シュッとネクタイを締めて、着慣れない黒いスーツのボタンを止める。
仮眠室の大きな姿見の前で格好を確認した名前は梳いただけの髪の毛に「うーん」と唸り、ドアを開けた。
「おはようございます、名前さん」
「おはよう、ツェッドくん。今日はよろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
事務所の本棚の前で本を読んでいたツェッドに挨拶をして、名前はフロアを見回す。目当ての人物はソファに座っていた。
ソファでは白いワイシャツを着たザップがだらしない格好で葉巻を吹かしている。横には畳まれたままの黒いスーツの上着が置いてある。時間ギリギリまで着ないつもりなのだろう。
「ちょっ、KKさん自分で出来ますから……!!」
「あらァ、遠慮しなくたっていいじゃないレオっち!」
彼の視線の先には顔を綻ばせたKKにネクタイを結ばれているレオナルドの姿があった。
親子のようなやり取りを微笑ましく眺めていると、こちらに気付いたザップと目が合った。
「お前髪の毛それで行くのか?」
「いや、迷ってて。どういうのがいいと思います?」
「ふーん……」
ザップの隣に座った名前の髪の毛が彼の指に掬われる。
「あれでいいんじゃねえの、編み込み」
「あー、いいかも!」
名前が賛成すれば心得たとばかりにザップが葉巻を灰皿に押し付けた。
「櫛と髪ゴム寄越せ」
「はーい」
「うっしゃ」
ザップの指が名前の髪の毛に触れ、丁寧にかつ手早く三つ編みを作っていく。
そうしてあっという間にスーツに合わせた黒いリボンを結び終えると満足そうに頷いた。
「これでタイトスカートに網タイツだったら素人美人秘書みてえだったのにな」
「スカート嫌なんですよ動きづらいし」
手鏡で髪型を確認した名前はザップにお礼を言って立ち上がった。
隣のザップも立ち上がるが彼の首にネクタイが引っかかったままであることに気付いた名前は、「ネクタイ結ばないと」と指摘する。
しかし、ザップは何も言わずじっと名前を見つめている。名前はそんなザップの様子に首を傾げた。
まさかネクタイが結べないというわけでもないだろう。彼は以前正装でヘルサレムズ・ロットの三ツ星レストランに行った際きちんと自分でネクタイを結んでいたのだから。
「ザップ?私の顔に何か付いてる?」
「そうじゃねえよお前!ちったァは察しろ!」
そうして辿り着いた結論を口にすれば、唇を尖らせたザップに叱られてしまった。
「察しろってどうしろって言うんですか」
「ん!」
ザップが首元を近付けて来て、名前はようやく「あ」とようやく正解に思い至る。
開いていたワイシャツのボタンを閉めて黒いネクタイに指を伸ばす。
「どうしたの急に」
「たまにゃいいだろ、スーツ着る機会なんてそうそうねえし」
「確かに。……はい出来た」
お望み通りネクタイを結び終わり、名前は顔を上げた。
ザップとの顔の距離が予想以上に近く、思わずドキリとしてしまう。それに気付いたらしいザップの口元が意地悪くニヤリと歪んだ。
「なあに見惚れてんだよ?スーツ着た俺に惚れたか?」
「……惚れ直しただけですよ」
場を弁えず腰に伸びてきていた手を払い除け、名前は「行きますよ」と赤くなった頬を隠すようにさっさと踵を返した。
「ちょっ、待てよ!」と上着を掴んだザップが追い掛けてくる。
「お前今のは卑怯だろ!何でこのタイミングでデレてくんだよ!」
「あああああもう蒸し返さないでよ!さっきのは忘れてください!」
扉が外へと繋がる間にお互いにぎゃあぎゃあと口論を始めた2人に、一緒にいたレオナルドが悲鳴めいた声を上げる。
「あんたら僕達もいるって忘れてません!?これから任務なのに何で喧嘩してるんですか!いちゃつくのは終わってからにして下さいよ!」
「誰がいちゃついてるっつーんだクソ陰毛!」
「いちゃついてないですよ!」
同時にレオナルドに言い返した2人の顔は真っ赤に染まっていた。
「緊張感も何もあったものではないですね……」
レオナルドの隣に立っているツェッドが額に手を当ててうんざりした様子で溜め息を吐いた。

