落ちていく。

 暗い暗い水の中。

 底も先も見えぬ羊水を揺蕩い抵抗もせずに流れていく。下に下に。


「・・・」


 ゆるゆると瞼を開けば己の足が虚空の地に着いていることに気がつく。

 死んだ。

 あんなにあっさり。

 ハオに殺されたのかな。よくわかんないや。


 死ぬことを自ら望んだのに、この胸に降り積もる未練。

 本当は死にたくなんかなかった。


 痛みなどないはずなのに貫かれた胸が激痛に燃え、焼かれた手足が爛れていく。

 黒い気持ちにさいなまれ泣きたい気持ちに襲われるけど、涙すら枯れ落ちてしまった今では泣くこともできない。


 焼け爛れた両手のひらで顔を覆って涙を流す真似事。


 迫り来る吐き気を覚えるけれど胃の中もからっぽ。

 飢えも乾きも潤いも充実も、何もかも感じない。

 死して尚満たされない。否、死んだからこそか。


 消えたい。消えてしまいたい。


 強く願うと、なんとなく足の先が冷たくなった。

 見ると少しずつ薄れていく己の足。


 望めば消えられる。

 私の折れた心には丁度いい。


 全てを投げ捨てようと私は目を閉じた。



「消えるのはいとも容易く、お逃げなさるのには最もな近道」



 凛とした声。

 薄れゆく視界を開けると、そこには先ほどまでは見受けられなかった大きな大きな門。

 錆びれた音を立てて開くそれは、まるで私を向かいいれようとしているかのよう。

 開ききった門の向こうは荒れた地が延々と続き、心安らぐ場が無いそこはまるで・・・地獄。


「折れてしまったお前さんの心は、もう立ち直ることはないでしょう。諸行無常にございます」


 その声に導かれるように私は無い足で門に歩み寄る。

 誰の声だろう。

 向こうとこちらのぎりぎりに立ち見回すけれど、動くものは見られない。


「―――誰ですか?」

 呟くような私の声は思ったよりも反響する。


 もう一度その声を聞くために待ったのは数分だったか、数秒だったか。


「人の強さは心の強さ」


 返事は返ってきたけれど、問いに答えてくれぬ声に私は苛立ちと焦りを感じた。


「誰なんですか?」

 答えてよ。

 早く、早く。


「おやおや、何を焦りなさる。あなたにはもう、焦る理由など無いのではないのですか?」

「っ!」

 的確な指摘。

 それでも私には更なる焦燥感が植えつく。


「だから・・・!」

「己の価値に気づかず、己の望みに背を向け、己の情に逆らう。なんと醜い所業でございましょう」


 誰のことを言っている。

 ――わかってる、私のこと。

 お前に何がわかる、と叫びたかった。


 けれど消えて行く喉では声も出ない。


「―――しかし」

 その声は懐かしむように吐かれた。


「己の意思を信じて生きるものは、なんと美しいものでございましょう」


 責めるだけだった声はやがて慈しみすら含んでいて。

 いつしか彼の声を余すことなく聞き取ろうと耳を澄ましていた。



「心が折れてしまえばすべては結ばれてしまう。しかし、それを超える『何か』をお持ちならば―――・・・生きて」


「!」

 もう私には手にすることのない物。

 それなのに彼はまるで目の前にそれがあるかのように。


「・・・生きて救っておあげなさい。貴女の愛する者を」


 乾いていたはずの所に水が差され、私の目からはぼろぼろと涙が溢れ出した。
 温もりが全身を駆け抜けて、髪を柔らかな風がさらう。

 失ったはずの声が小さく漏れた。



「ハオ・・・っ」

 愛しい名。

 こんなにも彼の存在が大きい。



 生きたい。生きたい。まだ死にたくない。

「でも私はもう死んで・・・」

 死んでしまってるんだよ。そう言おうとしたとき、身体の奥底から温かい物が泉のように沸きだしてきた。



 それは感覚のなかった身体全体に余すことなく広がり行く。

 爛れ、醜かった腕や脚が徐々に正常な状態に戻り、胸の痛みも和らいでいった。



「そろそろお時間です」

 あの声と、錆びれた扉の音に顔を上げると、目の前で口を開いていた門が少しずつ閉まっていっていた。

 それと同時に私の視界は薄くぼんやりとしていき、遥か上へ引き上げられるような感覚に目を細める。


「ちょっと待って!あなたは誰!?」

 目をこすってもこすってもはっきりとしない視界。

 腹の底から出したはずの声もただの囁き。


 閉じかけの門に手を伸ばすけど、それは空を切った。

 くらくらとする意識を必死に保とうと目をこじ開けるけど、やがて力が失われる。


 暗転する世界に私は身を委ねた。


 全てが運ばれる前に、どこか遠くで聞こえた鈴の音。


「小生、猫又のマタムネと申す。好きな物はマタタビ。以後お見知りおきを―――・・・」







「―――」


 重い瞼を引き上げる。

 ピントの合わない視線の先にはどこかで見たような天井。

 遅れてやってきた畳の香りに、私はようやくここが民宿であることを思い出した。

 なんでこんなにリアルなんだろう。

 まさか、生き返った・・・?

