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金属の床や壁や天井に、革靴の音が響く。
「クソッどこに行きやがった!!」
明らかに苛立っているらしい男のその言葉の後に続くのは聞き慣れた侮蔑の単語。
「忌々しい幕府の狗め!」
複数の足音はやがて遠くなり、殺気立った空気は徐々に消えていく。
「それで、どうしますかこれから」
私は隣で壁に寄り掛かっている上司にそう問いかけた。その上司はこんな状況でも煙草に火を付け、ゆっくり煙を吐き出している。
こういった形勢不利の修羅場には慣れっこなのか、その横顔に焦りはない。
「さて、どうすっかな。奴さんは約20人、対する俺たちはたった2人だ」
「半分こしますか」
「馬鹿言え。敵陣のド真ん中で大立ち回りする気はねーよ、今回は」
ちらりと一瞬私を見てから彼は携帯を取り出し、何か操作してから懐にしまった。
「──潮時だ、仕掛ける。準備しろ」
「はいっ」
「1つ聞きてェことがある」
「何なりと」
私は愛用のリボルバーに新しい弾丸を装填する作業を中断し、上司の整った顔立ちを真っ直ぐに見つめる。一体どんな奇策を思い付いたのだろうか?
追っ手を斬って撃っては逃げての繰り返しにもいい加減飽きていた。それはきっと彼だって同じだろう、こんな状況を打破したい思いは私より強いだろうが。既に気分は高揚し始めているし、再び戦う覚悟もばっちり、あとはいつもの痺れるような命令だけだ。
しかし、私の予想に反し上司の言葉は意外なものだった。
「お前、泳げるか?」


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大昔から、結果に過程はつきものである。こうなったそもそものきっかけは、私の上司こと土方副長と2人でいつものように市内を巡回していたら「港に攘夷浪士らしき浪人たちが集まっている」という噂を偶然耳にしたことだ。
噂の真偽を確かめるべく港に向かうと、確かに怪しげな浪士たちが船の周りをうろついていた。
彼らの目的を探るべく、その船に乗り込んだはいいが、私たちを乗せたまま出航してしまいついでに私たちも見つかって……冒頭に至る。
ちなみに乗組員の浪士たちはこの船に大量に武器を積んでおり、江戸城に船ごと特攻を仕掛けるつもりらしい。ずさんというか幼稚というか……さぞや高尚な計画なのかと身構えて、彼らの計画を盗み聞きした時の副長のげんなりとした表情が記憶に新しい。
「いたぞ、弾薬庫だ!」
「奴らはたった2人だ、追い詰めろ!」
荒い足音がいくつも近付いてきて、やがて止まる。
弾薬の入ったコンテナを背に、私たちを中心に円を作った浪士たちはいずれも強面のチンピラまがいの男ばかりだった。廃刀令や銃刀法にも関わらず各々が刀やバズーカなど物騒な武器を手にしている。リーダーらしい男が一歩前に進み出て抜刀した刃先をこちらに向ける。
「残念だったな、"鬼の副長"土方とその腰巾着。貴様らの命運はここで尽きた!絶望の中惨めに死に絶えるがいいッ!」
「御託はいいからかかって来いよ」
リーダーの口上を一蹴した副長の挑発と共に私は背後の浪士たちに向かって躊躇いなくリボルバーの引き金を引いた。放たれた銃弾は彼らの肩を正確に撃ち抜いていく。途端に空気が殺気立ったものに変わり、怒号と悲鳴が狭い弾薬庫内を支配する。
猛烈な勢いで襲いかかってくる浪士たちと応戦しながら私は後退し、近くのガラス窓に銃弾を撃ち込んだ。
「副長!」
「行くぞ!」
「はい!」
コンテナに飛び乗り、ガラス窓を蹴破る。その下は一面海だったが、私たちは迷わず飛び降りた。それと同時に船にいくつもの砲弾が命中し、空中で爆発が起こった。
局長を始めとした援軍部隊によるものだろう。
いよいよ海面が間近に迫ってきた。
どこかで、「海面に叩き付けられるのは痛い」と聞いた。不可抗力とは言え、やはり痛いのは嫌なのでせめてもの抵抗とばかりに何とか背中で着水しようと試みる。しかしそれよりも早く、腕が強く引かれてとても近くで煙草の匂いがした。……煙草?


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お世辞にも綺麗とは言えない水の中は無音の世界だった。着水の衝撃で痛む身体、口から漏れていく貴重な空気。うっすらとしか開けられない目は向かい合っている副長のそれを確かに捉えていた。思わず伸ばした手は、弱々しく水を掻く。
そんなことしなくたって、副長はどこへも行かないのに。


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普段から重い隊服は、しこたま海水を吸ったおかげでさらに重さを増していた。2人ともよく沈まず岸まで泳いでいけたと思う。火事場の馬鹿力というやつだろうか。火事場ではなかったけれど。
「副長、お怪我はありませんか」
「ねーよ、俺より自分の心配しろ」
「あ、はい」
身体のあちこちが痛むが、出血している気配はない。せいぜい打撲や擦り傷程度だろう。上着を脱いだ副長は防水仕様の携帯で連絡を取っている。空に私たちが乗っていた船の姿はなかった。援軍が港に着けたなり撃沈させたりしたのだろう。
「向こうは終わったそうだ、じきに山崎が迎えに来る」
「了解しました」
副長は息を吐いて私の隣に寝転ぶ。しばらく上空を見つめていた鋭い双眸が、不意に私を捉える。先ほどの海の中でのように。
「あの、何か……?」
「……いや。ご苦労だったな」
伸ばされた手の武骨な指が、私の濡れた髪を掠めた。

堕ちたのは泪海

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企画「曰はく、」様に提出。素敵な企画をありがとうございました!

120215
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