耳元で風が唸る。空を切る音は鳴り止むことなく鼓膜を震わせる。白い世界は度々途切れ、つかの間に広がる世界をすぐに乾燥する目を押し広げて見ようとした。

 悲鳴でも上げればいいのに、なぜだか絶叫マシーンに乗るときのようにぐっと息をつめて飲み込んでしまう。実際、悲鳴を上げても意味がないのだろうけど。

 考えろ。考えるんだ。この状況からどうやったら脱出することができるのか。しがみつく。何に?じゃあ泳ぐ。意味ないでしょ。魔法を使って飛ぶ。生憎私にそのような便利機能はついてない。
 風は温く丸みを帯びているはずなのに、私の頬を痛いぐらいに掠めてはまた髪をまきちらす。


 ふいに、先ほどまで切れ切れだった世界が完全に開けた。どうやら雲の群れを抜けたらしい。

 眼下に広がる濃い緑と光を反射する湖面、その中にぽつねんと建つ古城。今の状況を忘れ、まるで自分自身がこの景色を統べているかのような錯覚を覚えた。

 幻想は、強い風に体を煽られ吹き飛ばされる。改めて下界を見下ろし、絶望した。このまま落ちれば私は地面にぶつかりぺしゃんこになってしまう。絶対に痛い。死ぬなら一瞬がいいけれど、それ以前に死にたくない。

 喉まで迫っている恐怖が本格的に暴れだし、うぐぐと変な声が漏れた。涙は溢れる前に風が乾かしてしまう。

 どう考えても、助かる道はない。

 心臓の拍動回数には限界があると聞いたことがあるが、もしかしたら体が粉微塵になる前にその限界に達してしまうかもしれない。
 気を失えたらどんなに楽だろう。願いとは裏腹に頭の血は痛みを感じるほど速く巡っていた。
 走馬灯と呼ばれるものが頭の中を駆け巡り、自分の役立たずな脳みそにこんなにも多くの記憶が圧縮されていたのかと感心する。

 ひくりと喉が震える。突きつけられた運命を呪って、女の子が口にするなんてはしたないと言われそうなことを呟いた時。たった今罵倒したばかりの、運命の分かれ道に到達した。

「うっ、わ」

 突風。発したはずの声すらも私の耳に到達する前にかき消されてしまうほどだった。
 無意識のうちに閉ざしていた視界を再び広げたとき、広大な緑の中に点にも見える影を見出した。

 人…?

 おそらくそこは落下地点。嫌な予感と呼ぶよりも確実なそれ。
 瞬く間に影に近づく。確かに人の形をしていた。

 かっと頭に血がのぼる。自分だけならともかく、まったく関係のない人まで巻き込んでは死んでも死に切れない。

「そこどいて!」

 声は空に流され自分の耳にも届かない。
 どいて、気づいて。叫んでも喚いても、近づくその人は空を仰ぎ見ることはない。

 だいたい、なんでこんなところに突っ立ってるのよ。人気のないところ、たった一人で。

 もう数百メートルもない。
 まるで引力が働いているかのように、私とその人の距離が縮まる。
 巻き込んでしまう。怖い。こんなことで死にたくない。嫌だ。
 焦燥が最大値を超え、風が浚いきれなかった涙がこめかみに流れた。

「気づいてよ、バカ!!」

 相手の顔が目視できたのは、彼が瞬間的に顔を上げたから。
 目を見開いた彼がとっさに何かを取り出して振るう。風を切る感触がぴたりと止まった。

 さっきまでは聞こえなかった鳥のさえずりと、どこか遠くで言葉を交わすざわめきが耳孔に響く。

 人一人分の距離もない位置で呆然と顔を見合わし、彼が少し青い顔のまま息をつくと私の体を支えていた不可視の力が消え去り、柔らかい芝生の上に転がり落ちた。
 日の光を浴びて温まった芝生とその下の湿った土を頬に感じ、荒ぶっていた脈拍が徐々に治まる。それと同時に意識が遠く離れてゆく。

 ぼやける視界の中に黒い物があることに気が付いた。革の書物。自分のものではないかのような腕を動かしてそれに手を伸ばすが、触れる寸でのところで他の腕が視界に入り奪うように書物を拾い上げた。すぐに芝を踏みしめる音がし、彼の足音が遠ざかって行く。

「それ、だめだよ」

 明滅する意識でぽろりと口を衝いて出た言葉。潤いの欠片もない声は己の耳でも風のそよぎと聞き紛うほど。

 足音は一瞬乱れたような気がしたが、止まることはなく、やがて木々のざわめきに飲み込まれた。






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