 なんて考えたけど、胸の痛みなど1つも無いから、きっと夢か幻であろう。


 夢にまで見るなんて、そんなに民宿に帰ってきたかったのかな。

 数度ゆっくりとまばたきをして、首を横に曲げる。


 閉じられた襖。

 起き上がろうと腕に力を入れるけど、身体が異様にだるくて思うように動かすことができない。

 諦めて、少しだけ浮かせた腕をまた布団に沈めた。


 体は疲労困憊の状態だけれど、目を瞑っても夢の中では眠れそうになさそうだ。


 ふうと息をついて、控えめにまた息を吸う。少し気分が落ち着いた。

 少しずつ冴えてきた頭。

 そういえばさっきまで他の夢を見ていた気がする。


「・・・ねこ」

 たしか猫が出てきた夢。

 あまり思い出せない。


 なんだったっけ、とぼんやり考えていると、さっき見た襖が静かに開いた。


「●●・・・?」

 聞いた声は、澄んだ、身の引き締まる声。


 ゆっくりと顔を向けると、アンナさんが驚いたように少しだけ目を見開いてた。


「アンナさん」

 本当にリアルな夢だなぁ。

 彼女は襖を閉めもせずに私の傍まで寄ってきて、枕元に腰を下ろした。


 おでこの上に乗せられる少し冷たい手のひら。


「・・・大丈夫そうね。喉、かわいてない?」

 引いて行く手のひらを目で追っていく。

 あれ・・・、今アンナさん何か言ったっけ?

 私が何も答えずにボーっとアンナさんの顔を見ていると、彼女はため息をついて立ち上がった。

 開けっ放しの襖から出て行って、またすぐに帰ってくる。今度はちゃんと襖を閉めた。


 アンナさんは持ってきた、グラスを乗せたお盆を畳の上に置く。


「起きれる?」

「あ・・・はい」

 さっきは力が入らなかったけど、大丈夫かな。


 私がどうすれば楽に力をこめられるか布団の中でもそもそと手を動かしていると、痺れを切らしたアンナさんが私の背中の下に手を差し込んで起こしてくれた。

 ただ起き上がっただけなのに、立ちくらみのようにぐらりと視界が揺れる。


「すみません」

 アンナさんに謝るけど、返事は返してくれなかった。その代わりにグラスを口元に近づけられた。

 そういえば喉が渇いてる気がする。


 両手で受け取って、そっと唇をつけた。流し込むと、氷は入っていないのにすごく冷たく感じて心地よかった。

 半分ほど飲んで一息つく。

 アンナさんは私の手からグラスを取って、お盆の上に乗せた。


「水、ここ置いとくわね」

 なんだろう、変な感じ。本当に夢じゃないみたい。


「アンナさん、私死んでますよね」


 ボーっと彼女を見つめると、アンナさんは呆れたように眉間にしわを寄せた。


「残念ながら生きてるわ。完全に事切れてたけど蘇生させたの」

「・・・」

 あ、そうなんだ。

 蘇生させられたのか。

 蘇生・・・。

「え?」

 なんじゃそりゃ。死んだ人生き返らせられるって、神様じゃあるまいし。


 わけがわからなくて理由を聞こうと口を開いたけど、それより早くアンナさんが釘を刺してきた。


「説明は面倒だから省かせて頂戴。シャーマンの能力だって思ってもらっていいわ」

「・・・」

 もちろん納得なんてしてないけど、きっとアンナさんの言葉が一番簡略的な答えなんだろう。シャーマンってすごいな。


 ・・・ということはつまり、私は今生きてるっていうことか。


 現実味が湧かない。

 まあ現実味なんて後々いくらでも味わえるから、とりあえず蘇生をしてくれた人にお礼を言いたい。


「誰が蘇生してくれたんですが?」

 葉君からひとりひとり顔を思い浮かべていく。

 まったく見目つかない。

 答えを求めてアンナさんを見つめるとアンナさんはしばらくの間私を見つめ返して、ため息をついた。


「ハオ」

 吐息と共に吐き出されたその名。

「え・・・?」

「ハオが蘇生したの」

 ハオ?

「なんで」

「そんなの知らないわよ」

 即答された。

 そりゃそうだよね。わかるわけないよね。


 でもなんでまたハオが。

 首をかしげてるとアンナさんは立ち上がり、襖まで歩み寄って手をかけた。


「あいつの考えてることなんて知らないけど、あんたを死なせたくなかったんでしょ」

 私に背を向けたまま言った。

 アンナさんの言葉をいろいろと考える前に、アンナさんは話題を切り替えた。


「この後海岸に行くから、歩けるようだったら●●も来なさい。着替えは枕元に置いてるから」

「あ・・・はい」

 言われたとおり枕元を見ると私が着てきた服が畳まれていた。


 襖が閉められた音がしてアンナさんが立っていたところを見るけど、アンナさんはもう出て行ったみたいだった。

 1人残された私は布団の上に座ったまま何をするでもなく襖を見つめ続けた。

 ボーっとして、無意識のうちに自分で自分の腕に触れる。


「あれ・・・」

 包帯が無い。

 浴衣の裾をめくって腕を見るけど、包帯は愚か、痕さえ1つも見られない。

 足も、頬も。

 一瞬、おぞましいほどに爛れた手足がフラッシュバックしたが、それ以上に勝る感情があった。



 じわじわと胸の奥からこみ上げる温かいもの。

 それが笑みとなって溢れた。

 でもそれと共に切ない気持ちも。


 静かな民宿にはどうやらアンナさんしかいないようだ。

 葉君たちも、もちろんハオもいない。


 複雑な心境。

 だけれど、やっぱり嬉しかった。



『それを超える"何か"をお持ちならば―――・・・生きて』

 耳の奥で反響する誰かの声。

『好きな物はマタタビ。以後お見知りおきを―――・・・』






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