七海とタバコを吸う話

 呪術師が祓う呪霊とやらに土日祝日休み・勤務時間は一日八時間という概念は通用しないらしい。
 毎日何かしら発生する事件や事故があらゆるタイミングを選ばないのと同様に。
 あれから奮闘したもののやはり残業になってしまい、それでも何とか三十分で納めた名前は慌ただしくフロアを後にした。
 エントランスに通じるエレベーター内でスマートフォンを開くと、つい先程の時刻で七海からメッセージが届いていた。
「すみません少し遅れます、どこの喫煙所ですか」
 終業後の日課を見抜かれている、と苦笑しながら名前は「日比谷公園です」と返信した。
 喫煙所は減りつつある、そろそろ本格的に禁煙しなくてはいけないだろう。
 それにやはり、七海の部屋に煙草の匂いを染み付かせたくない。
 到着した公園内の喫煙所で紫煙をくゆらせながらそんなことを考える。
 匂いエチケットには気を遣っているが、上品にきちんと整えられたあの部屋に煙草の匂いはミスマッチな気がしていた。
 好きな人の部屋を自分の匂いで満たしたいわけでもない。健康診断の結果も気になる年齢だ。
「うーむ、止める以外の選択肢がないぞ……」
 改めて考えてみると止めることによるデメリットが見当たらない。
 険しい表情で首をかいていると、入口に長身の男性が現れた。
 長身のがっしりとした体格に、自然な色合いの金髪、特徴的なサングラスはひと目でその人だと分かる。
「建人さん」
 匂いを染み付かせたくない部屋の主であり好きな人。
 ぱっと表情をほころばせて、名前は銜えていた煙草を指に挟む。
 近くの灰皿に捨てるより早く、七海がこちらに歩いてきたので名前は思わず動きを止めてしまう。
 何度かこうして喫煙所を待ち合わせ場所にしたことがあったが、非喫煙者である七海が喫煙所に入ってきたのは初めてだった。
「建人さん……? あの、匂い付いちゃいますよ」
「構いません、クリーニングに出せば解決します」
 いつもばっちり着こなしている高級なスーツを心配するも、あえなく一蹴されてしまう。
 サングラスの奥の瞳が、灰皿の上で中途半端に止まっている煙草を捉える。
「まだ残っていますね、どうぞ吸ってください」
「え」
「ついでに私にも一本頂けると嬉しいのですが」
「え、えっ」
 灰皿の中に灰が落ちる。
驚きと困惑で理解が追いつかない。
それでも何とかかろうじて絞り出したのは、「あ、新しいのを、吸ってもいいですか……」という言葉だった。
 動揺しながらも開けた箱に残っていたのはちょうど二本だった。
「ど、どうぞ……」
「ありがとう」
「建人さん、吸う方だったんですね」
「いえ、これが初めてです」
「えっ!?」
 銜えた新しい煙草が落ちそうになるほどの大声が響く。
「待ってください、聞きたいことが山程できました」
「順番にどうぞ」
 渡された煙草を指に挟んだ七海が促す。
 まだ火も着いていないのに、既に様になっている。
「その、呪術師の規則違反とかにはならないんですか」
「なりませんね。その辺りの規則は緩いので」
「じゃ、じゃあ、吸い方分かりますか」
「吸い込むことが必要なぐらいは。細かい手順までは分からないので、名前さんが教えてくれませんか」
「それはいいですけど、その前にもうひとつ。どうしていきなり煙草を吸おうなんて思ったんですか?」
見上げた先にある七海の表情から真意を読み取ろうと試みるが、見透かされていたのかあるいは無意識か。
「あなたが吸い方を教えてくれたらお話しします」
 そんな狡い言葉と共に微笑ひとつで躱されてしまった。
「教えてくれますか、名前さん?」
 煙草を銜えて準備万端な七海の顔が、すぐそばにあった。
 近くの官公庁職員だけでなく、公園の利用者も自由に使うことができる広い喫煙所に、二人分の紫煙が揺らめいている。
 自分のことは棚に上げてこれから起こるかもしれない健康被害や依存症のリスクが頭を過ぎったが、結局「七海の真意を知りたい」という好奇心には勝てず現在に至る。
 名前が教えた通りの手順で初めて煙草を吸った七海は少し噎せていて、それが名前の目には新鮮に映った。
 同い年であるはずなのに自分より何倍も達観していて、余裕がある。
 名前がいつも見ている七海の姿はそこにはなかった。
「――仕事で、何かありましたか」
 ただ静かに頭を俯かせている男がいるだけだ。
 消えゆく紫煙をぼんやりと眺めながら、名前は指の間でただいたずらに煙草を短くしている七海に尋ねる。
 口火を切ってから守秘義務の存在を思い出して、すぐさま尋ねたことを後悔する。
 秘匿性の高い職業だ、ましてや業界外の人間である自分に話せることなど限られている。
 交際を始める際に彼の職業について説明を受けた時から、いくら恋人同士とはいえ深く踏み入ることはしないように心がけていたというのに。
「ごめんなさい」
「謝らないで。言い出したのは私ですから。……この仕事をしていると、気が滅入るようなことも多々ありまして」
 ぽつぽつと言葉を選んで紡ぐ七海は具体的なことは話さない。
 それが彼の気遣いであり義務であるとしても、お互いを隔てる見えない境界線を少し憎らしく思ってしまう。
 同じ業界にいれば、彼の心に影を落としている何かを知ることができたのだろうか。
 理解して、的確な言葉をかけることができたのだろうか。
「いつもと違うことをすれば少しは気が晴れるかなとそう思った次第です」
「気は……晴れましたか」
 所詮は叶わぬたらればで、実際にかけられるのはチープでありきたりな言葉だけだ。
 それでも見上げている七海の口元の筋肉が僅かにふ、と緩められたのに気付き、瞠目する。
「ええ。どうせならあなたを感じられるようなことをしたい、と思っていたのでこれにして正解でした」
煙を吸い込むタイミングでさらりとそう告げられ、名前は派手に噎せてしまう。
「わ、私を?」
「ええ。あなたにはいつも助けられていますから」
「ご飯作ったりとか?」
「それももちろんありますが、こうして傍にいてくれるだけでもとても助けられています」
 開いている唇の上を七海の手が通り過ぎ、名前の頬を撫でる。
 赤く染まった耳から漏れ出た熱に気付いたのか、七海の薄い唇が弧を描いた。
「おや、自覚がありませんでしたか」
「は、初耳です……」
 七海が銜えた煙草の煙までこちらを笑っているような気がして、いたたまれなくなって名前は顔を背けようとする。
だが、頬を撫でていた七海の手に顎を掬われてしまう。
強制的に向かされた先にはもちろん、微笑を浮かべる七海の顔がある。
「あなたはいつも私の前では吸いませんから、吸っている姿も、そうして照れる姿も新鮮で素敵ですね」
ああでも、と続いた唇から紫煙が漏れる。
何か言わなくてはと思っていても、もう視線は彼に釘付けだった。
「お互い吸っていたら、したい時にキスができない。それは少々困りますね」
 ふ、とひとふき。紫煙が顔にかけられた。

