※ライブラ所属の夢主も出てきます(「名字」で変換可能)


「学校、ですか」
ヘルサレムズロットでも指折りの夜景が美しい高級レストランの個室で、向かい側に座ったスティーブンが頷いた。
「ああ。俺と一緒にしばらく臨時教師として潜入してほしい。KKは子持ちで顔も割れているしチェインは人狼局の仕事で手が離せないらしくてね」
「つまり決定事項であると」
「ここのディナーは美味しいだろう?」
成程、KKがスティーブンを毛嫌いしている理由が分かった気がすると名字は口に入れたステーキを咀嚼しながら考える。
「……だけど私は学校がどういう場所か、映画かドラマでしか知りません。通ったのも極短期間ですし」
物心ついた頃からブライアローズ血泉術の後継者として鍛えられ、世界の裏街道を転々としていた。そのため名字にはまともに学校に通った記憶がないのだ。
「うん、問題ないよ」
搾り出した遠回しの拒否もばっさり切り捨てられてしまう。
「潜入先の学校は君の知識とそう変わらない、テンプレートなお嬢さま学校だからね。学校は隔離居住区の貴族にあるし、ドンパチも起きないから身元が割れる危険性も低い」
「えっ」
「君がいつも通り、清楚に大人しくしていれば何ら問題はないんだ、くれぐれもよろしく頼むよ」
どうあっても逆らえない笑顔の圧力に、名字は観念して「が、頑張ります……」とぎこちない笑みを浮かべたのだった。
もちろん、その後のディナーは食べた気がしなかった。


黒板にさらさらと文字が流れていく。教室の一番前の席に座っている名前は、その文字列を一生懸命ノートに書き写していた。しかしどうにかついていこうと焦ってページを捲った結果、テキストを派手に床に落としてしまい、教室中の注目を浴びてしまう。やってしまった!と頬を赤く染め、慌ててテキストを拾おうと名前が手を伸ばすより早く、名前より大きく骨ばった手がテキストを拾い上げた。
「大丈夫かい?」
そう声を掛けてくれたのは、先程まで教壇の上で黒板に文字を走らせていた教師、スティーブンだった。名前が依然として赤く染まった頬のまま頷けばスティーブンは眼鏡の奥でにこりと微笑み、教壇へと戻っていく。
「失礼。どうも緊張してつい駆け足気味になってしまっていたようだ。何せここには可憐なレディしかいないからね」
ウィンクと共に放たれた言葉に、教室のあちこちから感嘆の声が上がる。にわかに騒がしくなった教室内で、名前は俯き、テキストをぎゅっと強く握り締めた。自分にだけ笑いかけてくれたのだ、生徒から絶大な人気を誇るあのスティーブンが。初めての感覚に、名前の胸はばくばくと高鳴っていた。

