何が目的なのかわからない。彼女は一体何がしたいんだ、何者なんだ、なぜこちらの前に姿を押しだしてくる。食事時だけに飽きたらず、授業中、しまいには放課にも時折顔を合わせるようになった。どうして彼女が知るはずのないことを知っているのだろう。幾度も思考を巡らせたけれど、一度として腑に落ちる回答が浮かんだことはなかった。 フラッシュバックする声。彼女の声は、常に不愉快に僕の脳を刺激していた。 耳元でわんわんと騒いでいる。泣いているような、怒っているような、笑っているような。 最初は無視できていたのに、いつまでもしつこく叫ばれるものだから聞かぬふりもできなくなる。 うるさい、そう怒鳴りつけてやろうと、穿つように床を蹴って彼女をねめつけた。 すぐ後ろにいると思ったのにその姿は遠く遠く。膨らんでいた憎悪は萎び、入れ替わって他の感情が湧き出てきた。こういうことは時々ある。源泉はどこだろうか、いつもわからない。わからないままに放っておいても栓をしていない穴から流れ出ていくはずなのに、不思議なことにそれはしつこく滞留する。知らぬ間に透明の栓が詰められていることに気が付いた。 名付けていない情動が抑えきれない。冷たい指先を強く握りこんだ。 つま先から膝へ、膝から腹へ。少しずつ、しかし確かに、逃げ出せない感情がこの身に溜まる。息が苦しい。 遠くで呆然と佇む彼女は思っていたよりも小さくて。 彼女の瞳が真っ直ぐに僕を見据える。責めるでもなく探るでもなく、ただ見ているだけのまっさらな視線はささくれ立った僕の情を逆なでした。同時に、源泉からあふれてくるそれの勢いが増し、胸にまで至る。 僕を見るな。 理由なく震える唇。発した言葉は己の耳に届く前に空間に吸い込まれた。自分がなんと言ったのかすらわからない。 僕を見るな。 何度言っても僕の声は静寂に打ち消される。 僕を。 彼女を拒絶しているはずなのに、彼女を否定する言葉を発しているはずなのに、真にこの唇から洩れているものはそれとは違っている気がした。 僕は何を言っているのだろう。 あきらめにも似た想い。みぞおちの当たりがぐっと痛くなった。彼女の視線を避けるように目を伏せる。 これで最後にしよう。 「――――」 自分にも聞こえないのだから彼女にも聞こえるわけがないのだ。 期待などとうの昔に捨てたはずなのに、そうとしか形容できない感情が渦巻き恐る恐る顔を上げた。 こんなにも距離が開いていて表情など伺えないはずなのに、彼女の顔が柔らかくほころぶのが確かに見えた。 「本当にバカだなあ…」 目じりに涙を湛え花を咲かせる彼女の声が、じんわりと全身に渡った。 はっと目を覚ます。 夜が更けるまで待っていたらいつの間にか転寝してしまっていたらしい。ルームメイトに変に思われないようにと、おやすみを言ってベッドに入ってしまったのがいけなかったか。 時刻を確かめる。幸いにも程よい時間だ。 そっとベッドを抜け出し、ルームメイトがよく眠っているのを一瞥して部屋を出た。 今夜だ。 今夜、ついに秘密の部屋を開く。 想定外の邪魔が入って思うように動けなかったけれど、彼女は消灯の時間がすぎると数時間と経たないうちにあの場所から立ち去ることがわかった。変に勘付かれる前に早く行動を起こしてしまおうと、彼女の行動パターンがわかってすぐに計画を立てた。 彼女は秘密の部屋の場所を知っている。どこから手に入れた情報なのかわからないけれど、確かに正しいそれを持っていた。 女子トイレに侵入し、蛇の彫り物が施してある蛇口の前で「開け」と囁く。洗面台に取り囲まれた柱がぐるりと動き、ぽっかりとした穴を作った。ルーモスの光で底を照らすが底は見えない。 僕は逡巡せずに飛び込んだ。 穴の底は鬱蒼としていた。余計なものには目もくれず、次の扉へ。 簡単に開いたそれをくぐり、出た先はぽっかりとした空間。空間の収束点には、人の顔を模した大きな石像が待ち構えていた。 はやる気持ちを抑えきれず、早足で向かう。 興奮していた。幼いころから持つ、もう一つの言語。これは僕の存在を証明する大事な因子だった。 石像の裏に潜む者、それを知らないわけじゃない。むしろそれと知ってこそここに来たのだ。 三つ目の扉に命令すれば、僕の目的はほぼ達成されたことになる。 「…」 あと一言。わかっているのに、僕の体は石像を見上げたまま動かなくなった。 化け物が怖いのではない。