□■□■□

今回の任務は廃工場で行われている違法オークションに参加している異界マフィアの摘発だった。
既に潜入している構成員からの合図でレオナルドが自身の視界を転送し、混乱に乗じてザップと名前が突入する作戦だ。
「人数多いですけど大丈夫ですか、2人共」
ゴーグルを掛け、合図を待ちながらレオナルドが心配そうにザップと名前を見た。
2人は顔を見合わせてけろりとした様子で「別に問題ねえだろ」「ですね」と答えた。
「レオくんの方こそ、くれぐれも義眼を酷使しちゃ駄目ですよ!1分持たせてくれればいいですから」
「はい、気を付けます」
耳に付けているインカムに通信が入り、カウントダウンが始まった。扉の向こうでは何かが違法に落札されたのか拍手が巻き起こっている。ザップが扉を薄く開け、ツェッドが三叉槍を構える。
「3、2、1」
立食パーティー式のオークションのためか、シャンパングラスを持って席を回っていたウェイターが突如足を止めた。その拍子にグラスがトレイから離れる。
振り下ろされる木槌の音は聞こえて来ず、代わりに混乱したようなざわめきが聞こえて来た。
空中に飛んだシャンパンの雫に、赤い血が付着する。
「ブライアローズ血泉術 黒赤薔薇の剣」
名前の呟きと共に血が付着した雫が赤い剣先に変化し、四方に飛んでいく。
剣先が突き刺さったであろう誰かの絶叫が、開幕の合図だった。
名前とザップは両開きの扉を蹴り開け、中に雪崩込む。突然の乱入者にざわめきは殺意を含んだ怒号となって辺りを包んだ。
飛び交う銃弾を避け進もうとしたが、足元を掠めた銃弾に名前は上を見上げた。
2階に銃を構えた異界マフィアの姿が見える。
ザップにアイコンタクトで合図をした後、名前は触手を伸ばし2階へと飛んだ。
向かって来た見張りを触手で階下へ突き落としながら進んでいく。
手摺の上に着地した名前に、両方向から人類のヤクザと異界マフィアが飛び掛ってきたが、伸ばした両腕の袖からそれぞれ飛び出した触手が喉を貫いた。
血液と体液を浴び、一瞬赤に染まった視界に間髪入れずに別の異界マフィアの姿が飛び込んでくる。
突き落とさんと伸ばされた腕が名前の胸を無遠慮に鷲掴む。マフィアの口らしき部分がいやらしく歪んだ。
「あばよ、ボインのねえちゃん!」
ぐらりと名前の身体が傾き、手が空を切る。名前は舌打ちを漏らし、遠くなる異界マフィアに向かって左手を構えた。
「それはこっちの台詞よ、XXXXX」
スラングと共に飛び出した触手が、異界マフィアの脳天を貫通した。これで2階の敵は大方片付いただろう。
「女が落ちたぞ、殺せェッ!」
……さて。名前は階下の敵を確認すると次の攻撃へと移る。
「ブライアローズ血泉術」
骨盤から臍にかけてぐるりと両方向から刻まれている薔薇の刺青が、血を求めて疼いているような気がした。解放した4本の触手は名前を起点に鋭い荊棘の生えたそれを四方に張り巡らせる。
「薔薇の下」
ヒュッと風を切る音と同時に、名前の下にいた敵の四肢や首が胴体から離れた。触手が丸鋸のように回転し、切り飛ばしたのだ。
名前は腕を切られ、悲鳴を上げている異界マフィアの頭を踏み付ける形で1階に降り立った。
体勢を立て直す暇もなく、残党が押し寄せてくる。
触手で転がっていた死体を起き上がらせ、銃弾の盾にする。飛び散る体液に顔をしかめ、名前は穴だらけの肉塊となった異界マフィアに左手で触れた。
「黄薔薇の楔」
触手を外し、肉塊を蹴り飛ばせば巨体は簡単に傾き向かい側で銃を構えていた男を巻き込み床に倒れる。
男の胸には死体の胸から突き出た赤い楔が深々と刺さっていた。
「──こちら潜入班。保護対象を無事確保した!」
インカムに通信が入った。
「名前!」
「了解!」
鍔迫り合いをしていたザップの背後に迫っていた異界マフィアを、落ちていた銃で撃ち殺したと同時に、ザップも相手を斬り捨て背中合わせになる。残党が円になって2人を取り囲んでいた。
「お前銃使えたのかよ?」
からかうような口調だった。名前は飛び掛ってきた異界マフィアの一撃を避け、発砲したが当たらなかったため、仕方無く銃を握った拳を顔面に叩き込んだ。
「それなりに」
拳についた血を払い、何事も無かったかのように銃を投げ捨てれば、ザップが喉で低く笑う。
「まあ鈍器としては優秀かもな」
「新たな使い方が分かったでしょ」
不敵に笑い返し、名前は向けられた銃口を蹴り上げ、ザップは受け止めた刃を自身の刃で燃やした。
意志を持っているかのように自在に動く触手と体術を組み合わせ敵を翻弄し葬る名前と、血液を刀や糸に変え、時に発火させて敵を一撃で葬るザップはお互いを守り合うようにして立ち回っていた。
床が夥しい死体と血で埋め尽くされた頃、不意にぐちゃぐちゃと不快な咀嚼音が響き渡った。
獣じみた咆哮が轟き、3メートルはあるであろうタコのような異界マフィアが2人の前に立ちはだかった。
複眼の下の口からは何本もの腕や足がはみ出している。仲間を捕食して巨大化したのかもしれない。
奴に勝機を見出したのか、残党達の士気が上がったことが感じられた。
「一気に片付けましょう!」
「おうよ!」
前屈みになったザップの背中の上を転がる形で反対側に回り込んだ名前が着地と同時に伸ばした触手が取り巻きの武骨な異界マフィア達の首を撥ね、ザップの手から伸びた赤い血糸が幾重にもタコの身体に巻き付き、拘束した。顔を上げた2人の瞳が煌めいた。
「斗流血法 カグツチ」
「ブライアローズ血泉術」
ジッポが小気味良い音を立てて開き、宙を舞う血液の雫が花弁に変わる。
「七獄」
「青薔薇の喝采」
刹那の静寂の後、紅蓮の業火がタコの身体を焼き尽くし、吹き荒れた赤い花弁が辺り一帯を斬り刻んだ。
ザップと名前は振り向かずに歩き出す。炎に照らされたその顔は、歴戦の戦士そのものだった。

