黄煙が揺れたなら
まん丸の月みたいな完璧な色形をした目玉焼き。程よく焼けたトースト。それから、焦げ色の着いたソーセージが背中を曲げて皿の上にころがっている。皿の隣を見れば、繊細な模様の描かれたカップにティーが注がれている。少し色の濃い、味の強そうなティーだった。
ウィズリーはそれらが減っていくのを呆然と眺めていたが、そのうち眉を寄せて訝しげに顔を顰めた。
なんて言ったって、完璧な朝食なのだ。まるで金持ちの休日の一片みたいな光景。穏やかな雨上がりの朝みたいな、何の変哲もない一日みたいな。目の前で流れていく日常の一頁にウィズリーは酷く困惑していた。
何せ、本日は探偵と共に事件現場の捜査を行う予定の筈だ。予定の地下鉄まではまだ少し時間があるとはいえ、これから事件の調査だと言うのに例の探偵は優雅に朝食中である。助手もそれを咎める様子はないし、朝食の用意をしたのは助手だ。目の前の光景は、正しく「のんびり」である。これから事件の捜査なのに、数十分後には地下鉄に乗らねばならないのに…。
不安が募るばかりだ。まさか、流石にのんびりとしていて乗り遅れるなんてことは無いだろう。それに今日の予定を忘れた訳ではあるまい。そう考えていても目の前で繰り広げられた日常風景に思考が絡まり、ウィズリーは一人事務所の隅で頭を抱えた。
「どうかしましたか」
そんな刑事の様子を気にかけてか、探偵の助手は尋ねる。
「いえ。何も…」
しかし、小心者の刑事が探偵に対し、のんびりしないでくれと声を掛けられる訳がない。時間も(余裕は無いが)まだある訳だし、別に準備を急がせるつもりもない。
これがこの人らの普通なのだろう。助手だってきっと、これがいつも通りだから口を出さないだけだ。気にするだけ無駄だ、気にする必要は無い。間に合うさ、大丈夫。
そう自身の精神を宥めることに徹していたウィズリーだったが、いつの間にか食事を終えていたサミュエルがその様子を見て口を開く。
「さて、これから地下鉄に乗り事件現場の捜査へ向かう。間違いないよね?」
「え、ええ。その通りです」
その返事を聞けば、サミュエルはいつも通りそっと笑ったような顔をした。そのまま席を立って、近くに掛けられていた外套を手に取る。
食器を片付けていたマーリンもそれを終えればサミュエルの元へ戻って来た。窓の外に目をやったあと、上着を羽織る。
この季節とは言えど、雨上がりの外は随分と冷えていた。事務所に来るまでの道を歩いている時、ウィズリーは何度かもう少し厚着をするべきだったと後悔したのを思い出す。昼間にはもう少し暖かくなっているといいのだが。そう思いつつ、もう外出の支度が終わっている探偵たちを横目に見た。先程はあんなにのんびりと朝食を撮っていた筈なのに、随分と切り替えが早い。
やはり不安は杞憂だった。安堵の息を吐いてから、外への扉へと足を進める。
「それでは向かいましょうか、オフィリア・パレスへ」
*
想像していたよりも、空気は随分とつめたかった。風がひんやりと頬に張り付いて、僅かな湿気で髪の毛先が湿る。数日前のベタつく暑さの風なんて影もなかった。やはり上着を羽織って着て良かった。そう思いながら、マーリンは自分よりも少しだけ背の高いウィズリーの背中を追う。
ようやくオフィリア・パレスに到着すれば、すぐに何人かの警察が目に入った。
ウィズリーは一人に駆け寄る。
「デール、私です。なにかありましたか?」
「いえ、…何もありませんでした」
「怪しい人物の報告などもありませんでしたか」
「ありません。駅と宿で調査を行いましたが、駅員は見知らぬ人間の行き来は無かったと言っております。宿には身元の分からない人間は誰もいませんでした」
報告を受けたウィズリーは困ったように小首を傾げていたが、やがてこちらへ振り返り駆け寄ってきた。
