眠りの海からふわりと浮上し目が覚める。そんなふうにぱちりと目が覚めた。 四方八方を乳白色のカーテンで仕切られた空間。遠い天井を確認した後に深く呼吸をする。肺を充たす空気は医薬品の香り、どこか私がいつも使っている消毒液類のものとは違っている気がする。 身じろぎすると体を覆う清潔な布がさらりと音を立て、固いスプリングのベッドが小さくきしみあげた。 空を飛んだ、というより落ちた。地面にぶつかったら死が確実の高さから。 落下地点に男の子がいて、ぶつかりそうになって、それで。 触れる芝生の柔らかさを思い出して頬に触れる。地面に寝転ぶのもたまにはいいかもしれない。 上体を起こす。腕を捻ってみたり首に触ってみたりして体調を診る。多少筋肉が強張っているものの異変はない。 気を失ってどれくらい眠っていたのか。ここまで誰が運んでくれたのか。ここはどこなのか。 落下の時に見えたあの古城…? カーテンで下界からさえぎられているため外の様子がうかがい知れない。 ベッドから抜け出し、足元にそろえてあった靴を音を立てないように履く。なぜか私が目が覚めたということを、周囲に勘付かれたらいけない気がした。 カーテンの一端をつまんで一瞬躊躇い、唾を呑んでから右にほんのちょっとずらた。人の気配を探る。どうやら見える範囲にはいないようだ。足音も話し声もしない。 音を潜ませながらそろそろとすべり出た。「姿勢を低くしながら出ればよかった」と後悔したけれど、好都合なことにやはり室内には私以外いなかった。 部屋は広いものだった。造りは保健室のようだが、私の通っていた学校のものとは比べ物にならないほど広い。まるで病院だ。 ひとしきり見回して、後方に出入り口と思われる扉を確認する。他に扉は…ない。 とりあえず外の様子を見ようと一歩を踏み出すと、思いのほか靴の音が響いて思わず息を止めた。大丈夫、この部屋には私しかいないんだから。心臓を落ち着けて、今度は少し足を忍ばせながら歩き始めた。再びベッドの戻るまでどうか誰もここに近寄りませんように。願ってるうちにあと数歩のところまで来ていた。 扉を睨みつけていると、突然視界がダブった。 頭からざっと血が下がっていく気持ち悪い感覚と共に、視界が黒く塗りつぶされる。地にちゃんと足がついているのかもわからなくなる。 おかしなステップを踏んで、体を支えてくれるものを探る。ふっと膝から力が抜けたとき、正面から重々しい開閉音がした。 「え?」 誰の声か。若い人のようだ。 「うわっ」 つんのめった私の突進をもろに食らったその人は二、三歩後ろに下がって衝撃を緩和し、ぴたりと立ち止まる。ただその人に凭れているだけでなんの支えも受けてない私はずりずりと下がっていく。また地に這いつくばる羽目になるのかと思ったとき、脇に手が差し込まれて無理矢理体勢を整えさせられた。 「先生!」 頭の上で彼が叫ぶ。遠くからばたばたと複数の足音が聞こえてきた。 「ごめんなさい」 ぐらつく頭を押さえて彼の胸に手をつきながら体を起こし、彼から離れようとした。が踏み出した一歩が前後あべこべで、彼の足を思い切り踏みつけてしまう。さらに再び訪れた眩暈のせいで傾いだ私の頭が私を支えてくれているその人の顎に激突してしまった。くぐもった声が頭上から降ってきた。 「…肩を貸すからつかまって」 立っているのもままならない私の腕を無理矢理つかみ、自分の首の後ろに回す。半ば引きずられるようにしながら、たった数メートルの距離を時間をかけて戻った。 彼が私をベッドに座らせたところで医務室の先生だろうか、女の人が慌てた様子で部屋に飛び込んできた。 「目が覚めたのですね。