異界と現世交わるヘルサレムズ・ロットにおいて、隔離居住区の貴族はその名の通り、ヘルサレムズ・ロットの異常な日常から隔離されていた。そこには人類しか立ち入りできず、そこには霧は立ち込めておらずいつも同じ青空が照射されているのだ。名前が通う女子校も、ニューヨークが崩落する以前から歴史ある伝統校として名を馳せていた。
名前は溜め息を吐いて、照射されている人工の青空を見上げた。スティーブンが名字という女教師と共に赴任してきて以来、それまで名前が過ごしていた色のない世界は急激に色を得た。スティーブンの授業の予習復習は他の教科よりも熱心に行っているし、挙手も積極的に行っている。ただ、他の生徒のように終業後質問をする勇気だけはなかった。クールでスマートで、ハンサムな彼はいつだって多くの生徒に囲まれている高嶺の花なのだ。
──私も周りの子のように、スティーブン先生に丁寧に教わったり、他愛ない話で笑い合うことが出来たら。
──でも地味で、頭も悪ければ運動も出来ない、何一つ取り柄のない私なんて、きっと相手にもされないわ。
コンプレックスは挙げだせばきりがない。鏡を見る度増えているニキビ、まばらな成績表に平均以下の体力テスト。皆が何かしら持ち合わせているものを、名前は持ち合わせていなかった。自信が持てずいつも俯いているので友達らしい友達もいない。スティーブンがいなければ、名前にとって学校は地獄でしかなかった。午後の、スティーブン以外の教師の授業のことを考えて憂鬱な気分になっていた名前の視界に、色素の薄い金髪が飛び込んでくる。
「きゃ!?……名字先生……」
「ハイ、名前……ってごめんなさい、驚かせてしまったわね」
名前は恐る恐る名字に尋ねた。
「い、いえ……あの、何か御用でしょうか……」
「もし良かったらお昼を一緒にどうかしらって思ったんだけど……」
名前は名字の後ろからひょこっと顔を覗かせた赤毛の女子生徒に気が付いて顔を強ばらせた。彼女の名前はメアリ、学年でも有数の問題児と名高い不良少女である。皆に避けられている女子生徒と一緒に昼食を食べていたと噂になれば、一巻の終わりだ。
名前は慌てて立ち上がり、名字に向かって勢い良く頭を下げた。
「わっ私もう食べたのでっ、失礼します!」
「あ、名前!?」
名前は制止の声も聞かずにその場から逃げ出したのだった。


「行っちゃった……」
がっくりと肩を落とした名字に、「そりゃ逃げるでしょ、先生明らかに不審者だったし」とメアリが追い討ちをかけた。
「そ、そんなに不審者だった……?確かに驚かせてしまったけど……」
「ろくに話したことのない先生にお昼誘われて頷く生徒なんてそもそもいないでしょ。何か裏があるって思うのが普通じゃん」
「そんなつもりは一切なかったのに……高校生って難しい……」
メアリの容赦ない言葉に名字は溜息を吐いてベンチに腰かけた。隣にメアリがどっかりと座る。
「っていうか、多分先生のせいじゃないと思うよ」
「どういう意味?」
「私がいたからじゃない?」
口の中で転がしていた飴玉を噛み砕いてメアリが言った。
「ほら私って嫌われてるし」
「……それは」
名字は言葉に詰まった。学校に来てからまだ日は浅いが、メアリが周囲から浮いていることは彼女を取り巻く雰囲気から十分に伝わってきていた。校則破りの常習犯で素行不良。貼られた不良生徒のレッテルをメアリは否定する気も改善する気もないようだ。品行方正な良家の子女ばかりのこの学校で、彼女は完全に異端の存在だ。
「別に何とも思わないけどね」
「そう……なの?」
「だって周りの目ばっかり気にしていい子にしてたら、そんなの本当の私じゃない。先生だってそう思うでしょ?」
メアリの瞳がすっと細められ、顔に影が差す。
不意に名字の唇に柔らかいものが重なる。それがメアリの唇であることに気付くまで数秒の時間を要した。既視感が名字を襲い、化粧品らしき匂いが鼻をつく。
「──本当の私はこの学校に相応しくない程汚れてるんだよ、名字先生」
「メアリ……」
「先生からは私と同じ匂いがする。規則なんかに縛られず、快楽の中で生きていたいって、自由でありたいって叫んでる」
「……私はいつだって自由に生きているわ。何なら今ここであなたを抱いたっていい」
「あははは、それもいいかもね。でもそれは駄目。私は先生にまだ先生でいて欲しいもん」
伸ばした名字の手をひらりと避け、メアリが立ち上がる。
「声掛けてくれてありがとね、先生。嬉しかったよ」
「待ってメアリ!最近周りで変わったことはない?おかしな噂を聞いたとか……」
「噂?……ああ、外界のモノが密かに出回ってるって話は聞いたよ。よく知らないけど、すっごいイイらしいよ──……その"薬物"」
予鈴が鳴り、足早に校舎の中へ戻っていく女子生徒の群れの中にメアリの姿が消えていった。

