモモカを冷たい視線で刺す。
「連れてく義務はない。付いてくるというのなら、こちらもそれなりの対応になる」
 それなりの対応とは、里に付いたら尋問を受けるということだろう。
「もっとも、付いてこられるなら、ですけどね」
 年長者の忍が言った。類稀なる察知能力を見せたモモカを警戒しながらも、まさか能天気な目の前の女が、暗部の精鋭達の速度について来れるとは露ほども思っていないみたいだった。
「……そうだな」
 カカシはもう一度モモカを観察して頷く。
「今ここでお前が何者かは詮索しない。付いてくるのも自由だ……俺らはお前に速度を合わせることはしないが。しかし付いてくる以上は、里に着いたら身柄を保安部に引き渡し、対応は火影様の判断に委ねるぞ」
「うん、それでいいよ。ありがとう」
 モモカは朗らかに返事をして手を差し出した。握手を求めるその手をカカシが握り返すことはなかった。忍として当たり前の警戒心だが、こっそり心の内を読もうとしたモモカの考えは失敗に終わった。


 木の葉に向かって出発してすぐ、暗部の小隊の全員がモモカへの認識を改めた。暗部精鋭のスピードにモモカが当たり前に付いてきたからだ。余りにも平気な顔をして付いてくるのん気なくノ一に、ついムキになって後半はかなりの速度を出していた程だった。
「ペースを落とそう。変なところで張り合って、いらないヘマをしたら本末転倒だ」
 隊長然としてカカシは冷静だった。小隊のメンバーは渋々速度を戻した。
 ちょっと疲れた顔を見せるべきだったか、と思いつつもモモカはカカシに並んだ。モモカが付いてくることに関して諦めたものの、気を許しているわけではない、むしろより一層警戒心を強めたカカシは冷たい視線を寄こす。
「さっき火影様に判断を委ねるって言ったけどさ、今の火影は何代目なの?」
 モモカの質問にカカシはすぐには答えなかった。モモカが本当に幻術にかけられている状態なのか、それとも記憶喪失の類なのか、あるいは飄々と嘘を付いているだけなのか判断しかねているようだ。
「三代目だ」
 カカシの答えにモモカは少し考える。現火影がヒルゼンなのは、四代目にその座を譲る前なのか、または一度は譲ったが九尾事件の後で戻ってきたのかは現時点では判断が付かない。
「そう……そっか」
 東に向かって走っているらしく、やがて正面の地平線が明るくなってきた。遠くに、うっすらと木の葉の遠景が見えてようやくモモカは自分の現在地を把握する。ここは木の葉から西に約五里、モモカ達が下忍承認前に違法な裏任務を受けていた斡旋所から少し北に上ったくらいの場所だ。
「今、何時かな」
「……四時半くらいだろう」
 声は冷たいものの、モモカの疑問に無視せず答えてくれるカカシにモモカは秘かに心沸き立つ。年若くても、どれだけ疑惑の視線を向けられようとも、やはりモモカはカカシが好きだった。
 現在地と日の出時刻が分かれば大体の季節が分かる。今は五月の中頃に違いない。
「ええと、何日かな、今日は」
「……キオクソーシツってやつ?」
 胡散臭そうな声を出すカカシに、色々聞きすぎたかとモモカは後悔する。
「十日だよ。五月の十日」
 しかしすぐさま答えてくれた(それも日にちだけでなく月まで教えてくれた)彼に、モモカはまたしても淡いときめきを覚えた。
「えへへ、ありがと」
 照れくさそうに笑うモモカを、カカシは心底理解できないという顔で見ていた。

