「ミスター・ブラック」 週の終わり。 夕食を終え、寮に戻ろうとしたところをダンブルドアに引き止められた。 「この後、少し時間をもらえるかの」 周りの生徒の嫌な視線に耐えかね、眉を寄せる。目の端で兄さんが期待のこもった表情で僕らを見ながら通り過ぎていって、さらにイラついた。 忙しいのでごめんなさい。唇を半分開いたところでダンブルドアが押し殺した声で囁いてきた。 「ミス・××のことでちょっとした話が」 ●●を見なくなって二ヶ月。その間必死に忘れようとしてきた名前を他人の口から不意に聞く羽目になって、嫌に心臓が跳ねた。 今更なんの話だ。 もやもやとする胸を押さえ、わずかな期待を抱きながら小さく頷いた。 そういえば校長室に来るのははじめてだ。 部屋中に溢れる不思議な物に目を奪われるも、変に好奇心を出すのも気が引ける。ダンブルドアが自分の名を呼んだおかげで、無理矢理意識をはぐことができた。 「ミスター・ブラック。そちは前にミス・××について訊ねて来たが」 ●●の名に思わず眉を動かすと、ダンブルドアは困ったように微笑んだ。 「あのときはすまなかった。あまり他言して良いことではなくての」 「いえ。僕もいきなり軽率でした」 だからなんだ。 口ではああ言いつつも、いらいらとしてダンブルドアから目をそらし足元の床を睨みつける。 ダンブルドアがまた苦笑するので、もう出て行ってしまおうかと思い始めたとき。 「ミス・××は、おぬしと同い年のハッフルパフ生じゃ」 「・・・・・・は?」 まさかのことを言い始めるので、間抜けな声を上げながらダンブルドアを見てしまった。 「彼女は生まれつき重い病を抱えていて、入学して一ヶ月と経たないうちに聖マンゴに入院したんじゃよ。マグルの医術じゃどうにもならないようだったから、わしが聖マンゴを勧めたんじゃ」 「―――」 まさか。そんなはずがない。 だって彼女は・・・。 ままならない思考で、●●が言っていた言葉を反芻する。 一ヶ月しかホグワーツにいなかったのなら、成長しきった同寮の生徒を見ても見覚えがないのは当たり前だ。 「入院していた五年間、一週間きちんと朝夜をすごしたと思ったら、三日目を覚まさなくなったり、サイクルはばらばらであった」 僕とゴーストもどきだった●●が過ごしていたサイクルと逆だ。 彼女は死んではいなかった。ただ、本体の意識が安定せずにいたらしい。しかしそれでも彼女の魂がこちらに飛んでくるという状況はあまり芳しいことではない。 「それでも、目を覚ますとしっかりと会話もできるようではあった」 わしも数回見舞いに行ったと付け足す言葉は耳に入らなかった。 聖マンゴ、聖マンゴに行けば・・・。 「しかし」 今すぐ飛び出してしまいそうな僕を見かねたのか、ダンブルドアは声を幾分か重くした。はっとして彼の目を見ると、そこに映るのはあまりいい色ではなかった。 「・・・ここ二ヶ月、あまり病状がよくなく、昏睡しておったらしい」 「・・・」 ダンブルドアは僕の様子を伺いながら、重い口を開いた。 「今朝、すべてが終わったらしい」 「・・・え?」 喜びに満ちていた胸が一気に冷え切る。 終わった?何が・・・。 訊ねようにも、ダンブルドアの瞳は揺れるばかり。 「ミスター・ブラックには伝えるべきだと思っての」 ダンブルドアの言葉もすべて通り抜けていく。 ぽっかりとした穴を埋めるのは、ダンブルドアに対する苛立ち。 なぜ僕に伝えた。 知らないままならよかったのに。 彼女は本当に消えてしまった。 目の奥が熱くなり、見られたくなくて礼も言わずにダンブルドアに背を向けてずんずんと扉に歩いた。 扉を乱暴に引いて、身体を半分ほど外に出したとき、背中に声がかかる。 「都合がいいことに、明日は休みじゃ。ぜひ、顔を見てやりに行くがよい」 「・・・・・・失礼しました」 思いっきり閉めたはずなのに、扉はかちゃりと情けなく閉められた。 ロンドン市内にどっかりとあるデパート。ここが『聖マンゴ』。 ためらわずにそこに入ると、中では忙しそうに癒者が歩き回っていた。 なんだか引き止めるのは邪魔になってしまいそうで、呆然とたたずんでいると、気づいた女の癒者がこちらに近づいてきた。 