2月のある日、関東地方には珍しく積雪の予報が出た。当然都心部にもしんしんと雪が降り、交通機関は乱れている。私大入試の受験生にとって今日は、今までの人生の中で一番天を呪った日ではないだろうか。
「──うわぁ、寒いと思ったら雪降ってる」
暖房が効いた部屋にいるとはいえ、見るからに寒そうな寝間着姿で起きてきた部屋の主に名前は無言で紺のカーディガンを放った。
「おはよう、名前。目が覚めたらいなかったから帰ったのかと思ってたよ」
「もうすぐお昼ですよ折原さん。帰って欲しいなら今すぐ帰りますが」
「あははまさか。気の済むまでここにいるといいよ」
カーディガンを着た主……折原臨也は自分の仕事用の椅子に体育座りで座っている名前に近寄り、さらりと彼女の頬を撫でる。その手の冷たさにびくりと肩を竦める反応に、昨夜を思い出した臨也は気分良く首筋へと手を進めた。
「仕事は順調?」
「……っええ……まぁ……」
「俺の情報、すごく役に立つでしょ?」
俺自身も、と言いかけた臨也の甲に突然鋭い痛みが走る。視線を窓の外から掌へ移すと、もう少しで胸元に到達しそうだった手の甲を名前が思い切りつねっていた。
「調子に乗らないで下さい」
「いたたた、分かったからつねるの止めて」
若干涙目で訴える臨也の甲を最後に思い切りつねり、名前は手を離した。
そして「痛いなぁ、もう」とぼやいている臨也を無視してキッチンへと向かう。

□■□■□

キッチンのコンロの上には鍋が乗っており、その中でココアが温かそうな湯気を立てていた。
「折原さんも飲みますか?」
「うん、お願い」
いつの間にか背後に来ていた臨也の分のマグカップを出す為に食器洗い機の蓋を開けた名前の七分丈のセーターから白い腕が見える。面積の少ないそこには自分が付けた赤い印の他にも、女性の腕には不釣り合いないくつもの擦過傷や切り傷の跡があった。
それを見た臨也の表情が僅かに歪む。
「ねぇ、また傷増やしたでしょ」
不快感を滲ませた口調に、名前が動きを止めたのは一瞬だった。
「俺の言ったこと、忘れたの?」
「そちらこそ、私の職業を忘れたのでは?私の記憶が正しければ、あなたは私の所属だけでなく何故か職場のデスクの位置も正確に把握及び記憶していたはずですが」
「忘れるわけないよ。警視庁新宿署刑事課強行犯係、階級は巡査でデスクは入ってすぐの列の前から3番目」
「刑事が体張らないで誰が体張って犯人捕まえると思ってるんですか」
言い返す名前の口調が熱っぽくなっている。彼女は己の職業に非常に誇りと愛情を持っているのだ……それが臨也には全く理解出来ないのだが。
「とにかく、これ以上むやみやたらに傷増やすような真似は止めてよね。幻滅したらお互いに仕事やりづらくなるからさあ」
「……努力します」
口では偉そうに言ったものの、彼女に幻滅する日が来ることは多分ないのだろうな、と臨也は考えている。
名字名前という人間は非常に真面目で一見面白味に欠けるが、何故か臨也の心を魅力し続けているのだから。
「──まぁ君の手飼いの情報屋っていうのもなかなか楽しいからさ、しばらく我慢してあげるけどね」
リビング兼オフィスに戻り、2人で雪景色を眺めながら臨也は腕の中の彼女の身体をきつく抱き締めた。

110211
Thanks:亡霊
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