夢を見た。壁も天井もない真っ白の空間で、実体のない何かにどこまでも引かれていく夢、前にも見た夢。落ちているのか、引かれているのかわからない。抗うこともせずに引力に身を任せていた。 終点には何があるのだろう。首を回し、行先をその目に…。 「…」 眩しさに瞬きを繰り返す。昨夜、カーテンを閉め忘れてしまっていたようだ。日差しが直接顔を射している。 寝返りを打って、再び眠ってしまおうとして数秒。転げ落ちるようにベッドから降りた。 この陽光、完全に昼。 「しまった…」 毎朝かかさず彼らと朝食を摂るようにしていたのに、ここでまさかの寝坊とは。 寝巻を脱ぎ捨て急いで着替えているうち、今更焦っても仕方がないなと冷静になる。とりあえず制服に着替えてしまおう。 シャツの襟を正しながら、窓の向こうを一瞥。この様子では昼食の時間も過ぎていそうだ。空腹を感じ始める体を意識しないように、寝癖を撫でつけることに専念する。いくら撫でても直らない寝癖に苛立ち、頭をぐしゃぐしゃとかき回してため息をつく。今日は何をしてもうまくいきそうにない。 最後の授業くらいには間に合うであろうか。教科書やら羊皮紙やらを鞄に詰め、部屋を出た。 今日はダンブルドア先生の授業もあったというのに。ああ、なぜ寝坊してしまったのだろう。ダンブルドア先生が教壇に現れる直前までの、トムの眉間の微かな峡谷を見ることもできなかった。授業が始まったら憑き物が落ちたように先生の一挙一動に集中し始める姿が、とても不思議でかわいらしいというのに。 惜しいことをした。引きずるような足取りで三階に降り立つと同時、目の前を一人の女生徒が走り横切って行った。 普通ならば気にしないところだが、何せ彼女の顔が涙と鼻水でくしゃくしゃであったのを見てしまったせいで、興味を隠せなかった。 ダンブルドア先生の授業はないし、気分も乗らないし、授業には出れなくてもいいかもしれない。サボりを心に決めた私は、彼女が鬼の形相で扉を開け中に飛び込むのを確認してから、そっと後を追った。 廊下の端に位置する女子トイレ。 入ると目の前には円柱をぐるりと囲むように設置された手洗い場、その奥に個室がいくつか並んでおり、内一つが固く戸が閉ざされていた。すすり泣く声が聞こえてくる。人の泣く声というものは、いつも不安な気持ちにさせる。 話を聞くくらいはできるだろうか。あわよくば、これを機に友人を作れるかもしれない。下心を持ちながら、すすり泣きの漏れる個室に近づいて数歩。ぴたと鼻をすする音が止み、「誰!?」と鋭い声が鼓膜をつんざいだ。驚いて足を止める。 「ご、ごめんなさい。泣いてるのを見かけて、どうしたのかと思って…」 「私を笑いに来たのね!出てって!」 「そんな、違うよ」 「うるさい!うるさい!」 キンキンと脳を揺らす声を出す子だ。人が気にかけて来ているのに、そんな物言いをしなくてもいいじゃないか!さすがにむっとして出ていこうとした私だったけれど、再び溢れ出す泣き声に気づいて、できなくなってしまった。 踵を向けかけていた個室にもう一度足を向け、目の前まで行く。中の人は拒絶せず、たださめざめと泣いていた。 相手を刺激しないよう、優しく語りかける。 「本当にあなたをからかおうと思って来たんじゃないの。一人になりたいのなら、すぐに出ていく」 扉から応答はなく、鼻をかむ音だけがした。 「私、●●・××っていうの」 「××?それって例のスクイブの」 ホグワーツの噂では、私はスクイブということになっているらしい。スクイブというか、ただの人間なんだけどな。 それなりに目立つ行動をしていると自覚しいているから、名を名乗れば反応をしてくれると思ったが、うまくいったようだ。 「そんな噂、流れてるんだ」 「いろいろ流れてるわよ。ディペット校長の孫で、スクイブと信じられない校長が無理矢理ホグワーツに入学させただとか、トムに一目ぼれして彼を追ってホグワーツに編入してきた気色ばんだ女だとか、本当は魔法省から送られてきたすごい魔法使いで、ホグワーツの生徒を物色して才ある生徒を探しているだとか」 「何それ…」 あまりにもぶっ飛んでいる考察に顔が引きつった。トムに一目ぼれ云々は、自分の行動を顧みれば仕方のない噂であるけれど、屈辱的である。彼らの耳にも少なからず入っているであろうということを思うと、頭を抱えたくなった。 「どれが本当なの?」 鼻声ではあるが、もう涙は止まったよう。先ほどまでの悲観した声は何処、興味一色の声音に、安心と苦渋の気持ちがない交ぜになる。 