じゃあ、後で。 トムはきれいに微笑んで席を立った。彼に倣ってアブラクサス、オリオンも去る。 ぼうっと物思いにふけっていたが、また自分が目立ち始めていることに気づき、慌てて目の前のパンを三つほど引っ掴んで、逃げるように大広間を出た。 とぼとぼと階段を歩きながらパンを口に放り込む。 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。自分の首を絞めるようなことを…。 話って言ったって何を話すというのだ。彼らの得になるようなことは、絶対に話すことはできないというのに。 それでも、彼の目を見た瞬間、言わずにはいられなくなった。 まさか私は、凶悪な魔法使いになる彼を憐れんでいるのだろうか。憐れむ余地などないのに。トムは無差別に多くの人を殺して…。 いや、まだ殺してない。まだ秘密の部屋の場所すら突き止められていない。 再び、腹の中に何かが落ちた。 (止められる…?) それは恐ろしい発想だった。 心臓が脈打ち、飲みこみきれないパンが口の中で溶ける。 まだ何も起きていない。誰も死んでいない。 彼はこれから秘密の部屋を見つけ出し、マートルを殺し、彼の父方の一族を殺し、世界を闇に貶める。まだ、まだ起きていないのだ。裏では動きがあろうとも、まだ。 私に何かできるだろうか。未来を変える何かが。 身震いをする。 確かな場面で邪魔をすれば、今は見逃されているが必ず殺される日が来るだろう。 しかし今私は理由もわからずここにいる。もしかしたら夢かもしれない。殺されたら目が覚めて、なんだ夢であったのか、と、いつもの生活に戻るのかもしれない。 (夢じゃなかったら?) 自分が身を投じることになるかもしれない暗澹たる世界を想像して身震いするも、脳裏にこびりついた、トム・リドルに対する憐みの情をずっとずっと感じていた。 五階端の部屋。ここに来ると昨日の緊張を思い出す。 押し込んだパンが胃の中できりきりと暴れる。やっぱり食べるんじゃなかった。まず、話がしたいなんて言うんじゃなかった。 諦めて、無難に乗り切ろう。 ノックをしようと手を振り上げた。 「入りなよ」 背後から声がかかり変な声が出てしまった。 振り向くと、トム・リドルが一人で立っていた。 「二人は邪魔だろうと思って置いてきた。さあ」 早く入れ、と促される。人に見られることを危惧しているのだろう。私だって、彼と二人きりでいるところなんて誰にも見られたくない。 半ば転がり込むように中に入ると、室内は変哲もないただの空き教室であった。長机が三列に、黒板に対して平行に並べられている。 トムは中列最前の机に寄りかかり、腕を組んだ。 「適当に座りなよ」 行き場をなくして扉の前に突っ立っていた私を誘う。いい、と断って、いつでも外に出られる位置に立ち尽くす。トムは無理強いすることはなかった。 「それで、話って?」 「えと…、昨日ここで話してたこと、とか」 「ああ」 トムは目を細めた。 「あの話を聞いて、君は何を思った?」 「何って、危ないことだって」 「きみは、秘密の部屋を知ってるんだ」 しまった。 「知ってるっていうか、噂で聞いただけというか…」 「噂?きみがココの噂を耳にする機会なんてあったかい」 「…」 すごい圧迫感だ。 彼は畳みかける。 「きみがココに来て、まだ二、三日だろ?」 温度のない声、余計に私を焦らせる。 「どうして、ここにきて二、三日だって知ってるの」 「忘れたの?お前、降ってきたじゃないか」 「降って…」 フラッシュバックする落下感。 迫る地、一人の人。その人が何かをして、落下を止めてくれた。 あんな状況だったせいで相手の顔をよく記憶できなかったが…、トムであったのか。医務室で一度尋ねた時には、知らぬ存ぜぬで素っ頓狂な声を出していたというのに、あれは演技であったのか。 「得体のしれない奴と顔見知りだなんて、面倒なことが起きるに決まってる。知らない、で通すのが一番楽なんだ」 トムは底の知れない瞳で私を射抜いた。足に根が生えてしまったのか、身動きが一切取れなくなった。彼はゆっくりとこちらに近づいてきた。 「なぜ、秘密の部屋を知っている。なぜ、僕やアブラクサス、オリオンの名を知っている」 見上げる位置にまで迫った。 「他に、何を知っている」 「し、知らない」 「うそだね」 「知らない」 首元に何かが突きつけられる。 「勘違いしてもらっては困るけれど、きみに手出しできないわけではないんだよ。使えないと判断すれば、いつでも能無しにできる。今でもいいけど?」 せせら笑う彼の歪んだ微笑みを見て、せりあがっていた恐ろしさが他の感情に切り替わった。 そっと、杖を握る彼の左手に触れる。微かに丸くなる目。 「怒らないでほしいんだけど、トムってすごく、かわいそう」 形のいい眉が神経質に動いた。黒かった瞳の奥に赤い火花が見え、自分がやらかしたことの重大さに気づく。 「『かわいそう』?この僕が?はは、おもしろい冗談だ」 嘲笑が一転、昂ぶるものを寸でのところで抑える厳しい表情。 「お前杖は持っていないのだろう?魔法は使えないのか?…その様子じゃ当たりみたいだな。マグルの分際でなぜこんなところに居座っていられるのかは知らないが、発言には気を付けろ。殺すぞ」 「…ごめん」 「謝罪をしろと言っているんじゃない」 トムは私の手がいまだにまとわりついていることに気づき、ふり払って数歩距離を置いた。 再び杖先を向けられる。 自分が有益な存在であると示さなければ、何かされる。 ようやく沸いた焦りに任せ、私は口を滑らせた。 「秘密の部屋の場所を知ってる」 命乞いだと思ったらしい。トムは嘲笑った。 「もういいよ。どうせうそだ」 聞き入れない。幸か不幸か。今の状況を考えると確実に不幸と言える。何か、何か彼の気を惹くことはないのか。 口をついて出たのは、琴線とも言える単語。 「孤児院」 杖先がぶれる。 彼の唇が青ざめた。 「孤児院出身だって、知ってる」 自室に入り、ベッドになだれこむ。 助かったけれど、喜べない。 ベッドで膝を抱いて丸くなる。 命乞いにしても、私はあまりにひどいことを言ってしまった。 彼は真っ青な顔で杖をおろし、メリハリのない足取りで扉まで寄り、廊下に出た。 トムが孤児院生活を疎んでいたことは知識として知っていたし、近い未来、孤児院に帰りたくないがために他の生徒に罪をなすりつける事象も待ち受けている。 でも、あんなに自失状態になるなんて、それほどまでに孤児院での生活に絶望を感じていたなんて思いもしなかった。家族が嫌いだから家に帰りたくない、その程度だと思ってたんだ。 何も言わずに出ていった彼の背中は、打ち捨てられた小さな子供に見えた。 私は確実に彼を傷つけた。 同じくらいの年のはずなのに、どうしてこんなに憎悪と怨恨にまみれた表情ができるのだろう。彼に杖を突きつけられた時、そう思った。 トム・リドル…ヴォルデモートは最初から最後まで悪で、幸せを脅かす存在としか思っていなかった。確かに私自身の命も脅かされた。 トムが、己の意志で闇に足を突っ込んでいることはわかっている。悪いことをしようとしていることも。 たとえ彼が望んでやっていることでも、放っておきたくない。自分の過去をつきつけられただけで、あんなにも絶望を湛えた表情をするのに。 エゴだ。 自己中心的な考えを嘲笑する自分もいたけれど、私の心はすでに決まっていた。 |