「対象はFILという名称で出回っているようです」
敷地内にある礼拝堂には、夕日の赤色が眩しく射し込んでいる。名字は長椅子に座り、隣のスティーブンにタブレット端末を手渡した。表示されている報告書にはFILについて名字が複数の女子生徒から聞いた情報が羅列されていた。
「フランス語で糸か。変わった名前だなあ」
そう呟いたスティーブンが文字列を素早く追っていく。
「中心人物についての情報は何か掴めたかい?」
「いえ……チェーンメールのように何処からとも無く回ってくるそうです。生理用品やコンドームに潜ませ、複数の生徒を経由して欲しがっている生徒に届くと」
「そうやって無限に運び屋と中毒者を生み出していく訳か……悪くない手だが、同時に厄介だ。場所が場所なだけにね」
新型術式合成麻薬、FIL。それが名字とスティーブンが女子校に潜入している理由だった。ヘルサレムズ・ロットに横行する薬物は2千を越えており薬物の誘惑は常に隣にある訳だが、それはあくまでも「隔離居住区の貴族の外」での話だ。異界存在を物理的にシャットアウトし厳しい監視が行われているこの場所で、「人類の仕業ではない何か」が水面下で横行している実態は、世界の均衡維持を掲げているライブラとして見過ごせない事態なのだ。
「彼女はどうだい、メアリだっけ?かなり周囲から浮いているみたいだけど」
「そうですね……」
名字は昼間のメアリの言動を思い出す。
「……怪しくないと言ったら、嘘になります」
「分かった、君の直感を信じよう」
言うなりスティーブンは携帯を取り出し、どこかに連絡をし始めた。恐らくメアリに監視を付ける手筈を整えているのだろう。名字は手持ち無沙汰になってメアリとキスをした唇に触れる。彼女とはここに来てから初めて会ったのに、何故か初めて会った気がしないと感じていた。
──それは何故?