 息を潜めて笑った気配に、名前は閉じていた目をゆっくりと開けた。
 室内はまだ薄暗く夜明け前だった。
 眠る前は隣にあった温もりを探すべく上げた頭にぽんと手が置かれた。
「おや失礼、起こしてしまいましたか」
「んーん……」
 薄暗さに慣れていった目が映したのは、起き上がった七海が手に乗せた何かを眺めているところだった。
 匍匐前進の要領で這って彼に近付いた名前は、七海の手の中を覗き込んだ。
「これは?」
「あなたの禁煙ガムですよ。ヘッドボードの中に残っていたようです」
「ああー……」
 記憶が徐々に蘇ってくる。
 かつての禁煙中、どこでも噛めるようにとマンションの至るところにガムを忍ばせていたのだ。
 見事禁煙が成功した暁にそれらはすべて回収したと思っていたが、どうやら残っていたらしい。
「これを見ていたら、以前日比谷公園で一緒に煙草を吸った夜のことを思い出しました」
「ありましたねえ、そんなこと」
「今だから言いますが、あの後すぐにあなたが禁煙を始めて、実は少しショックでした」
「え、なんで、ですか」
 微笑ましい思い出話に心地よくまどろんでいた意識が急激に覚醒する。
 確か彼も禁煙に快く協力してくれていたはずだが、まさか内心そう思っていたとは。
 ポーカーフェイスが過ぎる、と名前は頭上の夫を見つめる。
 視線に気が付いた七海の手が優しく名前の髪を漉いていく。
「あなたが物思いに耽りながら煙草を吸う姿も好きだったからですよ。無論、あなたの健康には代えられませんから今まで黙っていましたが」
「……待ってください、寝起きに聞くには刺激が強すぎます」
「では寝る前にもう一度言いましょうか」
「ま、間に合ってます!」
 寝起きで低いはずの体温が上がっているのは決して気のせいではないだろう。
 顔を見られたくなくてシーツを被ると、頭上から堪えきれずに漏れた笑い声が聞こえてきた。
「名前さん、顔を見せてください」
「絶対からかう気だろうからいやです……」
「そんなからかうだなんて滅相もない。どんな顔をしているのか確認して笑うだけですよ」
「それをからかうって言うんですよ!?」
 条件反射でつっこんだ名前に「それは初耳ですね」などと白々しく七海がのたまう。
 鍛え上げられた彼の腕力に適うはずもなく、あっけなくシーツは剥ぎ取られてしまった。
「顔、熱いですね」
「寝起きにあんなこと言われれば誰でもこうなります……」
呟いて名前は視線を逸らす。
それが今彼女にできる唯一かつ精一杯の反抗だった。
 両手はシーツを剥ぎ取られた際に素早く頭上でひとまとめにされて、七海の片手によってシーツに縫い留められていた。
 名前の手を拘束していない七海の手が、赤く染まっている名前の頬に触れて表面を撫でる。
 その手付きはひどく優しく、名前の心をもくすぐっていく。
 くすぐったさに身を捩った名前は七海を見上げる。
 七海は微笑を浮かべているが、それにからかいの色は含まれていなかった。
 いつの間にか手は解放されていた。
 その手を、頬を撫でている七海の手に重ねれば吐息と共に笑みが深くなった。