「周囲で怪しい人物の報告は無かったようです、宿も、駅も。まあ、駅や宿を使用しなくとも歩いて来て人目につかない宿に泊まったという場合も考えられますが...」
「そうだね。ところで、昨日の庭の小道と言うのはここかな?」
「ああ、はい!」
ウィズリーはすぐに小道の前へと移動する。そうして道の右側に目線を向けながら続けた。
「足跡があったのはこの、花壇の間の細い隙間の草地です。こちら側に足跡がありました。今はもう跡が見えませんが…」
サミュエルは少し屈んで道を見つめる。左右の草地を見比べてから「犯人の女性は慎重に足を進めたに違いないだろうね」と告げる。
「こちら側を踏めば道の上に足跡が残っただろうし、反対側なら柔らかい花壇だからもっとはっきりと残った筈だ」
「ええ、その通りだと思います。彼女は冷静だったに違いありません」
サミュエルはそれから、不意にウィズリーを見る。片眉を上げてどこか意味ありげに尋ねた。
「それで、君は彼女がここを通って戻ったはずだと言ったよね」
「え、ええ。他は考えられないので...」
「この狭い草の帯を、ね」
「そうです」
「ふうん、なるほどね」
ウィズリーの言葉に含み笑いするようにして返事をしたサミュエルだったがその意図は刑事は勿論、助手ですらも理解することが出来ない。何を考えているのか検討もつかないような、口角が上がっただけの笑顔。皮膚に貼り付けられただけのおかしそうな顔に、ウィズリーは逃げるように目を逸らす。サミュエルはどうやら"女性はここを通って戻った"という考察について気になっている様子だった。
「さて、道はもういいや。次に行こう」
その声を合図にサミュエルは庭の小道を進む。
「庭の扉は普段開けっ放しだったようだね。だから、犯人が侵入することに困難はなかった訳だ」
裏口の戸を開けて、続く廊下へと足を踏み入れる。床に茶色の織物が敷かれているのが、一番初めに目に入った。
サミュエルはそれを見つめてから何となくといった様子で織物を軽く踏む。靴先で触れただけだった。固い縄が擦れるような音が少しだけした。
「犯人は殺人を犯すつもりなんてなかった。最初から殺人を犯すつもりであれば、書き物机からナイフを取るなんて行動しないね。自分でなにか武器を持ってきたはずだよ。」
「…なるほど」
「さて、彼女はこのシュロの織物の上をなんの痕跡も残さず進んだ。廊下を突破して、書斎へ入ったんだ。書斎にはどれくらいの時間滞在していたかは判定する術がないけどね」
「ああ、それについてはシャムロックさんに伝え忘れていた内容があります…」
ウィズリーは申し訳なさそうに肩を竦めながら続ける。
「書斎に滞在していたのはほんの少しの時間だったそうです。家政婦のクリスティーナ夫人がちょっと前までそこで整理をしていたようですので。彼女は十五分程前だと言っていました」
「へえ、なるほどね。十五分が上限って訳だ」
サミュエルは遠慮なく書斎へと足を踏み入れた。
部屋に並ぶ家具はどれもこれもがオールドな雰囲気のものばかりだ。マホガニーの色をしていて、さらに表面が艶めいている。ニスが塗られているためだ。
そのままナイフが取り上げられたと言う書き物机の側まで寄って、机の様子を観察する。机の上ある置物やペンなどは、何か特別な調度品なのだろう。そのどれもこれもが綺麗な模様がついていたり、見ただけで触れるのを躊躇するくらいには高級な雰囲気が伺える。最も、サミュエルはそれを気にする様子はなくいたって平然と調度品を調べていたが。
「犯人はこの部屋に入って何がしたかったのだろうね。調度品が減っている様子はないんだろう?」
「はい」
「机の引き出しの中のものでは無いね。彼女が持っていくに値するものが入っているなら、日常的に鍵がかかっている筈だし」
