白いシャツ、濃いグレーのセーター、黒いスカート、それを覆うローブ。真っ黒のネクタイ。ポケットに杖はない。

 今後のことは考えても仕方がない、という結論に至り、さっそく支給された制服に袖を通した。サイズはいい。姿見がなくてどのようなものか確認できないのが残念だ。
 満足いくまで、揺れるスカートを眺めた後、次に興味がわいたのがこの城。もしこの場所が本物ならば、見学しないわけにはいかない。



 後ろ手でドアを閉める。廊下は静まり返っていた。右を見て左を。人はいないし端も見えない。
 そういえばここは何階だろうか。たしか医務室を出て、五回、階段を上った気がする。ええっと、医務室が一階で…あれ、二階だったっけ?回転階段は三階だったはずで…。

 こんな広い城において、曖昧な記憶で自分の居場所を把握しようとしたのが間違いだ。地図がないのならば、頼れるのは己の足のみ。悩んだ末、右の道に決めた。もし人がいたらここが何階かを尋ねよう。

 部屋や分かれ道、階段があるが、さらなる冒険をするほどの勇気は私にはなく、見送って真っ直ぐ進む。どうせドアを開けても誰もいないだろう。人の気配を全く感じないし。

 高い天井と年季の入った壁を眺めながら歩いていれば、永遠かと思われた廊下がすぐに終点を迎えた。

 こちらの道では特に収穫もなかった。次は部屋の左側の端っこを目指そうか、と踵を返したとき、すぐ横の空き教室から、微かに物音がした。

 肩が震え、浮いた踵をそろそろと床に戻す。物音は右の部屋から。物音、というより潜めた会話のようなくぐもった声。
 もしかして私は生徒よりも早く、ゴーストに面会する羽目になってしまったのであろうか。はたまた低学年の生徒がかくれんぼをしているのかもしれない。愉快なことを考えて気を紛らわそうとしても、まったく効き目がない。

 聞かずにそっとその場を離れればいいものを、人間というものは怖いもの見たさ、という性分を持ち合わせている。


 恐怖と好奇心を入り混じらせ、息を殺し、じりじりと扉に近づいた。一歩近づくごとに鮮明になる声。一人、二人…二人だろうか。
 ノブに少し触れて、いきなり部屋に飛び込み会話を中断させるのはマナー違反かと、すぐに手を引っ込め、ノックに切り替えた。

 軽い拳を握って振り上げる。


「―――で、秘密の部屋は」

「探してる。人が多すぎてあまり嗅ぎ回れない」

「間に合うのか?」

 拳と扉の隙間は一センチ。
 額に妙な汗が滲んで、縮み上がった喉から、少しずつ、少しずつ、湿った息を吐いた。
 心臓が飛び出しそうなほど派手に脈打っていのに、頭には一滴も血が巡っていないかのよう。徐々に思考を白くしていく。

 焦りを帯びた声を連ねていた二人の声が黙す。

 そこに、これまで聞いていなかった声がまた一つ加わった。焦燥している先の二人に対し、妙に落ち着いていて温度のない声だ。

「間に合うかどうかは大した問題じゃない。秘密の部屋は見つかれば利用する。必須なわけではない」

 その声の主はゆっくりと右に移動し、とある一箇所で止まり思考するように足を踏み鳴らして、再び左へと移動する。


「広い城だが、ヒントは十分に手に入れた」


 声を聴きとることに熱中しすぎて、気がつかなかった。声の主は扉一枚挟んだ目の前に佇んでいる。彼が扉を見ているのか、仲間を見ているのかはわからない。けれど、まるで蛇に睨まれたように体がすくんでしまった。


「どちらにせよ、マグルも、それに加担するやつも、皆滅ぼす」

 ―――逃げなければ。
 かすかに残った理性が勇気を奮ってくれたおかげで体の呪縛が解ける。
 それが不幸となってしまった。

 振り上げたままだった拳。ぶつかってしまった。
 かつん、乾いた音が響いて、部屋の中の緊張がどっとこちらのなだれ込んできた。

 逃げろ。

 足音なんて気にしない。私はばたばたとそこから逃げ出した。
 間髪いれず後ろでドア荒々しく開かれ、複数の足音が追ってくる。「待て」とか「止まれ」とか言えばいいのに、彼らは何も言わず、黙したまま足音だけを荒げている。まるで八方塞の囚人をわざと泳がしているかのような。いや、そんなはずはない。彼らは焦ってるはず。