「つ、疲れた……」
燃え盛る廃工場を後にして、名前は息を吐いた。
隣のザップも疲れを滲ませた顔で葉巻を吹かしていたが、名前の顔に散っている返り血に気が付いて「お前の顔やべーことになってんぞ」と言った。
「……そんなに化粧崩れてる?」
「や、返り血」
そこで数時間前のやり取りを思い出した名前は、「察してくださいよ」と言って悪戯っぽく笑った。
ザップは名前の反応に一瞬惚けたような表情を浮かべたが、やがてニヤリと笑って葉巻を投げ捨てた。葉巻が描く軌跡を目で追っていた名前は腕を引かれてザップの胸に飛び込む。
そして強引に顔を拭われたかと思うとそのまま口付けられる。衝動に任せたようなキスだった。
「……んっ」
唇をこじ開け、容赦なく侵入してくる舌の感覚に身体がぞわりと震える。シャツの上から胸を揉まれて名前はザップの上着を握る力を強める。
それに気分を良くしたのか、キスの深度がさらに深くなった。
そうして散々口内を荒らし回った舌が引き抜かれ、どちらのものとも知れない唾液が糸を引く。
肩に重さが加わる。ザップが肩に顎を乗せていた。手は抜け目なく名前の尻を触っている。
「あー……今すぐヤリてー……」
気怠そうに呟いたザップに名前も「私もですよ」と同意して彼の逞しい背中に手を回す。葉巻と血の匂い、同じシャンプーの匂いがした。
「……でもよお前絶対寝るだろ」
「あー……それは体質なので……」
名前は長時間血泉術を使用すると最低でも半日以上眠ってしまう体質なのだ。
「じゃあよ、5秒で済ますか5秒」
「5秒じゃ何も始まらないでしょ」
笑みをこぼし、名前は名残惜しそうに腕を解く。
「とりあえず帰りますか」
「……おう」
迎えの車の前で、レオナルドとツェッドが2人を呼んでいた。
望むロマンスはまだ遠い。

愛しいだけのポルターガイスト

150829
Thanks:彼女の為に泣いた
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