そう言ってサミュエルは書き物机の引き出しを引けば、いとも容易くそれは開いた。鍵がかかっていない事は明白だ。
机への興味が消えたらしいサミュエルが、引き出しをそのままに隣のタンスへと目を移した時だ。サミュエルは「おや」と興味深そうに声を上げる。
タンスには真鍮細工の鍵穴があり、その右端から四センチ程伸びて、そこでニスの表面に引っかき傷を作っていた。
傷をまじまじと確認してから、サミュエルは次にウィズリーを見た。
「タンスの表面に引っ掻き傷があるね。刑事さんはどうしてこれを僕に教えてくれなかったのかな?」
ウィズリーは蛇に睨まれたみたいに一瞬身を硬くしたが、緊張したように何とか口を開いた。
「その傷には気付いてはいましたが、鍵穴の周りに傷はつきものです。ですので、報告する必要がないかと…」
「…なるほどね。君のために説明してあげよう。この引っ掻き傷は新しい、ごく最近のものだね。真鍮の傷の輝きを見てくれる?もし古い傷なら、この抉られた部分は表面と同じ色をしているんだよ」
サミュエルは徐ろに書き物机の調度品の中からひとつ、虫眼鏡を取り出す。ウィズリーはそれをぎょっとした様子で見つめていたが、サミュエルはウィズリーに虫眼鏡を差し出す。ウィズリーはいよいよ動揺した。
「この虫眼鏡で見てみなよ、傷の周りにニスの破片が残ってるんだ。盛土みたいになってるよ」
マーリンからすれば、普段からサミュエルの調度品を片付けるなどして触れているため特にその様子に何も感じる事は無いだろう。しかし、ウィズリーは高級品に対して怖々としている様子だった。まあ、事件現場の物なのだから触れるのに慎重になる頃は決して悪いことでは無いだろう。(探偵が事件に関わるものに対してあんなに適当に扱うはずが無いのだが…。)それにしても過剰な反応だったが。
マーリンは傷をじっと見つめて確認したが、ウィズリーは本当に、恐る恐ると言った様子で虫眼鏡を手に取った。そして傷を確認する。
「確かに、色が違う」
「本当ですね…、完全に見落としていました」
「ああ、ここで夫人に話を聞こう。助手くん」
目配せをされて、マーリンはそれに返事をするように頷いた。呼んでくるよう指示されているのだ。それを汲み取って書斎の扉を開き、廊下を見渡せばすぐそこに夫人はいた。悲しそうな顔をした、年配の夫人だ。
扉から顔を出したマーリンは夫人と目が合って、どちらともなく歩みを進める。夫人が、自身になにか用事があるのだと気付いたからだ。
「すみません、少しお話を伺いたいのですが宜しいでしょうか」
「ええ、構いません」
「ありがとうございます、此方に…」
そうしてマーリンが書斎へ夫人を連れて戻れば、ウィズリーは部屋の隅に硬直したように立っていた。手に虫眼鏡はもうない。机を見れば、元あった位置に何事も無かったかのように戻されている。
「こんにちは、夫人。僕は探偵のシャムロックです、お伺いしたい事があるのだけれど」
「シャムロックさん、私はクリスティーナと申します。ええ、私に答えられることであればなんでもお答えしましょう」
「それじゃあ。昨日の朝このタンスにハタキは掛けましたか?」
「はい」
「この引っかき傷には気付きましたか?」
「いいえ、気付きませんでした」
「そうだろうね、そうだと思ったよ。ハタキをかければこういうニスの欠片は既に飛ばされているだろうし。このタンスの鍵は誰が持っているんだろう?」
「教授です。教授が時計の鎖につけて持っています」
「それは簡単な鍵?」
「いいえ、チャブ錠の鍵です」
「ふむ、なるほどね」
もう結構です。と告げたサミュエルの代わりにマーリンが丁寧に礼を告げれば、夫人は綺麗にお辞儀をして部屋を出て行く。