 振り返って顔を確認したいところだが、今はそんな余裕はない。とにかく逃げることが最優先。


 頬に垂れたのが汗なのか恐怖の涙なのかそれすらも判別がつかない。

 人がいるところに逃げなくては。…階段だ。下に降りれば誰かに出くわすかもしれない。
 幸運なことに、数メートル先の右手に階段を見つけた。

 足を踏み切り思い切り方向転換する。首元でなにかがざわついた。曲がってはいけない。そう警鐘が鳴り響いていた。
 本能のままに急ブレーキを踏み、一歩を踏み出したら、そこに私がいたであろうという所で閃光が弾けた。閃光の飛沫が消える前にまた進行方向を変え、先に誰もいない廊下を行く。誰かの舌打ち。

 再び走り出して数歩。背中を見せるのはまずい、気づいたが私には剣も盾も逃げ場も、残されてはいなかった。

 終点の見えてくる道に絶望しながら無作為にジグザグと逃げ回る。閃光が髪を数本さらっていった。
 あの教室に逃げ込むしかない。最後の扉に目星をつけ、走りながら右手を伸ばす。

 狙って打ったのか。一本の光がその手に直撃し、電流を浴びせられたように手に痛みが走った。ひるんでのけぞった瞬間に、足同士がびたりと貼りついた。

 体はつんのめり、利き腕は動かない。とっさに体を丸め、衝撃を和らげ硬い床に倒れ込んだ。

「ぐ…!」

 打ち所が悪かったよう。肺から空気が押しだされひどくせき込んでしまう。咳をしながら足をばたつかせるが、くっついてしまっている足は外れそうにない。

 石の床を踏む冷たい音がして、揺らぐ視界をこじ開ける。三人分の足が走るのをやめてまっすぐこちらに向かっていた。


 殺される?

「殺すのか?」

「まさか。死体はどうするつもりだ」

「燃やすなりなんなり」

 名案だろ、と言いたげな声の主には答えず、先頭にいる人間が一歩踏み寄った。意を決して顔を傾ける。
 やわい照明を後ろに称えた彼の顔には、ほのかに影が差していたが、記憶の中の顔を一致させるのには十分だった。

 目が合ったトム・リドルは瞠目し、すぐに無表情になる。

「何こいつ」

 トム・リドルの後ろからひょこんと顔を出した男。さきほど、燃やそうとかどうのとか言っていたやつだ。

「知り合いか?」

 輝く銀髪のもう一人が小首をかしげる。
 問いかけられたトム・リドルは答えず、目を細め私を見下ろしている。

「お前どこの寮?何年?」

 トム・リドルを押しのけて前に出てきた、黒髪の男。屈み、私の顔を笑んで覗き込んでくる。人懐っこい瞳の向こうに泥が見えた。

 私が何も言わずにじっと睨みあげているのが、お気に召さなかったらしい。彼は眉をひそめ、私の髪を鷲掴んで無理矢理起こし、壁に投げつけた。頭をぶつけたけれど、恐怖が勝って痛みを感じない。じろじろと不機嫌そうに私を見ていた彼の目が、不意にある場所で止まった。

「見ろよ、こいつ寮無しだ。一年生みたいに真っ黒」

 一度他の二人に見えるように正面からどいた彼。銀髪の彼は興味深げに目を丸め、トム・リドルは変わらず、憎しみのこもった目で私を射ている。黒髪の彼はすぐにまた私の前方をふさぐ。

