その後はどうだっただろうか。

 レギュラスが「支払いは兄さんに任せてください」と言うのを聞いて、●●の家を出てきたときと同じようによろよろと来た道を辿り、いつの間にやら玄関まで戻ってきていた。

 ドアを開けようとして、一度躊躇う。鍵が閉まっていたらどうしよう。


 しかしそれは杞憂だったようで、ドアはすんなりと開いた。開いたは開いたで、家に●●一人を残して鍵もかけない状態にしてしまったことを反省する。

 彼女はリビングに降りてきているだろうか。それともまだ自分の部屋で、泣いて・・・。
 そう思うと玄関から中に踏み込めない。レギュラスの言葉は身にしみたが、それ以上にプレッシャーにもなった気がする。


 玄関で靴も脱がず足場を踏み踏みとしていたが、いつまでもここにいてもどうしようもない。


「噛み付くわけでもあるまいし、ただ謝るだけ・・・」

 いや、噛み付く可能性はある。
 歯を突き立てられ悶える自分の姿が容易に想像できてしまい、首を振ることでどうにかそれをなかったものとした。
 広くはない家。数えるほどの歩数で階段までたどり着き、十数段の階段を上がればすぐそこだ。


 なんて切り出そうか。●●はもう僕が来ていることに気付いているだろうか。謝ったらどんな顔をするだろうか。
 許してくれるだろうか。


 部屋の前まで来てノブに手を翳し、すぐに引っ込める。きっと鍵がかかってる。


 らしくなく手に平にかいた汗をそのままに軽く拳を作ってドアを叩いた。

「●●」

 返事はない。玄関に靴はさっきのようにあったし、出かけているはずはない。

「●●、開けて」

 そっとノブを下げてみるが、やはりほんの少し降りたところでつっかえて開かない。わかっていたことだがため息が漏れた。
 これは長期戦か・・・いや。


 少し顔を下げれば、コツンと額がドアにぶつかった。


「ごめん」

 聞いてるんだか聞いてないんだか、部屋の中からは息遣いも衣擦れの音もしない。

 知らなかった、まさか●●が作ってるだなんて。そんな言い訳が口をついて出そうだったけど、所詮は言い訳。なんのフォローにはならないだろうと飲み込んだ。


 そういえばいつからか急に、ケーキを出すとき彼女は僕の表情を伺ってくるようになったな。


「ごめん」

 他に何も言えない。
 今回ばかりは誰がどう見ても僕に非がある。
 彼女がうんと言うまで粘ろう。
 ごめん、もう何度でも言ってやろうと唇を薄く開いたとき、部屋の中からズビッとすする音がしたと思ったら、かさかさとこすれる音がして足元のドアと床の隙間から折りたたまれた紙が差し出された。


「・・・」


 以前にもこの手紙の渡し方を何度かされたことがあるが、あまりいい思い出はない。
 しかし今の自分に、これを受け取らないという選択肢はないのだ。
 腰をかがめて紙を拾い上げ、見えもしないがドアの向こうの●●を見やった。
 僕に対する罵倒か、恨み辛みをつづったものか。

 半ば諦め加減で四つに折られた紙を広げた。





 そこには小さい文字で、僕がさっきから●●に告げていた言葉、たった三文字。

 ああもう、僕は。



「ごめん、本当にごめん●●」

 言い終わるや否や、がちゃりと鍵が開いた。
 何も考えず、僕はすぐさまドアを引いた。そして、引いたドアの動きに合わせて飛んできた平手は油断していた僕の頬に綺麗にヒットした。痛みを感じると同時に●●は僕の胸にしがみついて、鼻声でごめんごめんと繰り返していた。むかつくけど申し訳ない、そんな感情がもろ見えな彼女。


 子供が大泣きしてしがみついてきているような感覚で、条件反射で腕を回そうとしてレギュラスの言葉を思い出す。



『●●さんが好きなら、少しくらい大事にしてあげてください』

『●●さんが好きなら』

『好きなら』




 寸前で止まった腕。行き場を失ったそれをごまかすように彼女の頭に乗せた。するっとした触り心地に一瞬躊躇う。腕や足なら取っ組み合いをするときに掴んだりするが、いつも見てるはずの黒髪など、触れるどころか意識すらしたりしなかった。

 髪の房に指を滑らせる。一度目は反応のなかった●●だが、二度三度とゆっくり撫ぜてみれば、●●は小さく震えて見上げてくる。何度こすったのか、赤く腫れた瞼が痛々しかった。


 僕は髪に埋めていた指を抜き、その手で彼女の両瞼を覆う。
 目を見ていられなくて覆ったはいいが、もう一度謝るべきか。覚悟の通り何度でも言ってやろうと決めたとき手の平の下の睫毛が揺れて、僕より先に●●が声を発した。


「リドル」

「・・・なに?」

 ●●がおもむろに手を上げて、顔を覆っている僕の手をやんわりとはがした。


「お誕生日おめでとう」


 雨上がりのような笑顔。


 それはじわりと僕にしみこんで、内側から暖めた。


「ありがとう」




「まっず、何これ人の食べるものじゃない」

「ひっど・・・!人の純粋な気持ちを踏みにじるなんてっ。顔だけの男だからいつまでも彼女ができないんだ!!」

「別に、つくろうと思えばいつでもつくれるけど」

「彼女がいない人は皆そう言うんですー」

 ふんと鼻を鳴らした●●は勢いに任せ、自分でも一口含んだ。途端に変わる表情。

「まっず」

「ほらね」

 味が薄くて固くてクリームがもさもさしてる、壊滅的ではないが可と言えるものでもない、なんとも絶妙な『まずさ』のケーキ。もしかしたらケーキという名でなければ結構いけるかもしれないなんて思ったけど、絶対それは気のせいだった。


「あーあ、私も料理の勉強しなきゃなあ・・・」

「それ、今までに何回も聞いたけどね」

「ははは」

 僕ももう一度欠片を口に入れてみるが、もう頷くしかできなかった。


「これ、来年も作るつもり?」

「んー。もう今年でやめる」

 頬杖をついて、食べるでもなくフォークで残骸をつつく●●。見るからにむくれている。


「そう、それはよかった。来年からは僕も手伝うから」

「は?」

 ●●がこちらを見てくる。あからさまに気付いてないフリをして、またもさもさした物体を一口。

「なんで?」

「レシピさえあれば作れるよ。むしろ作れないほうがおかしい」

「そういうことじゃなくて・・・」

「嫌ならまずくない程度のものくらい、作れるようになってよね。ごちそうさま」


 オレンジジュースで流し込んでも、やっぱりまずいものはまずかった。

 さらに目を丸くする●●に気付かないフリをする。



「じゃあ、今夜は徹夜でさっきできなかった課題だね」


 一気に意識がそれた●●は不満げに眉を寄せる。


「えー?誕生日くらいゆっくりしようよー」

「誕生日くらい僕の言うこときいてよ」

「・・・」

「・・・」

 僕らが視線の小競り合いをしている間、淀んだ空から白い粒が一つ、舞い降りた。






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