七海とパーティーに参加する話

「……イブニングドレスのマナーを最初に定めた人って、絶対下心あったと思うんですよね……」
「否定はできませんね」
「でも! なんとか露出控えめのドレスを見つけましたし、これで高級ホテルの立食パーティーも楽しめます!」
 七海が運転する車の助手席に座って元気よくそう宣言すれば、シートベルトを締めていた七海が苦笑した。
「私としてはあなたが美味しそうに食べている姿も他の男に見せたくはないのですが、今回は私の都合に合わせてもらっているのでどうぞ好きなだけ食べてください。きっちり元を取って帰りますよ」
「がってんしょうち!」
 店での憂鬱そうな表情はどこへやら、名前の目は滅多に味わえない「高級ホテルの料理」を全部食べつくしてやらんとばかりに燃えていた。
 そもそも、何故二人が正装して高級ホテルの立食パーティーに参加することになったのか。
 それは数日前に遡る。久しぶりに休日が重なり、家でゆっくりと過ごした日だった。
 夕食と後片付けも終えて引き続き穏やかな時間が流れる室内に、コーヒーの香りが彩りを添えていた。
 厳選された良い豆のコーヒーに、健康に良くないと知りつつたっぷりのミルクと砂糖を入れる。
 自分好みのミルクコーヒーを作り終えた名前は、キッチンカウンターから七海に呼びかけた。
「建人さん、コーヒー飲みますか?」
「ええ、いただけますか」
「はーい」
 七海のマグカップをシンク横の水切りカゴから取り出す。
 パステルカラーのシンプルなデザインのそれは、結婚前から色違いで使っているペアカップだ。
 彼は自分とは異なりブラックで飲むタイプなので砂糖などは入れずに、二人分のマグカップを手にリビングへと向かう。
 リビングのソファーに座っている七海はなにやら険しい表情を手元のタブレットに向けていた。
 仕事だろうなと思いながら名前はテーブルにそっとマグカップを置く。
「コーヒー、ありがとうございます」
「いいえ」
 タブレットを置いてコーヒーを一口飲んだ七海が眉間を揉んだ。
 その姿に今度薬局でホットアイマスクでも買って渡そうか、という考えが頭を過ぎった。
「名前さん」
 七海の隣に座ろうとしたタイミングで名前を呼ばれる。
 名前を見たまま、七海がとんとんと自身の膝を叩いていた。
 ふたりで時間を重ねる中で生まれた合図、そのひとつだった。
「名前」
 尻込みしているところにダメ押しでひどく優しく名前を呼ばれる。
 こうなれば、もう降参するほかない。
 名前は恥ずかしさからちょこんと遠慮がちに七海の膝の上に座る。
 頭上の七海は「それでいい」と言わんばかりの微笑を湛えている。
 名前が優しく名前を呼ばれるのに弱いことを知っていてそうしたのだろう。
 そうやっていつも掌の上だと少しむくれる名前の腰に七海の腕が回された。
 横抱きにされる形で抱き寄せられ、額に唇が落ちてくる。
 そのままされるがままに、軽く唇を触れ合わせるキスを数回。
休みなのでセットされていない七海の髪が顔に触れて、そのくすぐったさに笑みがこぼれた。
「……やはり」
 キスを終えた七海が小さく呟いた。視線を合わせると額に再び唇が落ちてくる。
 腰に回されている腕の力が少しだけ強くなった。
「私以外の男に見せたくないな……」
「きゅ、急にどうしたんですか……?」
「私としても非常に、非常に不本意で気が進まないどころか不愉快の域に入る話なのですが」
 その言葉はいつも理性的な話し方である七海にしては珍しく、大いに感情が乗せられていた。
「定期的に行われている懇親会に、あなたを連れて顔を出せと上司から言われました」
「懇親会……」
 名前は単語を反芻した。
 七海の態度には「行きたくない」という思いが全面に表れているが、名前は違う。
「そういうイベントがあるんですね、会社みたい」
 普段、お互いに自分の仕事の話は守秘義務に反しない愚痴程度しかしない。
 その中で七海の口から謎に包まれた呪術師の世界の話が少しでも聞けるのは新鮮で貴重な機会だ。
 好奇に目を輝かせている名前に七海が答える。
「一応、横や外部との繋がりも必要ですからね。面倒なのでこれまでは適度にサボっていましたが、チッ……それが裏目に出ました」
「あらら……んー、それじゃあ出るしかなさそうですねえ。いつなんですか?」
 名前を膝の上に乗せたまま七海がタブレットを取ってメールを開く。
 記載されている日程はちょうど名前の休みの日だった。
 それよりも、目についたのは開催場所だった。
「ていうかすごい、こんな高級なホテルでやるんですね! ご飯美味しそう……」
「変わり者が多いので必然的にグレードが高くなるんです」
「日程はちょうど休みの日なので問題ないですけど……でもそもそも、私が行って大丈夫なものなんでしょうか」
「というと?」
「呪術師でもない、ただの一般人なのに」
 この事実を口にする時、名前の胸にはほんの少しの寂しさが過る。
 同じ世界に生きて、同じものを見ているようで、実は違う。
 その現実を嫌でも実感するからだった。

