隣の隣のまん太君の部屋から皆の声が聞こえる。それになぜかハオの声まで。

 私はお風呂から出て、急いでアンナさんに包帯を巻きなおしてもらって部屋の隅で息を殺して膝を抱えていた。

 部屋の電気もつけてないから月明かりだけ。


 自分の影が伸び、うっすらと壁に映ってる。


 正面の襖をじっと睨みつけ、それが動くことがないように念じ続ける。

 早くハオにも帰ってほしいけど、なかなかその兆候を見せない。これじゃあ今夜は眠れそうになさそうだ。


 徹夜も覚悟し、ため息をついた。



「―――●●の部屋はどこだい?」

 確かに聞こえた。

 体中から汗が噴き出して心臓が跳ね上がる。

 手足が震えて、包帯の上から腕を握った。


 とん、とん、と近づく足音。


 焦り、立ち上がって、部屋を見渡した。


 どこか、隠れる場所。

 せわしなく動く目に留まったのは押入れ。たしか下段にスペースがあった。

 私はすばやく襖を開けてその身を忍ばせた。


 間もなく襖が遠慮なく開かれ、ハオの声がした。


「●●?」

 自分で自分の口を押さえて、できるかぎり声を漏らさぬようにする。

 こんなところに隠れても、すぐ見つかるに決まってる。


 襖が閉じる音がした。どうやら部屋の中に入ってきたらしい。


 2回ほど畳の擦れる音がして急に静寂が訪れる。


「・・・?」

 諦めたのか、と思っていたら、前触れもなく襖が開かれた。
 ハオはまるでわかっていたかのように膝を曲げ、下段に隠れていた私を見つけ出した。

「見つけた」

 にこりと笑った彼の格好は、憎くも昔、よく見た姿だった。


 彼は私の腕を掴み、無理矢理部屋へ引っ張り出す。あまりに強く引かれたせいでバランスを保てなくて畳に打ち付けられた。

 下が畳だったからよかったけど、その際に床に頭をぶつけたせいでとっさに身を起こせなかった。

 きつく目を閉じてぐらぐらと揺らぐ頭の痛みに耐える。


 もう、なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう。

 閉じた瞼の向こうが翳ったことに気づいて、私はうっすらと目を開ける。


 私の上に覆いかぶさるようになったハオは眉間に少しだけしわを寄せて、まったく意図の読めない表情をしていた。


「ハオ・・・」

 ようやく安定してきた意識の中、ハオの名を呟いた。


 彼は一度目を閉じ、次に開けたときにはまた笑みを浮かべていた。

 ハオは手で私の頬のガーゼをなぞり、顎まで到達すると、ぐいと上にあげた。そして、ハオの濡れたような黒い目が近づいて、さっきとはまた違う唇の感覚。

 ひどく久しぶりに感じるキスなのに、乾いたところは全く潤わない。

 咬みつくようにされるそれは、むしろただの『行為』。

 今まで感じたことのない嫌悪感と悲哀の情が溢れて、腕で抵抗しようとしたらその前に、読まれていたかのように押さえつけられた。

 その際に火傷の痕を強く握られ痛みが走る。

「んぅ!」

 一瞬、一瞬だけ押さえつけられる力が緩んだ。


 私はとっさに腕をすりぬきハオの肩を押した。バランスを崩した隙に、私は彼と距離をとる。


 窓の横の壁に背をぴたりと付けて乱れる息を整える。

 警戒して目を吊り上げる私を見て、ハオは嘲笑した。


「どうして逃げるのさ。してほしかったんだろ?」

「そんなこと・・・言ってないでしょ」


 本当はしてほしかった。昔みたいに。


 でも違う。あんなの、全然違う。


 ハオは聞き分けのない子供に呆れたようにため息をついた。

「同情がほしかったんだろ?」

 一度、似たような言葉を言われたことはある。


「こんなところに住まわせてもらって。あいつらも『●●、●●』。よかったね、成功して」

 嫌味を薄く笑みを浮かべながら、一歩、私に近づいた。

 その一歩がすごく怖くて私は壁に張り付き、考える前に叫んだ。


「来ないで」

「・・・」

 どくどくと、血が逆流してるんじゃないかと思うほど、全身が脈打った。

 足を止めたハオの顔を見たくなくて、私は彼の足元をじっと見つめた。その視界がぼんやりと歪む。


「なんで会いにきたの・・・?ハオはもう私がいらないんでしょ?」

