柔らかな髪にそっと顔を埋めてみれば、なにやら分厚い本に視線を落としていた小夜子はぱちくりと瞳を瞬かせ、甘えてくれて嬉しいですと微笑んだ。本を閉じようとする手を制し、続けてくれて構わないと御剣はゆるりと首を振る。お互いの髪がさらさらと揺れ、くすぐったい。首筋や耳の裏を撫でていく度に身を捩りながら笑い合った。
文化祭ではたりと出会い、言葉を交わし、静かな告白を受けてから、二人はなんとなく共に暮らし始めた。勿論、御剣にとってはなんとなくどころか極めて衝撃的な展開であり、むしろ擬似家族体験ですよと普段通りの笑みを浮かべた小夜子の方が奇天烈というか、肝が据わっているというか、そのようなあれであったわけなのだが。
仕事中だけでなく、朝も、昼も、勿論仕事の関係でマンションに帰れない日があるけれども、それでも一緒に過ごす時間がぐんと増えたことに対して当初はぎこちなさが目立った御剣も、今や小夜子を抱き締めて眠るようになり(実際は逆だが)すっかり慣れたご様子だ。付き合い始めてから暫くは、手を繋いだり隣に座ったりだの、そういった比較的ささやかな行為にも恥じらいを覚えていたというのに、歳が離れているせいか、それともそれなりに御歳を召された人間に現れる人肌を恋う気持ちが彼にも芽生えたのか、そっと、こうして触れ合う回数も多くなった。特に目的もなく小夜子の髪を梳いてみたり、今のように何を話すわけでもなく、静かに寄りかかってみたり。職場での彼とはとても同一人物に思えないと、以前、彼の親友兼好敵手も笑っていた。
この部屋にある時計はデジタルであるから、当然ながら秒針が刻む音はせず、ただただ静かに時間が流れていく。小夜子の指がページを捲る音と、御剣の穏やかな息遣いと、僅かに開けた窓からの向こうから届く車のクラクションや人々のざわめき。休日のお昼後ということもあり、外は普段よりも賑やかだ。
「…何の本だね」
首だけを僅かに動かし、開かれたページを覗き込む。またもや皿が一枚足りないだの足を返してくれだのこの世は戦国だの、そういった内容のものかとも思ったが、一目見た印象ではどうやら参考書の類らしい。所々に赤、青、緑のラインが引かれ、やけに大人びた文字でちょこちょことヒントらしきものが書かれている。
「これですか?SPIの本ですよ、ほら」
「小夜子君、一般企業を希望しているのか」
「いいえ、別に。お前は根性が捻くれているからこれをやりなさいって、父が送ってきました」
「…そ、そうか」
そういえば。御剣は顎に手をやる。小夜子が大学に通っていることは当然ながら知っているが、そこがどのような場所なのか、何を専門に学んでいるのか、将来はどうしようと考えているのか、聞いたことがない。彼女に関する事柄ならば興味がない筈がないのだが、おそらく、勉学に励んでいる様子を一度たりとも見ていないからだろう。自分と付き合い始めてから疎かになってしまったのかとも思ったが、思い返してみれば出会った当初からそうだったような気がする。いや、その通りだ。そもそも大学に行っているのだろうか。気付けばいつも隣で書類の整理をしていたり、手作りの菓子を振舞ってくれているが、出席日数の方は如何なのだろう。
「…小夜子君、君、大学には行っているだろうな」
「なんですか、いきなり。行ってますよ、勿論」
「そうか…。いや、よく私の執務室にいるものだから」
「だって卒業単位はとっくの昔に足りてますし。卒論とか、ないですし」
「ほう。…成績は、どうなのかな」
「な、なんでそんなじっと見るんですか!まさか、おつむの弱い子だと思ってるんですか?失礼ですね、悪くはないですよ」
良くもないのだな。もう少しで出てしまうところだった言葉を飲み込み、御剣は一つ溜息をついた。まあ、そんな気はしていたのだが。腕を回し、慰めるように髪を撫でる。