視線の先では、スティーブンと名字が仲睦まじい様子で話しながら廊下を歩いている。2人を見つめる女子生徒の眼差しには羨望と嫉妬が入り混じっていた。
「スティーブン先生と名字先生、結構お似合いよね」
「ええ……だけどあんなに親しげにスティーブン先生と……羨ましいわ!私だってスティーブン先生にお近づきになりたいのに……」
移動教室のため混雑している廊下の一角で、名前はゆっくり通り過ぎていくスティーブンを見つめていた。赤みがかった瞳も柔和な笑みも、今は隣の名字にだけ向けられている。醸し出されている「お似合い」の空気に、名前は耐え切れず瞳を伏せようとした。この前のように、また微笑みかけて欲しい、でもきっと無理だと思ったその刹那。
スティーブンの切れ長の瞳が不意にこちらを捉え、にっこりと微笑んだのだ。
──ああ!
名前は口元を押さえた。思わず泣き出してしまいそうなぐらいの幸福感が押し寄せてきていた。
──スティーブン先生が、私に気付いてくれた!微笑みかけてくれている!私だけに!今日はなんて幸せな日なのだろう!
こちらに向かってにこやかに手を振っていたスティーブンの唇が言葉を紡ぐ。
「ちゃんと授業にも出るんだぞ、ミレイナ」
……ミレイナ?
冷水を浴びせかけられたように硬直した名前は、やがて背後から聞こえてきた無邪気な声に絶望した。
「はあーい!ミレイナ、先生が他の教科も担当してくれたらちゃんとでまあす!なーんちゃって!」
名前の背後でけらけらと笑っているのは、2学年一の美人と言われている少女だった。陶磁器のように白く艶やかな肌に大きな瞳、ぷるりとした唇に抜群のスタイルと、1年生の時とはまさに別人のように、望まれる美しさを全て手に入れた彼女は人気雑誌のモデルをしていることでも有名なのだ。
──ああ。
スティーブンに向かって振り返そうとした手を下ろし、名前はその場を後にした。
羞恥で真っ赤になった頬の上を、堪えきれず流れ出した涙が伝う。
──どうして、どうしてどうしてどうして!
駆け込んだのは暗く滅多に使う人がいない場所にある女子トイレだった。一目散に個室に逃げ込むことだけを考えていた名前は、トイレから出てきた女子生徒に反応が遅れ、ぶつかってしまう。
「きゃっ!」
「うわっ!?」
カシャンと硬いものが床に当たった音がした。顔を上げると、赤毛の少女が床の上に散らばった化粧品を拾っているところだった。
「ごめん、大丈夫?」
赤毛の少女……メアリは名前に気が付くと謝って手を差し出した。
「怪我してない?」
「う、うん……」
「良かった」
メアリが差し出した手を取り立ち上がった名前に小さく微笑み、立ち去ろうとしてメアリは振り返りポケットティッシュを投げて寄越した。
「あげる」
「え、あ、あの」
「んじゃ」
名前の話も聞かずメアリは今度こそすたすたと去って行ってしまう。横の鏡に映る自分の姿は、確かに全く話したことがない人にも心配される程醜かった。心配されたことで余計に惨めな気分になってしまい、再び溢れ出した涙を拭おうと名前はポケットティッシュを開けた。その拍子にピンク色の包み紙が床に落ちた。
「何これ……」
包み紙を拾い上げ、裏面を見た名前は顔を真っ赤に染めた。包み紙には「コンドーム」と書かれていたのだ。メアリはいつもこれを持ち歩いていると言うのだろうか。不順異性交遊は校則で禁止されており、肉体関係を伴うものなど以ての外だ。
──どんなにいい人に見えてもやっぱりあの子は不良だわ。
ハンカチで涙を拭い、名前はゴミ箱にポケットティッシュを捨てた。靴音が響く。
「ねえ、綺麗になりたい?」
トイレの入り口に立つ女子生徒の口元が歪に歪んだ。


インターホンが鳴り、モニターに映し出された人物に、名字は飲んでいたミネラルウォーターを噴き出した。咳き込みながらも慌てて玄関へと走り、鍵を開けて人物を中へ引っ張り込むと周りを見回してから鍵を掛けた。
「ってーな、もう少し丁寧に扱えよな!」
「丁寧にじゃないですよ!何でここを知ってるんですかザップ!」
「何でって、スターフェイズさんに聞いたからに決まってんだろ」
唇を尖らせながら答えたザップに名字は目を白黒させて「何で」と反芻する。女子校に潜入するにあたり、隔離居住区の貴族内にあるマンションが住居として指定されていることは周知されていないと思っていたのだ。堂堂巡りの会話にいい加減痺れを切らしたのかザップが「あーったくめんどくせえなお前!」と立ち上がり名字を肩に担ぎ上げた。
「やっちょっと何するのいきなり!」
「何ってナニだろ」
あえなくベッドに投げ落とされた名字は迫り来るザップの顔を手で押さえる。
「そんな理由でスティーブンさんの許可が下りる訳ないでしょう、本当のこと言って!」
「いででででで!差し入れだよ差し入れ!」
起き上がって見ると、寝室の入口にスーパーのビニール袋が置かれていた。中から隔離居住区の貴族内のモールには売っていないお菓子や食料品のパッケージが見えた。
「本当に差し入れだったんだ……」
「俺のことちっとは信用しろよ……服にも気遣って来てやったんだからな」
「……あ、前に一緒に買いに行ったやつ」
見ればザップはいつもの白いライダースジャケットではないジャケットに黒いインナー、白いパンツという服装だった。頭の上には黒いサングラスまで乗っている。
「これで新人女教師のイケメン彼氏っぽく見えんだろ」
「少なくともチンピラには見えないかも」
「かもかよ」
拗ねたように呟いて首筋に顔を埋めたザップの背中に名字は腕を回した。密着したことでザップの身体から香ってきた匂いに、名字ははっとして「ザップ!」と身体を押し退けた。
「今度は何だよ!」
「ここに来る前にモール以外でどこか寄ってきたでしょう!」
「よ……寄ってねえよ!」
後ろめたさがあるのかザップが途端に目を泳がせる。名字が怒っていると思っているのだろう。
「別に怒らないよ、行ったんでしょ!」
「怒ってんじゃねえかお前!ああ行ったよ!お前も知ってるフーディエって店だよ!」
ザップが告げた店名は隔離居住区の貴族の外にある風俗店だった。そこには名字も何度か足を運んだことがあった。良心的な値段と質のいいサービスが売りの店だが、店内で焚いている香の匂いが独特できついのだ。名字はザップに飛び付き彼の唇にキスをした。
「ナイス、ザップ!」
「はあ!?」
「……ああ、でもそうか、そういうことかあ」
「どうしたんだよ名字、センコーやってストレス溜まってんのか?」
名字の隣に横になったザップが心配するような視線を向けてくる。それを首を横に振って否定し、名字は天井を見上げた。