 そうして迎えたパーティー当日。
 ホテルの一室でイブニングドレスに着替えた名前はバスルームで着替えをしていた七海を呼んだ。
 ドアが開いて着替えを終えた七海が姿を表し、名前を見て、動きを止めた。
 それは名前も同様で、図らずも高級ホテルの一室で黙って見つめあう男女の画が出来上がってしまう。
「ああ」
 先に動いたのは七海だった。大股で名前に歩み寄ると、その手を取って甲に口付けた。
「とても良く似合っています」
 悩みに悩んで選んだのはホルターネックタイプのドレスだった。
 色は七海のスーツに合わせたブラックで、丈は足首まで覆う長さだ。
 心配していた露出度も首元まで覆うデザインのため、首から下はきっちり守られている。
 むき出しの二の腕はストールで隠すことにしていた。
「あ、ありがとうございます……」
 いつもと装いが異なる七海が自分を見つめている。それを認識した途端に心臓の鼓動は一気に速度を上げていた。
 すう、と甲に口付けていた七海の唇が甲より上に滑る。
 驚いた名前は咄嗟に身を引こうとするが、それより早く七海の手が腰に回されて引き寄せられてしまう。
 質の良いシルクで作られた裾が波をうった。
「建人さんっ」
「クソ……本当に他の男に見せたくない」
 音を立てて手首に口付けた七海が忌々しげにそう呟くので、鼓動はさらに速くなる。
「それを言うなら私だって、今の建人さんを他の女の人達に見せたくない……」
 七海の顔を直視できそうにないので、目の前にあるネクタイの位置を直す。
 ブラックのジャケットとベスト、スラックスというスリーピーススーツに合わせたネクタイは名前が選んだものだ。
 普段好んで着用しているグレースーツより色が濃いダークスーツは、会場の照明も相まって、彼の鍛えられた肢体や北欧の血が混じった端正な顔立ちをより目立たせるだろう。
 誕生日プレゼントとして贈ったネクタイピンに指先で触れる。
 贈ったのは随分前だが、輝きは贈った時から変わっていなかった。ずっと大切にしてくれているのだと思うと、胸の中が嬉しさで満ちていく。
 差し出されたスクエアフレームの眼鏡を受け取る。
長身の七海が名前の目線に合わせて屈んだ。
「それは嫉妬ですか?」
プライベートでたまにかけているこの眼鏡も名前のお気に入りだった。
「分かってるくせに。いじわる」
 最後の仕上げを終えて、仕返しとばかりに軽く七海の鼻を摘んだ。
「はい、完成です。色男さん」
「ありがとうございます。目の前の色男はあなたしか見えていないのでどうかご心配なく」
 名前の頬にキスをした七海がそのまま耳元で囁いた。