ありがとうございます」 前半は私に、後半は私をベッドまで戻してくれた彼に。 「具合はどうですか?」 「大丈夫です」 男子生徒の訝しげな視線が頬に刺さる。視線をやると目が合う前に彼は顔をそらしてしまった。女性が彼に何かを問いかけ、彼が何やらを告げると女性は頷き薬品棚に早足で向かった。 遠くで瓶のぶつかる音。近くも遠くもない距離にある彼と私の間に微妙な沈黙が流れる。 女性の後姿を見つめる彼の横顔。ひどく整った顔立ちをしていた。見たことがある気がするけれど、どこで。 ふいに、永久に続くかと思われた浮遊感が蘇った。髪が鞭のようにしなり首を打つ。呼吸すら吹き飛ばされる風圧。地に、一人の人に近づく。 あの人だ。 顔は覚えていないけれど、彼の纏う独特な雰囲気は間違いない。きっと、おそらく。 あの人が腕を振るうと私の体は落下をやめた。彼が何かしてくれたはずなんだ。 お礼を言わなければ。 「あの」 微動だにしない彼に、束の間聞こえなかったのかと勘違いしてしまった。相手はに文句なしに微笑んで首を傾げる。寸分の隙もない、完璧な微笑だった。ぞくりと肌が泡立つ。 「どうかした?」 「たしか助けてくれた、よね…」 「え?」 黒い瞳が丸くなる。相手から動揺を感じとり私は自身の勘違いを悟った。 「ご、ごめんなさい!私の勘違いだったみたい」 「よかった。うっかり物忘れしてしまったのかと思ったよ」 人のよさそうな笑みを浮かべる彼。 へへへと乾いた笑いを返す。いい人そうなんだけれど、どことなく圧される空気を持つ人だ。 必要なものが見つかったらしい、女性が二つの小瓶を持って戻ってきた。 男子生徒は白い歯を覗かせながら二つを受け取る。 彼らを眺めていると女性が私を見た。 「明日、校長方があなたと話をしに来ると思います。だから今日はゆっくり眠って、安静にしていなさい。お腹がすいたらカーテンの中からでも私を呼んでちょうだい」 校長…やっぱりここは学校なのか。 それにしてもおかしな制服だ。まるで真っ黒でひらひらした布を纏った彼はまるで聖職者のようだ。 「あの」 女の人が振り返ったので、違うと首を振る。彼を見ると、目が合ったその人は一瞬眉を動かした。とてもきれいな顔をした人だった。 「ありがとうございました」 顎に頭突きをかました上にベッドまで誘導してくれた。美人で性格もいいのだから、さぞかし女性に人気があるだろう。 枕の上で、会釈のつもりで頭を動かす。彼は、先ほどのしかめっ面はどこに捨てたのだろう、人好きのする笑顔で「気にしなくていいよ。お大事に」と返してきた。本当にいい人だ。 私がもう一度ありがとうと言うと、苦笑をもらした。 「さあ、あなたはもうお休みなさい」 女の人がカーテンを掴み、もうさっきのようなまね…脱走はするなと念を押してきたから、しっかりと頷く。私だってもうあんな辛いのはごめんだ。 彼女の意識が、私から彼に移ったらしい。片手間にカーテンを閉めながら彼に問うていた。 「あなたも早くお戻りなさい。 ミスター・リドル」 「『リドル』…」 復唱してしまったのは、それが私の知る名だったから。 吐息とも間違えるほどの私の囁きに、閉じてゆくカーテン隙間の彼ははっと私を見た。 「『トム・リドル』…?」 世界は乳白色に包まれた。 「…はい。瓶、今日中にお返しします」 「わかったわ」 離れていく二つの声。 私は頭まで毛布を被って脂汗を流していた。 空から見た古城、その奥の湖、広がる森、広間に集まる大勢の生徒、黒いローブ、魔法薬学、…トム・リドル。 世界が閉ざされる寸前、彼は瞠目し、唇を小さく動かした。 なぜ、と。 |