「雪が、綺麗だねぇ…」


甲斐で雪が降ることは珍しくはないのだが、その日はやけに輝いて雪が降っていた。ほぼ万年床と化しているのに布団はいつもふかふかで、寝ても全く苦ではない。いや、病床の間違いか、と笑みがこぼれた。

「なまえさま、いかがなさいました?」
「いぃえ、何でもありませんよ」

側付きの女中のお菊が、ふふと笑いを零したなまえに気付き声をかけてくる。
布団の側に盆を置き、薬と白湯を渡す。受け取り、飲み干す。この時、歳を取ったなぁとなまえはしみじみ感じるという。喉に薬が張りつきやすくなった。いつも通り、けほっと咳を出す。お菊が少し慌てて注いでくれた白湯を飲み、事なきを得る。
一息をついたなまえにお菊もほっとしたように胸を撫で下ろす。そんなお菊に笑いかけながら、なまえはまた庭へと目を配る。


思えば長く生きたものだ。
最初はこんなにも長く生きるとは思っていなかった。人生五十年と言われる中、数年前に喜寿を迎えた。息子に聞かれると怒鳴られてしまうが、無駄に生きたなぁと考えるのだ。でもそのおかげで息子の晴れ姿を何度も何度もこの目に焼き付けることが出来たのだから、無駄に生きた甲斐があったというもの。

髪の毛の色素は抜け落ち、そこそこ傷んだ髪の毛が風で揺れる。
肉や脂肪は落ち、骨と皮だけではないのかと思うような手で、目の前を風に舞う髪の毛をすくい取る。



「なまえさま、お体に障ります」
「この年になって、障るも何もないよ。大丈夫、むしろ庭に下りてもいいかい?」
「駄目に決まっています。ここ最近、あまりお体の調子もよろしくないですのに…」
「そろそろ死に時なのかもしれないよ?」
「なまえさまっ!」
「ほほ、そう怒らないで。耳が痛いわ」


キラキラと輝きつつ降る雪。
昔、我が子が幼い頃に見た雪のようだと、なまえは目を閉じる。

あの子が初めて雪を見た時のことは今でも昨日のことのように思い出せる。むしろ、実際昨日あったことの方が覚えているか危うい。

ははうえ、ははうえと舌ったらずな声で呼ばれて頬が緩んだ。
楓の手に引かれ、庭を走り回った。そのあと、女中たちに怒られたが二人して顔を見合わせ笑った。



「懐かしいねぇ……」











「なまえさま?」























城に怒声が響く。
低い声が城全体を揺さぶる。

「何故すぐに知らせなかった!!!」
「も、申し訳ございません!ですが、なまえさまのご命令なれば…!」


信玄は女中の言葉に舌打ちをする。
いや、この場で押し問答する時間が惜しい。そのままドカドカと音を立てながら、目的の部屋へと向かう。


母の危篤。



いくら合戦中であったからとはいえ、危篤を知らせぬとはどういった了見なのか、問いただせばそれは母の言いつけであったという。


"いいかい、私に何かあってもあの子が城に帰ってくるまでは絶対に知らせてはいけないよ"


母にどのような思惑があったのか知らないが、子どもとしては堪ったものではない。
母親っ子であった。言われずとも自覚している。

全てにおいて、自分の側には母がいた。絶対的な安心感。

その母が、いなくなる?




「母上!」
「お館様、お静かに願います!」

駆け付けた部屋にはいつもの場所に布団を敷いて横たわる母の姿があった。
どうしてだろう。いつもと同じはずなのに、危篤と聞いただけでこれほどまでに存在が儚く見えてしまうものなのだろうか。
かかりつけ医に怒られ、そっと布団へと歩み寄る。

「母上…?」
「どこも異常は見受けられません。おそらく…」


かたわらに座り、なまえへ手を伸ばす。
すると、眠っていたなまえがふと目を覚まし、信玄を見る。その眼は弱弱しかったけれど、信玄の大好きな母親の瞳だった。
信玄をしっかりと見つめ、そしてふわりとほほ笑む。そのほほ笑みは、小さい頃からずっと見てきた母親の笑みだった。

なまえが口を開き、何かを言おうとしていたが、もう声にならずただ掠れた音が小さく聞こえてくるだけだった。信玄が耳を近づけ、一言、聞き取った。

驚き、なまえの顔を見た。

両方の閉じた瞼から涙が流れていた。


なまえを見つめる信玄の見開いた瞳から止め処なく、涙があふれ出ていた。






"愛していますよ"





なまえは とても安らかな顔をしていたらしい。