「これで少し前進したね。犯人は書斎に入ってタンスに近付く、そしてそれを開けるか、開けようとした。それをしている最中に被害者である青年が入ってくる。犯人は慌ててタンスの鍵穴から鍵を抜くから、それでここに傷が出来る。青年は彼女を捕まえる。そして彼女は手近なものを掴み_」
サミュエルの手は何かを握ったかのように丸められて、そのまま腕を上げる。そうして。
「ザクッ!とね」腕を振り下ろした。「自分を掴んだ青年を離させるために彼を刺したんだ」
サミュエルは刺すジェスチャーをしているようだった。
「その一撃が致命傷になり、青年は倒れた。犯人が目的の物を持ったのか持っていないのかは不明として、そのまま逃亡するだろう。さて、次にメイドの話を聞こうじゃないか」
先程と同じようにマーリンがメイドのローズを呼びに行った。ローズも大人しく部屋に入ってきて、サミュエルに向き合う。同様の流れで会話は始まった。
「メイドの君が叫び声を聞いた後に、扉を抜けて逃げることは可能だったかな?」
「いいえ、それは出来ません。私が階段を降りる前に、犯人が廊下にいる姿を目撃している筈です。それに、扉が開いていたら扉が開いた音が聞こえる筈なので」
「そうなるとこっちの出口は解決したね。やはり犯人は入ってきた扉から出て行った。それじゃあ、こっちのもうひとつの廊下は教授の部屋に行くだけということになるけど、この先に出口は?」
「ありません」
そこまででサミュエルの聞きたいことは無くなったらしい。メイドは下がって、書斎にはまた三人だけになった。
「…、何か分かりましたか?」
「うーん。いや、教授に会ってみることにしようか」
そう言って教授の部屋へ続く廊下の方へと身体を向ければ、サミュエルはあることに気付いたように小首を傾げて見せた。すぐに元来た廊下の方を振り返り、また教授の部屋の方を見る。
「この廊下にもシュロの織物が敷いてあるね。ね、助手くん。重要な事だと思わない?」
「シュロの織物がある事が?」
「うん。僕は何か、事件に関係があると思ってるんだけれど…まあ、固執はしないさ」
意味ありげに頷いたあと、サミュエルはウィズリーに声を掛けてさっさと廊下を進んで行ってしまう。その背中を見詰めながら、マーリンは先程サミュエルのやっていたことと同じことをする事にした。教授の部屋の方の廊下を見て、元来た道の廊下を見る。それを二回程繰り返してから、どうやらこの廊下たちはよく似ているという事に気付いた。果たして、それがどのように事件に関わっているのかまでは理解する事が出来なかったが。
廊下の先にあるちょっとした階段を上り、扉をウィズリーがノックした。それから教授の部屋へと招き入れた。
扉を開いた途端、1番初めに目に入ったのは無数の本たちだ。棚に収まりきらないのか、本棚の足元のぐるりと積み重ねられている。本の溢れる部屋だった。驚いたのはそれだけでなく、扉を開けて踏み入れた途端の匂いにも驚いた。どことなく部屋が曇っているような、澱んだ煙草の空気が立ち込めている。煙草に慣れていない人間からしてみたら、酷く息苦しい部屋に違いない。
「こんにちは、探偵さん方」
探偵達はようやく教授に対面した。部屋の真中にベッドがあって、その中に枕で上体を支えたこの家の主が居る。彼は嗄れた声で探偵を呼んだ。酷く痩せ衰えた、白髪の老人だ。髭も髪も眉すらも整えられていることはなく、伸ばされたままただふさふさと揺れ動いている。口の周りの髭は奇妙に黄色く染みになっており、白い布団の上に置かれた手すらも黄色く染まっている。間違いなくニコチンの影響だろう。その容姿は、まるで人間とは異なるまた別の生き物のようでもあった。
「シャムロックさんですね、警察の方からお伺いしましたので」
「ええ、シャムロックです」
「そうですか、そうですか。シャムロックさんは煙草はやりますかな」