「就職活動は、そうですねー、父に頼んで怜侍さんの正式な雑用係にしてもらおうかな、なんて」
「ああ、君のお父上か。…やけに偉いという、噂の」
「一歩間違ったらマフィアですよね」
「い、いや、自分の父親をそのように言っては、いけないぞ」
「はい」
「それと、妙なところで自分を卑下するのは止めなさい。雑用係ではなく、せめて秘書と言うように」
「はーい」
聞いているのかいないのか、わかっているのかわかっていないのか、どちらともつかない、ただ楽しそうな声で小夜子は笑い、ぱちりと携帯電話の画面を開いて現在の時刻を確認した。午後二時四十三分。家事は午前中に大体済ませてしまったから、今から何をするでもないだろう。画面を閉じ、少し傾いて体重を御剣に預け、もう一度画面を開いた。待受画面では子供のパンダがのっそりと動いている。以前、御剣さんのお写真を待受にしたいですとせがんだのだが、恥ずかしいから勘弁して欲しいと却下されて以来、丁度パンダブームが個人的に起こったこともあり、この中華風なイラストのままになっている。もう一度だけじっと視線で訴えてみたが、僅かに頬を染めて首を振られてしまえば何も言えない。わかりましたようと呟き、テーブルの上へと置いた。
「…怜侍さんのお傍で働きたいです。迷惑でなければ、ですけれど」
「だから、何故そのように自分を…。私が君を迷惑に思う筈がないだろう」
「でも、何かあったら気まずいじゃないですか。お仕事に私情を持ち込んだら、どこかの糸鋸さんみたいにお給料減らされちゃいますもの」
「…私がいつも減らしているような言い方は止めてもらおうか」
「ですから、難しいなあと。やりたいことは一応ありますけれども、それは老後にしなさいと、父にも、皆にも止められちゃいましたし」
「人の話は最後まで聞くべきではないかね」
「だからまずは、怜侍さんをお婿さんにするところから始めようかなー、なんて」
「…なっ!?」
いつも、こうだ。この子はなんの脈絡も無く大胆な発言をする。心臓に悪いから止めてくれと何度も言っているのに、本人にとってはそれほど大胆でもなんでもないのだろう。自分ばかり真っ赤になって、咳払いばかりして、慌てている。なにやら無性に悔しくなったので軽く頭を叩いてやると、ぎゃふんとわざとらしい声が聞こえた。
「ど、どうしたんですか」
「どうしたもこうしたもない!」
「あの、一応、申し上げておきますけれども、プロポーズはこれが初めてじゃ」
「ううううるさい!静かにしなさい!」
「さっきご自分で人の話は最後まで聞くものだって…」
「き、聞いていたのかね…!」
「あ、無視したわけじゃないですよ!」
申し訳なさそうに言われても困る。さっきはちょっと熱が入ってしまって、怜侍さんを無視するなんてそんな酷いこと私はしませんからね、怒らないで下さいね、怒ってないですよねと、どうやら先程、自分の言葉を遮ってしまったことに対して怒られていると勘違いしているらしく、眉をハの字に下げて早口で詫びる唇を掌で塞ぎ、静かに首を振った。君が悲しい顔をする必要はないと告げながら。
「君の未来は、その、楽しそうだな。…色々と」
「勿論ですよ。怜侍さんがいらっしゃいますもん、ね?」
「う、うむ、まあ、私も君の傍にいたくないというわけではないからな、一応、考えておく価値はあるだろう」
「またそうやってよくわからない言い回しをする…可愛いですね、怜侍さん」
む、と顰められた眉間を人差し指の先で伸ばし、癖になっちゃいますよ、でもそんな表情も好きですけれどと小夜子は笑う。驚いたように目を開いた瞬間、グレーがかった髪に手を伸ばし、唇を唇で軽く塞ぐ。ぱっと離れ、間近で悪戯っぽく笑えば、むむむと悔しそうな表情を浮かべながら、御剣からもゆっくりと口付けが贈られた。
(…取り敢えず、君が隣にいてくれれば、それで、)
20081120