鼻筋はとてもきれいに通っているし、睫毛もたっぷりと生えそろっている。癖のない黒髪は少し伸びて、時折鬱陶しそうに指先で払いのける仕草すら隙がないように思える。挙手し発言する彼の声はよく部屋に響き、聴くものの意識は自然と彼に吸い寄せられた。彼はとても魅力的なのだ。

 フラッシュバックする赤い瞳。歪んだ口角、青ざめた唇、揺れる杖先、そして彼自身の能力に向けられる優しい眼差し。

 彼の声が絶え間なく鳴り響き脳を揺らす。私自身も彼の虜になってしまったというのだろうか。


 遠く遠くで背を向けて佇む彼は穿つように床を蹴って、悲痛な面持ちでこちらを見据えた。爪が食い込むほど握られた拳は、強い感情を抑えきれず小刻みに震えている。
 走り寄っても彼の下へはたどり着けないと思うほどの距離があるのに、まるで手を伸ばせばすぐに触れられる位置にいるかのように、はっきりとその存在を確認できた。


「――――」


 彼の唇が動く。こんなに彼の存在を認めているのに、声が一つも聞き取れない。私たちを取り囲む空間は真空なのではないかと、疑ってしまう静けさ。

「――――」

 彼は何度も唇を動かしている。何度も、何度も、同じことを訴えている。

 聞こえない、聞こえないよ。

 自分の声すら、己の耳に届かない。

「――――」


 どうして聞こえないのだろう。


 胸が締め付けられ、鼻の奥がつんとした。潤ませまいとし、ぐっと奥歯をかみしめる。気丈に瞬きをし、俯きたくなる顎を引いて、しっかり彼を見つめた。


「――――」


 相変わらず声は聞こえない。それなのに、彼の声が何かを伝って私の脳に届いたような気がした。空間が、色が差したように明るく輝く。すべてが錯覚で、私が見たいと思う物なのかも。しかし私はすでに確信し、涙を堪えながら顔をほころばせた。


「本当にバカだなあ…」

 私の声は彼に届いただろうか。






 妙な感覚に目を覚ました。

 寝苦しさを感じ、ずれてしまっていた枕の位置を正す。薄く瞼を開くと部屋は真っ暗闇。まだまだ早朝とも言えない時間帯だ。

 なぜこんな時間に目覚めてしまったのだろう。明日も授業があるのだから、早く寝てしまわねば。


 毛布を被り直し、大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。

 機械音は一つもなく、窓の外から葉擦れ音が微かに鼓膜を震わすだけ。

 すぐに眠りに落ちてしまうだろう。思っていたはずなのに、数分も経たないうちに目はしっかりと冴え、閉じていることが苦痛に感じるまでに至った。


 のっそりと起き上がり、足を擦り合わせながら靴を履いた。

 この胸の底のざわめきはなんだろう。



 そっと扉を開け、廊下の左右を見渡す。一定の感覚で蝋燭が淡く道を示している。人の姿はない。

 ベッドにもう一度入ってしまおう。頭から毛布を被って眠ってしまおう。心の中の自分は必死にそう訴えているのに、体はほしいままに外へと出て、静かに、それでいてひどく焦った足取りで階段を駆け下りていった。



 目的地に近づくにつれ足の往来は早まり、心臓が鈍く激しく打ち鳴らされる。

 足が向いた先は三階の女子トイレ。たどり着いた頃には、おかしな汗がにじんでいた。たどり着いた勢いで扉を開けてしまいそうになり、寸でのところで衝動を抑える。

 荒く浅い呼吸を何度も繰り返し、どうにか最低限の落ち着きを取り戻す。だが、きちんと機能している思考はほんの一割にも満ちていない。

 胸を押さえ、もしもの時の備えて目をいつでも閉じられるように心構えをしながら、静かに扉を引いた。


「―――…」


 中には誰もいなかった。
 ほっと息をつき、杞憂に終わったことを喜ばしく思う。

 さあ、部屋に戻ろうか。気を緩めた矢先、いまだ緊張の解けていなかった鼓膜が何者かの足音を捉えた。一瞬でパニックに陥り、たった今覗いたばかりのトイレに飛び込む。来ないだろうと思っていたのに、迷いなくこちらに向かってくる足音に焦り、ぐるりとトイレを見渡し、個室の陰に身をひそめた。戸は閉めない。