 木の葉の西門はモモカもよく知っている面構えだった。里に出入りすることができる門のうち、東門、南門と続き三番目に大きな門だ。門番として二人の忍が立っていたが、その姿を認めてモモカは思わず息を飲んだ。知らない忍だったけれど、二人のうちの一人がうちは一族だったからだ。
 暗部の小隊に見知らぬくノ一を加えた一行を、門番の忍達は訝し気に眺めていた。
「川の国との国境付近で倒れてたから心配して声をかけたんだけどさ……木の葉の忍だって言い張るんだよね――」
 カカシがモモカについて説明するのをぼんやりと聞きながら、うちはの家紋を背負う男の顔をつぶさに見つめる。知らない男だ。だがうちは一族の男だ。そう、イタチによるうちはの粛清が起こったのはモモカが十一の時で、今はそれより前なのだ。つまり、この男はあと数年後にイタチにより殺され、この世からいなくなるのだ。
「……何か?」
 名も知らぬうちはの男がモモカの視線に気づいて尋ねる。今日初めて口をきく男の行く末を思って胸が詰まるのは、里を創った初代火影から悲劇の一族の運命を聞いたばかりだからだろうか。モモカは何でもないというように首を振ってみせた。
 今は、この世界は、いつなのだろう。うちはの事件まであとどれくらいの時間があるのだろう。九尾は既にこの里を襲った後だろうか。この世界を巻き込む未曾有の戦争までの猶予はいかほどなのだろうか。
 ここが過去なのだという確信を得られないながらに、モモカは西門の立派な柱を駆けのぼっていた。下方から慌てて呼び止める声がする。聳え立つ立派な門をするすると登り、モモカは難なく頂上に辿り着いた。

 今しがた話していた忍が豆粒に見えるほどの高さに到達して見た里は、確かにモモカのよく知るものだった。ペインに破壊される前の、モモカが生まれ育ち、多くの思い出を作ってきた里だ。
 西門の眼下に広がる田園風景も、その奥の古い住宅地も、さらに奥の公営施設の固まる地域も、よく知っている。あの路地を左に曲がってしばらくすると茗荷通りが伸びていて、陽気な看板をくぐると賑やかな店が軒を連ねているのだ。そのうちの一件の地下には陰気な女が受付をする、里の出入りを違法に斡旋する店がある。一方、里の反対側の、さらにずっと南側に下った地区には陰気な親父が営む不動産屋がある。ここもまた、違法な営業を裏で続ける昔からの場所だ。さらに右手奥には六丁目の古い住宅地が広がっていて、後から継ぎ足したような複雑か建物は背が高く、花火大会の際の穴場であることをモモカとカカシだけが知っていた。
 朝焼けに輝く里は酷く懐かしい匂いがした。
 朝日を浴びて金糸雀色に照る火影岩は四体である。初代柱間から四代ミナトまで。若いカカシは先ほど、現火影は三代目であると言った。それが偽りではないのなら、つまり、ここは九尾襲撃後の里ということだ。

「……九尾の襲撃は、何年前だった?」
 あっという間にモモカに追いつき、背後に立ったカカシに尋ねる。
「あまり勝手な行動をするなよ」
 モモカと同じ背丈をして、モモカには計り知れない使命を背負って、感情を殺しきった忍としては真っ当な顔で、彼はモモカの肩に手を置いた。
 瞬間、カカシの思考がモモカに流れ込んでくる。
(やはりこの速さ、あなどれない)
(記憶が曖昧なのも本当かどうか)
(里に仇なす存在ならば、処分するまで)
 モモカはそっとカカシの手を取り、自身の肩から退かした。夏の気配を告げる爽やかな風がモモカの頬を叩く。モモカの微妙な表情の変化に感づいてか、カカシがじっと見つめている気配がした。
「……三年前だ」
 カカシは表情には心のうちなど微塵も見せずに答えた。九尾事件から三年後なら、目の前のカカシは十七になる年で、誕生日を迎える前の今は十六歳だ。
 そして触れた対象の思考を読めるということは、モモカの同化能力が使えているということだ。ここが無限月読の幻術の中なのか、はたまたモモカが過去に飛ばされたのか、あるいはモモカの見る走馬灯なのかは分からない。分からないけれど、自分の能力と、そこから触れる他人の心には、根拠のない信頼があった。こころは、本来、嘘を付かない。偽りなく、透明で、無垢なのだ。今この里を照らす朝焼けのように、光と影を産みながらも、驕りも偽りもなくそこに存在するだけなのだ。
 一番大事なカカシの心に、土足で踏み込むことはしたくなかった。





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