「つまらなそうな本読んでるね」

 図書室。

 何もすることがなくて、暇つぶしがてらに埃の被った本をめくっていれば、不意に声が間近でかかった。


 まさか急に僕に話しかける人間もいないだろうと他人事のように思いながらも、無意識的に顔を上げた。

「・・・?」

 しかし声が聞こえてきたと思ったほうに人影はない。
 聞き間違いかと勝手に解釈してまた視線を本に帰そうとしたとき、目の端をちらりと、何かの影が通り過ぎた。


 はっと顔を上げ、そちらを見やると。


「・・・」

「・・・」


 室内を、空気中をふわふわと漂う人型。胸には妙に真新しい橙色のネクタイが鎮座していた。

 見た目は自分と同じくらいのように見えるけれど、なんだか違和感がある。浮いてるとかそういうのではなく、なんというか、制服を着ているというより着られてるというか。


 彼女――そう、女――は僕と目が合うと、目を見開いて空気中で足を折った。いわゆる正座というやつか。

 ほんの少し透けた指先を僕に向け、次に己の鼻面を指差す。発せられた声は震えていた。



「私が、見えるの?」

「ああ、そろそろ晩ご飯の時間ですね」

 僕は疲れてるらしい。




 本を元あった場所に返してそこを出て行くまで、ずっとぎゃーぎゃー後ろで聞こえたけれど、無視してそこを出て行けばそれっきりだった。


 部屋に戻ってベッドに飛び込む。

「・・・ゴースト?」

 浮いてるんだからその可能性のほうが高い。事実、指先も透けていた。

 しかし、カラーのゴーストとはどういうことだ。それに「見えるの?」という言い方はまるで、僕以外に誰も気がつかなかったみたいな言い方。


 ということはゴーストじゃない?じゃあなんだ・・・。

「・・・」

 わからない。

 見間違いだと断定するにはあまりにもはっきりと見えてしまい、透け、浮いているのにゴーストと断定することもできず、いろいろと納得がいかない。


 一度気になりだすと結果がわかるまで落ち着かないというこの性分は、時には困りもの。


「ブラック、飯いかねえのか?」

 ルームメイトが部屋を出際に、不審そうに僕を見てきた。どうやら変なうなり声を上げていたらしい。


「今行きます」

 ベッドから降りて、もしかしたら廊下とか広間にもいるかもしれないと少し重い気持ちになったけれど、そんな心配は結局無駄に終わった。

 廊下ですれ違うのも、広間を飛び回るのも、すべて色のないただのゴーストであった。




「あ、やっぱり来た」

「・・・」

 魔法史の資料を探しに図書室に来てみれば、扉を開けた途端にまだまだ見慣れない、透けたあの顔が待ち構えていた。


 もしかして、こうやってずっと来る人来る人を間近で確認していたのか。気持ち悪い。


 僕だって、こいつが図書室にいるのを予測しなかったわけではない。

 けれど、誰かのせいで安らぎの場が一つ減ると言うのは不満でもあったし、誰かに自分の行く先を左右されるのがとても癪だった。だから、たとえ図書室であの影を見かけても、目を合わさず、語りかけず、耳を向けず、反応をせず、とやり過ごそうと決心をしてやってきたと言うのに、まさか扉を開けた瞬間に透けた顔が眼前にあるなんて予想してるはずもないじゃないか。目も合ってしまったし、足をぴたりと止めて反応も示してしまって、ものの一秒で決心のうちの二つが打ち砕かれてしまった。


「ねえ、私に何か話して聞かせて、ねえ」

 廊下と室内を、扉をするするとすり抜けながら僕の周りを飛ぶ。どうやら図書室から出れないと言うわけではなさそうだ。


 ねえねえとかけられる言葉を無視し、中途半端に開けていた扉を押して、ようやく図書室に入る。

「ねえってば!」

 ここは図書室なんだから静かにしろ。思わずそう口を開いてしまいそうになったけれど、すぐに、こいつの声は誰にも聞こえないんだと思い立った。もちろん僕にも聞こえない。なんにも聞こえない。