深淵にたどり着いて尚、迷いが胸を渦巻いていることが信じられないのだ。 先ほど見ていた夢を思い出していた。非常に厭わしい夢だった。呼吸すら飲みこまれる静寂と漆黒に僕ともう一人。 まるでらしくない自分だった。不安定で、宙ぶらりん。縋るに似た焦燥に急きたてられ、しまいには諦念。 あの時自分は何を言っていたのだろう。何を期待していたのだろう。 遠く離れた彼女は、僕の期待に応えるかのように泣き笑った。 流砂に飲みこまれかけている自分に気づき、ぐっと指先を握る。夢の中の自分と同じだ、と頭の片隅で思った。 夢がなんだ。 仰ぎ見、物思いに耽るのをやめ、正面を睨む。 最後の一言を告げた、ほんの数秒後だった。 真後ろから迫りくる気配に、弾かれるように振り向く。紙のように白い顔ですぐそこまで迫ってきていたのは、他でもない彼女だった。 「●●…!?」 想定外のことに頭がついていかない。見知った顔にどうしてか杖を構えることもできず、飛びついてきた彼女に胸倉をつかまれた。 一歩二歩とよろめき、踏みとどまる。思っていたよりも低い位置にある相手の顔に、表情に、言葉を失った。 「トム、トム、トム」 懇願するように僕の名を何度も、何度も囁く●●の声は震え、湿りを帯びていた。声だけではない。強いと感じた襟元を掴む小さな手にはほとんど力は入っておらず、小刻みに震え、いつも気丈に僕を見つめていた瞳には涙の膜が張っていた。破れた膜は彼女の頬を伝い、とめどなく透明の筋を描いている。 脆い力で縋りつく●●は簡単に振り払えた。でもできなかった。 真っ白になる脳内。 僕は一体何をしているのだろう。なぜ彼女がこんなところにいるのだろう。もうすぐバジリスクが出てくる。バジリスクはこの子を狙うだろう。彼女に抵抗する術はない。 「トム、トム…」 僕の胸元に額を寄せ、己の手の甲で涙をぬぐい、名を呼び、目を真っ直ぐに射抜く。 バジリスクが這い出てくる音がして、彼女の体が大きく揺れた。 彼女は知っているのだ。何が出てくるのか、僕が何をしようとしているのか、何が起きるのか。 不意に、襟元の圧迫感が消え去った。 ●●はまた涙をぬぐい、俯いたまま僕の左手に触れた。僕の手も彼女の手も、死人のように冷たかった。冷たい手で、生意気にも僕の手を温めるように両手で包んで、小さな声で呟いた。 「トム、違うよ」 バジリスクが鎌首をもたげながら這い出てくる。驚いた●●が腰を抜かしてへたり込んだ。はじめは頑なに目を閉じて顔を伏せていたのに、バジリスクが一つ二つと鳴くと、諦めたように顔を上げた。 彼女が死んでしまう。 考えるよりも先に手が動き、彼女に杖を向けて失神の呪文を唱えていた。 怒った声を上げるバジリスクに苦し紛れに言い訳をし、言いくるめて再び扉の中に帰らせた。 静まり返る空間。 自分がなしたことがじわじわと全身にしみわたり、後悔とどうしようもない怒りが込み上げてきた。同時に、胸にしこりをなしていた迷いがすっと失せていたのも事実。 足元で気を失っている●●を見下ろす。髪を床に散らし、涙の跡が幾重にも頬に引かれている。 聞きたいことも言いたいこともたくさんある。しかし、今は早くここから出てしまうことが先決だ。 彼女の傍らに屈み、肩を支えて抱き起す。力の抜け切った彼女の首ががくりと後ろに落ち、慌てて前に倒してやった。 意識のない人間を運ぶ体勢に持って行くのは思ったよりも難しく、背負うのも前に抱くのもなかなかうまくいかない。いろいろ試した後、彼女の腕を僕の首の後ろに回し彼女の腰を支えるという無様な形に落ち着いた。彼女の足は引きずられているが仕方ない。 女子トイレを出るまでに息が切れ、このまま廊下に置いていってしまおうか、階段から放り投げてしまおうか、とつらつら考えているうちに医務室までたどり着いていた。 寝間着姿で失神している彼女を見て先生はあれこれと質問を投げかけてきたが、「寝付けなくて散歩をしていたら、倒れていたんです」とだけ返す。さらに掘り下げようとしてきたが、げっそりとしている僕の顔を見て口を閉ざし、早く寮に戻るようにとだけ言いつけた。 医務室から出る直前に振り返る。先生がタオルで彼女の顔を拭っていた。 一人になると深夜の廊下は鬱々とし、湿気をはらんだ空気は気だるさをもたらした。 地下へと下る階段。一歩地上から離れるごとに、知らぬ間に高まっていた気分が鎮まって、自分自身の手でこの数年間を無為にしたことをまざまざと感じた。 |