「全部違う」 「えっ!」 じゃあ、と続けようとした彼女を、「ちょっと待って」と制する。 「その前に、そこから出てきてほしいな。話しづらいの」 「わかったわ」 あっさりと了承した彼女は、鍵を外し個室から出てきた。 ずんぐりとした体形。分厚い眼鏡の奥の目が泣き腫れている。レイブンクローの生徒のようだ。 彼女は私の姿をもの珍しそうに眺める。 「本当に"寮無し"なのね」 独り言と解釈し、軽く微笑むだけに留める。 「あなたの名前は?」 「私は、マートル」 私は今現在のホグワーツの興味の対象であるらしい。来たばかりに比べれば噂の勢いは下火になってきたものの、何かと新しい情報と騙られて、根も葉もない噂がそこかしこで囁かれているとか。 皆事実を聞きたがってはいるが、マルフォイ家やブラック家と繋がっていて、下手に手を出すと面倒なことになる、という信じられない噂があったせいで、下手に話しかけることができないでいたと。一体どれほどのうわさが流れているんだ。 「皆、全部を信じてるわけじゃないわ。でも、どれが本当かわからないでしょう?」 「そうだけど…」 凭れている洗面台に体重を深く預け、その噂を聞いてアブラクサスやオリオンがどれだけ憤慨したかを想像し、頭が痛くなった。 「それにしても、残念だわ。●●は校長の孫でも、すごい魔法使いでもなかったのね」 目に見えてつまらなそうな顔をするマートル。私だって、噂通りだったらもっと楽だったのにと思う。 「魔力が弱いから正式な生徒として扱えない、ってだけ」 これも嘘だけれど、バカ正直に「マグルです」なんて言えない。 唇を尖らせるマートル。そんなに私に、トムの追っかけであったりブラック家やマルフォイ家と繋がっていてほしかったのだろうか。きっと答えは是で、理由はおもしろいから、なんだろう。 (それにしても) こんなところでマートルに会ってしまうとは。 彼女の名前を聞いたとき、心臓が止まってしまうかと思った。直後に、洗面所に駆け寄って一つ一つの蛇口を確認してしまい、マートルに不審がられてしまった。 今私が腰を預けている洗面台の蛇口。ひっそりと彫られた蛇の紋様。間違いない。 陰気な雰囲気を掲げつつも楽しそうにしゃべってくれているマートルは、この下に住む怪物に睨まれ、死んでしまう。そして、トムの分霊箱作成に利用されてしまう。 幸いにも彼女はまだ生きている。まだ秘密の部屋が開かれていない証拠だ。 しかし、その時は近い。 もうトムは秘密の部屋の場所を特定してしまったのだろうか。特定してしまったのなら、いつ行動を起こすのだろうか。 いくら監視しているとは言っても、今日のように寝坊したりもするし、二十四時間常について回ることなど不可能。 ならば…。 「ねえ、マートル」 「なあに?」 「よくここに来るの?」 「…嫌なことがあった時はね」 沈むマートルの横顔を見て、私は洗面台から背を離し、マートルの右手を取った。 「嫌なことがあった時は、ぜひ私の部屋に来て。私、五階に部屋があるの」 面食らったマートル。分厚いレンズの向こうで派手に瞬きがなされる。 「…●●。あなたって、恥ずかしい人ね」 「え」 「五階ね、わかったわ」 「恥ずかしいってどういう…」 マートルはキャラキャラと笑って、答えてはくれなかった。 着いて回る監視は百パーセントではない。 ならば、女子トイレに近づかないように、この場所を護ればいいではないか。 夕食。 マートルと一緒に大広間に入ると、多数の視線を感じた。マートルが首をすくめる。 私といると彼女はゆっくりと食事もできないだろう。マートルに「じゃあ、また」と告げ、私はいつものようにスリザリンの席へ行く。アブラクサスの隣にトムが座っていたため、オリオンの横に割り込んだ。正面のアブラクサスは私を見るなり舌打ちをし、トムは相変わらずないものとしている。 座るや否や、オリオンがにやつきながら顔を覗き込んでくる。 「いないと思えば、オトモダチができたみたいじゃん。よかったな、お前にはお似合いの奴だ」 この人は、人を煽ることしか口にできないのだろうか。 私があからさまな無視をしたことが不愉快だったよう。オリオンは吐き捨てるように「気色悪い」と呟いた。 アブラクサスの肩越しに、レイブンクローの席の端で一人で食事をしているマートルの背中を見て、すべてが終わったら一緒にご飯を食べようと心に決めた。 その日初めての食事はとてもおいしかった。一心不乱に貪っていたせいで、トムが時折探るような目で私を見ていたことには気が付かなかった。 |