 魔法史関連の本が並ぶ棚の間に逃げ込み、すぐに辺りを見回して、あのでかい蝿のような物体が近くにいないことを確認した。

 しかし相手はゴーストと似たようなもの。こちらに近づくのに気配など発さないだろう。頼るべきは己の目と注意力。少しでも変なものが来たらすぐ隠れよう。


 もう一度だけ回りを確認してから、目当ての本を探すために深い色の背表紙たちに目をやった。



 はじめは警戒しながらで本の内容も頭に入らなかったけれど、しばらく経つと徐々に警戒心も薄れ、本に集中できるようになった。




 どれほど経ったか。

 立ったまま本を読むのはやはりすぐに集中力が切れてしまう。
 ふうと小さく息をつき、本を閉じた。

 知りたいことも知れたし、そろそろ戻るか。


 本をしまおうと、自分のちょうど目線の高さであるところを見た。一冊分の隙間の空いたそこに持っていた本を突っ込もうと上げた腕は、中途半端な位置でぴたりと止まった。


「・・・」


 その隙間を中心に、本棚からのっそりと半身を出して僕を顔を見てるそいつ。

 十五年間生きてきて、こんなに驚くことは今までなかったと思う。

 激しい音を立てて床に落ちる本。遠くでマダムが怒鳴り声を上げたけど、今は返事を返す余裕なんてなかった。


 そいつは呆然としている僕と落ちた本を交互に見やって、不確かな指先で本を指差した。

「落ちたよ?」

 どこか頼りのないふわふわとした声は、彼女がゴーストもどきだからだろう。その声にはっと意識を取り戻し、もう無視するなんて無理だと悟った僕は、きっと目を吊り上げた。


「あなた、なんなんですか?」

「あ、喋った」

 目と口をまん丸にして驚く。
 答えにまったくなっていない返事にいらだち、声を荒げる。

「質問に答え・・・っ!」

 僕が最後まで言い切る前に、彼女は立てた人差し指を己の口元に持っていった。その仕草にとっさに口をつぐみ、続いて彼女が指差した方を恐る恐る見やる。一人の男子生徒がいぶかしげに僕を見ていた。その男子生徒は僕と目が合うとわざとらしく目をそらし、そこから去っていった。


「私は●●・××」


 目の端でずるりと本棚からもう半身を取り出すそいつを感じて、またその女に目をやった。

 そいつ――●●・××は、音もなく床に降り立って、僕と同じように地に立つ。僕より頭一個分も身長が低かった。

「見てのとおりハッフルパフ生だよ」

 ●●・××は胸に下がる橙色の真新しいネクタイを摘み上げて、おどけたよに笑いながらそれを振った。

「あなたは?」

 話せるのが嬉しくてたまらないといった様子で、身を乗り出して来た。

 さっきまでは名乗るつもりなんて毛頭もなかったのに、なぜかこの女が不憫になって、微かに残った冷静な自分を押しのけて小さく自分の名前を呟く。


「レギュラス・ブラック・・・」

「ブラック?変わった名前だねー」


 よっせ、と掛け声を上げてまたふわりと浮き上がる身体。ちょうど僕と同じくらいの目線になった。

「変わった名前って・・・知らないんですか?」

 言ってしまってからどうにも自惚れた発言だと思ったが、間髪いれず不審そうに眉をしかめた彼女の顔を見て、訂正するのは遅いと悟った。


「何?レギュラスって有名人なの?」

 高さを保ったままぐるぐると僕の周りを回って観察される。こうもあからさまに見られるのは気分が悪い。


「・・・知らないならいいんです。それより、気になるのは僕よりあなたのほうです」

「私?」

「うわっ!」

 真後ろに回っていた彼女の顔が、僕の胸からにょきっと生えてきて思わず声を上げて身を引いてしまった。


 ばくばくと鳴る心臓を押さえ、信じられない・・・という気持ちを抑えきれない顔のまま●●を睨む。彼女はけらけらと笑っていた。


「ごめんごめん。で、私がなんて?」

 笑いながら言われていらっとしたのは言うまでもない。
 このままここに放置してもう帰ろうかという考えが頭をよぎったが、せっかくの機会だ。自分の頭に渦巻く謎を解明したい。


 彼女の笑いが収まってきた頃合を見計らい、切り出す。


「あなたはゴーストですか?」

 単刀直入が一番。正直あまり話し込みたくはないし。

「私?」


 ●●は「んー」と虚空を見つめ、答えを待っていた僕と目が合うと、何の前触れもなく自分の両手のひらを僕に突き出してきた。
 うっすらと透けた肌色の向こうで、明るい橙が揺れている。


 その手のひらがゆっくりと左右に避けて、彼女のなんとも言えない笑みが見えた。


「ゴーストだと思う?」

「・・・」


 間近で見せられた手のひらは、こうやって接近しないとわからないほど微かに、脈打つように点滅していた。


 死んでいるはずなのに生々しいそれから目をそらす。


「わからないから訊いてるんです」

 そりゃそうだとまた笑い始める●●。ツボがよくわからない。

 笑い涙を拭いた彼女は、名残で潤んだ目で自分の両手を見下ろす。


「私もわからないんだ。気がついたらいたってかんじ」

「いつからホグワーツに?」

「いつだろう。ときどき眠いなぁって思って、ちょっとこっくりしてるうちに何週間も経ってることもあって」


 よくわからないや!とからから笑いながらまどろむように飛び回る。


 いつからいたかもわからない。自分でも何者かわからない。

 余計に深まってしまいそうな謎に眉を寄せながら、大きな蝿を目で追った。


「ねえレギュラス」

 床の上をすべるように飛んで、僕の数歩前に止まる。


「よかったら、また私の相手してくれる・・・?」


 絶対ごめんだ。

 心の中ではそう思ったはずで、迷わず答えようとしたのに、彼女のなんとも言えない笑顔を見て、知らぬ間に首を縦に振ってしまっていた。


「ありがとう!」


 じきに、彼女のあのなんとも言えない表情は「お得意の表情」となって僕をときどき困らせるものになるのだが、そんなことそのときの二人は当然知らない。






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