「・・・」

 泣くもんか。

 今にもこぼれそうな涙。ハオに見られぬよう顔を俯け、瞬きをしないようにじっと耐える。


 なんでこんなことになったんだろう。

 こうなるってわかってたら、いくら会いたくてもこっちに来るべきじゃなかった。あのきれいな思い出のまま、しまっておくべきだった。

 もう・・・。


 ―――ハオに出会わなきゃよかった。

 今まで何度も思ったこと。でも思うたびに、まあいいかと妥協してきた。


 ハオが好きだから。

 でももう無理。

 支えだったハオが拒絶した。

 だったら私も拒絶するしかないじゃん。

 私だけ今も好きなんて、悲しくてたまらない。


『死んじゃえ』


「――もう殺してよ」

 元の世界にも帰れない、ハオにも嫌われた。


「●●・・・?」

 ハオの声に昔の温かみを感じたけれど、もうだめだ。


「私を殺して」

 できるでしょ、簡単に。


 諦めをこめて目を閉じた。すると、背筋にぴりぴりとした違和感を感じた。


「●●!!」

 ハオが叫び、私は顔を上げようとした。


 でもそれはできなかった。



 私の胴を貫く大きな刃物。

 一瞬の、言葉で言い表せないほどの激痛があって、急な眠気に襲われる。


 そのナイフは使命を果たしたからか、光となって消え去った。でも私の胸には大きな穴が開いたままで、赤いのが留まることを知らずに溢れてる。


 全身から力が抜けて、言うことを聞かない瞼が落ちる直前にハオの顔が見えた。
 彼は愕然としていた。


 ごめんなさい、大好きだよ。


 最期の力を振り絞って微笑み唇を動かしたけれど、私の唇から溢れるのは鉄臭い血。



 もう、いいや。



 ●●の部屋の前。

 ここで僕の声を聞いていたのだろう、焦っているような波長が伝わってくる。


 声にならない笑みをこぼして襖を開いた。


 ところがそこにはいると思っていた●●の姿はなく、電気すらつけられていない室内に月明かりが照らしてるだけだった。


「●●?」

 もちろん返事なんてない。

 僕は後ろ手で襖を閉めて、数歩畳の上を歩いた。

「・・・」

 くるりと部屋を見渡してある一点で視点が留まる。


 押入れからあふれ出てくる緊張の渦。

 ・・わかりやすいな。

 僕は声には出さずに笑んで、音を立てないように押入れまで寄り、勢いよく戸をスライドさせた。


 視線の先には布団。

 もちろん上段じゃないのはわかってた。


 しゃがみこむと、思ったとおり●●が怯えた目をして僕を見ていた。

 そしてその頬には大げさなガーゼが貼られ、腕や足にも包帯が幾重にも巻かれていた。


 火傷・・・。

 僕は手を伸ばして、包帯の巻かれていないほうの彼女の手を引いた。


 思ったよりも力が入ってしまって、●●の体は畳の上に強く打ち付けられる。

「ぁっ」

 そんなふうにさせるつもりはなかったのに彼女は頭を打ってしまったようで、小さく声を上げた彼女は苦しげに顔を歪ませた。

 目を固く閉じて歯を食いしばる●●に労わりの言葉をかけることすらできず、僕は彼女に覆いかぶさった。


『もう、なんでこんな目にあわなきゃいけないんだろう』

 ●●の前では耳すらふさがないようになってしまった。それはもう意地のようなもの。

 ●●の声はせき止められることなく僕の心に入ってくる。


「・・・」


 聞きたくない。


 無意識のうちに眉間に力が入った。
 涙の膜を張った目を彼女は薄く開く。

 僕の顔をぼんやりと見つめ、小さく唇を動かした。


「ハオ・・・」

 心臓が跳ねる。

 僕は、生まれた戸惑いがばれないように目を閉じ、次に●●を目に映したときには口の端も吊り上げた。


 ●●の目が不安に揺らぐ。

 僕は●●の顔の横についていた片方の手で、●●の頬のガーゼをそっと撫ぜた。

 そのまま輪郭をなぞり、顎までたどり着いたら乱暴に上を向かす。

 そして息つく暇も与えずに、己の唇を彼女の唇に押し付けた。


 ひどく久しぶりに感じるキスなのに、乾いたところは全く潤わない。

 加えて●●の心に浮かぶのはあのリゼルグとの口付け。そして僕に対する嫌悪感。


 イラつく。