「特別好みの煙草に出会えた事がないので、あまり」
嘘ではない。特に好んで吸うこともないが、酷く嫌っている訳でも無いだろう。
「それは丁度いい」
そう言った老人は、手元の箱からひとつ煙草を取り出した。骨と皮だけのような枯れた手がサミュエルへと伸ばされる。
「紙巻煙草です。これはお勧めですよ、アレクサンドリアから特別に取り寄せたものです。一度に千本送ってきます。嘆かわしい話ですが、二週間ごとに新しく注文しなければなりませんが」
サミュエルはそれを無言で受け取って、少し観察してから火をつけた。ライターは老人が快く貸してくれた。
一度に千本、二週間ごとに注文。老人が極度のヘビースモーカーだと言うのが明白に分かる発言だ。
「ええ、分かっています。体には非常に悪い事でしょうね、特に、私のような人間には。しかし老人には殆ど楽しみがありません、煙草と仕事しか私には残されていないのです」
老人はサミュエルが煙草をつけたのを見てから、マーリンとウィズリーにも煙草を勧めた。マーリンは特に煙草に興味があった訳では無いのでやんわりと断ったが、ウィズリーは断ることが出来ずに受け取っていた。そのまま煙草を咥えていたが、特に苦手という様ではなかった。
「煙草と仕事だけだった、しかし、今は煙草だけになりました」
サミュエルはそのまま部屋を見渡してから、部屋の中を散策するように歩き始めた。勿論煙草は吸ったままだ。
「ああ、なんと致命的な邪魔が入ったんでしょう!誰がこんなに恐ろしいことが起こると予想出来たでしょうか?青年は本当に良くできた人物でした…。これは断言できます、数ヶ月の訓練で立派な助手になったのですから」
老人は声を荒らげた。そのまま俯いた顔をあげて、サミュエルの方を見る。
「この事件をどうお考えですか、探偵様。私たちには何もかもが謎です」
「まだ決めかねています、欠けている部分がありますから」
「この事件を解決することが出来れば、貴方には本当に感謝します。私みたいな本の虫で病弱の哀れな人間にとって、こんな打撃は壊滅的です。しかし貴方は緊急事態でも冷静でいられる、素晴らしい人だ。貴方が側についてくれていて私たちは実に幸運です」
老人はサミュエルに向けて大袈裟に言葉を紡いでいる。自分の話に夢中なようで、サミュエルがウィズリーに近寄るのにすら気付いていない。サミュエルは大方話を聞いている様子には見えない。老人の言葉に興味が無いようにすら見える。
「君、教授の煙草は気に入ったかな?」
「は。…まあ、美味しい煙草ですね」
「そうかい、じゃあ君に煙草をあげよう。教授、もうひとつ宜しいですか?」
「え?」
そう尋ねられてやっと老教授はサミュエルを見た。
「はい?ええ、どうぞ。お気に召しましたか」
「彼が気に入ったみたいです。いい煙草ですね」
「そうでしょう、そうでしょう!遠慮なくどうぞ」
口を挟む暇もなく、刑事の手にはもうひとつ煙草が乗せられた。断ることをしない刑事はそのまま煙草を吸うことにしたらしい。サミュエルは刑事を部屋の片側へ「煙たいからそっちで吸って」と押しやっていた。ウィズリーはされるがままに、部屋の片側で背中を丸めて煙草を吸い始める。
「さて、教授。続きをどうぞ」
「向こうのサイドテーブルに積んである原稿があるでしょう、あれは私の代表作です。シリアとエジプトの僧院から発見された文書を私が分析したものです。啓示宗教の基盤の奥深くまで掘り下げる内容ですが、私は壊滅的な打撃を受けた。助手が奪われた今、この弱った身体ではそれを完成させることができるかどうか分かりません」
「私は教授に面倒をかけることはしませんよ。伺いたいのは簡単な内容だけだ」
サミュエルは続けた。
「教授。貴方は犯罪が起きた時間はベットの中にいて、何も知ることができなかったと思います。それでは、青年が言った『教授、あれは彼女でした』という言葉の意味をどのようにお考えですか?」