朝起きて鏡を見て、名前は悲鳴を上げそうになるのを堪えた。あれ程悩んでいたニキビが綺麗に治っていたのだ。心無しか肌にもつやが出ている気がした。
「あら、ニキビ治ったの?良かったじゃない、これで俯かなくても済むわね」
「お母さん……」
「勇気を出して、顔を上げてご覧なさい。大丈夫だから」
肩を叩いた母親の手に自分の手を重ね、名前は頷く。
──これで先生も、私を、私だけを見てくれる?
思いきって髪型を変え、眼鏡をコンタクトレンズにして少しだけ化粧もすれば、世界が変わった。皆が自分を驚嘆の目で見て、「雰囲気変わったね」「可愛いね」と話しかけてきてくれるようになったのだ。以前までは考えられないことだった。学校を、スティーブンの授業以外の時間を初めて心の底から楽しいと思うことが出来て、名前は上機嫌だった。
そして、その日はやってきた。
「次の人。君は……名前だね。雰囲気が随分変わったから初めは誰かと思ったよ。眼鏡だけじゃなくコンタクトも似合ってるね」
「あ、あっありがとうございます……!!」
外見に自信が持てるようになった名前は遂に勇気を出してスティーブンに質問をしに行ったのだ。以前眼鏡をかけていたことをきちんと覚えてくれていて、それだけで天にも昇る思いだった。
「これで全部かな?」
「はいっ、あの、ありがとうございました!」
「どういたしまして」
ノートを受け取った際、手が触れて驚いた名前は思わずノートを取り落としてしまう。
「すっすみません!」
「ああ気にしないで。僕の方こそすまなかった」
散らばったプリントを拾う名前の手にスティーブンの大きな手が重なる。
動きを止めた名前に微笑み、スティーブンが囁く。
「以前の授業でも分からないところがあったら遠慮なくおいで。特別に補習授業をしてあげよう」
──これは夢だろうか?
彼を呼ぶ声が聞こえて、スティーブンが立ち上がる。
「悪いね、また後で」
「はっ、はい!」
ぱちりとウィンクをしたスティーブンにリタは勢い良く頭を下げた。もうまともにスティーブンの顔を見ることが出来そうになかった。胸の鼓動は遅くなることを知らない。
──もっともっと綺麗にならなければ。
名前はポケットの中の包み紙を握り締めた。
「……待てメアリ!話はまだ終わってないぞ!」
「教頭先生、私が行きます」
振り返ると赤毛の少女が足早に職員室を後にしていた。怒りで顔を赤く染めている教頭を宥め、職員室を飛び出したのは名字である。
名字とちらりと目が合ったような気がした。