嫉妬する話

――男の幸せは「われ欲す」、女の幸せは「彼欲す」ということである。
 夕方に近い時間帯のカフェテラスは食事を楽しむ人々の談笑の声で賑わっていた。
「急に詩的なこと言うね」
「ニーチェの言葉。今日の舞台見ててそれ思い出した」
 磨かれたフォークでパスタを綺麗に巻き取っている目の前の友人は、そういえば学生時代は洋書を好んでよく読んでいた。
 名前の中に、古くも懐かしい記憶が蘇ってきていた。
「真理だよねえ、少なくとも女の方は的を得てるじゃない? 彼欲す」
 呟いた友人はうっとりとした表情を浮かべている。
 おそらく彼女の脳内には、先程まで一緒に観劇していた舞台に出演していたいわゆる「推し」の俳優の姿があるのだろう。
「彼、格好良かったね。今日は誘ってくれてありがとう」
「そうでしょ!? もう言葉じゃ言い表せない美しさよね……! こちらこそ今日は付き合ってくれてありがとう!」
 学生時代から時を経てお互いにそれなりに社会というものを経験しても、当時見ていた好きなものを語る時の楽しそうな表情は変わっていない。
 そのことに名前は安堵する。気がつけば、変わっていくものばかりに囲まれて生きているから。
 透明なガラスボウルに盛られたベビーリーフにドレッシングを絡める。
 ディナータイムには酒の提供もあるこのカフェテラスは雰囲気も良く、出された料理もどれも美味しかった。
 今度近くに来る時があれば、彼と一緒に訪れようか。
「そういえば、今更だけど……休みだからって何も考えずに誘っちゃったけど、大丈夫だった?」
「ん、なにが?」
「旦那さん」
 友人が小声で呟いた。
「前にあんまり休みが合わないって言ってたから……」
「ああ、そうだっけ……でも今日は平気だよ、だから気にしないで。出張でいないの」
 彼女の不安を取り除こうと名前はあっけらかんとそう答えた。
 夫の七海が地方へ出張になったのは先週の話で、予定では明日帰ってくることになっている。
 呪術師という特殊な職業柄、急に仕事が入ったり出張が入ったりするのは日常茶飯事で、名前もすっかりそれに慣れていた。
 だが友人は別の受け取り方をしたらしかった。
「そっかあ、それは寂しいね」
「……さびしい?」
「仕事だから仕方ないけどさ、一緒に暮らしてて会えないと寂しいじゃない? 業種も違うとこっちが知らないことのほうが多くなるし」
「あー……うん、言われてみれば、そうかも」
 友人の言葉を咀嚼して飲み込む。
 七海と出会ってから数年経つが、彼が生業としている「呪術師」という職業について、名前が知っていることは少ない。
 体感的には他の一般市民より少しだけ詳しいといったところだろう。
 それには七海曰く、「公にできないことが多く、閉鎖的な業界」であることが関係しているが。
「言われてみればってそんな他人事みたいに」
「知りたいなって思うことはあるけど、結局は業界外の人間だからね……そんなもんかーって諦めちゃってるところはあるのかも」
「悟ってんなー……」
「あはは、重くて面倒くさい女って思われたくないだけだよ。
それで帰ってきてくれなくなったら困るもん」
 バゲットを手で千切って口に運ぶ。柔らかく、もちっとした食感が舌を喜ばせた。
「名前は大人だなあ。昔からそうだけど、名前ってあんまり怒ったりしないから我慢してるんじゃないかってちょっと心配になる」
「心配してくれてありがとう。でも、私だって怒る時はあるよ?」
そう笑いかけて、名前は残りのバゲットを咀嚼した。

 有言実行、否、言霊?
 カフェテラスを出て、帰宅する友人を見送りに名前は東京駅のホームに立っていた。
 アナウンスが流れて、また連絡すると約束した友人を乗せた電車が走り去っていく。
 電車が視界から消えたことで線路を挟んで反対側に連なるホームが一望できた。
 ちょうど反対側のホームに、その人はいた。
 ホームは電車を待つ人々で混雑していたが、目立つ外見は見間違えるはずもなかった。
 仕事の時に着用しているグレースーツに、特徴的な形のサングラス。
 きっちりセットされた柔らかい金髪は、北欧の血由来のものだ。
 スーツケースを片手に、七海は隣の女性と話していた。
 大人びた雰囲気の長い茶髪の女性だった。
 談笑していた彼女の白い手が不意に伸びて、七海のネクタイを掴む。
 あっ、と思う間もなく、女性の唇が七海の頬に触れていた。
 サングラスで目元が隠れているので表情のすべてを見ることはできないが、固まっているところを見るに、驚いているのだろう。
 可笑しそうに笑った女性がひらりと手を振って改札へと繋がるエレベーターに消えていく。
呆然と立ち尽くしているのは、名前も七海も一緒だった。
「東京駅、○番ホーム。あの茶髪の女性は誰ですか?」
 我ながら子供じみていると思う、それでもメッセージを送る指は止まることはなかった。
 名前は挨拶もスタンプもなく、ただ見たことだけを端的に送る。
 既読マークはすぐについた。こんな時でさえも。
「仕事の同僚です。詳細は直接説明させてください」
「すみませんが今は話したくありません」
 自分はちっとも大人なんかじゃない。
 バッグの奥にスマートフォンを押し込んで、名前は足早にホームを後にする。
 かつかつと硬い音を立ててヒールが床を打った。
 足にぴったりフィットするこのチャンキーヒールパンプスは七海からの贈り物でお気に入りだったが、今はどうでも良かった。
 玄関で乱暴にパンプスを脱ぎ捨てて、名前は足音荒くリビングに入る。
 人のいる気配はなく、朝に家を出た時と何ら変わりのない光景が広がっているだけだった。
 七海はまだ帰ってきていないらしい。
 ならば好都合と、カウンターキッチンへと向かう。
 途中視界に入ったワインセラーからワインの瓶と、冷蔵庫から発泡酒の缶を何本か掴み出してテーブルに置く。
 プルトップを上げると、かしゅ、と小気味よい音が静かな室内に響き渡った。
 行儀など知ったことかと立ったまま名前は缶の中身を一気に飲み干した。
 夫の七海に負けず劣らず、名前も酒豪の部類に入るほどには酒に強い。
 胸の中で荒れ狂う嫉妬心を抑えることもせず、衝動のままにいつもの倍のアルコールを体内に取り入れる。
 そしてそのままシャワーも浴びずにベッドの中に潜り込んだ。
 その際、服を着替えてメイクを忘れずに落としたのは、若い頃と比べると進歩している部分と言えるだろう。
 そういうところは大人になったのかもしれないと酒臭い息を吐き出して、ベッドの中でうずくまる。
 体格の良い七海に合わせて購入したベッドは小柄な名前がひとりで使うには十分すぎるほど広く、悲しいほどに快適だった。
 しばらく目を閉じているうちに、アルコールも相まって、自然と意識が眠りの中に落ちていた。
どれぐらい眠っていただろうか。
小さく鳴った床の音に人の気配を感じて、名前はゆっくりと目を開けた。
 後先を考えずに飲んだせいで、身体がだるく頭が痛んだ。
「――名前さん」