「お前がなんなのか知らねえけど、さっきお前が聞いたのは大事なことだからさ。さっさと忘れろよ、な?」

 突きつけられるしなやかな杖。額に痕が付くくらい強く押し付けられる。なんとも性格のひねくれたやつだ。

「俺は忘却呪文はそんなに得意じゃねえから、もしかしたら余計なところまで消しちゃうかもだけど…悪く思うなよ」

 ぐいと押され、私の恐怖心は限界に達した。目を閉じる。

「―――ラック」

 喉がからからでうまく声が出ない。

「なに?はっきり言わないと聞こえなーい」

 唾を飲み込み、再び開いた世界。

「オリオン・ブラック」

 しまりのなかった顔が瞬時に険しくなる。杖が緩んだ。

「なにそれ。何かの呪文?」

「アブラクサス・マルフォイ」

 銀髪の彼が眉をひそめる。再び目を見張っている男の肩越しに、ほのかに赤い目を細めて唇を結んでいる彼を見た。

「トム・リドル」

 ついに杖が離れた。

「な、なんだよこいつ。気持ちわりい」

 立ち上がって後ずさり、トム・リドルの背後まで引き下がった。
 正直、自信はなかった。トム・リドルの学生時代の仲間がどれほどいたのか、はっきりとはわからないから、本で読んだ知識と、彼らの子孫の面影の特徴からの予想でしか答えることはできなかったが…どうやら幸運にも私が挙げた名に皆一致するようだ。

「お前たち、何をそんなに怖気づいてる。さっき扉の前で、名前を立ち聞きしてたのかもしれないだろう」

 瞬きをした彼の瞳は黒だった。
 私と彼の間はほんの二メートルほど。
 医務室で会ったときは気がつかなかった、瞳の暗いところが鈍く光っている。

「きみの名前は?」

 表向きの顔、といったところだろう。わざとらしく爽やかに微笑むトム・リドルから目をそらす。

「…これからホグワーツで過ごすのなら教えてあげようか。たとえば、きみが先ほど聞いたことを他の人に言ったとして、それを信じる者は一人も、一人もこの学校にはいない。それどころかきみが異端者扱いされるだろうね。ココは"異端"には敏感だから」

 誰にも言うつもりなどない。そんなこと、とうに理解してる。
 私は命の保障などどこにもないのに、逆鱗に触れてしまうワードを口にした。

「ダンブルドア先生は?」

 トム・リドルから険しいものが流れてきた。彼の瞳の中で赤い火花が散る。

「いちいち、癇に障る女だ」

 低くなった声に場が凍る。どうやら私の挑発に乗りかかってしまったらしい。深い息の後、彼の声はまた平坦なもの。

「せいぜい、秘密を分かち合える友人でも作ればいい」

 トム・リドルは軽く杖を振った。見えない足枷が消え失せた。


「頭打ってたよね。医務室、案内しようか?」

 右手をつきながら壁伝いに立ち上がる。頭蓋の中で脳が揺れた。

「わかるからいい。ありがとう」

 言ってしまってから、はっとして口を噤む。礼を言う相手ではない。彼の言葉は明らかに嫌味であったではないか。
 調子の外れた顔をした彼らの脇を小走りで抜け、一身に視線を浴びながらさっき下りそびれた階段に足をかけた。







「…よかったのか?」

 オリオンが彼女の去った廊下を見る。

「どうせ誰にも言えやしない。リドルがさっき言ったとおり、言いふらしたとしても誰も信じないだろう。正式な生徒でもないようだしな」

「ぜってえ後悔するって。記憶消しときゃよかったぁって」

 アブラクサス、オリオンがそれぞれで応答。
 オリオンが言ったとおり、始末したほうがよかったのか。迷ったが、自分の中で出た答えは否だった。

 彼女はここの生徒ではない、よそ者だ。確実に初対面。
 二人の顔を見回す。それぞれが困惑していた。僕だってそうだ。
 彼らは、僕が彼女と、医務室で会うより前に顔を合わせていたことを知らない。僕以外、誰も知らないはずだ。彼女に問われた時もごまかした。

 彼女が二人の名前を知っていたのは僕らの話を立ち聞きしていたからだ、と理由づけできる。しかし医務室で、僕のファミリーネームを聞いて弾かれるように顔を上げた仕草はまるで、知った名前であったからのようではなかったか。さらには絶対に知るはずのない僕の名を囁いた。
 それに彼女は、確かに空から落ちてきたのだ。
 何を知っているのか、探る必要がある。だから今記憶を消すわけにはいかない。

 困惑に顔を険しくするアブラクサスと不満げに唇を尖らせているオリオンの視線を頬に感じ、お前らも寮に戻れと声をかけ、僕は彼女が駆け下りて行った階段からさっさと下に降りた。






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