「どのような病状で?」 僕の顔から全身を舐めるように見て、どこにも異常がないようであることに眉をしかめた。気づかないフリをする。 「●●・××という人がいたと聞いたのですが」 「ああ、見舞いですね」 少し待っていろと僕に指示をし、奥へ消えていった癒者。言われたとおりしばらくの間立ち尽くしていると、すぐに彼女は戻ってきた。 「ついてきてください」 僕が頷くのを確認もせずに、さっさと歩き出してしまう。妙な呪いをかけられた患者の間を縫いながら、置いていかれないように必死についていった。 廊下を進み、あるとき急に癒者が足を止めた。 ついたのかと思ったがそうではなかったらしい。 癒者が黙って見ている先。そこには、ある病室から、涙を必死に拭っている女性の肩を支える男性の、二人の姿。 父親の顔を見て、すぐにわかった。・・・●●の両親だ。 あまり先に進みたくなさそうな癒者に礼を言い、暗にもう引いてくれと促すと、彼女は小さく頷いてもと来た道を戻っていった。 病室の外でわんわんと声を上げる女性。その声も●●に似ている気がして、胸が痛くなる。 引き下がりそっとしておきたい気持ちを抑え、そっと足を踏み出した。 「――あの」 自分でも驚くくらい小さな声だった。 母親は自分のことで精一杯でこちらを見向きもしなかったけれど、父親は潤んだ瞳をこちらに見せた。 「●●・××さんに面会したいのですが」 父親は僕の顔を見て、なぜかほっとしたように微笑んだ。●●とそっくりだった。 「そうか。あの子にも友達がいたのか。・・・どうぞ。ぜひ会ってやってください」 「・・・ありがとう、ございます」 頭を深く下げたのは、つられて目に何かが滲んできてしまったから。 唇をかみ締め、病室の扉を開いた。 白い病室で、真っ先に目に飛び込んできたのは黒と橙。 壁にかけられた、ローブと、橙色のネクタイだった。まるで新品のそれように真新しい制服。数度しか腕を通していないのがありありと伝わってくる。五年生が着るには小さすぎるサイズだった。 そして、次に目が行ったのは、膨らむベッド。 「・・・」 どれほど日光を浴びていなかったのだろうか。想像以上に彼女の腕は青白かった。 清潔なベッドの傍らにまでたどり着き、伏せられた瞼を呆然と見下ろす。ふわふわと自由気ままに飛び回っていた彼女より、一回りも二回りも小さく見えた。 ベッドに広がる髪は勝手に動き回ることはない。白い布によく映えている。 不透明な肌は血色が悪く、不確かながらも明るく色づいていた唇も、今目の前にあるのは血がすべて抜けきってしまったかのように青かった。 「幽霊のときのほうが血色がいいって、どういうことですか」 これまで感じていたのはただの寂しさ。見えないはずのものがちゃんと"見えなくなった"だけ。 でも彼女はこれまで生きていて、そして死んだ。 胸にぽっかりと明いた空所は、このことを知らなければ感じることはなかった喪失感。 「●●」 『なんだい、レギュラス君!』 記憶の中の●●を重ねてみても、ただ胸の苦味が広がるだけ。 腰を曲げて、そっと彼女の頬を覆う。 そうすると、自分の肌の色と必然的に対比されてさらに痛々しかった。 「●●」 起きてくださいよ。 「二ヶ月も待ってるんですよ」 あなたは生きてました。こんなに大事な情報、僕だけのものにしておくなんて、おこがましいじゃないですか。 「●●・・・」 目が熱い。 人の死がこんなに悲しいと思ったのはいつぶりだろう。 この歳になって涙を流すなんて情けなくて、唇をぎゅっと噛む。 きっと●●じゃなかったらこんな気持ちにはならなかった。 「●●」 自分にもこんなに優しい声を出すことができたのか。 添えていた手のひらで頬を撫でる。 顔を見てやるべきなのだろうけど、目に張った膜がもう限界で、静かに目を閉じた。 瞼の裏に映る彼女の姿。 穴はいつかは癒えるだろうけど、彼女と言葉を交わしているときから感じていた気持ちはずっと変わらないだろう。 「好きです」 閉じた瞼から一つだけ零れ落ちた。 僕の体温が移ったらしく、彼女の頬はすっかりと熱を持っていた。 もう帰ろう。あまり長居しては●●の両親にも悪い。 