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一等星(2013 Halloween)









彼がその言葉を口にしたのは、私の目の前だった。私の目の前の、私ではないひとに向かってだった。それはほんの些細なことで、何がそんなに私にダメージを与えたのかわからなかったけれど、ともかく私の出鼻を挫いて気を落とさせるには十分だった。

私は開きかけた口を閉じて、談話室の賑わいに背を向けた。



ハロウィンだった。どこもかしこもハロウィン一色で、私は大広間に入るなり後悔した。朝から底まで落とされた気分を持ち上げてくれるものはここには何もない。

こんな空気のなか朝食を採る気にはとてもなれなくて、私は大広間に踏み入れた足をそのまま回れ右させて廊下へ引き返そうとした。

そうして振り返った先にまさか今最も会いたくない人物がいるとは思わなくて、私は一歩後ずさった。

「おっと悪い…ってお前か。早いな。もう食ったのか?」

いつものように人好きのする笑顔で話しかけてくる彼の、その行動にきっと他意なんてない。分かっていても私の心は余計に陰った。

「ごめん。また」

適当にやり過ごして私が歩き出すと、なんか怒ってんのか、と彼の戸惑ったような問いかけが背後に聞こえた。



怒ってる?私は自問した。たしかにこの感情は怒りに似ているかもしれない。だけどそれなら何に対して私は怒っているのだろう?



シリウス・ブラックは人気者だ。近寄りがたい風貌とは反対に話すと気さくで、例外はあれど大方の人には平等に接する。いわゆる話してみたらいい人だった、という部類の人物でそれだけに彼の信奉者は多い。

私は彼がそんな才覚を現すよりも少し前からの友人で、彼のことをほんの少しだけ周りの信奉者よりもよく知っていた。彼がそんなに人気者扱いされるほどの人格者ではないことを笑ってもいたし、友人として心地よい相手であるとも思っていた。自分がいわゆる信奉者でないことを、得意に思っていた節もなくはない。



トリック オア トリート。私はその言葉を朝一番に、彼に言ってやるつもりだった。いたずらとお菓子が許容されるわくわくするようなハロウィンの始まりには、それが一番相応しいと思った。

それが昨夜のこと。


今朝、カーテンの隙間から差し込む朝陽で目覚めて申し分ない気分だった私は談話室への階段を跳ねるように駆け降りた。

偶然にも数歩先に談話室へ入っていった目的の人物の姿を見た私は、例の言葉を口の中に用意しながらその背中を追った。


私がちょうど息を吸って口を開いた瞬間だった気がする。彼は私の目の前で、同級生の女子たちに向かって例の決まり文句を高らかに唱えた。

嬉しそうにどぎまぎする女の子たちは用意していたお菓子を彼に差し出す。なーんだ、いたずらさせてくれないのかと軽口を叩きながら彼が視線を巡らせるから、呆然と見つめていた私と目が合ってしまった。

彼がちょっと目を輝かせた気がした。しかし何か言いたげだった彼の口が開く前に、女の子たちからのトリックオアトリートが返ってきた。

彼は簡単に私から視線を外して彼女たちに向き直ると、杖を一振りしてお菓子を降らせた。私は、その馬鹿みたいに気障な演出が女の子たちをどんなに喜ばせたかを見る前に足早に談話室を離れた。気分は最悪だった。



私は怒っている。けれどシリウスが悪いわけじゃないのは十分に分かっていた。今朝彼が談話室に入ったとき、タッチの差で私はまだそこにいなかったのだから。

私は午前中の授業を終えてもまだ悶々としていた。しかもその不機嫌の原因が自分でもわからなかった。朝食をパスしたからどうしても昼食には行きたい。けれど大広間へ向かう足取りは重かった。



同じ空間にいる限り考えてしまう。彼は簡単に私でない人を選ぶ。些細なことだ。彼には私へ一番に声をかけなければいけない理由なんてない。いや、私のほうにだってそんな理由はないのだ。

それなのに私は、こんなイベントの始まりには彼が相応しいと思ってしまった。そして彼もまた同じように、私を浮かべてくれている気がした。

いつから私はこんな欲張りになったのだろう。



私を呼ぶ声がした。幻聴かと思った。私が今一番聞きたくなくて、しかも、多分、一番聞きたかった声だ。

「なに?」

動揺を声に出さないよう慎重に応えながら、私は振り返った。さっきひどい言い方をしてしまったばかりなので、うまく視線があわせられない。

「ん、昼これから行くだろ?」
「まあね」

視線を泳がせながら、私は再び歩き出した。彼の足音が追ってくるのがわかった。

「なあ、」
「ん?」
「大丈夫か」
「うん」
「うんじゃない、今日なんかおかしいって」
「別に」
「いや、ちょっと待てよ」

後ろから手首を掴んで引きとめられる。

「俺なんか怒らせるようなことしたか?」

途方に暮れたような声音。違う。私は怒ってるんじゃない。苦しいだけだ。ごめんね、私は狭くなる喉から声を絞り出した。彼が動揺する。

「なんで泣きそうなんだよ。なんか嫌なことでもあったか?」

背中に乗った掌が悔しいくらい優しくて、私は顔を覆った。

一番がよかった。楽しいことを、一番最初に共有できる人になりたかった。何かあったらまず報告したいと思っていい立場になりたかった。一番最初を期待していい権利が欲しかった。全部全部一番がよかった。本当は随分まえから、私はそれを望んでいたんだ。

だから私は苦しかったんだ。



「実は朝言い損ねたんだよね」

私は顔をあげて彼を見た。灰色の瞳に自分が映る。

「俺に?何を」
「トリック オア トリート」
「は、何、そんなこと…」

背中に置いてくれていた腕が戸惑うように離れたのが、さみしくもあり、可笑しくもあり。

「お昼たべにいこう?」
「お前なんなんだ、さっきまですげー乗り気じゃなさそうな顔してたくせに」
「私って単純だから」
「それは知ってた」
「あれ、なんか肯定されても嬉しくない」

私のとぼけた返事に、彼は肩を揺らして笑った。

「まぁ、なんか知らないけどお前が元気になったんならそれでいいかー」


どうせその言葉に深い意味なんてないんだろう。私がどれだけ嬉しいか、分からないで彼は言う。



彼が笑っていてくれることが、私にとって一番の幸せで、彼を笑わせられることが、私にとって一番の楽しみで。

私の過ごす世界の中で、彼は一番輝く一等星だ。気づいてみれば夜はこんなにも明るい。



そんな風に、何より先に思ってしまう相手に、同じように思って欲しいなんてとんでもない欲張りだ。

だけど、と私は思う。
恋って、たぶん欲張りでできてる。




お菓子といたずらの日は、始まったばかり。

END