 相手も足音は出来るだけ立てないように慎重になっているのがわかる。


 やがて音はトイレの前で止まり、しばらくの間隙の後、空気の揺らめきで何者かが女子トイレに侵入してきたことが分かった。

 激しく鳴る鼓動が相手にまで聞こえてしまっているのではないか。震える息が漏れる口元と胸を押さえ、相手の動向を探る。


 不意に、トイレの中心…洗面台の当たりを中心にして放たれる、ぼんやりとした光が私が息を潜めている個室をも照らした。

 何者かの衣擦れ音と私の呼吸音しか聞こえない。


 相手が何者か、この目で確認しなければ。

 緊張で視界が揺れた。

 早く、早くと急かす心。今度は心の抵抗が勝り、体は個室の壁に縫い付けられたように微動だにしなくなった。


 目をぎゅっと閉じて見えない重圧に耐えていると、馴染まない、空気が漏れるような音が耳を、脳を撫ぜた。身の毛がよだつ音だった。
 その音が止んだ途端、重いものが動く音がし、やがて人の気配と淡い光が遠のいた。


 しばし呆然としていたけれど、いつのまにか自由に動くようになった体を個室の壁から離し、そっと、外の様子を覗き見た。やはりいない。

 躊躇しながら個室から出て、不安で溢れる感情をそのままに洗面台に駆け寄った。


 そこには、ぽっかりとした穴が開いていた。

 頭の中で様々な声が飛び交い、急に静かになる。


 私は、その穴に飛び込んだ。






 無事穴の底で着地し、周囲に人がいないのを確認する。
 おそらくいるとしたら。

「トム…」

 自分の唇からこぼれた声があまりにも情けなくて、胸を占める恐怖に打ち負けてしまいそうになった。

 震える足を叱咤し、足元を探りながら静かに進む。

 たしかこの先にも、もう一つ扉があったはずだ。トムが通った後、扉が閉まらないうちに私も通ってしまわなければ。

 暗く寂れた地下で、シャツとズボンという寝巻の出で立ちの自分は、かなり場違いだった。


 間もなくもう一つの門までたどり着いた。幸いにもまだ開いている。

 ここまで来たのならばもう後に引くことはできない。できるだけ、自分の身を守る策を弄しよう。




 扉をくぐると、ぽっかりとした大きな空間に出た。ずっと先には人の顔を模した大きな石像が待ち受けている。石像の目の前に、一人の青年が佇んでいるのが見えた。
 その後ろ姿を見て、胸がきりりと痛む。

 己の眼前にあるものをしかと目に焼き付けんとするかのように振り仰いで石像を見つめる姿は、いつにも増して生命力に溢れていた。

 いよいよ歯の根が合わなくなるほどの震えが全身を襲う。
 自分の体を抱くようにすると、そのままうずくまって気を失ってしまいたくなった。

 行かなくては。

 恐れで拭っても拭っても流れ出す涙。こんな姿をトムに見られてはバカにされてしまう。


 自然と後ずさろうとする足を無理矢理前に踏み出し、一歩一歩、体を支えながら進む。

 まだ数メートルも進んでいないであろう時、無心に仰いでいたトムの視線が下がり、三つ目の固く閉ざされた扉へと向けられた。脳内で警鐘が激しく鳴り響く。

 空気の漏れるような声。言い終えると同時に像が重い音を立ててゆっくりと動き始めた。


 走らなくては、間に合わない。


 パチリと自分の中で何かが弾け、あれだけ重かった足が急に自由になり、私はなりふり構わず駆けだしていた。

 彼が私の存在に気づいたのは、私がすぐそこまで迫り、扉が完全に開いてしまう直前であった。


「●●…っ!?」

 驚愕に目を見開き身を引く彼に飛びつき、きれいに整っている襟元にしがみついた。

「トム、トム、トム」

 動揺を隠しきれていないトムは、ただ名前を呼びながら襟元を掴んで揺らす私を呆然と見下ろしている。

 頬を温かいものが次々と伝い、視界も定まらない。それでも、彼の黒い瞳をしっかりと見つめ続けた。


 開かれた扉の奥から、不気味な、這いずる音が響いてくる。もうしばししたら、私も引き裂かれるか睨まれるかしてしまうのだろう。


 腹の底から噴き出してくる恐怖で、威勢よく彼の襟をつかんでいた手に力が入らなくなる。足も震えていることだろう、髪は乱れ、顔は醜くなっていることだろう。

 ついに指先に力がほとんど入らなくなり、最後の足掻きで、だらんと垂れ下がるトムの左手を両手で取った。

「トム、違うよ」

 嗚咽でまみれる言葉が相手に届いたかなんてわからない。

 視界の端からぬっと現れた大きな影に腰を抜かし、へたり込んでしまった。空気を震わす鳴き声が、こちらを見ろと促してくる。

 絶対に見てはいけないのに、見たらどうなるかわかっているのに、私の顔は勝手にすぐ隣まで来ている大蛇の目を見上げようとしていた。

 鈍色のうろこを視線で追い大きな口が見えた時、急に視界が暗転し、体から力が抜けてその場に倒れ伏した。


 急速に遠くなる意識の中で、二つの音が鳴り合っていた。






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