七海と何回目かのプロポーズ

「なんであなたが七海さんの隣にいるんです?
ヒジュツシのくせに。七海さんじゃなくてもいいじゃないですか。男なんて、他にも掃いて捨てるほどいますよね?」
 まさに青天の霹靂。
 漆黒のスーツに身を包んだ女性の言葉は名前の胸に突き刺さって抉っていく。
 スーツの色と同じ、黒々とした瞳がこちらを真っ直ぐに見据えていた。
 名前より幾分か年若い、顔立ちの整った女性だった。
 油を引いたフライパンから外気に似た熱気が立ち上る。
 夕飯の支度をしながらも、考えるのはここ数日ずっと同じことだ。
 爽やかな夏空には到底似合わぬ、冷たく暗い佇まい。
夫である七海の部下の女性。
結婚前から顔見知りだった伊地知と同じ、補助監督の女性。
 彼女があの時言っていた「ヒジュツシ」とは呪術師でない人間を指す業界用語だと後ほど知った。
 言葉と共に向けられたのは敵意に近い感情だ。
 あの時は分からなかったが、今なら分かる。
「……さん、名前さん、名前!」
 野菜を炒める音に混じって聞こえてきた男性の声に名前ははっと我に返る。
 声隣を見上げると、七海がフライパンを見ながら口を開いた。
「肉、少々入れすぎではないですか?」
「え……あっ、うそやだ!」
 七海の指摘に慌てて手元を見ると、フライパンからはみ出さん量の肉が熱されていた。
 一緒に炒めていたはずの野菜はすっかり埋まって見えなくなっている。
「あああやっちゃった……ごめんなさい……」
 項垂れる名前に七海が「いえ」と返す。
「問題ありません、食べきれない分は私が食べますので」
 ふむ、と顎に手を当ててフライパンを覗き込んだ七海がこちらを見て口角を上げる。
「美味しそうですね、食べるのが楽しみです」
 何気ない小さな笑みだったが、それでも名前の鼓動を速めるには十分だった。
 あの補助監督の女性も同じ経験をしたことがあるはずだ。
――七海に恋をしている。

