秘密の部屋の入り口を見つけて以来、授業外の時間にできるだけ三階の女子トイレに来るようにしている。さすがのトムも、生徒たちが活発に動き回っている昼にはここには近づかないであろうと踏み、特に夜に目星を付けて、例の水道の前で見張りをしていた。といっても、女子トイレなんてすることが何もない。三日もすれば飽きがきた。四日目からは教科書を持ちこみ、五日目からは水道の前ではなく、個室の一つを陣取って教科書を眺めていた。

 七日目の今日。変身術の教科書が膝から滑り落ちた音でハッと目を覚ました。転寝してしまったらしい。座ったまま寝てしまって凝り固まった体をほぐしながら教科書を拾う。落とした拍子に、あるページに折り目がついてしまった。

 個室から出て水道を確認しに行く。開かれた形跡はない。


 もうとっくに消灯の時間は過ぎてるだろうな。私も部屋に帰ろう。教科書からはみ出したプリントを挟み直しながら、廊下と女子トイレを繋ぐドアを引いた。



「…」

「…何してるの、トム」

 扉を開けてすぐ目に飛び込んできたのは、半端に右手を挙げたまま後ろに仰け反るトムだった。よほど驚いたのか、私の顔を見てトムは口元を手で覆い目を泳がせた。

 あ、え、と言葉にならない声を小さく発し、だんまりをして数秒。口を覆っていた手を落とし、冷静さを取り戻した瞳で私を見据えた。


「見回りだ。お前こそ何をしている」

「見回り?」

「監督生の仕事。お前はここで、こんな時間に何をしている」

 話をそらそうとしたが、そううまく乗ってはくれないか。

「勉強」

「トイレでか」

「ここ、人あんまり来ないし、静かだから」

「図書室に行けばいいだろう」

「夜は開いてないし」

「…へえ」

 訝しむ視線を浴びながら廊下に出る。彼の視線が一瞬、トイレの中に向いた。危惧されていたことが裏付けされたような気がして指先が冷たくなる。教科書を取り落してしまわないよう、しっかりと抱え直した。


「見回り、終わってないの?」

 無理矢理トムの視界に捩じり入る。彼は鬱陶しそうに眉をひそめた。

「ああ。まだ上に行ってない」

「一緒に着いていってもいい?」

「…かまわないよ」


 トイレには二度と目をくれず、あっさりと背を向けて廊下を行ってしまう。よくしゃべるようになってくれたと思ったが、こちらの歩調など顧みない歩き方に壁を感じずにはいられなかった。







 四階から五階の空き教室を一つ一つ戸を空けて、生徒が残っていないかを確認する。広いホグワーツではなかなか骨が折れる作業。他の監督生との分担作業であるらしいが、毎日これを任されてはサボる人も出てくるのではないか。

「サボらないような人を、監督生に選んでるんじゃないかな」

 おっしゃる通りだ。


 トムの担当は五階の一角までらしい。とある空き教室の中を確認してから、来た道を戻り始めた。もちろん着いていく。すぐそこに私の部屋があるけれど、今ここで彼を一人にして事が起きたらどうしようかと思ったからだ。


「トムは監督生に選ばれてどう思った?」

「どうって?」

 一体何を聞くんだ、という視線をもらう。

「嬉しいとか、面倒だとか」

「特に何も」

 色のない表情。私には、嘘か本当かを見抜くことはできない。本当に”特に何も”感じなかったのかもしれない。ただの間を繋ぐ会話なのだから、深読みばかりしいていては身を滅ぼしてしまいそうだ。
 私の相槌が静かな廊下に尾を引いて吸い込まれ、後味の悪い空気を残した。

 会話がないまま階段に差し掛かり、二段先を行く彼の頭を見つめる。このきれいな黒髪は彼が憎んで止まない父親譲りの物なのだろう。秘密の部屋を開いた後、トムは自身の父親を殺害する。彼が直接手を下すことになる、はじめての人。

「ねえトム」

 返事はない。かまわず続ける。


「この間のこと、ずっと謝りたかったんだ」

 昨日のことのように思い出せる。身の振りに長けているはずの彼の蒼白とした顔。

「多すぎてどのことかわからない」

 四階から三階へ降り立った。今日はもう女子トイレに寄るつもりはないらしい。私がいるから当たり前か。心の片隅にも秘密の部屋のことがないかのような、さらりとした身のこなしだったため違和を感じてしまった。

「あの部屋で、二人きりで話したことがあったじゃない」

 直接杖を向けられたのはあれっきりか。赤い火花の散る瞳を見ることは少なくなったけれど、同じくらい目を合わせてくれなくなった。

「ごめんね」

 階段を下る歩調が少し乱れた気がした。私の、反応をしてほしいという願望が、そう見せただけかもしれない。


 やはり返事はなかった。





 月明かりの射さない地下。廊下の端々まで燭の灯が届かず、冷たく息苦しい空気が立ち込めている。夜目の効かない目を凝らして先を見ると、スリザリンの談話室へ通じる扉が見えた。これ以上私は行けない。足を止め、寮の扉へまっすぐ向かうトムを見送る。返事がなくともおやすみくらいは言おう。口を開いたとき、トムの声が重なった。


「僕は、お前が嫌いだ」

 彼は足を止めていた。

 いきなりなんてひどいことを言うんだ、と憤ったのはほんのひと時であった。言い返そうとして力んだ肩から、すとんと力が抜ける。いつもはきれいに伸びている背筋が自信弱く丸くなっているのを見て、怒りよりも他の感情がじんわりと胸の中に広がった。

 放っておけないじゃないか、突き放せないじゃないか。


 見られてもないのに、トムの背中に微笑みかける。

「私は、好きだよ」

 嘘じゃない。彼のことを嫌っている心など、一片もない。

 トムはたまりかねたようにこちらを振り向いた。眉根を寄せ、憎々しげに、悲しげに私をねめつけた。

「そんな言葉、何度も聞いた」

 歯と歯の隙間から漏らすような小さな声。微かな声なのに耳孔を貫いて、脳に強く刻まれた。彼の百の感情が、その一言に含められていた気がした。


 再度声を投げかける前に彼は背を向け、合言葉を口早に告げて暗い談話室に消えてしまった。







 とぼとぼと階段を上りながら、身の内にとどまってはくれない意識を手繰るように寄せる。


 驚いて仰け反り、返事をせず、嫌悪をぶつけ、泣きそうな。どれが本当のトムなのだろうか。全部嘘で、私を弄んでいるだけなのだろうか。泣きそうに見えたのも、私の願望が見せた幻覚なのだろうか。


 沈む心を無理矢理掻き立てようと、頬をパンと叩き気を引き締める。

 トムのあの様子、おそらくもう秘密の部屋の場所を突き止めたと見て確信していいだろう。

 時はすぐそこまで迫っている。
 絶対に部屋を開かせてはならない。たとえ杖を向けられても。


 湿り気を帯びる瞳を瞼で覆い、思い切り空を仰いで鼻をすすった。そっと目を押し開けると高い高い天井が私を見下ろしていて、まるで地の底へ引っ張られているかのような錯覚を覚えた。






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