メアリを追って名字が辿り着いたのは礼拝堂だった。
「名字先生」
長椅子に座ったメアリの目には涙が滲んでいる。名字は駆け寄り、メアリの前に跪いた。指でそっと涙を拭えば、メアリがくすぐったそうに笑う。
「どうしたの」
「先生、私──……」
震える声で語られた真実に、名字は真剣に耳を傾けた。
「先生、私はやってない!そんなことしたって何の意味もないよ」
「ええ、そうよね……私はあなたを信じるわ。大丈夫、あなたの無実は私が証明してみせる」
「本当?」
「本当よ。だから今日はもう帰って、ゆっくり休みなさい」
安心させるようにメアリの額にキスをして、名字は微笑んだ。頷いたメアリの手が伸びてきて、名字の頬に触れる。そうして唇が静かに重なった。
「先生、先生だけに私の秘密を教えてあげる──……」
耳にメアリの声が落ちてくる。名字の身体を抱き締めるメアリの体温を感じながらも名字の視線は出入口付近の柱の影に向けられていた。

「怒っても良いんだよ?」
メアリが帰ってすぐ、柱の影から現れたのはスティーブンだった。「怒りませんよ」と名字は苦笑して眼鏡をかけ直す。
「ここに来たのは完全に予想外でしたから」
「でもおかげでこちらの手間が省けた、助かったよ」
「いいえ」
「さて、そっちも片がつきそうだしこちらも最後の仕上げと行こう」
スティーブンの足元には猿轡を噛まされ手足を縛られた女子生徒が転がっていた。宵闇にも美しく輝く白い肌の持ち主であるその少女はミレイナだった。
「彼女が……売人……!?」
「正確には元、だね。最後に売りつけたある女子生徒に大金と引き換えに在庫を全て渡したそうだよ」
スティーブンに手渡されたタブレットにはミレイナの入学当時の写真や経歴が載っている。名字は再度驚いてタブレットとミレイナ本人を見比べる。
「大した薬だよ。その分身体に掛かる負荷も相当なものだろうけど」
さして興味が無いように言ってスティーブンはミレイナを見下ろした。ミレイナの瞳から大粒の涙が溢れる。
「この子に在庫を渡した人物は他に任せるとして、僕達は最後の売人を捕まえるとしよう」
「……はい」
スティーブンの笑みに背筋が冷えたのは、吹き込んでくる夜風のせいだろうか、それとも。