「ローズは田舎の女です」
教授は首を振る。
「彼女は無知です。可哀想な私の助手はなにか支離滅裂なうわ言を言ったが、彼女はそれをこのような意味の無い文章に捻じ曲げたのだと思っています」
「なるほど。それでは、この惨劇について思い当たることは何もありませんか?」
「事故かもしれませんね。……しかし、ここだけの話をしましょう。自殺かもしれません。若い男には、隠れた問題があるものですから。あくまでこれは有り得る可能性のある仮説ですが」
「それではあの眼鏡は?」
「おっと、探偵さん」
教授は肩を竦めた。深く窪んだ目をくしゃりと細めたと思えば、小さく笑いをこぼす。もじゃもじゃとした茂みに隠れた口元は見えないが、確かに教授は薄い肩を揺らして笑っていた。
「私は研究者です、夢想家なのです!日常生活の実際的な事の説明は私にはできません。とはいえ、誰しも恋愛に狂うと妙なことをする可能性がある事は分かるでしょう。ああ、刑事さん。吸い終わったのでしたらもう一本どうぞ」
「…そんな、私が何本も吸っていいような安い煙草ではないのではないでしょうか」
「いえいえ、この煙草の価値が分かる人に出会えたことが嬉しかったもので。是非もうひとつ」
「そ、れでは、いただきます」
ウィズリーは眉を下げながらもう一本受け取る。
「探偵さん、自殺だとして。人が自身の命を絶つ時に記念品や宝物として、どんな品物を用意するか分からないでしょう?扇子、手袋、眼鏡。可能性は沢山あります。」
教授は窓の方を見た。
「刑事さんは草の上に足跡があったと仰いました。しかし、結局そういったものは見間違えやすいものです。ナイフについては、不幸な男が倒れる時に遠くに投げる事も十分に有り得たでしょう。子供っぽい話のように思われるかもしれませんが、私にはジョッシュ・プールが自分の手で最後を遂げたと思えますね」
_随分と不思議な話だとマーリンは思う。彼の言うとおり、子供っぽい、飛躍した話だ。草の上の足跡を調査したのは紛れもなく刑事であるし、見間違えるなんてとんでもない話だ。ナイフの話も流石に厳しい事だろう。いくら青年が殺害されるような動機がないにしても、自殺と考えるのは難しいのではないか。それなら鍵穴の傷はどう説明するのか。
しかしサミュエルは極めて温厚な笑みを浮かべて頷いた。まるで教授の仮説を納得したかのように何度か頷き、少し考え込むような仕草をする。
「教授、タンスのカップボードには何が入っていたのですか?」
ようやくサミュエルは口を開いた。
「泥棒にとって価値のあるものはありませんよ。家庭内文書、私の可哀想な妻からの手紙、私の誉れとなる大学の卒業証書などです。鍵を差し上げますのでどうぞご覧になってください」
そうして教授が差し出した鍵を手に取った。サミュエルそれを一度じっと見つめた様子だったが、すぐに教授の手の上へと戻す。
「これじゃ情報は得られそうにないな」
続けてサミュエルが言う。
「事件の全体についてもう少し考えて見ようと思います。自殺の説についてももう少し考えてみるべきですから、一度庭で散歩をして来ます」
ウィズリーはまだ吸い終わっていない煙草を慌てて吸い進めている。
「昼食時にはお邪魔しません、二時にもう一度来ます。そしてその間に進捗があればその時に報告しますので」
「分かりました、お待ちしています」
「はい。行こう、助手くん」
「押し掛けてきて申し訳ありませんでした、ハドリー教授。二時にまた」
「ええ」
「刑事さんも早くしてね」
焦げ茶色の絨毯に灰を散らしながら、ウィズリーは困った様子で口を開く。
「すみません、もう少しだけ待って頂けませんか」
back / list / next