 違和感の正体は窓口に着いた途端に判明した。
 純白の新雪を彷彿とさせる銀髪に、黒ずくめの格好に、同じく黒いサングラス。
 その男性は、多くの職員が出入りしている窓口でも異彩を放っていた。
 ただそこに佇んでいるだけで、周囲の注目を独り占めしそうな圧倒的な存在感がある。
「あ」
 屈んで受付の女性と話していた男性がぱっとこちらを見た。
 サングラスの下の碧洋の瞳に見つめられて、思わず名前はじり、と後ずさる。
 脳裏にいつか七海に言われた言葉が蘇ってきていた。
「職場の先輩に、厄介な男性がいます。職場でも外でも、銀髪に碧眼で黒い目隠し、あるいはサングラスをかけた男が馴れ馴れしく話しかけてきたらすぐに逃げるか私に連絡してください」
あの男性は、七海が言っていた「職場の厄介な先輩」ではないだろうか?
「やあ、どーもー!」
 長い脚であっという間に距離を詰めた男性が、目の前に立ち塞がっていた。
 先程まで腰を折っていたので分からなかったが、背は七海より高い。
 黒いサングラスを親指で押し上げ、男性は朗らかに言い放った。
「初めまして、七海サン。呼び出したイジチでっす」
名前の記憶が正しければ、伊地知はこんな外見でも、こんなフランクな話し方をする男性でもなかったはずだ。
 堂々と名前を偽証した男性は、本名を「五条悟」と名乗った。
 七海とはひとつ違いで、七海の先輩にあたるのだという。
 場所を日比谷公園内のカフェに移し、名前は五条と向かい合っていた。
 昼時ともあってカフェはそこそこ混んでおり、店内にいる女性客の視線がテラス席に座る五条に集中している。
 五条は店内を背に座っているので、彼女たちの視線には気付いていないのか、運ばれてきたクリームソーダのアイスを掬うことに夢中になっている。
 一方の名前は運ばれてきたアイスティーになかなか口を付けられずにいる。
 喉はからからに乾いていたのだが、それどころではなかった。
「あ、あのっ」
 向かい合って座ってから数分が経過しても会話が始まる気配がなかったので、意を決して名前は五条に話しかける。
 五条の碧い視線がクリームソーダから名前に移る。
「私に、何の御用でしょうか……」
「そーんなに怯えなくても何もしないよ。可愛い後輩の奥さんがどんな子なのか気になって見に来ただけだから。
七海あいつ、僕が紹介しろって言っても写真ひとつ見せてくれないからさあ。ガード硬いんだよね」
 椅子の背もたれに寄りかかった五条が続ける。
「あいつのことだ、どうせ君に僕が来たら逃げろとか、自分に連絡しろとか言ってたんでしょ? さっきの反応見てすぐに分かったよ」
「……そちらも、建人さんや伊地知さんから何も教えてもらっていないから、私のこと、七海の名前で呼び出したんですよね?
それに伊地知さんだったら事前に連絡をくれますし」
 名前は七海と入籍しているが、便宜上旧姓で働いている。
 七海同様付き合いが長い「本物」の伊地知であればそれを知らないはずがないのだ。
 五条が肩を竦める。
「なるほどね、旧姓で働いてたのは盲点だったよ。危うく骨折り損になるところだった。そこまで怪しいと分かっていながら門前払いしないで来るあたり、君も大概お人好しだよねえ」
「私の一存で建人さんの職場の方にご迷惑はかけられませんから」
「真面目だね。本気で好きなんだ、七海のこと」
「そうでなければ、結婚していませ……」
 言いかけて、名前は目の前に座っている絵に描いたように美しい男を見る。
「ん? どうかした?」

「あの、もうひとつお聞きしてもいいですか?」
「どうぞ、僕に答えられる範囲であれば」
「話は変わるんですが、呪術師の方はその、業界のルールと言いますか。非術師と結婚してはいけないとか、そういう決まりはあるんでしょうか」
 それは、例の補助監督の一件があってから、密かにずっと気にしていたことだった。
 七海にも、伊地知にも聞けず、かといってインターネットで検索すれば出てくるものでもない。
 五条は名前の質問が意外だったのか、髪の色と同じ色の睫毛を瞬かせ、腹の上で手を組んで言った。
「君はさあ。七海がそういうルールを破って君と結婚したって、疑ってるの?」
「いいえ。ただ、確信が欲しい。それだけです」
「確信が欲しいって思ったきっかけには言及しないでおくけどさ。
もしそういうルールがあるって知ったらどうする気? 大人しく身を引く?」
「……それは」
 真っ直ぐ見つめてくる五条の瞳に耐えきれず、名前は目を逸した。
彼の日本人離れした瞳はひんやりと底冷えして何もかも見透かすようで、無性に恐ろしかった。
「ま、身を引くとか引かないとか、結婚してるから今更だよねー。
ぶっちゃけ僕も他人ちの家庭事情に興味ないから、別に答えなくていいよ。それで何かが変わるわけでもないし。
それで、君の欲しがってる答えだけど」
 五条が途中で言葉を切り、名前の頭上に不意に影が射した。
「――五条さん、アナタいったい何をしているんですか」
グラスの水面が揺れて波打つ。
その横に、声の主の手が置かれている。
「建人さん……」
 サングラスをかけている七海の視線がちらりと名前を捉え、すぐさま反対側の男に向けられた。
 額には青筋が浮かんでいる。
「もう一度聞きます。五条さんアナタ、私の妻に何をしているんですか?」
これまでに聞いたことのない地を這うかのような低い声に、名前は思わずびくりと肩を揺らしてしまう。
 見るからに激怒している七海を前にしても、五条は飄々とした表情を浮かべたままだ。
 それどころか、大袈裟に肩を竦めている。
「おー、噂をすれば怖いセコムが来たよ。お早いご到着で。オマエも暇だね」
「アナタにだけは言われたくありませんね」