少女が歩けば誰もが振り返り、少女が笑えば誰もがうっとりしたように魅入る。渇望していた美しさを確かに手に入れたというのに、どうしてか、彼の心だけは、手に入れることが出来なかったのだ。
礼拝堂の重い扉を開ければそこには愛しくてやまない男性が立っている。
「やあ、来たね」
カツンと靴音が響く。男性は祭壇の前で主が描かれたステンドグラスを眺めていたらしかった。
ステンドグラスが放つ色とりどりの光の中で男性はにこやかな笑みを湛えて佇んでいる。
「スティーブン先生っ……!!」
──私の世界で一番大好きな、大好きな人!
逸る気持ちを抑えきれず、名前はマナーも忘れて駆け出しスティーブンの胸に向かって飛び込んだ。「おっと」と多少よろめきつつもスティーブンは名前の身体をしっかりと抱き締める。
「名前、顔を上げて」
一定のリズムで背中を撫でていたスティーブンの手がそっと名前の髪を梳く。名前は言われた通りゆっくりと顔を上げた。頬に手が添えられて心拍数が上がっていくのが分かった。
「ニキビが消えて肌のつやや潤いが増しているしまさに別人だ。本当に素敵な──……」
「先生……」
「──人体改造薬だね」
「え」
靴の音が聞こえたような気がした。空気が急速に冷えていく。氷のように冷たい視線で見下ろしてくるスティーブンに恐怖心を抱いた名前は後ずさりしようとするが、足が床に貼り付いたかのように動かなかった。
「新型術式合成麻薬・FIL。ミレイナから在庫を買い取ったのは君だね、名前」
「な、何を……先生っ」
「FILは一度使うと美容効果のような変化が現れる。君が普段俯く程悩んでいたニキビが綺麗さっぱり消えていて気付いたよ。そして常用すればだんだん顔の造形自体が変わっていくんだ」
「そんなの知りません!」
「おいおいこの後に及んでしらばっくれるのかい?参ったなあ、じゃあミレイナ本人に証言してもらおうか?」
どくどくと心臓の音が近くに聞こえる。もう言い逃れ出来ないと思った瞬間視界が滲み、スティーブンの姿が歪む。先程まであんなに近くにいたのに、今はもう手が届かないぐらい遠くにいるようだった。
──いやよ。私は先生と結ばれる運命だもの。離れるなんてそんなの絶対に嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌!
名前は叫び、スティーブンにすがり付くべく手を伸ばした。しかし、バキン!という音と共に動きが止まりそれは叶わなかった。空気が急速に冷えていき、意識が遠のいていく。肌を冷たい何かが覆っていた。
「いけない子だね」
「スティーブンせん……せい……す」
「おやすみ、名前」
にっこりと笑うスティーブンの姿を最期に、名前の意識はそこで途切れた。

礼拝堂の扉が開く音に、スティーブンは振り向いた。
「終わったかい?」
「つつが無く。ザップもいたので」
答えたのは名字だった。伊達眼鏡はしておらず、服も所々汚れている。元締めが抵抗したのだろう。
「そちらは……」
言いかけて名字がスティーブンの足元に気が付いて視線を逸らした。
「表に車を待たせてあります。行きましょう」
「おっ、気が利くね」
「ありがとうございます」
踵を返した名字に続き、スティーブンも伊達眼鏡を外し、礼拝堂から出て行く。
「──無慈悲な神もいたものですね」
皮肉めいた呟きは投げ捨てた伊達眼鏡が床に落ちる音と重なった。

□■□■□

晴天の下、爽やかな風が集団墓地を吹き抜けていく。花束を持ち、名前の墓を目指して歩いていた名字は前から歩いてきた少女に気が付いた。墓地にはそぐわぬ派手な服に濃い化粧。すれ違った拍子に赤い髪が揺れ、独特の香の匂いが鼻を掠めた。脇目もふらず堂々とした足取りで去っていく彼女の姿は、やがて小さくなって消える。
「なあ、今の女って」
名字の後ろで葉巻を吹かしながら歩いていたザップが言う。名字はくすりと笑って空を仰いだ。代わり映えのしない人工的な空だった。
「秘密、だから」
「はあ?」
辿り着いた名前の墓には既に白い百合の花が1輪供えてあった。
「あの麻薬の名前の意味、知ってる?」
「ああ?確か、糸って意味だろ」
「フランス語ではね。FILは常用すれば顔の造形が変わっていくけど副作用もあるの。動悸や満たされない気持ちになる、激しい思い込みとか」
「何だそりゃ……」
ランブレッタの座席に跨り、2人で見つめる先では見知らぬ誰かの葬儀が行われている。弔いの鐘の音が響き渡る。
「FILは英語の頭文字を取ったものだよ」
ザップが空に向かって白煙を吐き出した。
「──Falling in love」
違う場所にいる2人の唇が同じ言葉を呟いた。

「……スティーブンさん何か言いました?」
「いや、何でもない。飯でも行こうか、少年」
「はい!」
スティーブンは報告書をシュレッダーにかけて立ち上がった。その顔にはいつもの笑みが浮かんでいる。

天国の入り口にも地獄の入り口にもあなたが立っているからわたしはなにも怖くないの

150614
Thanks:容赦
- ナノ -