「―――」 ゆっくりと目を開けると、滲んだ視界の向こうで●●が顔を真っ赤にしてわなわなと唇を震わせていた。 「・・・・・・は?」 「れれれれれぎゅらす違うんだよ!私はただ寝てただけでなんか誰か来たから驚かしてやろうと思って違うんだけど、まさかレぎっ、れぎゅらるだとは思ってなくて!!」 ぴしりと固まっている僕の手のひらをひっぺがし、●●は自分の青白い手で真っ赤な顔を覆った。 ぴーぴーと喚きながら目に涙を浮かべ、最後に声にならない声を上げたと思ったら●●は思いっきり毛布を引っ張り上げてその中に隠れてしまった。 「・・・・・・」 手のひらははがされた状態のまま、中途半端な位置で止まっている。 毛布が大きな芋虫を抱えているようにうねうねとうねるのを数秒見つめて、少しずつ麻痺が解ける。 ●●が、生き、てる・・・? なんで、どうして。 だって●●は病気で、身体が弱ってたから霊体だけがホグワーツに飛んできてて、それが終わったのは●●が死んだからで・・・・・・ん? あることに気がついた僕は、自身の頬が一気に引きつるのをはっきりと感じた。 思い浮かぶ青の瞳。彼が直接「●●は死んだ」と言っただろうか。 今や悪戯が成功したように弧を描いているであろう瞳が脳裏をよぎり、とてつもない苛立ちを感じた。 「あの老いぼれ・・・っ」 僕は見事に一杯食わされたらしい。 よく考えてみればいつまでも部屋に死体を放置しておくとは考えにくい。よく観察していれば母親と父親の涙が嬉し涙であることに気づいたであろうに。 しかし僕が●●のことを尋ねてもなんの情報も与えなかったということは、実際に彼女は危うい状態であったということであろう。 「はあ」 ため息しか出ない。心なしか頭痛もする気がする。 うねっていた●●はいつの間にかしんと大人しくなっていたが、毛布の中でぶつぶつと聞き取れない言葉を呟いていた。 なんだかひどく疲れた。 もう今日は帰らせてもらおうか。いろいろと整理をしたい。 「●●、●●」 ●●の形をした毛布を揺する。 彼女はしばらくうなり上げ、やがてのっそりと顔の半分を覗かせた。どうしてまだ赤い。 首を傾げるも、訊くほどのことでもないだろうとそのまま流す。 「あの、僕そろそろ・・・」 「も、もうちょっと考えさせてください!!」 「は?何言って・・・」 「あああ、でも、でも私・・・」 隣の病室まで聞こえてしまうんじゃないかってほどの奇声を上げながら、●●は思いっきり起き上がった。 きーんとする耳を押さえ、若干睨むように●●を見るが、当の本人は顔を覆って頭を前後に振りしだくばかり。もしかして後遺症か、それとも錯乱の呪文か。 ●●、ともう一度声をかけようと唇を開いた。 「わ・・・私も、好き・・・かも」 ●●があまりにも赤い顔をして、今まで見せたことがないくらい女性らしい表情を浮かべるものだから、今言おうとしたことなんてぽんと飛んでしまった。 「・・・」 「・・・」 僕が、穴が開くほど彼女の頭を見つめていると、どんどんその頭は下を向いていく。どうやら僕が今から口にすることは、とっても失礼なことになりそうだ。 「・・・何がですか?」 「はあ!?」 おいこらと僕の胸に掴みかかってくる。勢いの割には力が弱い。 「何がって、だからっ・・・その・・・」 襟を掴む白い指先に力が入る。 「レギュラスが、さっき、私を、好き、って・・・」 一言呟くたびに下がっていく彼女の頭と、赤くなる耳。 そして速度を増す僕の心拍と、じんわりと熱くなる頬。 忘れてた。 僕のバカ。 互いに顔を見ないようにする配慮はさすがだと思うけど、それどころじゃない。 とにかく赤い顔をどうにかしようと気を鎮め、まだほんの少し火照っているけど許容範囲だろうと、よしとひとり頷いた。 いまだ僕の襟を掴んでいた小さな手を包み込む。ちょっと引いたら簡単に外れた。 「・・・なんて言えばいいかわからないですけど」 またじわじわと顔が熱を持っていく。 「これから、よろしくお願いします」 もっと気の利いたことが言えればいいのに。口下手な自分を呪った。 それでも●●は真っ赤な顔をあげ、"あの顔"ではなく、恥ずかしそうに、嬉しそうに微笑んだのだった。 → |