 彼女が今から腕で抵抗するということがわかって、その前に僕は●●の腕を掴み畳に押さえつけた。


 とっさだったせいで誤って包帯が巻かれているところを上から握ってしまった。痛んだのか表情が歪む。

「んぅ!」

 その表情に怯んでしまって、押さえる手を緩めてしまった。

 それを見逃さなかった●●は腕をすりぬいて僕の肩を押す。決して強い力ではなかったけれど、力の抜けていた僕は簡単にバランスを崩した。


 ●●はその隙に駆け足で壁まで寄り、背を付ける。出入り口のほうに逃げなかったのはそこまで頭が回らなかったからか。


 荒れた息を整える●●を見て僕は立ち上がり嘲笑した。


「どうして逃げるのさ。してほしかったんだろ?」


 ●●は僕を警戒した目で睨みつける。

「そんなこと・・・言ってないでしょ」


 言葉と矛盾する●●の心。

 僕は呆れてため息をついた。

「同情がほしかったんだろ?」

 一度、似たような言葉を言ったことがある。

「こんなところに住まわせてもらって。あいつらも『●●、●●』。よかったね、成功して」


 ●●の表情が不快に染まった。

 責め立てる言葉をまた吐こうと小さく一歩を踏み出す。●●は怯えたように肩をびくつかせて叫んだ。


「来ないで」

「・・・」

 どくどくと、血が逆流してるんじゃないかと思うほど全身が脈打った。

 足が止まり、乾いた目でじっと●●を見つめる。けれど●●は俯いてしまった。


「なんで会いにきたの・・・?ハオはもう私がいらないんでしょ?」

 蚊の鳴くようなか細い声。

 なのにその言葉は奥を抉るように痛んだ。


「・・・」

 言い返す言葉なんてない。確かに僕自身が言ったことだから。

 ●●の足は小さく震えてる。


『なんでこんなことになったんだろう』

 そんなの、僕が聞きたいよ。

 目を閉じて、●●の心の声に耳を澄ます。


『こうなるってわかってたら、いくら会いたくてもこっちに来るべきじゃなかった』

『あのきれいな思い出のまま、しまっておくべきだった』

 それは全てに対する後悔の念。


 ・・・それもそうか。

 心当たりならたくさんある。


 諦めにも似た感情が染み出した。

『もう・・・』

 それでも声を聞くことは止めなかった。聞かなければいいのに。


『―――ハオに出会わなきゃよかった』

「!」


 顔を上げて●●を見るけど●●はずっと下を見たまま。


 ショックだった。

 確かに●●に失望はした。

 けど、僕は●●に出会えたことに後悔をしたことはなかった。


 なのに彼女は。


「――もう殺してよ」

 耐えるように押し殺した声。


 聞き間違いかと思った。

「●●・・・?」

 昔のように名を呼ぶ。けれどもう遅かった。

 顔を上げた彼女の目にはこぼさぬように我慢したのか、少し揺れれば溢れそうなほど涙が溜まり、今までで見た表情で一番苦しげな顔をしていた。

 その顔をさせたのは、紛れもなく僕。


「私を殺して」

 心が揺らいだ。体が麻痺したように動かなくなり、感覚が鈍くなる。


 ・・・、そのせいで、●●の背後の窓の向こうにペヨーテのカラベラ人形が現れたことに気づかなかった。


 大きなナイフが迫ってきているところでようやく察知し、僕は叫び手を伸ばした。


「●●!!」

 涙で濡れた瞳がこちらを見ようとしたけれど、その前に彼女の目は衝撃に見開かれた。


 ●●の胸を貫く刃。


 血が、●●の血が僕の頬にまで飛来した。

 ナイフはその一突きを終えたら僕が燃やす前に自ら消え去った。



 残されたのは大穴を抱える●●。

 支えを失くした彼女の体は人形のように崩れていく。

 濡れた目が徐々に閉じられてゆく。


 彼女の目から光が失われる直前、少しだけ唇が動いた。その唇は緩やかに弧を描き、微かに動いたけれど、無情にもあふれ出したのは鮮血だった。


 どさり、と畳の上に転がった体。微動だにしない小さな体。


「―――」

 最期に聞こえた●●の声。



『ごめんなさい、大好きだよ』






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