 烏は未だに狂ったように鳴き続けている。
 振り返ったら何かを「視て」しまいそうで、震える脚を必死に動かして家から離れ、広い庭を駆ける。
 めちゃくちゃな思考で叫び出しそうになるが、叫べば居場所がバレてしまいそうな気がしていた。
 走りながら名前は掴んでいるスマートフォンを痙攣する手で操作し、通話ボタンを押す。
 祈りながら機械的な呼び出し音が途切れる瞬間を待つ。
「はい」
 繋がった、それだけで膝から崩れ落ちてしまいそうだったが何とか堪える。
 息が切れて、脚が止まっていた。
「名前さん、まだお祖母様宅にいますか?」
「い、ます。います! 建人さん……っ」
 ぽろりと両目から涙が溢れた。もう限界だった。
「こわい、お願い……迎えにきて、建人さん!」
「――ええ、今すぐに」
 その瞬間、五月蝿く鳴っていた世界の音が止んだ。
 すぐ近くから聞こえてきた声に、ゆっくりと振り返る。
 涙でぼやける視界の中でも、はっきりと分かる。
 柔らかく照らしてくれる日差しに似た金色の髪に、ヘーゼルブラウンの瞳。
 どんな時も、しっかり抱き締めてくれる大きな腕。
「けんと、さん……っ」
 がくん、と完全に膝の力が抜けた名前を、駆け寄った七海が抱き留める。
 蜃気楼が見せる幻なんかじゃない。
 何よりも、誰よりも愛しい人が、確かにそこにいた。
「名前! しっかりしてください!」
 名前の片腕を見た七海の目が見開かれた。
七海は伊地知を呼ぶと、彼に名前を託す。
「妻を頼みます」
 朦朧とする意識の中、名前は手を伸ばして離れていこうとする七海の腕に縋る。
 あの家に、行ってはいけない。
「けんとさん……っ」
 それを伝えたいのに、上手く言葉が出てこない。
「大丈夫」
 ふ、と七海が優しく微笑む。
「すぐに終わらせて戻りますから、少しの間ここでいい子で待っていてください。できますね?」
 七海の太い親指が、名前の瞳に溜まっていた涙を拭い去っていく。
衣擦れの音がして、七海が上着を脱いでいた。
現れた広い背中にはサスペンダーで刃物のようなものが取り付けられていた。
 ネクタイを緩め、シャツの袖を捲くった七海が迷いのない足取りで家に向かっていく。
 ――だめ、行かないで!
「奥様!」
 伊地知の焦った声を最後に、名前の意識はぷつりと途絶えた。

 ――パアン!
 開けた瞬間に名前の目に飛び込んできたのは、頬を思い切り平手で打った母と、彼女に頬を打たれた七海の姿だった。
「このっ……人でなしッ!」
 目を血走らせた母が伊地知の制止も聞かずに七海に掴みかかった。
「あんたら呪術師は、どこまで人の人生めちゃくちゃにすれば気が済むのよッ! 
母だけじゃ飽き足らず、名前まで巻き込んでェ! 疫病神ッ!」
 母はいったい、何を言っている?
 髪を振り乱し叫ぶ母の姿を、名前はこれまで見たことがなかった。
 呆然と立ち尽くしている名前の横を通り抜けた昂也が母を抑える。
「母さん、もうやめろよ! 建人くんは姉ちゃんのこと助けてくれたんだぞ!」
「返して、返してよ! 
あの子の……娘の平穏な人生を返してッ!」
 泣き叫ぶ母に、七海が深々と頭を下げた。
「私が付いていながら名前さんを危険な目に遭わせてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
 母のしゃくりあげる声が響く中、腕を組んで座っていた祖父が吐き捨てるように呟いた。
「だから言ったんだ。その男はやめておけと。
呪術師など、ろくなもんじゃない」

 高層ビルの間を多くの人々が歩いていた。
 その中に、懐かしい背中が見えた。
 呼び止めたいのに、名前は口から出てこない。
 それならばと名前は人混みをかき分けて走る。
 あと一歩で手が届く、そこまで迫り、腕を伸ばす。
 届いたと思ったはずの腕は空を切る。
 背中はどんどん遠くなる。
「待って!」
 諦めてなるものかと名前は再び走り出した。
 内勤で運動不足の身体はすぐに悲鳴を上げ始めていたが、労っている余裕はなかった。
「待ってお願い、いかないで!」
 伸ばした手は相変わらず届かない。
 だが渾身の叫びは届いたようで、立ち止まった背中が雑踏の中でゆっくりと振り返る。
 息を切らした真っ赤な顔には汗と、遅れてきた涙が滴っている。
 とてもあなたに見せていい顔ではないけれど。
「やっと、やっと会えた……」
 世界でたったひとりしかいない、大切な人。
 この人のためなら、それまでの人生で得てきたものすべてを捨ててもいい。
 心の底からそう思えるほどの、最初で最後の恋をした人。
 名前はとびきりの笑顔で両腕を彼に向かって伸ばした。
「大好きよ、建人さん!」
 ――夏の夜明けの空に烏が飛び立っていく。
 いつか二人で訪れた沖縄の海で見せたように、それはそれは美しく笑った名前は、七海の目の前で廃ビルの屋上から身を投げた。
 七海に向かって伸ばされた両手を掴むことは寸前で叶わず、七海の手は無情にも空を切った。
「名前ッッ!」
 駆け出した拍子に、先の戦闘で壊れかけていたサングラスが落ちて割れた。

210711
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