廊下を歩く音だけが響く。革靴独特の響きを持ったその音の反響が嫌に耳に残る。
そうだ、前は一つの音じゃなかった。戦闘用のブーツの足音も一緒だったのだ。

ボルサリーノは自然とうつむいていた視線を前へと向けた。
この辺りにはあまり海兵たちも寄り付かない。大将クラスの私室が集まる場所は近寄りたくないものだ。そんな場所に好き好んで近寄ってくる馬鹿もいた。ボルサリーノはふいにその馬鹿を思い出し、眉をひそめた。
馬鹿の名前を名前といった。クザンの部下で、やれ後処理や、やれ連れ戻しなどを任されていた。それだけクザンとの相性がよかったのだろう。本人は面倒だと愚痴っていたが、その顔には仕方がないんだから、という暖かい感情が隠されもせずにいた。何故クザンの部下とボルサリーノに面識があったのか。ボルサリーノと名前は、よく鉢合わせしていたのだ。クザンの部屋に行く途中、クザンの部屋から帰る途中。ボルサリーノを見つけては、駆け寄ってきた。副官に近い仕事をしていながら、副官ではない、その男を、クザンのものであると知っていながら、ボルサリーノは好いていた。
海軍の三大将と呼ばれる男が女々しくも、男に惚れていた。
少しでも名前との時間がほしくて廊下の気配をよく探っていた。一言二言言葉を交わすだけでよかった。
「あ、ボルサリーノさん!お疲れ様です!」
「お疲れ〜。名前も大変だね〜」
「あはは、本当に。でもまぁ、仕事ですし」
自分に向けられた笑顔で頬が赤くなるのを必死に殺していた。年を取ると無駄にプライドだけ高くなっていく。そのプライドに邪魔されつつも、ボルサリーノは名前のと関係を少しずつ築いていった。
求めるものは恋人としての立ち位置だったが、おそらくそれは無理だということも理解していた。プライドだけではなく、無駄に察しがよくなったり、理解力がついたりもするのだ。本当に、年は取りたくない、とボルサリーノは自嘲する。

「俺、ボルサリーノさんの手が好きです」
ボルサリーノの手を撫でながら、そうポツリと呟いた名前に酷く動揺した。
「暑すぎず冷たすぎない。丁度気持ちのいい、暖かいボルサリーノさんの手が、俺は一番好きです」
三大将のあとの二人の能力のことを言っているのだろうか。ボルサリーノの能力とて戦闘に重きを置くには重宝されてしかるべきだが、どうなのだろう。名前の言うところであるならば、恐らくボルサリーノの手は、一番遠いところにあるものだ。
それでも、名前が優しくそう言うから。そうだ、全ては名前が悪いのだ。
「クザン〜。名前うちに頂戴よ」
そう口走ったのは全て、名前のせいだ。
クザンからの返答は思っていた通り、NOだった。大切な部下をそうホイホイやれるかってーの。
予想通りの返答だったのに、思った以上に傷が大きく生成されていた。馬鹿だなぁとボルサリーノは思う。傷つくことが分かっていたなら何故行動に移した。馬鹿だ。本当に、馬鹿だ。
それ以降、少しだけ名前の笑顔を見るたびにズキリと、痛みが生じるようになった。











「さよらなです」


残ると思っていた。
サカズキとの決闘でクザンが敗れ、海軍を去ることになっても、名前は海軍に、ここに残ると思っていた。名前の正義は、ここにあると思っていたのだから。でも、違った。名前の正義は、クザンと共にあった。
珍しく、動揺が隠せなかったボルサリーノの様子に苦しそうに、寂しそうに笑みを浮かべる。いつものように顔が熱くなるような笑顔ではない。違うのに、胸に生じる痛みだけは同じだった。
「ボルサリーノさんの手、大好きです」
だったら、どうしてここから出ていこうとするの。
「でも、俺はあの人の手を温めたいんです」
冷たすぎるあの人の手を、温められるのは俺だけだから。
色々な感情が激流のようにボルサリーノの中を流れていく。怒涛の勢いにボルサリーノ自身の処理速度が追い付かない。そうしている間にも名前は頭を下げ、立ち去っていく。「すみません。では、俺はこれで」
待ってよ、とその一言が出てこない。それはプライドのせいか。察しがいいせいか。理解力のせいか。
恐らく、体のせいだ。
声が、言葉が喉に張り付いて、出てこようとしない。
どうした、動け。今動かないでどうするんだ。頼むから。一言でいいんだ。待ってほしい。だってさ、まだ君に言ってないことがあるんだよ。
ボルサリーノの思いは言葉にならなかった。言葉にならなければ、背を向けている相手にどうして伝わるというのか。無情にも、そのまま名前の姿は扉によって隠された。
立ち尽くしたボルサリーノの体を月明かりが出らしていた。いつもいるはずの私室がやけに広く感じた。月明かりだけなのに電気をつけているような明るさだった。その日、名前はクザンと共に海軍を去って行った。
部下がその情報をボルサリーノの元に持ってきたのは、ボルサリーノが名前を気に入っていたと知っているからだろう。座っている椅子の冷たさに脊髄が震えた。

元々名前が自分の部下であったなら、クザンと関わることもなかったのだろうか。
名前に好きだと伝えていれば、名前が自分のものになっただろうか。
自分がヒエヒエの実を食べていたなら、名前は自分の手を温めようとしてくれたのだろうか。

どう足掻いても、どうしようもなかった。(愛したのは、自分ではなかったのだから。)
サングラスの奥で薄い膜がボルサリーノの瞳を覆った。